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陸軍相模飛行場跡地散策

平成30年2月
神奈川県愛甲郡愛川町中津地区に残る相模陸軍飛行場(中津飛行場)の跡地散策。

神奈川県愛川町に残る陸軍飛行場ゆかりの地。
ここには「相模陸軍飛行場」「熊谷陸軍飛行学校中津分教所」とも呼称された飛行場があった。
そんな往時を偲びつつ、ちょっと散策してみました。

海老名駅から愛川バスセンター行きのバスに乗って「中一丁目」バス停で下車。

この辺りの工業地帯が当時は滑走路であったという。
そして相模陸軍飛行場を縦断していた「水道みち」(横須賀水道) 、愛川町半原水源地から横須賀までの道。

水道みち

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
1947年(昭和22年)4月13日・1948年1月12日に米軍が撮影した航空写真。

1947年(昭和22年)4月13日、米軍撮影
1948年1月12日、米軍撮影

1948年(昭和23年)1月に米軍が撮影した航空写真とグーグルマップでの対比などを。
南西部に飛行場施設があり北東部は滑走地区。
今回は南西部の飛行場施設界隈を散策。

1948年(昭和23年)1月 、米軍撮影

陸軍中津飛行場
(相模陸軍飛行場)

もともとは少年飛行兵育成のための訓練所「熊谷陸軍飛行学校中津分教所」として昭和16年に完成。
舗装された滑走路はなく着陸地帯として離着降場を草を刈って造成された飛行場であった。練習機として「九五式中間練習機」(赤トンボ)が飛び交っていたという。

昭和17~18年ごろから中津飛行場には戦闘機も配備され、昭和19年には飛行学校閉鎖。
「四式戦疾風」の訓練基地となり、特別攻撃隊練成の地ともなり、当地からも特攻出撃が行われたという。

戦後、飛行場跡地が開墾。
工業地帯の片隅にある「中津工業団地第2公園」内に「開墾記念碑」が残されている。昭和31年建立。

昭和15年2月突如陸軍省は飛行場設置のため買収…昭和20年終戦と同時に施設は解体…国内混乱のさなかの開墾…

前述の米軍撮影の航空写真でも分かる通り、終戦間もない状況で区画整備され開墾が始まっている。


旧相模陸軍飛行場
通信室跡

当時の「通信室」とされる建物が建築会社敷地内に残っている。

訪れた際は日曜日ということもあり人の気配が無かった為、大野建設敷地外から撮影させていただきました。 見事に蔦が建物を覆ってます。

大野建設株式会社様紹介ページ

http://www.ohnokensetsu.com/iseki


旧相模陸軍飛行場
格納庫基礎跡

格納庫基礎とされるコンクリ塊。住宅地の中に忽然とコンクリの壁が残っている。 ワゴン車などと比べてみると、その異様な大きさがよくわかる。

隣は新築宅地造成中。 格納庫基礎のコンクリのまわりに新しい壁が造成されつつありますが、明白に保存体制に入っているのを感じることが出来ます。


旧相模陸軍飛行場
排水路

排水路は当時から変わらぬ位置で今も飛行場の南端から中津川へと注ぐ排水路として活用されている。


旧相模陸軍飛行場
排水路橋

排水路橋。陸軍飛行場時代から使われている配水橋。前述の排水路はこの場所で県道と立体交差して中津川へと流れていく。

旧相模陸軍飛行場「排水路橋」
 この排水路橋は、県道の道路面から橋の下部まで4.17mほどの高さがあります。橋の全長は15.75m。水路は中津川まで延び、厚さ35cmのコンクリート製で、水路内部幅は150cmです。
 第二次世界大戦中の相模陸軍飛行場は、地表面を平らに削り、草を刈っただけで、舗装されていませんでした。雨天時のぬかるみを防ぐため、排水設備が必要でした。 この排水路は、現在でも中津地区の一部の雨水排水に使用されています。
 平成28年9月
  愛川町教育委員会

下から覗くと排水路は橋の部分だけは二股となり、そして橋が終わると合流してます。理由は不明ですが水量が増した際に水流を弱らせる感じでしょうか?(根拠ない素人予想ですが・・・)

排水路と排水路橋を上から覗いてみました。 ちょうど分岐するあたり。

旧相模陸軍飛行場
正門通用門柱

正門通用門柱とされる遺物。「桜台ちびっこ広場」のあるあたり。
住宅の庭先に一柱。 このあたりに基地航空隊の正門があったという。
面白いことに電話ボックスと門柱で対の位置関係。
この門柱より奥に航空隊が展開されていた。


旧相模陸軍飛行場
正門門柱

正門通用門柱が残っている場所から400mほど西に行ったところに正門門柱が移築されている。

旧相模陸軍飛行場正門門柱」
 この正門門柱は、高さ216cm、71cmのコンクリート造りで、中ほどには駐留する部隊名を記した表札をはめ込むための長方形の切り込みがあります。頂部には、夜間照明用の電灯を設置した穴があります。
 第二次世界大戦中の正門所在地は現在の桜台附近で、2本の門柱がありました。 戦後。戦争遺跡が失わるのを惜しんだ方の手で、1本の門柱が、約400m西に離れたこの地に移設保存されました。
 平成28年9月
  愛川町教育委員会

門扉の金具あと。

移築するときに門柱の置き位置があべこべになっているような感じ。
写真手前の門柱の金具の位置、180度おかしいです…

案内看板にあった「頂部には、夜間照明用の電灯を設置した穴があります。」を探してみる。
向かって左側には「駐留する部隊名を記した表札をはめ込むための長方形の切り込み」もある。

飛行場のあった台地から中津川の方を望む。こうしてみると中津川が削り出した高低差ある台地上の平地は絶好の飛行場立地であったことがわかる。

関連する地下壕も残っているらしいけどそれは未調査。


半原水源地と海老名と・海軍横須賀水道(愛川・海老名)

(平成29年7月)

  • 半原水源地
  • 横須賀水道みち
  • 上郷水道橋(上郷水管橋)
  • 海軍標石(海軍境界石)

【横須賀水道と半原系統】

海老名の有鹿神社の境内裏手「相模川」に気になる橋があります。
「上郷水管橋」
愛甲郡愛川町の半原水源地よりほぼ直線に引かれた自然高低差の水道管で横須賀の逸見浄水場へと導水された跡。

海老名界隈の地図を見てみると、見事な直線が気になります。 同じレイヤーで線を引いたものと実際の航空地図を並べてみました。 一部断絶してますが、うん見事な直線ですね。 この直線道路が「横須賀水道道」(よこすかすいどうみち)と呼称されている道路。

横須賀水道

https://ja.wikipedia.org/wiki/%e6%a8%aa%e9%a0%88%e8%b3%80%e6%b0%b4%e9%81%93 …

日露戦争後の軍備拡張に伴い海軍当局は中津川に取水口を設け約53km離れた横須賀まで鋳鉄管を使用し落差約70mの自然流下による半原系統の建設工事を1912年着手、1918年10月通水開始。

横須賀市上下水道局

http://www.water.yokosuka.kanagawa.jp/history/suido/06.html …

横須賀に拠点を置く海軍は水不足改善の為に相模川の支流中津川に新しい水源を求め、明治45年(1912)に工事に着手し大正10年(1921)に完成させた、海軍水道みち。全長53キロ。

半原水源地(愛川町)

朝。

今回はじめて「半原地区」に脚を踏み入れた私。 結論からすると再訪必至となりました。事前調査不足と夏の暑さと草木の成長などに阻まれたため、これは涼しくなってからのリベンジです。 なので今回のレポは(自分的な)ガイダンスとなりそうです。

橋本駅7時55分の神奈中バス「橋07系統・鳥居原ふれあいの館」行きバスに乗り込む。橋本からの山越えコース。途中の「串川バス停」で下り車線から上り車線に移動して「半原」行きへ乗り継ぐという変則行程。 未知の土地でのバス乗換えはドキドキします。

8時43分。予定通りに「半原」バス停に到着。 ちなみに半原地区に赴くには「本厚木」からがベストです。バスはだいたい30分に1本走っているので時間調整しやすいです。 私のとった橋本ー串川橋ー半原コースは1時間に1本以下となりますのでご注意を。

半原バス停から南に。「半原水源地」に到着。

横須賀市水道局半原水源地
(横須賀市上下水道局)

場所:https://goo.gl/maps/QxFS62RG6mB2 …

こんな山奥に横須賀市の施設があるのが往時の海軍時代からの因果。 なお平成27年2月28日運用廃止。

「半原水源地」

せっかくなので敷地を周回。(敷地内には入れません) 敷地の隣を流れるのは「中津川」 ここより上流約500メートルほどの場所に取水口があり、制水用ハンドルや隧道もあるが、今回は暑すぎたので近づくのは割愛。 次回の再訪課題で。

敷地外から沈殿池跡などを覗いてみました。 往時、横須賀を拠点とする帝国海軍の水がめとして活用された「半原水源地」はすでに時代の役目を終えており、歴史遺産としてその姿を残していた。

平成19年4月取水休止
平成27年2月28日廃止

「半原水源地」 敷地外から観察。

「半原水源地」 敷地外から観察。
水道管が転がってました。

「半原水源地」 敷地外から観察。

「半原水源地」 外壁の石垣。 これは良いところですね。

「半原水源地」 敷地の奥に護水の神がおられました。

妙法護水善神

若宮神社

「半原水源地」の正面のちょっとした高台に「若宮神社」が鎮座しておりました。
まるで半原水源地を見守るような佇まい。
神社由来は不詳。 最近、御社殿を新しくされたようです。

狛犬は明治44年の銘あり。海軍による半原水源地の建設開始(明治45年)よりも1年ほど早くからここに鎮座してる狛犬。
まさに半原水源地とともに時代を刻んできた狛犬。

半原水源地から横須賀水道みちへ

半原水源地より伸びる道を歩む。
ここから「横須賀水道みち」が延々と三浦半島横須賀まで、帝国海軍の水を担うために水道管が伸びていた。
その水道管は道路の下に。水道管の上に道路が敷設されたわけです。

半原水源地よりちょっと歩いた公園の片隅に。 ありました。

「海軍用地」境界石(境界標石)

場所→https://goo.gl/maps/PyoLpCkdjb22 …

こんな山奥ではあれど、大切な「海軍の水」ですから。
こうして主張されているわけです。

実は半原の街を歩いていた所、どうも祭りの気配がありまして。
道々に紙垂もさげられていたり。

半原神社

集落の鎮守たる集落の名を冠する「半原神社」( 諏訪大明神)
ちょうど八雲祭祭礼の準備(土曜日が宵宮・日曜が本宮)が行われてました。
祭礼の邪魔をしては悪いので参拝だけして次へと。

水道みちを下っていきます。
ここで水道みちと現在の道路が別れます。 水道みちは1枚目写真の手前(津久井)に。
現在の道路は1枚目写真の右(厚木相模原)にカーブを。
この場所が次のポイントです。
隧道が見えますね。

横須賀水道みち「隧道」

場所→https://goo.gl/maps/vjrVLLWhgWK2 …

昔は通行可能であったそうだが、現在は愛川町道路管理課によって通行禁止の処置がとられている。
水道管を通すのに掘られた隧道。

横須賀水道みち「隧道」の隣の高台に。
気になる空間があったので立ち寄ってみました。 狛犬の銘によると「金山神社として築造、明治捨参年」されたそうで。狛犬は対ではなく1体のみ。 明治13年であれば、これもまた「横須賀水道」よりも古くからの存在。

さきほどの横須賀水道みち「隧道」は、通行止めでしたので道路を迂回して下流側へ。
要石がお見事です。

前述の横須賀水道みち「隧道」から伸びる道は緩やかな勾配を描いた築堤のような雰囲気。

その先に次の「隧道」がみえてきますが、こちらも封鎖。 夏の草たちはよく育ってますね。
・・・近寄れませんでした。また迂回です。

(築堤の途中で用水を渡る水道管も見逃し。宿題です。)

場所→https://goo.gl/maps/PZ3kgqt66522 …

迂回中。
ブレてますがバスは比較的よく走ってます。
(田名バスセンター及び厚木バスセンター方面)

前述の2つ目の隧道の下り側。簡易的でしたが道は封鎖。この先は個人住宅裏へと連なっておりましたので進入はヤメ。
山の中ですが「横須賀市」の標石あり。
(リアルな横須賀とか50キロぐらい離れてます)

場所→https://goo.gl/maps/VZ8Mbo9Kk762 …

愛川橋

中津川。見える橋は「愛川橋」
愛川橋では「あいちゃん」(愛川町観光キャラクター)が何かの撮影をしてました。

で、風光明媚すぎて暑すぎて、このあたりにあるという「旧海軍マークの刻まれた排気弁蓋」を見忘れたり(あぁ、これも宿題)

そろそろ慣れてきたと思います。

戦前は帝国海軍の管理、そして戦後は横須賀市の管理用地となります。

ようやく通れる隧道(愛川トンネル)です。
平成5年に現在の様相に拡張済み。
トンネルの中は涼しくて助かります。

場所→https://goo.gl/maps/j4Y6D2uwxqm …

中津川の清流。癒やされます。

馬渡橋

ここはね、来るのが遅かったってわかっているから覚悟済み。
「馬渡橋」架替工事。平成29年9月29日まで。
以前の馬渡橋脇には「横須賀水道の水道管」も一緒に渡されていてその姿を見ることが出来たが、既に撤去済み。

「馬渡橋」の近くに。 僅かに痕跡が残っておりました。
「水道局」の石標。

中津川にかかる「馬渡橋」を渡って、次の集落へ。
行政地区的には「愛川町半原」から「愛川町田代」となります。

「横須賀水道みち」は自然勾配で下っていきます。 こうして適度な斜面があるから、ポンプを使わずに水を横須賀に流すことができるわけですね。

田代の集落を通る水道みちを歩いていると、あぁこれは立ち寄らないとダメですね。

中津神社(小嶽明神)

ちなみに前述された「半原神社」は、こちらの中津神社が本務社となっております。

「中津神社」(小嶽明神)
大日霎尊(おおひるめのみこと) 創建年代は不詳であれど文治年間(後鳥羽時代1185年~1189年)には鎮座していた。
北條家臣内藤秀勝が田代城を治め当社を氏神として信仰。
中津川流域の中心地であり中洲をなしている田代集落の総鎮守。

なかなか興味深い神社。御社殿の後方にちょっとした丘があってそこにも祠が鎮座。本殿の後なので覗き込むわけにもいかない角度だけど、奥社っぽい気配。この規模にしては余り見かけない空間です。

ここで迷う。
道は迷ってないけど選択肢に迷う。
別に地酒を迷ったわけでもなく。
水道みちを歩くのであれば相模原方面へ。切り上げるなら厚木方面へ。
時刻表をみたら程よく10時58分に厚木行きのバスが。

場所:https://goo.gl/maps/mWu4DVYcib82 …

ということで一旦切り上げ。

半原水源地から愛川町田代まで「横須賀水道みち」を歩いた距離は7.5キロ。所要時間は約2時間15分。

宿題が幾つか残ってしまったので半原地区はまた訪れることになります。

このあとは海老名の水道みちにワープ!

海老名市内の横須賀水道

さて話は海老名にワープします。
海老名駅ほど近くから有鹿神社までのちょっとした直線が次の見どころ。
この直線が延々と伸びている「横須賀水道みち」

海老名市内を縦断する「横須賀水道みち」

ちょうど相模線の線路がクロスするあたりから「歩行者自転車専用」の細道が伸びています。
看板には「水道用地」とあります。
右手の水田のところにポツポツと林立しているものが「水道標石」 近づいてみましょう。

海老名市内を縦断する「横須賀水道みち」

水田と用水の間に標石が何本も並んでいます。 横須賀市の文字も見えますね。でもここは海老名市。

水田地帯を抜けると道路の両脇にいい感じに標石が並んでます。
だんだん慣れてきました。
これらは削られ系ですかね。

海老名市内を縦断する「横須賀水道みち」の「水道標石」

表記は水道部だったり水道局だったり。
標石の時代が違うのかな。
埋もれ方にも個性があります。

海軍標石(海軍境界石)

「標石」ハイライトはこちら。
波が描かれた「海軍標石」(海軍境界石)

この場所がなんであるかを物語る、力強き「海」の名残。

海老名市内を縦断する「横須賀水道みち」
みごとな一直線です。

上郷水管橋

突き当りは相模川です。
この向こうが冒頭に触れた「上郷水管橋」
占有者は横須賀市上下水道局。

相模川にかかる「上郷水管橋」

1918年(大正7年)完成。
2007年(平成19年)4月取水休止。
2015年(平成27年)2月廃止。

横河橋梁製作所
東京工場制作
大正七年三月竣功

銘板は大正7年。右から読ませます。

県立相模三川公園より遠望してみました。

「相模大山」と「上郷水管橋」 左に見える塔は「国土交通省関東地方整備局厚木無線中継局」

「上郷水管橋」のすぐ隣にあるのが「有鹿神社」

有鹿神社

実は神社境内にも標石があったり。かつては今よりも広大な敷地を保持していた有鹿神社であったが社地の後方に横須賀水道が通ることで境内が削られたわけで。
こうして境内に横須賀市水道部の水道境界石が残っている。

ということで。
海老名の有鹿神社に到達したところで本記事はひとまずオシマイ。
宿題が幾つか出来ましたので続編を期待しつつ、いったん〆ます。


関連

神奈川県中央部の海軍史跡散策(寒川・大和・綾瀬)

 (平成29年6月・10月撮影)

※2017/6訪問
・寒川→相模海軍工廠跡と引込線(寒川支線)
・大和→厚木空ゆかりの神社

※2017/10訪問
・綾瀬→二相空ゆかりの神社

神奈川県中央部の海軍史跡散策

平成29年6月。
海老名に用事があったので思い出して近隣の戦争関連史跡(戦跡)散策を敢行してみた。 南の寒川町(相模海軍工廠跡) 東の大和市(厚木空神社関連) それぞれに海軍関連の史跡が僅かながらに残っておりました。

寒川町・相模海軍工廠跡と寒川支線

相模線寒川駅。 寒川支線と思われるスペースが線路左側に広がっている。 昭和59年(1984)に寒川支線は廃線。 開業は大正12年(1923年)。砂利貨物路線として開業し、近隣の発展とともに旅客輸送も始まり、工場地区への足とも成っていた路線。

地図を見てみると、わかりやすい。 JR相模線寒川駅より分岐し南西に伸びる路線(赤い線) これが「寒川支線」 廃線後の現在は遊歩道として整備されております 終点の「西寒川駅跡」の先の工場エリアが 戦時中は「相模海軍工廠」でした(赤枠あたり)

※余談

JR相模線寒川駅では全力で「寒川神社の最寄り駅は宮山駅です」と訴えてきます。 が、実は…寒川支線の分岐あたりから「寒川神社の表参道・一之鳥居」が始まっておりますので、「宮山駅」からアクセスするよりも「寒川駅」からアクセスするほうが本来の意味では正しいんですよねえ…

寒川支線の跡を辿りながら「相模海軍工廠跡碑」を目指して歩いてみましょう。

「大山踏切」 そういえば相模の大山(4枚目写真)が見えてましたね。 ここもきっと大山街道なのかな、と。 空間の広さが支線跡を感じさせる

寒川支線跡

相模線と寒川支線の分岐点のあたり。 この知らないと無駄でしか無い空間の広がりが線路跡を感じるスペースですね。

ゲート広場。 三方向の分岐点。 寒川駅方面から歩いてきて、「一之宮公園」が寒川支線へ伸びる遊歩道。 その反対側は前述した寒川神社の表参道。 寒川神社を示す方角は深き社叢が感じられますね。 ここは神社に行きたいところを我慢して、真逆の廃線跡を辿ってみます。

「寒川支線跡」 廃線跡の遊歩道。 いきなり脇の方に、きっとなにかの鉄道系の機械を置いていたであろう土台があったりしていきなりテンション上がってきました。 この遊歩道はきっと楽しいに違いない。 さて、線路跡の遊歩道を歩いてみましょう。

しばし歩くと「一之宮公園」に到着。 なにやら見えてきました。 車輪ですね。 なにやら廃線跡散歩が楽しくなってきました。


「一之宮公園」 一之宮公園内の廃線跡には往時のレールがひかれており、いやがうえにも気分が盛り上がってくる。 ゲート広場と一之宮公園と八角広場とを廃線跡の遊歩道が結んでおります。

「一之宮公園」 公園の両端に車輪が置いてありました。 さきほどのものとはまた別なもの。

「一之宮公園」から遊歩道を終点に向けて歩いてみます。 ここは踏切の跡・・・かな。

線路跡の遊歩道の脇に。 「工」の境界石。 これは「相模海軍工廠」時代の境界石?かもしれませんね。

「工」が刻まれたものは前述のひとつしか見受けられませんでしたが、 境界石というか標石はゴロゴロしてました。

一之宮緑道

旧国鉄相模支線跡地を利用して昭和60年度より整備を行ったものです。 延長は約900mであり、広場及び3つのタイプの園路から構成。

旧国鉄西寒川駅
相模海軍工廠跡

遊歩道の終点「八角広場」 そこに往時を偲ぶ石碑がある。 この地は 国鉄相模線寒川支線(海軍工廠引込線)でもあり、 海軍工廠が展開された場所でもあった。

石碑裏面
ここ旧西寒川駅跡に佇んで東を望み、更に南に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。 そこは、かつて多くの仲間が営々と働いた相模海軍工廠(昭和20年敷地704,000平方メートル)の跡地である。
往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り、懐旧の想いひとしおである。 第二次大戦後、工業立地に恵まれた跡地は町発展の礎となり、今日の繁栄をもたらした。 いま大地に大地に深く根差した緑に世界の平和を願い、国土の安隠を祈る。 建立 相廠会 及び 協力企業 昭和63年春

この地にあった旧海軍工廠は、イペリット爆弾等の化学兵器や火工兵器の本格的な量産を目的として、海軍技術研究所の化学研究部から昇格した工廠が展開されていた。

ちょうど西寒川駅跡の前を神奈中バスが走っていきました。

この八角広場にも往時のレールが残っておりました。

たぶんこれが「八角広場」の由来。 これだけ(往時を偲ぶものでもなく)唐突過ぎ。

この八角公園から先は工場エリア。海軍工廠時代名残のレンガ造の建物は近年撤去されたと風の噂に聞き格別な何かは残っておらず。 またかつてはここ「西寒川駅」より先に「四之宮駅」というのもあったが、それも特に何も残っておらず、で。 ※相模四之宮は相模川対岸の前鳥神社

帰りも同じ道を歩く。廃線跡の遊歩道を。 丹念に見ると・・・これも鉄路の名残ですね。 やはり楽しい。

再び戻ってきた「一之宮公園」にて廃線跡のレールを愛でる。 見つけました、古レールの刻印。 1925  1926 とありました。西暦でしょうか? ※ 開業は1923年(大正12年) 「S」マークも気になります。

更には「2606」の記載。 上記の「1925・1926」とは表記が違いますね。

※ 寒川支線(相模鉄道)開業は1923年(大正12年) 相模海軍工廠は1943年開業(昭和18年) 皇紀2606年は1946年 、昭和21年

30kgレール、Aはレールの種類、八幡製鉄所のマーク、皇紀2606年4月製造、OHは平炉製鋼。

古レールの刻印探しは楽しいけど、人々の憩いの広場となっている公園内でレールをマジマジと覗き込んでいる姿は滑稽でもあり・・・

「寒川支線跡と相模海軍工廠跡」 9時に寒川駅から歩きだして廃線跡の遊歩道を往復。 所要時間は約90分。歩行距離は約3.5キロでした。 さて、次は寒川駅から相模線を北上。 海老名駅を経由し相模鉄道にて大和駅を目指します。

大和市・厚木空ゆかりの神社

大和市の南西には「厚木航空基地」が展開。綾瀬市と大和市にまたがる軍用飛行場で、現在はアメリカ海軍と海上自衛隊が共同で使用している軍事基地。 戦前は「厚木海軍航空隊」が展開。海軍の首都防空の要であった「第三〇二海軍航空隊」が配備。

もちろん「厚木航空基地」そのものを探索する事は今回は出来ませんので、ゆかりの神社を2社詣でることとします。 大和駅から相模鉄道に沿って東に歩くこと15分、深見神社に到着。神社フリーク的には相模国延喜式内社13座の1座として有名ですね。

深見神社

相模国延喜式内社13座の1社。 御祭神は闇龗神・武甕槌神・建御名方神 雄略天皇22年(約1500年前)の創建という。 明治6年郷社列格するも明治9年隣地出火類焼し公称社格不詳となる。 昭和17年に再建し改めて郷社列格。

相模国延喜式内社13座の1社。 境内には寛政3年(1791年)に建立された神社碑がある。 この神社碑は相模線に面した北面鳥居の脇、境内の北東角にあった。 (最初わからなくて神職さんに場所を尋ねてしまいました) ちなみに御社殿は南面しているので参道の導線はチグハグ…

「深見神社」

ご神木なんじゃもんじゃの木(ハルニレ) 樹齢約500年。

深見神社境内摂社
靖國社 (元・厚木空神社)

境内に鎮座する靖國社はもと「厚木空神社」。 厚木海軍航空隊の守護神として厚木航空隊の戦死者を祀っていたが終戦後に廃祀(取除き)が命じられ深見神社に遷座。 深見部落の戦死者を合祀し昭和26年に鎮座祭を執り行った。

「雄飛」碑 碑面裏(引用)
第302海軍航空隊は、昭和19年4月勇将小園安名司令のもと、厚木基地に雷電・零戦・彗星・月光・銀河の精鋭機を擁し、本土防衛部隊として編成された。
同年11月B-29来襲に始まる防衛戦闘において302空は勇戦奮闘 昼夜を分かたず来襲する米空軍を迎え撃ってB-29・P-51・F6F等多数の米軍機を撃墜破する戦果を挙げ小園部隊の勇名を天下に轟かせた 又終戦時、徹底抗戦を叫び、世に言う厚木事件を起こした部隊としても知られている
終戦に至るまでの戦闘において数多くの隊員を失ったが戦没者は海軍葬をもって基地内の厚木空神社の祀られた 終戦後同神社の神殿は大和市深見神社の境内に奉遷され地元出身戦没者の英霊を合祀して靖國社となり今日に及んでいる 戦没者の霊を慰め302空の名を永く留めるためこの地に之を建てる

首都防空の要として機能していた厚木海軍航空隊(第302海軍航空隊)。 歴史的には終戦の瞬間に強烈なエピソードを残した小園安名司令のインパクトが大きい。世にいう厚木航空隊事件。 往時を偲び深謝する。

4月第一日曜日には「厚木海軍航空隊の慰霊祭」が深見神社靖國社で斎行されているとのことです。(戦友会は3年前に高齢化で解散済)

「深見神社」

御由緒書きと御朱印を頂戴致しました。 達筆でした。 ありがとうございます。

大和天満宮

「深見神社」をあとにして次に向かったのは「大和天満宮」。 御社殿が2階にあるのが見えますね。 2016年に敷地再整備で新築された神社。 実はこちらも創建由来が厚木海軍航空隊と関係があるのです。

「大和市文化創造拠点シリウス」 2Fデッキ広場に「大和天満宮」が鎮座している。

御社殿は2016年造営。 創建としては厚木海軍航空隊に遡る。 昭和19年に厚木基地内に祀られた「厚木空神社」は、犠牲者をまつる社殿と天照大神をまつる社殿の二棟があったという。

「厚木空神社」のうち犠牲者の御神霊を祀る御社殿は深見神社に遷座し前述の靖國社へ。天照大神の御神霊を祀る御社殿は現在地に住民が運び出したという。 厚木海軍航空基地にGHQ先遣隊が降り立ったのが8月28日。社殿運び出しはGHQが厚木に到着前の事だったという。

戦後、上記のような経緯もあり厚木空神社の社殿を運び出して流用。 その際に住民協議の結果、菅原道真公を祭神として勧請し大和天満宮(当初は南大和天満宮)として創建。 当時の海軍厚木空神社流用社殿は昭和27年に新築され昭和38年改築、平成28年新築となっている。

「深見神社」 「大和天満宮」

御朱印を戴きました。 厚木海軍航空隊の「厚木空神社」に関係する2社の神社を並びで。 「深見神社靖國社」は厚木空慰霊の祭祀を引き続き行い、 「大和天満宮」は新たな住民加護の祭祀を行う。

大和天満宮神職さん(座間神社からの出向とのことでした)に話をお伺いしました。 御社殿を新しくしたのを機に、ご由緒書も新しくしている最中だとかで、私が参拝した6月ではまだ出来上がっておりませんでした。 出来上がったら郵送しますよと行ってくれましたが、また来たときにでも、と。

本ツイは以上で〆

寒川で廃線跡と海軍工廠跡をみて、 大和で海軍航空隊神社の名残に接した、 そんな神奈川中央部での海軍関連史跡散策でした。 少しずつにはなりますが往時を偲ぶる地を、 こうして引き続き参っていきたいと思っております。

綾瀬市・二相空ゆかりの神社

二相空 → 第二相模野海軍航空隊

深谷神社

先日、海老名に赴いた際に時間を作って綾瀬まで赴いておりました。 綾瀬は駅がないんですよね。海老名駅から綾瀬市役所までバスで訪れ参拝。 が、深谷神社が今回のメインではなく。 今回のテーマは「深谷神社に隣接する祠」となります。

綾瀬市戦没者慰霊堂

いつのころから(綾瀬市が管理する)「慰霊堂」と呼ばれるようになったかは不詳だが、平成8年に発行された資料には「綾瀬神社」と明記されている祠が深谷神社のとなりに鎮座している。この祠、実は厚木海軍航空隊ともゆかりがあり・・・。

平成14年に覆殿新築。覆殿の中に神式宮殿有り。 この慰霊堂の元となった祠は昭和35年に現在地に遷座。戦前の「海軍航空隊神社」であった。すなわち「第二相模野海軍航空隊内神社」として建立という。 (神奈川県忠魂碑等建立調査集・参考)

第二相模野海軍航空隊

昭和17年に厚木飛行場の西側に「相模野海軍航空隊」(第一相模野)が開隊。整備兵養成航空隊。昭和18年に「第二相模野海軍航空隊」が厚木飛行場「第一相模野」南に設置。追浜空からの整備予備学生の受入を行っている。前述の祠はこの整備兵養成航空隊の崇敬神社という。

厚木飛行場主力航空部隊としては本土防空の「厚木海軍航空隊」(第302海軍航空隊)が展開されており、ゆかりの神社が東の大和市「深見神社」境内摂社「靖國社」(厚木空神社」。 そして厚木飛行場の西側である綾瀬市に航空整備兵養成の「第二相模野航空隊」(二相空)ゆかりの「綾瀬神社」。

綾瀬市戦没者慰霊堂
かつての綾瀬神社
戦前の第二相模野航空隊の崇敬神社

現在は深谷神社(綾瀬市)の隣に鎮座している。 慰霊堂として整備されており、平成14年に「覆殿」平成15年に「山門」が新造されている。 空間内には幾つかの慰霊碑もあつまっていたので見てみましょう…

慰霊堂の前に林立するひときわ大きな碑が「忠霊碑」(靖國神社宮司筑波藤麿書)昭和32年建立。綾瀬町出身の戦没者240余名を祀る。

殉国兵士招魂之碑

向かって右側に。 明治32年4月建立。 (日清戦争後の)明治28年に陸軍病院で病死した兵士を祀る。

日露戦役招魂碑(向かって左)

陸軍大将男爵乃木希典書・明治40年3月建立 綾瀬町出身の日露戦争での戦病歿者を祀る。

いまでこそ「綾瀬市戦没者慰霊堂」という無宗教方式っぽい慰霊施設であるが、かつてこの祠は「綾瀬神社」と呼称されていたという。 さらには、この地に遷座する前は厚木飛行場の傍らで海軍航空隊の崇敬社(第二相模野航空隊の崇敬神社)であったという遍歴を偲びつつ、雨の中、静かに合掌を…

追記捕捉

なお今回、綾瀬市戦没者慰霊堂の祠が旧海軍ゆかりの神社であったというのを知ったのは靖國神社が発行した「神奈川県忠魂碑等建立調査集」の記録によります。 神奈川県は護國神社がない県(竣工前に終戦・三ツ沢公園忠霊塔)のため靖國神社が調査を担当したとのことで…

相模大塚駅周辺の海軍戦跡

平成29年11月撮影

台湾亭 ・戦没台湾少年慰霊碑 、相模野海軍航空隊線(相模鉄道航空隊線) など


相模大塚駅周辺の海軍戦跡

相模鉄道「相模大塚駅」。
この駅の南側には厚木海軍航空基地、そして北東には高座海軍工廠(最寄駅「さがみ野駅」)があったこの地もまた海軍ゆかりの史跡がありました。
11月のとある夕方に近くに用事があり、隙間時間ができましたのでちょっと散策してみました。


相模鉄道「相模大塚駅」

この日の用事が終り、さてどうしようかなと思案。
手元の地図を見たら近くに戦跡がありましたので立ち寄ってみることに。 駅に到着したのは15時30分くらいのことでした。

厚木基地の北「さがみ野駅」北側には「高座海軍工廠」が展開されておりました。今回はさがみ野駅に赴く時間的な余裕はなかったので隣の「相模大塚駅」から散策をしてみます。 画像では黄色枠の所がレポの対象となります。


台湾亭

場所→https://goo.gl/maps/66Yo3acqut62 …

大和市「ふれあいの森」内に建立。
先の大戦中、将来の航空技師を夢見て台湾少年工8400名が高座海軍工廠で海軍局地戦闘機「雷電」の制作に従事。その台湾少年工たちの寄宿舎が当地にあった。
この建物は元工員たちにより1997年に寄贈。

終戦後に帰国した台湾少年工たちは台湾工業界の中核として活躍。のちに彼らの第二の故郷であった大和市を訪問し日台友好親善と世界平和を記念し本建物を寄贈。建設の中心は台湾に帰国した元少年工「台湾高座会」(当時約3千人)と日本に残った元少年工「在日高座会」(当時約40人)による。

台湾亭の階段には「海軍高座工廠」のシンボルマークが彫られている。このマークは「碇」と、前面から見た「飛行機」の姿を組み合わせたもの。 のちに、このシンボルマークを身につけていた者たち(台湾少年工たち)は「高座帰り」と言われ敬われていたという。


戦没台湾少年の慰霊碑

台湾亭より北東に鎮座する真宗東本願寺派「草柳山 善徳寺」

場所→https://goo.gl/maps/mDEaJ68t8vK2 …

この寺院に高座海軍工廠で働き、そして斃れた台湾少年工を偲ぶ慰霊碑がありました。

戦没台湾少年の慰霊碑
太平洋戦争末期この土地に高座海軍工廠在り 13才より20才迄の台湾本島人少年8千余名海軍工員として故郷を遠く離れ気候風土その他の開く環境をも克服し困苦欠乏に耐え連日の空襲に悩みつつもよくその責務を完うせり
されど病床に斃れ或いは爆撃により無惨の最期を遂げたるもの数多し 遺骨は故郷に還れど夢に描きし故郷の土を踏み懐しの肉親との再開をも叶はず異郷に散華せる少年を想ふ時18年後の今日涙また新なり これ等の霊魂に対し安かなるご冥福とかかる惨事の再び起らぬ永遠の平和を祈り之を建つ

※碑銘捕捉※

台湾亭志
 第二次世界戦中 一九四三年から翌年にかけて戦力補充のため 台湾の青少年約八千四百余名が この大和市に新設された高座海軍工廠に集結し 一部は実習を経て各軍需工場に配属され 終戦まで航空機生産の一端を担い続けた
 その間 米軍による本土空襲 多数の犠牲者も出 戦後そのまま残留した者以外 大部分は台湾に帰国したが 混乱の戦後を乗り越え漸く落ち着きを取り戻した時 若き日の命を託した大和市が第二の故郷として大きく胸に育まれた
 1987年 台湾高座会が発足 1993年日本高座会による五十周年記念大会に1300余名の会員が参加し 半世紀ぶりに旧地で再会の喜びに浸りあった ここに両地の親善交流を記念する とともに 世界平和への祈願をこめて台湾亭を大和市に寄贈し 変わらざる友誼のシンボルとする
台湾高座会 
1997年9月6日

台湾高座会 台湾各地域の区会や特別協力功労者・特別顧問などの名や部隊が列記されていた

※台湾少年工顕彰碑が、高座海軍工廠の地下壕がある座間の芹沢公園に建立されました。


相模野海軍航空隊線
(相模鉄道航空隊線)

さて、台湾亭と戦没台湾少年之慰霊碑を詣でたら、厚木飛行場の近くまで脚を伸ばしてみましょう。
地図をみると線路が伸びているのがわかるかと思います。
この線路は相模鉄道航空隊線・相模野海軍航空隊線・厚木海軍飛行場引き込み線・厚木基地引込線などと呼称されているようで。

元は昭和16年に開設された「相模野海軍航空隊・厚木飛行場」軍用線。
戦後は米軍への航空燃料輸送専用線として活用され、相模鉄道が平成10年(1998)までジェット燃料を輸送。現在は休止線の扱いのようです(実質は廃線)
ちょっと周辺を見てみましょう…

かつては厚木飛行場に燃料輸送をしていた線路であれど、現在は基地の手前でプッツリと線路は途絶。基地内には線路跡は残っておらず。
4枚目の写真が線路の末端。。。

防衛庁時代のものですね。 境界。

ふらふらと廃線跡の線路をみていきましょう。 航8踏切

厚木基地から相模鉄道方面に向けて歩んでおります。
航7踏切と航6踏切の間は「東名高速道路」とのクロス。
東名高速はもちろん戦後の開通なので戦前はここは橋はなく。

一緒のようにみえて、ふたつの橋が並んでいる形態です。
道路側は「大和5号橋」 鉄道側は「大和6号橋」

普段は横着して往時の地図や航空写真は格別に引っ張ってこないのですが、せっかくなので。
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより http://mapps.gsi.go.jp/ http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 … 1947/10/24(昭22)に米軍が撮影した「厚木飛行場」北西部の航空写真を参考まで。

樹木のトンネルになってました。
こうして自然の力が増して廃線路へと・・・

一部にコンクリ枕木もあったり。
小さき花が咲いていたり。

もう、でんしゃはこない

にゃあ

相模鉄道との合流地点。
航空隊線と線路は繋がっているけども、この分岐点が仕事をすることはない… 相模大塚駅を15時30分にスタートして戻ってきたのが17時ごろ。約1時間30分の散策でした。

このエリアは「高座海軍工廠跡」や「上瀬谷地区」なども控えておりますが、ひとまず今回はこれにて〆

関連

高座海軍工廠跡地散策(座間)

平成29年12月撮影

座間市に残る海軍戦跡散策。
高座海軍工廠ゆかりの地。
座間市の芹沢公園に残る防空壕(地下工場跡)など。

神奈川県座間市。相模鉄道さがみ野駅から北へ。
海軍厚木航空隊に隣接するこの地に海軍航空機製造の直轄工場「高座海軍工廠」(こうざかいぐんこうしょう)があった。
平成29年12月に周辺を散策しておりましたので、以下にレポを。


位置関係

まずは、国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より。
mapps.gsi.go.jp

1949年(昭和24年)1月10日米軍撮影の航空写真(USA-R2390-119)をベースに位置関係を。
終戦後4年過ぎた写真であれど工廠の建物が残っているのがわかります。
屋根は迷彩塗装してますね。

こちらはGoogle航空写真をベースにもう少し広域に。
相模大塚駅からの橙印の航空隊線路と台湾亭などは別記事で展開。
今回はさがみ野駅からの紫印が散策ポイント。


高座海軍工廠跡地散策
(こうざかいぐんこうしょう)

相模鉄道「さがみ野駅」から東に。東側の最初の踏切。
このあたりに正門があったという。 道路の位置は往時と変わらない雰囲気。 もっとも往時を偲ぶ何かがあるわけではなく。

場所→goo.gl/maps/qzDchk3Sx…

かつて高座海軍工廠の中心あたり。

場所→goo.gl/maps/CyNZmw8mE…

現在、桜並木が整備されているメインストリート。
海軍工廠の地から民間へと払い下げそうして開拓され、中央通りは「櫻花」彩る桜並木へと。

東原桜並木

昭和28年に周辺の農家が私財を出し合って畑かん水路の完成を記念して植樹。
前述の航空写真が昭和24年だったのでそれから4年後。昭和28年に桜並木が整備された頃には既に海軍工廠の名残もなくなっていたのかと。

高座海軍工廠(座間)

座間市による案内の看板が桜並木の駅近目の場所に建立されていた。

場所→goo.gl/maps/5UCqzLkt5…

昭和19年5月15日開廠。高座工廠では局戦「雷電」などが製造されたという。
昭和23年に海軍工廠跡地は地元に返還。再開発へと。

大和厚木バイパスとクロスする東原四丁目交差点附近。

場所→https://goo.gl/maps/EootLdviFXF2 …

座間コストコ周辺。
このあたりに海軍工廠の滑走路があったという。
完成したばかりの局地戦闘機「雷電」の試運転などが行われたのであろうか。
今はコストコ大渋滞の車列が尽きない・・・

芹沢公園(座間)

高座海軍工廠の名残を探し芹沢公園に。

場所→https://goo.gl/maps/Xd3GDoEFYNu …

案内図に気になる写真が掲載されてますね。
「防空壕跡」 行ってみましょう。

※以下、再訪した記事もありますのでご参照に。

芹沢の地下壕

「高座海軍工廠跡」(座間)

昭和19年、高座海軍工廠開廠。同時に地下工場3ヶ所と地下物資倉庫10数ヶ所も作られた。栗原中沢地区(芹沢公園)地下壕は東西南北に地下道が総延長1500mほど掘られたという。戦後は地下壕の定番「マッシュルーム栽培」なども行われ、一部が保存されている。

現在は地下壕は非公開。
見ての通りに柵がありますが、隙間から覗くことは可能。

大小、幾つかの開口部を崖に沿ってみることが出来ます。
3枚目は隙間から。
4枚目はもしかしたら崩落したあとかも。

ほんの僅かに開口しているところもありました。
壕内からはムワッとした湿気を帯びた熱気が吹き出しており、カメラのレンズがあっという間に曇ったり。
こうして公園内に往時を偲ぶ戦跡として地下壕が残されいるのも貴重な歴史伝承。

芹沢公園の南端附近

栗原水源ポンプ所

(場所→https://goo.gl/maps/azxsJDYPccq …

栗原水源ポンプ所
もともとは「高座海軍工廠の水道施設」として築造されたことにはじまり、終戦後、昭和30年より神奈川県企業庁に移管。昭和35年増設。昭和49年に座間市移管となり昭和58年に取水停止。見学用施設へと改修。

3枚目の写真は操作室。昭和58年まで使用されていた機器が展示。
取水施設があることから分かる通り、この芹沢公園の地は座間水源地のひとつであった。

周辺の標石は「神奈川県企業庁」かな。
かつて取水施設を運用していた絡みですね。

水源地らしく厳島の祠も。

ちょっと離れたところに座間市水道部の水道施設もありました。
実はこの向かいの崖下に「地下壕開口部」が集中していたり。

芹沢公園の南東に。

海軍工廠時代とともにあった芹沢の鎮守。

山王神社

御祭神:大山咋命
戦国時代末期に甲斐より芹沢の地に移り住んだ人々により集落が形成されたという。
文化5年(1808)に社殿造営の記録あり。
境内には芹沢の地より出征し戦死・戦病死された方々の慰霊碑もあり。(昭和44年建立)

こんな感じで高座海軍工廠の気配を地下壕に感じつつの散策。
相模鉄道さがみ野駅起点でざっと3時間ほどのフィールドワークでした。

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