「秋田県」カテゴリーアーカイブ

秋田の郷土部隊「歩兵第十七聯隊」(秋田の戦跡散策・4)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

東京への帰路前に時間があったので、秋田駅周辺を巡ってみました。

秋田の戦跡散策1は、こちらから


歩兵第17聯隊

明治18年(1885)に仙台鎮台の3つめの歩兵聯隊として設置。
明治31年(1898)に、歩兵第17聯隊は、秋田に衛戍地を移し、新設の第8師団所属となった。
明治37年の日露戦争では、当初は予備隊であったが、38年の黒溝台会戦に援軍として参戦、ロシア軍に包囲され、聯隊の半数を失う大きな被害を受ける。次いで第2軍に所属し、奉天会戦に参戦。

第二次世界大戦では、昭和19年(1944)にフィリピン戦線に投入され、歩兵第17聯隊は、フィリピン防衛を担当する第14方面軍下の振武集団・第41軍に所属し、ルソン島の戦いで、全滅寸前で終戦を迎える。
最後の歩兵第17連隊長となった藤重正従陸軍少将は終戦後の9月下旬に投降し戦犯として逮捕。マニラ軍事裁判で住民虐殺の容疑で昭和21年7月17日に絞首刑となっている。


歩兵第十七聯隊趾(中通四丁目)

NTT秋田支局裏手・平田篤胤誕生地碑の向かいに鎮座。
秋田駅前一帯にあった兵営の跡地(中心地)の裏通りに、ひっそりと立てられている。

歩兵第十七聯隊趾
統合幕僚会議議長 陸将 天野良英

我が歩兵第十七聯隊は明治十九年六月仙台市河内に創設。
同年八月十七日宮中にて軍旗を親授せらる。
明治三十一年九月此処旧久保田城址(千秋公園)と内濠を隔てて相対する風光明媚の地に転英す。
創設依頼日進日露の戦役を始め西比利亜事変満洲事変支那事変大東亜戦争に出征し赫赫たる武勲を樹てたり。
昭和二十年八月十五日終戦の命により軍旗は比島にて奉焼す。
百万県民に親しまれ秋田県児修練演舞の道場たりし四万二千有余坪の地も今や街路四通しビル建ち並び往昔の威容を偲ぶよすがなし。
茲に有志相図り碑を刻して陣没せられたる英霊の偉勲を後世に伝う。
 昭和四十一年八月十五日
  選文 三浦熊士郎 

歩兵第十七聯隊の衛戍地からの移築ですね。

北白川宮殿下御手植松

御慶事之松

明治三十三年五月十日

明治33年5月10日の御慶事は、皇太子(のちの 大正天皇)と公爵九条道孝の三女である九条節子姫(のちの貞明皇后)のご成婚(結婚式)。

忠節・礼儀・武勇・信義・質素
軍人勅諭50周年で植樹した公孫樹の碑
昭和7年
最初に記名された「歩兵大佐・日置勝騂」は秋田連隊区司令官。


平田篤胤先生誕生之地

むかいには、なんと平田篤胤の誕生地。
平田篤胤は国学四大人のひとりにして、復古神道の大成者。
土手谷地街区公園内に。

平田篤胤先生誕生之地
陸軍大将 本郷房太郎 書

平田篤胤生誕の地
 平田篤胤は、本居宣長らとともに国学四大人の一人と称される江戸後期の国学者。
 安永五年(一七七六)に秋田藩士・大和田祚胤の四男としてこの地に生まれ、幼少の頃から勉学に励み、二十歳で江戸に出て苦学を重ねると、やがて備中(岡山県)松山藩士·平田篤穏の養子となった。
 宣長の学風を色濃く受け継ぎながら、江戸や京都で復古神道を確立し、諸国にその名を知られたが、儒教を廃し極端な尊王思想を唱えたことで、幕府の体制を揺るがすとされ、天保十二年(一八四一)に久保田へ帰された。
 二年後、中亀ノ丁(南通亀の町)で、病により没するまで、秋田の国学界の発展に寄与した。
 篤胤の墓は手形大沢にあり、国指定史跡となっている。
  平成二十四年六月一日再設置
   秋田市教育委員会


歩兵第十七聯隊之碑(千秋公園)

千秋公園・久保田城址にある歩兵第十七聯隊の記念碑

歩兵第十七聯隊之碑
十七比島会長 尾張三郎 謹書

昭和57年4月29日建立
以下、カタカナをひらがなに置き換えて文字起こし。

歩兵第十七聯隊は明治十九年八月十七日仙台市青葉城址に於て創設され第二師団に属していたが、日清戦争後、弘前市に第八師団司令部が新設されるに及びその隷下部隊として仙台市より秋田市に移駐し、以来終戦まで約五十年の間秋田県の郷土部隊として存在した。
従って聯隊は太平洋戦争の他、遠くは日清日露の両戦役をはじめ、シベリヤ出兵、満洲事変、日華事変にも参加し、それ等の戦役を通じて真摯素朴忍不抜の秋田県民特有の精神を発揮して、輝かしい武勲を樹て隣県部隊と共に国宝師団の名を馳せた。
昭和十二年第八師団が中国旧満洲に移駐するに当り聯隊は同地牡丹江省に於て北満の守護に任ずこと七ヶ年太平洋戦争が愈々苛烈の度を加えるに及び、その決戦場たる比島戦線に投入されたのは昭和十九年八月のことである。
無傷の精鋭部隊として、フィリピン、ルソン島に上陸した当初三千余名を数えた兵員が、極度の劣悪な環境と過酷極まる条件のもとで激烈な死闘を繰り返し、わずか一ヶ年後の終戦時には、生存者九百余命に過ぎなかったことは、この戦闘が如何に苛烈なものであったかを物語るものである。
戦後三十三年を経て昭和五十三年に比島戦の生存者が相集い、比島戦線に於て散華した戦友の遺徳を顕彰するために十七比島会を結成し歩兵第十七聯隊比島戦史の編集に着手することが決議された。
以来三年間に亘り会員の献身的な努力の結果昭和五十六年四月二十九日比島戦史の発刊を見ると同時に生存者の願いであった戦没将兵の慰霊祭を厳粛に執行することが出来た。
同日の決議により今茲に聯隊駐屯の地を眼下に望む千秋公園の一画に記念碑を建立し、聯隊創設より太平洋戦争終末までの事績を収録し比島決戦に於て護國の礎として散華した聯隊長藤重従大佐以下の戦没者並びに生還者の氏名を列記した秋田歩兵第十七聯隊比島戦史壱冊を収納し、祖国平和追求の一布石として永く後世に伝えんことを希うものである。
 昭和五十七年四月二十九日 
  秋田歩兵第十七聯隊比島会 誌之

鎮魂之碑 四月二十九日
霊峰東拝太平山
眼下西望駐屯跡
幾万将兵比島散
英霊鎮魂千秋社


千秋公園・久保田城跡

秋田藩佐竹氏の居城久保田城の本丸・二の丸跡地を整備した公園が「千秋公園」

久保田城表門

佐竹義堯公像
幕末最後の佐竹藩主、出羽久保田藩十二代、佐竹氏第三十代、三十二代。龍角散の開発のきっかけになった殿様。

八幡秋田神社

殉職消防組員招魂碑

受難警察官之碑

大平山

小高い丘(神明山)を活かした平山城。


秋田駅

目いっぱいに散策していたので、時間がなくなってまして。
駅そばで、「秋田のぎばさ」を。
海藻の郷土食ですね。

秋田散策は、いったんこれで〆。

※撮影:2026年3月


日本最大の製油所を狙った「最後の空襲・土崎空襲」(秋田の戦跡散策・3)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

終戦前夜、秋田市の土崎地区が爆撃された。関連戦跡の慰霊巡拝を。

秋田の戦跡散策1はこちらから。


土崎空襲

終戦前夜の昭和20年8月14日午後10時半頃から15日午前3時半頃にかけて、土崎地区は約4時間にわたり激しい空襲を受けた。この空襲は「日本で最後の空襲」のひとつであった。
土崎空襲での攻撃目標は、終戦間際でも無傷のままであった当時日本で最大の産油量をあげていた日本石油秋田製油所であったが、近隣の民家も多大な被害を受けた。

土崎空襲はグアム島を出発したアメリカ軍のB29を中心とした爆撃機約132機が、100kg爆弾を7,360発、50kg爆弾が4,687発の合計1万2047発、953.9トンに及ぶ爆弾を投下。
犠牲者は一般市民92名、軍人50名に、確認できない人を合わせると250名以上を数え、製油所のほか104戸が全焼、及び全半壊した。
秋田県で唯一の大規模空襲でもあった。

ターゲットとなった日本石油秋田製油所は、内地では10番目の大きさであったが、秋田市周辺の油田(八橋油田は国内生産量の70%を占めていた)からの原油産出量は日本本土最大で、その原油を精製し、内地における精製石油の37パーセントを担ってた。さらに、他の製油所とは異なり、輸入原油に依存しないことがわかっていたことから、日本の石油産業におけるもっとも重要な攻撃地の一つであった。

https://thsk-akita-tsuchizaki.amebaownd.com/pages/2963902/page_201906081840

https://tuchizaki.com/kusyu/%E5%9C%9F%E5%B4%8E%E7%A9%BA%E8%A5%B2%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2

https://wararchive.yahoo.co.jp/airraid/detail/14

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tohoku_04.html


平和を祈る乙女の像(港湾公園)

昭和54年建立。土崎港の臨海、ポートタワー・セリオンの近くに鎮座。「土崎空襲犠牲者追悼平和祈念式典」が毎年、この地で実施。

慰霊

鳩を抱えた乙女の像。

 日本が開国以来の大敗戦を喫した昭和二十年八月十五日の前夜半、わが郷土は「日本石油」を中心に米国空軍の猛爆撃を受け、市民、軍人およそ一八四名の犠牲者を出すに至った。
 その後昭和五十年「被爆市民会議」の発足成り爾来各種の慰霊行事を行なって来たが、漸くここに官民一致の協力を得て、其の霊を永遠に慰むべく慰霊塔の建立を見るに至った。
 願わくば諸霊とこしないに安らかに、以て世界の恒久平和と郷土の繁栄を守り給わらんことを。
 昭和五十四年八月十五日
  土崎港被爆市民会議会長 藤田渓山 謹誌

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/akita_akita_city001/index.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city002/index.html

場所

https://maps.app.goo.gl/5bA9CpAFXmb6MYYB6


道の駅あきた港 ポートタワー・セリオン

秋田市ポートタワー・セリオン
高さ143.6メートル
展望台の高さは100メートル。

ENEOS秋田油槽所
終戦直前の「土崎空襲」では、土崎港北大浜地区にあった「日本石油秋田製油所」がターゲットであった。

秋田港(土崎港)は北前船で発達し、そして臨海鉄道が陸と海の結節点として活躍していたが、「秋田臨海鉄道」は2021年に廃線し、そして秋田港駅も2026年7月に廃止となった。

秋田港駅。
明治40年(1907)開業。陸と海の結節点として機能し、秋田港にある製油所や製錬所からの輸送需要多くの貨物列車が通ったが、2026年7月廃止。

場所:

https://maps.app.goo.gl/kD6BWVkjkbSxMG5L9


土崎みなと歴史伝承館

土崎空襲をはじめとした土先の歴史を伝える施設。

https://tuchizaki.com

空襲展示ホールには、旧日本石油秋田製油所の建物(被爆倉庫)の一部(爆撃で溶けた実物のコンクリート)を移設して展示してある。

なんと、、、休館日(おとづれたのが火曜日)

残念すぎる。。。再訪??

場所

https://maps.app.goo.gl/c338R4yiH9aNYry79


祈恒久平和(雄物岸街区公園)

雄物岸街区公園にある慰霊碑

祈恒久平和
 秋田市長
  石川錬治郎

碑の由来
  昭和二十年八月十四日夜半から十五日未明にかけて、B29爆撃機百三十二機による、日本最後の土崎空襲で、上酒田町 新城町・稲荷町・小鴨町・加賀町で三十名の方々が尊い生命を失ないました。
  この碑は、この犠牲者の慰霊と戦争のない恒久平和をきずく誓いとして市民の篤志募金で建立したものです。
 平成四年八月十四日
  土崎港被爆市民会議
  平和祈念碑建立実行委員会
   委員長 佐藤 実 謹書

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city001/index.html

明治天皇行在遺蹟
1881年(明治14年)9月の 明治天皇「山形・秋田・北海道巡幸」のおりに、土崎港に行在所が設けられたことを記念。

場所:

https://maps.app.goo.gl/bfHSscHVKd7GxHd79


慰霊碑つばさ(古川町街区公園)

古川町街区公園に鎮座。
犠牲者の遺体を集めた場所という。

祈恒久平和
 この周辺は、一九四五年八月十四日夜半から、終戦の十五日未明にかけて米軍機B29による日本最後の土崎空襲で犠牲になった百数十人の遺体を鉄道線路上に置かれた痛恨の地である。
 ここに、慰霊と恒久平和の誓いを捧げる。
  一九九一年八月十四日
   建立
    土崎港被爆市民会議
    平和祈念碑建立実行委員会
     文 委員長佐藤実
         吉田金也謹書

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city003/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/jT68umsydWLVz2Np6


祈平和(光沼の祈念碑)

光沼近隣公園の駐車場近くに鎮座。

祈平和
土崎港被爆市民会議

土崎空襲で光沼に沈んだ犠牲者に捧げる

昭和20年8月14日の土崎空襲のとき、当時、燃え盛る日本石油秋田製油所などから逃れてきた多くの市民が、この光沼に飛び込んで熱や火を避けたと伝えられているが、亡くなった人も多数いたという。戦後、再開発によって光沼は段階的に埋め立てが行われ、沼としての姿は消滅している。

場所:

https://maps.app.goo.gl/o9far4p5ymqF5bDfA


慰霊塔
(高射砲台座上に建てられた慰霊塔)

土崎港(日本石油秋田製油所などの重要施設)を守るために配備された高射砲第四八大隊第四中隊の九九式八糎高射砲陣地のあった場所。そして秋田県でただ一つの戦場の跡でもある。

慰霊塔
秋田県知事小畑勇二郎書

この塔を建てた由来
この町内は太平洋戦争の末期の昭和二十年八月十四日から同十五日にかけて連合軍の大型爆撃機延べ二百五十機により約二千発の爆弾を投下され猛爆を受けたのであるがその際当地を警備中の独立高射砲隊(高射砲一箇中隊高射機関銃一箇小隊)および同隊を救援するため駆けつけた郷土部隊は最後まで勇敢に応戦し隊員の大部分が戦死されまた同時に一般市民も多数被爆し尊い命の失われた秋田県でただ一つの戦場であったのである よってこの人々の霊を慰めあわせてこの戦跡を永久に記念し再び戦争の悲劇をくりかえさぬことを誓うため当町内一同の総意によってここにこの塔を建立したのである
 昭和四十年八月十四日
  秋田市土崎港相染字緑町々内会一同

慰霊碑の台座が高射砲台座

場所:

https://maps.app.goo.gl/aQ6jdSMRreWzzvVG8


平和祈念碑
(土崎空襲 犠牲者に捧げる 慰霊平和)

通称、浜ナシ山。旧日石通りの慰霊碑。
日本石油秋田製油所従業員らを慰霊する。

土崎空襲 犠牲者に捧げる
慰霊平和
 祈念碑建立実行委員長 佐藤 実 謹書
  平成七年八月十四日

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/akita_akita_city005/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/Z5rfLQAAdrGxS33RA


雲祥院

土崎空襲で被災した秋田県内で唯一の戦災寺院という。

https://unshouin.com/history

空しゅう被弾地域

場所:

https://maps.app.goo.gl/cxhvDHgh9xN1sdqM7


雲祥院の首無し地蔵

四体のお地蔵さまは、爆撃の破片で首が削ぎ取られ無くなっていた。被爆地蔵。


被爆した墓石(雲祥院)

境内の墓石にも被爆した痕跡が残る。


被爆した宝篋印塔(雲祥院)

秋田県内最古の宝篋印塔とされ、南北朝期の建立という。
上部は土崎空襲での被爆によって破損している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M1022-2
1948年5月16日、米軍撮影の航空写真を加工。
日石秋田製油所と、各慰霊碑の位置関係。

ちなみに、このエリアをすべて歩いて散策しました。
秋田県護國神社を起点に、ポートタワーセリオンを経由し、各慰霊碑を巡って、ゴールの上飯島駅までざっくり3時間でした。(土崎みなと歴史伝承館に寄れていればプラス1時間だったかも)


※撮影:2026年3月


空襲関連

昭和20年8月14日から8月15日にかけて、「最後の空襲」として被害をうけた空襲として「土崎空襲」のほかに「熊谷空襲」「伊勢崎空襲」「小田原空襲」などがある。

秋田港にあった軍艦防波堤の名残(秋田の戦跡散策・2)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

その1では、秋田県護國神社を参拝。

https://senseki-kikou.net/?p=57246

そこから北上して、「ポートタワーセリオン」に到着。


秋田港の軍艦防波堤

第二次世界大戦終戦寺の秋田港(土崎港)は、砂がたまって港としての機能を十分に発揮することができなくなっていた。
堤防を整備する予算も資材もない中で、軍艦を沈めて防波堤を構築することになった。
1948年(昭和23年)6月30日に秋田県秋田港の防波堤として、樅型駆逐艦「竹」、橘型駆逐艦「栃」、海防艦「伊唐」の3隻の船体が「軍艦防波堤」として、沈艦式が行われ、秋田港北防波堤となった。
軍艦防波堤は、砂の堆積を防いで秋田港の復興を支えたが、1975年(昭和50年)、秋田港の外港展開に伴う港拡張工事により、新しく北防波堤を築造することになり、旧来の北防波堤は撤去され、竹、伊唐、栃の船体も撤去された。

東北地方整備局 港湾空港部>

https://www.pa.thr.mlit.go.jp/akita/060/050/030/20200101013000.html

268mの軍艦防波堤
秋田港は、かつては土崎港と称していましたが、1941年(昭和16年)、南秋田郡土崎港町が秋田市と合併したことから、港の名前も秋田港と改称されました。同じ1941年からはじまった太平洋戦争は、秋田港にも大きな爪痕を残します。終戦前日の土崎大空襲(1945年/昭和20年8月14日)により港は大きな被害を受けます。さらに、海底にたまった砂を掘り出す浚渫船2隻が爆撃により沈没したことから、終戦後、港内にたまった砂を浚渫することができません。資材も乏しい戦後の混乱期、廃港の危機に立たされた秋田港は、旧軍艦を沈め防波堤を造るという住民の英知により復興します。1948年(昭和23年)駆逐艦「栃·竹」、海防艦「伊唐」の三隻が沈められ、長さ約268m、高さ6m、幅8mの北防波堤が築堤されました。その後、たびたび補修されながら四半世紀にわたり荒波をさえぎり、1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに取り除かれ、その役目を終えました。軍艦の再利用により復興した秋田港の歴史は、戦争の時代から平和な時代への転換を物語っています。現在は、北防波堤の付け根部分の長さ30mに面影が残っています。

海防艦「伊唐」
駆逐艦「栃」
駆逐艦「竹」(初代)

駆逐艦「竹」
樅型駆逐艦の6番艦。1919年(大正8年)竣工。
1940年除籍され、舞鶴海兵団の練習船となった。
1944年に海軍機関学校付属練習船となり終戦。

海防艦「伊唐」
鵜来型海防艦の10番艦。1945年4月竣工。
終戦直前の7月31日に海上護衛総司令部第一護衛艦隊第一海防隊として、七尾港で輸送船団護衛を実施のさなか、触雷し大破。七尾港埠頭に係留され終戦を迎えた。

駆逐艦「栃」
戦時量産型の松型駆逐艦(改松型)。「栃」は未成艦であった。
1945年5月工事中止。「栃」の船体は船台を開けるために進水しており、船体は軍艦防波堤として活用された。

このあたりに、軍艦防波堤があった。
前述の説明に「現在は、北防波堤の付け根部分の長さ30mに面影が残っています。」とあったが、どうなのかな。


航空写真から

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス

1948年(昭和23年)に軍艦防波堤が完成。

ファイル:MTO628-C28-12
1962年10月18日

ファイル:MTO722X-C3-2
1972年05月28日

1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに軍艦防波堤は撤去。

ファイル:TO791-C8-3
1979年06月15日


ポートタワー・セリオン

ポートタワー・セリオンから、四方を展望。

南側

海保
PS20しんざん

北側
秋田港駅
2026年7月で廃止となっている。(撮影は26年3月)

ENEOS秋田油槽所
終戦直前の「土崎空襲」では、土崎港北大浜地区の日本石油秋田製油所がターゲットであった。

秋田市ポートタワー・セリオン
高さ143.6メートル
展望台の高さは100メートル。


うどんそば自販機

おお、そういえば、ここでしたね。
うどんそば自販機があるって聞いたことあります。

かきあげうどん

へー、学校給食で使われている麺なのか。

※撮影:2026年3月

その3では、「土崎空襲」関連を散策します。


軍艦防波堤

秋田縣護國神社と秋田城跡(秋田の戦跡散策・1)

2026年3月、秋田に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策としては、じつは秋田初上陸。まずは、秋田県護國神社へ参拝。


秋田縣護國神社(秋田県護國神社)

明治2年(1869年)、秋田藩主佐竹義堯が戊辰戦争に殉じた官軍戦没者425柱を高清水丘に「招魂社」として祀ったのが起源。
明治26年(1893年)に焼失。
明治32年(1899年)、秋田市千秋公園(久保田城址)に再建。
秋田県出身の軍人・軍属を合祀して官祭秋田招魂社と称した。
昭和14年(1939年)、内務大臣指定護国神社として秋田県護國神社に改称し、翌年、旧秋田城址である現在地に遷座した。
第二次大戦後の一時期、「軍国主義施設」として廃止されるのを防ぐ目的で、鎮座地名に因んで「高清水宮」と称し、伊弉諾尊・伊弉冉尊を合祀した。

戦後は県に関係した軍人、軍属の霊を合祀。
護国の神霊の御祭神は37,841柱。

平成2年(1990年)7月9日、中核派のテロにより当社社殿にしかけられた2つの時限爆弾が爆発し、社殿は全焼した。
しかし、本殿内に安置されていた神体および霊璽簿は無傷であった。
社殿は平成4年9月に再建。

昭和15年11月建立の社号標
佐竹義春(佐竹家宗家34代)の謹書

広々とした参道

そして、開放感あふれる境内

神門

この御門は伊勢神宮第61回御遷宮に当り「豊受大神宮端垣南門御扉他一部」を拝受し終戦五十周年記念事業として造営しました。
この神門をくぐり参拝される方々の更なる「いのち」の若返りと「生成発展」「平安」を心から祈念致します。

御拝殿

みたまやすらかに


御朱印(秋田縣護國神社)


天皇陛下皇后陛下御親拝記念碑

昭和四十四年八月二十六日
天皇 皇后両陛下 秋田県に
行幸啓の御砌り御拝をを賜う
仍て永く其の栄を伝えんとし
御在位六十年の慶祝を迎える
に当り篤志者のまことを募り
之を建つ
 昭和六十年十一月吉日
  宮司謹記


国歌、君が代さざれ石の由来


殉国秋田県人之碑

秋田県人戦没者の慰霊顕彰
平成七年建立

殉国秋田県人之碑
明治天皇御製
 かぎりなき 世にのこさむと 国の為 
  たふれし人の 名をぞとどむる
昭和天皇御製
 国のため 命をささげし 人びとの 
  ことを思えば 胸せまりくる

独立歩兵第八十四大隊戦友会の献納。
独立歩兵第八十四大隊の通称号は勝第四二一四部隊、第69師団の傘下部隊として中国方面等で活動


慰霊と平和を祈念する「リレー(relay)の火」

戦没者の慰霊顕彰と平和を祈念する灯火


真之御柱


建国記念の日碑


明治天皇御休憩所碑

1881年(明治14年)9月の 明治天皇「山形・秋田・北海道巡幸」にて、9月16日に秋田招魂社を参拝した際の休憩所を記念。


大正天皇御休憩所碑

明治41年9月21日に、当時皇太子であった 大正天皇が、秋田招魂社を参拝っした際の休憩所を記念。


高清水公園

戸崎清蔵翁顕彰碑

五輪塔

高清水公園 展望台
ポートタワーセリオンが見えますね。
このあとはそこまで行く予定。

伊藤永之介歌碑


満蒙開拓青少年義勇軍慰霊碑

秋田県出身の満蒙開拓青少年義勇軍の戦没者の慰霊顕彰碑
(左の碑)
昭和五十三年八月十五日建之

ぼくは満州へ行きます   
ぼくは大陸の土となります
かって国策の名のもとに 
鍬の柄肩に海を渡っていった 
私達少年です
その数八万六千五百三十名 
私達はひたすら五族協和王道楽土建設に
その青春を燃やした
敗戦・・・
戦争という極限の中で 
私達仲間の多くが 
大陸の土と化した
三十三年の歳月が流れた
彼等の前には一枝の花もない
私達の名は 
満蒙開拓青少年義勇軍

鎮魂歌
一 
秋田の郷を あとにして 五族協和の 国作り 
鍬の戦士の 千五百 我ら満蒙 義勇軍
二 
広漠千里 満州の 花の広野 肥沃にて 
男の子勇みて 犁をとる 我ら青年 義勇隊
三 
運命は哀し 大戦に 祖国敗れて 犠牲の 
満州の国原 風寒く 四百の霊の 還らざる
四 
国破るれど 山河あり 護国の岡の 君の碑 
北の国にも 春が来て 桜花は薫る 春爛漫
 碑前祭 例祭 五月第一日曜 
  昭和六十二年建碑十周年記念

われらは若き義勇軍
一 
われらは若き 義勇軍 
祖国のためぞ 鍬とりて 
万里涯なき 野に立たむ
いま開拓の 意気高し 
 いま開拓の 意気高し

われらは若き 義勇軍 
祖先の気魄 享けつぎて 
勇躍風に さきがけむ
打ち振る腕に 響きあり 
 打ち振る腕に 響きあり

細野三千雄君之碑


忠魂碑

戊辰戦争から日清日露戦争等における戦没者慰霊顕彰碑
大正七年五月建立
元帥海軍大将伯爵 東郷平八郎 謹書


秋田城跡

秋田県護國神社は、秋田城址のなかにある。
秋田城跡史跡公園と高清水公園と秋田県護國神社があるという感じかな。

秋田城は、古代の律令政権での城柵であり、中世の城跡ではないので、ちょっと紛らわしい。秋田県の佐竹藩(秋田藩)の城跡は久保田城、となる。

さて、ポートタワー方面に向けて北上します。

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※撮影:2026年3月