2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)
東京への帰路前に時間があったので、秋田駅周辺を巡ってみました。
秋田の戦跡散策1は、こちらから
歩兵第17聯隊
明治18年(1885)に仙台鎮台の3つめの歩兵聯隊として設置。
明治31年(1898)に、歩兵第17聯隊は、秋田に衛戍地を移し、新設の第8師団所属となった。
明治37年の日露戦争では、当初は予備隊であったが、38年の黒溝台会戦に援軍として参戦、ロシア軍に包囲され、聯隊の半数を失う大きな被害を受ける。次いで第2軍に所属し、奉天会戦に参戦。
第二次世界大戦では、昭和19年(1944)にフィリピン戦線に投入され、歩兵第17聯隊は、フィリピン防衛を担当する第14方面軍下の振武集団・第41軍に所属し、ルソン島の戦いで、全滅寸前で終戦を迎える。
最後の歩兵第17連隊長となった藤重正従陸軍少将は終戦後の9月下旬に投降し戦犯として逮捕。マニラ軍事裁判で住民虐殺の容疑で昭和21年7月17日に絞首刑となっている。
歩兵第十七聯隊趾(中通四丁目)
NTT秋田支局裏手・平田篤胤誕生地碑の向かいに鎮座。
秋田駅前一帯にあった兵営の跡地(中心地)の裏通りに、ひっそりと立てられている。
歩兵第十七聯隊趾
統合幕僚会議議長 陸将 天野良英
我が歩兵第十七聯隊は明治十九年六月仙台市河内に創設。
同年八月十七日宮中にて軍旗を親授せらる。
明治三十一年九月此処旧久保田城址(千秋公園)と内濠を隔てて相対する風光明媚の地に転英す。
創設依頼日進日露の戦役を始め西比利亜事変満洲事変支那事変大東亜戦争に出征し赫赫たる武勲を樹てたり。
昭和二十年八月十五日終戦の命により軍旗は比島にて奉焼す。
百万県民に親しまれ秋田県児修練演舞の道場たりし四万二千有余坪の地も今や街路四通しビル建ち並び往昔の威容を偲ぶよすがなし。
茲に有志相図り碑を刻して陣没せられたる英霊の偉勲を後世に伝う。
昭和四十一年八月十五日
選文 三浦熊士郎
歩兵第十七聯隊の衛戍地からの移築ですね。
北白川宮殿下御手植松
御慶事之松
明治三十三年五月十日
明治33年5月10日の御慶事は、皇太子(のちの 大正天皇)と公爵九条道孝の三女である九条節子姫(のちの貞明皇后)のご成婚(結婚式)。
忠節・礼儀・武勇・信義・質素
軍人勅諭50周年で植樹した公孫樹の碑
昭和7年
最初に記名された「歩兵大佐・日置勝騂」は秋田連隊区司令官。
平田篤胤先生誕生之地
むかいには、なんと平田篤胤の誕生地。
平田篤胤は国学四大人のひとりにして、復古神道の大成者。
土手谷地街区公園内に。
平田篤胤先生誕生之地
陸軍大将 本郷房太郎 書
平田篤胤生誕の地
平田篤胤は、本居宣長らとともに国学四大人の一人と称される江戸後期の国学者。
安永五年(一七七六)に秋田藩士・大和田祚胤の四男としてこの地に生まれ、幼少の頃から勉学に励み、二十歳で江戸に出て苦学を重ねると、やがて備中(岡山県)松山藩士·平田篤穏の養子となった。
宣長の学風を色濃く受け継ぎながら、江戸や京都で復古神道を確立し、諸国にその名を知られたが、儒教を廃し極端な尊王思想を唱えたことで、幕府の体制を揺るがすとされ、天保十二年(一八四一)に久保田へ帰された。
二年後、中亀ノ丁(南通亀の町)で、病により没するまで、秋田の国学界の発展に寄与した。
篤胤の墓は手形大沢にあり、国指定史跡となっている。
平成二十四年六月一日再設置
秋田市教育委員会
歩兵第十七聯隊之碑(千秋公園)
千秋公園・久保田城址にある歩兵第十七聯隊の記念碑
歩兵第十七聯隊之碑
十七比島会長 尾張三郎 謹書
昭和57年4月29日建立
以下、カタカナをひらがなに置き換えて文字起こし。
歩兵第十七聯隊は明治十九年八月十七日仙台市青葉城址に於て創設され第二師団に属していたが、日清戦争後、弘前市に第八師団司令部が新設されるに及びその隷下部隊として仙台市より秋田市に移駐し、以来終戦まで約五十年の間秋田県の郷土部隊として存在した。
従って聯隊は太平洋戦争の他、遠くは日清日露の両戦役をはじめ、シベリヤ出兵、満洲事変、日華事変にも参加し、それ等の戦役を通じて真摯素朴忍不抜の秋田県民特有の精神を発揮して、輝かしい武勲を樹て隣県部隊と共に国宝師団の名を馳せた。
昭和十二年第八師団が中国旧満洲に移駐するに当り聯隊は同地牡丹江省に於て北満の守護に任ずこと七ヶ年太平洋戦争が愈々苛烈の度を加えるに及び、その決戦場たる比島戦線に投入されたのは昭和十九年八月のことである。
無傷の精鋭部隊として、フィリピン、ルソン島に上陸した当初三千余名を数えた兵員が、極度の劣悪な環境と過酷極まる条件のもとで激烈な死闘を繰り返し、わずか一ヶ年後の終戦時には、生存者九百余命に過ぎなかったことは、この戦闘が如何に苛烈なものであったかを物語るものである。
戦後三十三年を経て昭和五十三年に比島戦の生存者が相集い、比島戦線に於て散華した戦友の遺徳を顕彰するために十七比島会を結成し歩兵第十七聯隊比島戦史の編集に着手することが決議された。
以来三年間に亘り会員の献身的な努力の結果昭和五十六年四月二十九日比島戦史の発刊を見ると同時に生存者の願いであった戦没将兵の慰霊祭を厳粛に執行することが出来た。
同日の決議により今茲に聯隊駐屯の地を眼下に望む千秋公園の一画に記念碑を建立し、聯隊創設より太平洋戦争終末までの事績を収録し比島決戦に於て護國の礎として散華した聯隊長藤重従大佐以下の戦没者並びに生還者の氏名を列記した秋田歩兵第十七聯隊比島戦史壱冊を収納し、祖国平和追求の一布石として永く後世に伝えんことを希うものである。
昭和五十七年四月二十九日
秋田歩兵第十七聯隊比島会 誌之
鎮魂之碑 四月二十九日
霊峰東拝太平山
眼下西望駐屯跡
幾万将兵比島散
英霊鎮魂千秋社
千秋公園・久保田城跡
秋田藩佐竹氏の居城久保田城の本丸・二の丸跡地を整備した公園が「千秋公園」
久保田城表門
佐竹義堯公像
幕末最後の佐竹藩主、出羽久保田藩十二代、佐竹氏第三十代、三十二代。龍角散の開発のきっかけになった殿様。
八幡秋田神社
殉職消防組員招魂碑
受難警察官之碑
大平山
小高い丘(神明山)を活かした平山城。
秋田駅
目いっぱいに散策していたので、時間がなくなってまして。
駅そばで、「秋田のぎばさ」を。
海藻の郷土食ですね。
秋田散策は、いったんこれで〆。
※撮影:2026年3月
