平成30年11月撮影
山縣有朋邸庭園跡の一般公開にいってきました。(平成30年11月23日)
三番町共用会議所は明治18年に山縣有朋が建築した邸宅跡。当時の建物は関東大震災で大破し、再建後は昭和20年5月空襲で焼失し現存していないが、当時を偲ぶものが残っているので探訪してみました。
現在は全省庁共用の国の会議所。
三番町共用会議所
(山縣有朋邸庭園跡)
一般公開(無料)
三番町共用会議所は、明治18年に山縣有朋伯爵(当時)が建築した邸宅跡です。
当時の建物は、関東大震災(大正12年)で大破し、再建した建物も、昭和20年5月にあった空襲の焼夷弾により焼失したため、現存しておりませんが、庭園跡(昭和55年整備)と明治天皇の行幸を賜ったことを示す記念碑(明治18年山縣有朋公建立)が今も残っており当時を偲ぶことができます。
農林水産省
三番町共用会議所
山縣有朋邸庭園跡
明治18年に山縣有朋公が当地に私邸を建設。同年10月19日には明治天皇が行幸。
山縣は明治19年に内務大臣兼農商務大臣に就任し、国が山縣私邸を農商務大臣官舎として購入。大正12年の関東大震災で大破。昭和18年に改築するも昭和20年に空襲焼失。
昭和27年に旧本館竣工。
昭和29年に別館が竣工。この別館は現存している。設計は大江宏。大江の代表作としては大阪万博日本館、国立能楽堂などが知られる。
目次
三番町共用会議所別館
写真は現存する三番町共用会議所別館 。昭和29年造。
三番町共用会議所別館内部
1階は会議室
昭和38年以降の米価審議会はここで行われていた。
(米流通自由化などもあり平成11年に米価審議会は廃止)
2階は大臣室など
三番町共用会議所本館
現在の本館は昭和48年に竣工
平成11年からは全省庁で利用できる共用の会議所となっている。
山縣有朋邸庭園跡(三番町共用会議所庭園)
昭和55年に庭園を再整備している。
明治天皇行幸記念碑
明治19年10月19日、山縣有朋邸で行われた銃剣術並演刀槍術展覧に、
明治天皇が行幸されたことを記念して山縣有朋が建立。山縣有朋が詠まれた和歌を山縣有朋本人の書体で掘られている。山縣有朋邸の当時を物語る石碑。
天津かせ えたをならさぬ 君がよは
こゝろ のとけく 匂ふ梅かゝ
山縣有朋直筆
山縣有朋邸(当地)で行われた銃剣術並演刀槍術天覧に、明治天皇が行幸されたことを記念して、山県有朋が建立したものです。碑文は隷書体で行幸の一部始終が石版全体に書かれています。表面には山県有朋が詠まれた和歌が本人の書体で彫られています。
明治天皇行幸碑 裏面(概要)
今年(明治18年)10月19日。
今上天皇が有朋の私邸に行幸され、光栄に預かること大である。又、銀杯、貨幣を下賜される。有朋は謹んで来国光の刀一口及び松蔭先生の書二幅献上した。この日、宴に侍する者は、皇族、内閣諸侯及び武官若干名なり。(陸軍)戸山学校の下士が銃剣技を奏し、宮内官吏等は刀槍術を演じ御覧頂いた。饗応の際、夕刻となり陸軍楽隊に演奏させる。夜になり、多くの玉燈を点け、煙火を放つ。既に儀仗兵の隊列の準備の知らせが入り、龍旗(錦旗)は宮城に還られた。嗟、有朋の幸この上なし。ここに臨幸の始末を記し、併せて二品の由来を録し、将来に伝える。
明治18年11月
従三位 伯爵 山縣有朋 謹んで識るす。
石灯籠
庭園内の灯籠も山縣有朋邸庭園時代からのものと推定。
土台が六角形の灯籠は江戸後期から明治初期の技法とされている。
石畳
木の根の広がりに年月を感じさせる。
三番町共用会議所・山縣有朋邸庭園跡は、毎年11月12月に数日間に公開されているようです。
給水塔と車庫は取り壊し予定だそうで・・・(昭和20年代の建築という)
山縣有朋邸宅庭園として現存している有名な庭園は以下。
椿山荘 東京都文京区
明治11年
無鄰菴 京都府左京区 京都別荘
明治27~29年
古稀庵 神奈川県小田原市 小田原別邸
明治40年 70歳の古希を迎えた晩年の別荘
この三番町共用会議所の庭園は、山縣有朋の時代を石碑などに残すのみではあるが、人知れずの史跡。一般公開もひっそりと行われていたので、私も最近まで存在を知りませんでした。なかなかの良き歴史スポット。
〆