民間航空発祥之地散策(千葉)

令和元年11月

先日、幕張・稲毛方面に赴く機会がありましたので散策をしてみました。


民間航空のパイオニア
奈良原三次

奈良原三次
明治10年(1877年)2月11日~昭和19年(1944年)7月14日
鹿児島出身

東京帝国大学工学部造兵科を卒業して日本海軍少技士として横須賀海軍工廠造兵部に勤務。
新設された臨時軍用気球研究会の委員となり飛行機研究を行う。
明治43年(1910)10月に自ら設計した「奈良原式1号飛行機」を自費で製作するも当初予定されたエンジン(仏製ノーム50馬力)の半分しかない仏製アンザニー25馬力での取り付けを余儀なくされ、戸山ヶ原での飛行試験はエンジン出力不足で地上滑走のみに終わり離陸に失敗。

その2ヶ月後の明治43年12月19日、代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が国内初飛行に成功。日本人による(外国機)国内初飛行となる。

明治44年に奈良原は海軍を退役し「奈良原式2号飛行機」を製作。
明治44年 (1911) 5月5日、国産機「奈良原式2号飛行機」は、所沢飛行場にて自らの操縦にて高度約4メートル、距離約60メートルの飛行に成功。
これが日本人による民間国産機での国内初飛行となる。

明治45年(1912)5月、千葉県の稲毛海岸に民間初の飛行場を開設。稲毛海岸の干潟を利用した飛行場であった。
ここで奈良原は、一番弟子 白戸栄之助 や二番弟子 伊藤音次郎 らのパイロットを養成。
奈良原式4号機「鳳号」を制作し、日本の民間航空の発展に尽くした。

民間航空発祥之地 記念碑

京葉線「稲毛海岸駅」北東約700メートル。稲岸公園の南端にひときわ大きな記念碑が建立されている。
この稲毛飛行場の地を飛んだ、奈良原式4号機「鳳号」の全長は9メートル、翼幅も9メートルであり、この記念碑の高さと幅も9メートル。
恩師 奈良原三次 のために、二番弟子の 伊藤音次郎 が建立。

民間航空発祥之地
 笹川良一 書

1912年5月 奈良原三次氏 この海浜に初めて練習飛行場を創設
教官白戸栄之助氏により 飛行士の養成をはじめた
この地がわが民間航空発祥の地である
1971年7月
 伊藤音次郎 記
 航空振興財団

松の由来
 この松は昭和35年日本初飛行50周年を記念して、アメリカ・ノースカロライナ州のホッジス知事から送られた、キティホークの丘(ライト兄弟が世界で初めて動力による飛行に成功した丘)の松の種を我が国、民間航空の草分けで、当地ともゆかりの深い故伊藤音次郎氏が、成田市の自宅で育てたものをこの地に植樹したものであります。
 昭和46年6月 
 千葉市

発祥記念碑の基部には「奈良原式4号機・鳳号」複葉機とその諸元を示すプレートが表示されている。

記念碑

奈良原式4号機「鳳号」
千葉市サイトより

奈良原式4号機「鳳号」復元機は、稲毛民間航空記念館に展示してあったが、現在は閉館中。リニュアルオープンを待ちたいと思います。。。

記念の周辺に、気になるものがいくつかありました。

礎の碑
この碑は明治初期より貝類のり漁場として代々漁業を営み又関東一の汐干狩り海水浴場としてひろく親しまれた稲毛の海でしたが国土開発に協力し埋め立てのため昭和44年6月に解散した記念です。
千葉市稲毛町漁業協同組合

明治45年(1912)5月、千葉県の稲毛海岸に飛行場ができた当時から埋め立てが進むまで、遠浅の海外線がこの地に広がっていた。

蒸気機関車も保存されていました。

NUS7
 この蒸気機関車は昭和28年から昭和43年まで川崎製鉄千葉製鉄所において資材原材料等の運搬に使用されておりました。
 しかしディーゼル機関の発達にともない蒸気機関車は使われなくなり千葉市に寄贈され当公園に置かれたものです。
 昭和52年9月 
 千葉市

道路名は、「つばさ記念ロード」

こじま公園

稲毛海岸駅から記念碑に向かう道路を歩いていたら、バス停が「こじま公園」。
今はなにもないけども、かつてここに「こじま」がいました。
帝国海軍海防艦「志賀」
海上保安庁巡視船「こじま」
1998年に解体・・・

ファイル名:CKT881-C3-6(一部加工)
1988年10月30日・国土地理院撮影
地図空中写真閲覧サービス(国土地理院)

寄り道でした


日本の民間操縦士第一号
白戸栄之助

白戸栄之助
明治19年(1886年)11月12日~昭和11年(1936)3月2日
青森県出身

明治39年(1906年)12月に陸軍交通兵団気球隊に入隊、43年に軍曹で退役。上官だった徳川好敏陸軍大尉の推薦で、奈良原三次のもとで操縦士としての訓練を受ける。

明治45年(1912年)4月、川崎競馬場で開催された、日本で初めて開催された有料民間飛行大会で、白戸栄之助は奈良原式4号機「鳳号」を操縦して「日本の民間操縦士第1号」の名声を得て、続いて5月11日東京の青山練兵場で時の皇太子殿下(大正天皇)、皇孫殿下(昭和天皇)の台臨飛行を行って大成功を納めた。

明治45年5月末には奈良原三次の提案で千葉の稲毛海岸の干潟を利用した飛行場を本拠地として移動し、教官として伊藤音次郎を教育した。
大正5年(1916)、奈良原三次の稲毛飛行場内に「白戸共同飛行練習所」を設立。 翌年に奈良原から独立し「白戸飛行機練習所」を開設。
大正13年(1924年)に門下生が相次いで飛行機事故で殉職したことから航空業界を引退し木工業へ。

白戸工業株式会社


民間機による初の帝都訪問飛行
伊藤音次郎

伊藤音次郎
明治24年(1891年)6月3日~昭和46年(1971年)12月26日

大阪の恵美須町生まれ。
17歳のときにライト兄弟の飛行写真をみて、飛行機に興味を持ち、奈良原式飛行機発明記事をみて、奈良原三次に手紙を送ったことから奈良原との交流がはじまる。
明治43年(1910年)に上京。奈良原三次に弟子入りし白戸栄之助教官の教えを受け「民間飛行士第2号」となる。

大正2年(1913年)、事情により航空業界から一時引退した奈良原三次の稲毛飛行場の地にて、大正4年(1915年)に伊藤音次郎は奈良原のもとから独立した形で「伊藤飛行機研究所」を設立。

大正5年、大阪の出身地・恵美須町の名をつけた「伊藤式・恵美1号」を制作し、民間機として初めての帝都東京訪問飛行に成功。
大正6年(1917年)、台風と高潮により稲毛海岸の施設(稲毛飛行場と伊藤飛行機研究所)が壊滅したことから、翌年大正7年に津田沼町鷺沼に移転し「伊藤飛行機製作所」(津田沼飛行場・鷺沼飛行場)として拡張する。

大正8年には、開発した日本初の曲芸専用機が連続2回宙返りに成功する。
昭和12年(1937)「伊藤飛行機株式会社」に名称変更。
昭和17年、日本航空工業と合併。
戦後、伊藤音次郎は、GHQの航空禁止令を受けて航空業界から引退。
昭和23年に(1948)に「恵美開拓農業協同組合」を設立し現在の成田市東峰に入植し開墾開拓に携わり農場主となった。
昭和40年代に始まった「成田空港建設予定地」の一部に東峰地区が決定し、現地では伊藤音次郎ただ一人が大歓迎を表明。軌道に乗っていた農業用地をすべて売却。航空業界から身を引いた伊藤音次郎ではあったが数奇な巡り合わせであった。

その後、恩師奈良原三次が築いた稲毛飛行場を記念するために稲毛海岸に「民間航空発祥の地記念碑」建立に尽力し、自ら育てていたライト兄弟ゆかりの貴重な松を植樹している。

昭和46年(1971)、伊藤音次郎は成田空港の開港を見ることなく他界。

旧 伊藤飛行機研究所 滑走路跡

現在の「袖ヶ浦第二児童遊園」に。

旧 伊藤飛行機研究所 滑走路跡
 伊藤飛行機研究所は、大正七年四月一日、鷺沼三丁目の旧千葉街道沿いに、伊藤音次郎氏によって開設されました。
 伊藤氏は、明治四十五年日本初の民間飛行機練習所を稲毛海岸に開いた奈良原男爵の弟子で、大正四年に独立し稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設しましたが、大正六年九月の台風と高潮で施設が壊滅したため、翌年鷺沼海岸に再開しました。当時この辺は遠浅の海で、潮が引いたあとの干潟は格好の滑走路となり、この干潟を利用して約百五十名の飛行士が養成されました。
 昭和六年、研究所は飛行機製作部門の伊藤飛行機製作所、飛行士養成部門の東亜飛行学校・帝国飛行学校に分かれ、昭和二十年八月、第二次世界大戦終戦とともにすべて解散されました。大正四年の創設以来、製作された飛行機は五十四機、グライダーは十五機種二百余機でした。
 平成十八年三月
 習志野市教育委員会

伊藤音次郎日記(日本航空協会)

日本航空史 明治大正編(日本航空協会)

ならしの豆知識(習志野市)


山縣飛行士殉空之地

伊藤音次郎の一番弟子であった山縣豊太郎。民間初の曲芸飛行家
大正7年(1918)5月4日に民間初の宙返り飛行に成功。5月10日には連続2回宙返りにも成功し天才飛行士として絶賛された。
しかし大正8年(1919)8月29日、連続3回転宙返りの際に翼が折れて、鷺沼の畑に墜落。享年23歳であった。

山縣飛行士殉空之地
 男爵 奈良原三次 書

紀元二千六百年八月二十九日 
 伊藤音次郎建立

山縣豊太郎君は明治三十二年九月百太郎氏の三男として広島に生まれ資性温健謙譲然も豪毅果断十六歳志を立てて東京に出叔父鳥飼繁三郎氏に寄り身を航空界に投ず
大正四年二月伊藤飛行機研究所創設されるや所長伊藤音次郎氏に師事して飛行機の操縦及び製作を習得し大正六年第一回卒業生首席として飛行士免状を授与せらる
爾来技愈々熟し出藍の誉高く東京大阪間最初の郵便飛行同区間周航の六百三十哩飛行等の競技に優勝し又民間最初の曲技飛行家として其天才的技量を発揮し後輩を指導して多数の優秀な飛行士を養成す
大正九年八月二十九日の曲技飛行中空中分解の為愛機恵美号と共に此の地に玉砕す
我が航空界の第一人者として称賛を受けたる君は航空界に幾多の大功績を残して遂に逝けり享年僅二十三
官民間人今猶ほ惜しまざるはなし
建碑に当って其昔を偲ぶ 嗚呼
 昭和十五年八月二十九日
 男爵 奈良原三次

「山縣飛行士殉空之地」は今も昔も畑の中。
海岸側からはちょとした高台にあった。

伊藤音次郎 の一番弟子であった 山縣豊太郎 を偲びし碑。
事故の21年後、紀元2600年の節目、昭和15年に 伊藤音次郎 によって建立された。揮毫と碑文は、伊藤の恩師 奈良原三次 の書。

合掌

はるかに幕張新都心を望む。当時は海だった場所。


参考

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

平成29年5月 代々木公園はかつての「帝国陸軍代々木練兵場」であった。 その練兵場の隣に鎮座しているのが「代々木八幡宮」 往時を物語...

位置関係

今昔マップ On The Web

国道14号が海と陸の境界線。

稲毛飛行場跡

津田沼飛行場・鷺沼飛行場

付記

伊藤音次郎が、昭和12年(1937)に鷺沼の伊藤飛行機製作所の工場敷地内に空難犠牲者を祀る「航空神社」を建立。
戦後、伊藤音次郎が成田東峰に入植した際に、航空神社も移設され「東峰神社」として鎮座。その際に勤労の神として二宮尊徳を祀ったという。

東峰神社は開拓集落の産土神として東峰地区にて崇敬。
伊藤音次郎は成田空港を喜んで迎えたが、空港反対派が東峰神社を拠点として反対活動を行ったことは皮肉でしかなく。

東峰神社=航空神社は2001年に伊藤音次郎の子孫の要請で航空科学博物館の野外展示場に遷座。御神体も遷座しているために、現在の東峰神社は空座という。

伊藤音次郎ゆかりの神社として、航空科学博物館の航空神社と、東峰神社にも赴かねば、です。宿題ですね。