「滋賀県」カテゴリーアーカイブ

「守山空襲」機銃掃射弾痕が残る六地蔵(滋賀県守山市)

太平洋戦争末期の昭和20年7月30日。
米軍の艦載機が守山駅(滋賀県守山市)で列車などを機銃掃射した「守山空襲」。
往時の惨劇を伝える六地蔵が残されている。


守山空襲

昭和20(1945)年7月30日、大津の滋賀海軍航空隊を空襲した空母ハンコックの艦載機であるF4Fワイルドキャット4機が、午後4時頃、守山付近に来襲。
守山駅発車直後の列車や守山駅周辺に対し機銃掃射を浴びせた。
日本側では被害に関する正確な記録がなく、犠牲者・負傷者数は記録のばらつきがあるが、死者11名、多数の負傷者、といわれている。

語り継ぐ、残された傷跡
守山空襲

昭和20年(1945年)7月30日午後4時頃
 守山は、米軍空母ハンコックから発進したグラマン4機によって空襲を受けました。守山駅を発射する列車を狙った機銃掃射によって、列車の乗客や駅周辺の人々が犠牲となりました。その数は、確認されているだけで死者11名、負傷者22名。県下の空襲被害としては、大津市の東洋レーヨンに落とされた模擬原爆に次ぐものでした。


守山空襲の弾痕が残る地蔵(吉身町墓地の六地蔵)

吉身町墓地(守山市吉身六)に、守山空襲の機銃掃射の弾痕が残る地蔵が残されている。

守山空襲の弾痕が残る地蔵
「地蔵さん、痛かったやろな。怖かったやろな。新しい地蔵さんに変えたらよいのやけど、この傷跡を後世に残し、戦争のむごさを伝えたいのや。ごめんね。」
 管理人

六地蔵は、覆屋のもとで、大切に保全されていた。

1体目

2体目

3体目

4体目

5体目

6体目

六地蔵は、いずれも機銃掃射を受け、6体とも頭部が欠けていた。

昭和6年10月4日
六体地蔵菩薩

守山空襲の弾痕が残る地蔵

わかりやすい看板が墓地の入口にあった。

守山駅。現在の駅は二代目(昭和48年1973改築)

駅前にあった「少年赤十字団発祥の地」
滋賀県の守山市立守山小学校の前身、守山尋常高等小学校は1922(大正11)年、全国に先駆けて青少年赤十字団(JRC)を結成し、赤十字の人道・博愛の精神でボランティア活動を実践する活動の輪がこの日から全国へ広がったという。

場所

https://maps.app.goo.gl/zhVY19VZy98VJJak7

撮影:2024年6月


関連(機銃掃射)

はじめに

岩脇蒸気機関車退避壕・岩脇山列車壕(米原)

鉄道の町「米原」は、滋賀県唯一の新幹線停車駅であり、東海道と北陸道の分岐点でもある。
そんな「米原」に戦争に関連する戦跡が残っているというので、足を運んでみた。


岩脇蒸気機関車退避壕

※岩脇は「いをぎ(いおぎ)」と読む。

太平洋戦争中、米原駅が空襲の対象になることが予想され、機関区の転車台が破壊された時に備えた機関車の方向転換ができる三角線が設置され、列車を空襲から守るための列車壕(蒸気機関車避難壕)も運輸省鉄道総局によって秘密裏に工事着工された。
東側のトンネル(長さ130m)は貫通したが、西側のトンネルは中央部を残して非貫通。上下二段工法で掘られたが穴の大きさも機関車を入れるには不十分な大きさで、線路も敷設できないまま、蒸気機関車避難壕は完成せずに終戦となり工事は中断された。

蒸気機関車退避壕
 ここに存在する二つの洞窟(左側は奥行52m止め、右側は130mで貫通)は、太平洋戦争末期に日本の輸送の大動脈である東海道線及び北陸線の列車を引っ張る蒸気機関車を連合軍の空爆から守るために掘られた防空壕です。
この岩脇山は岩盤が固く、その上当時は物量が乏しく、火薬、スコップ、ツルハシ、トロッコなどの手作業のため難工事であったことがうかがえます。
 しかしながら完成することなく終戦となったが、作業に従事した人達の汗と涙の結晶である防空壕跡が、長い間ごみ捨て場として放置されたままになっていました。
 そこで「岩脇まちづくり委員会」では戦争の悲劇を風化させないために戦争の遺跡として保存するため平成20年10月から平成21年8月にかけて整備したものです。
 平成21年8月
  岩脇まちつくり委員会

戦争が残した2つの洞穴

貫通した退避壕(南側)

立入禁止とあるので、入口までで。

望遠で覗いてみる。

非貫通の退避壕(南側)

こちらは未貫通の退避壕。
柵がないので、中に入れる。
外の熱気と中の冷気で、白く温度の壁ができる。

東海道線がみえる。

非貫通の退避壕(北側)

柵の隙間から。

貫通の退避壕(北側)

同じく柵の隙間から。貫通している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R586-5
昭和22年(1947年)11月21日、米軍撮影の航空写真。

岩脇山周辺を拡大。
東海道本線と北陸本線が二股で分かれるポイントでデルタ線が形成されており、退避壕まで線路が造成されていることがわかる。
退避壕のある岩脇山は南北に路盤が貫通して造成が進んでいることもわかる。
未完成の待避線アクセス線路は、のちに東海道本線上り線に流用される。


資料館

まちづくりの一環で作られた資料館。手作り感あふれるこぢんまりとした資料館だが、なかなかに情報量もあって、良い感じに見学できました。

地元の皆様の保存活動が行き届いた戦跡。佳き環境。

熊が迎えてくれました。

出土品
1 爆破する際に火薬の挿入に用いたと思われる
2 大形のかすがい?

岩脇山周辺案内図。
南北が逆になっている地図は位置関係を見失うので勘弁してほしい。

岩屋善光堂
推古天皇時代、本多善光が三尊の仏像を長野にお連れする途中にこの地で休憩し、そのときみた神の夢のお告げにより仏像の分身像を安置。以来、信州長野善光寺の分身として崇拝。

岩脇稲荷神社
創建年代は不詳。第92代天皇の伏見天皇が即位していた正応4年(1291年)の記録が残されている事からそれ以前から鎮座の神社と推定。

退避壕のある岩脇山。

現在の東海道本線上り線。
応じは退避壕までのアクセス路として造成中で終戦を迎えている。

場所

https://maps.app.goo.gl/diYq7d5XTcZrqnJg7

撮影:2024年6月


滋賀縣護國神社

「滋賀縣護國神社」に立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。


滋賀縣護國神社

明治戊辰の役以来、西南の役、日清戦争、日露戦争から大東亜戦争に至る幾多の戦役、国事・国難に殉じられた滋賀県出身の英霊3万4750柱をお祀りする。

明治2年9月、彦根藩は戊辰戦争の戦死者をとむらうため、古沢村(現・古沢町)の地に招魂碑を建立。
明治8年には内務省の発令と旧彦根藩主・井伊直憲公の発議により、旧彦根藩士と協議の上で現在の地に招魂社を造営する。
明治9年5月に竣工され、戊辰戦争の御英霊26柱が祀られた。
昭和14年(1939)4月に内務省の告示により、全国の招魂社が護国神社と改名され、滋賀県の招魂社も「滋賀縣護國神社」となった。
昭和20年8月15日に敗戦を迎え、占領軍の干渉により、滋賀縣護國神社は沙々那美(さざなみ)神社と改名。その後、サンフランシスコ講和条約の締結で主権を回復し、同28年10月に再び社名を滋賀縣護國神社に戻された。


滋賀縣護國神社 社頭

滋賀縣護國神社

陸軍大将鈴木孝雄謹書

鳥居

狛犬


滋賀縣護國神社 御社殿

拝礼

ありがとうございます

近江を制する者は天下を制す

彦根藩第17代最後の藩主である井伊直憲公の具足「紅緘二枚胴具足」を保有している。(彦根城博物館に保管)
井伊家の赤備え

御朱印

滋賀縣護國神社の御朱印

浦安の舞 の 御製 
昭和天皇(昭和8年歌会始)
天地の 神にぞ祈る 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を

限定御朱印は際限がないので、基本の御朱印をいただきました。

ありがとうございます。


境内の慰霊碑を巡拝する

第二十号掃海艇 慰霊碑

第二十号掃海艇 
慰霊碑

第二十号掃海艇戰闘詳報
第二十号掃海艇は昭和二十年五月二日海防艦男鹿が門司港から上海に向かう途中敵潜水艦の魚雷攻撃をうけ沈没した情報に接し同艦の遭難者を救助するため翌三日五時十五分朝鮮木浦港を出発、男鹿の沈没地点である黄海南部に向け航行中同月五日二十時に通信連絡を行った後同艇は消息不明となりその遭難地点は北緯三三度五六分東経一二二度四九分附近と認定せらる。
同艇乗組員艇長海軍中佐田中三蔵以下一七五名壮烈なる戦死を遂ぐ。
 滋賀縣護國神社宮司
  山本浅次郎

碑の裏に順不同として刻されている府県別戦没者氏名の柱数は以下。
滋賀県16柱、京都府28柱、兵庫県1柱、福井県12柱、石川県15柱、富山県20柱
新潟県50柱、山形県32柱、秋田県1柱。


滋賀県近衛歩兵第一聯隊会 灯籠


慰霊

日露戦争従軍記念の碑

慰霊 散りてこそ誉れあるなりやま桜 正雄

戦場の四季 和歌4句


石部隊独立歩兵第十一大隊 
北支沖縄戦没勇士慰霊碑

石部隊独立歩兵第十一大隊 
北支沖縄戦没勇士慰霊碑

昭和13年2月10日 部隊編成於北支天津
同20年6月20日 沖縄南部に於て玉砕
昭和45年3月 昔陽會 建之

部隊は昭和13年2月北支天津に於て編成され、北支山西省昔陽県に駐屯し、山西河南河北の各省に亘り大行山系の各作戦また中原会戦等に参加、赫々たる戦果を挙げ太平洋戦争となるや部隊は昭和19年沖縄に転戦
米軍上陸と共にこれを迎え撃ち激戦の末部隊は突撃を敢行し全員玉砕す
茲に部隊の在籍生存者が相集り今は亡き戦友の霊に対して心からその栄誉を賞え偉功を永久に伝えるため慰霊碑を建立したものであります
この碑の下には沖縄激戦地の石を持帰り奉祀してあります
 独立歩兵第11大隊
  昔陽会


平和の礎 シベリア強制抑留者慰霊碑

シベリア強制抑留者の慰霊碑。
平成12年11月建立。

平和の礎
シベリア強制抑留者慰霊碑
 滋賀県知事 國松善次

碑文
悲惨な第二次世界大戦は、日本のポツダム宣言受諾により、昭和二十年八月十五日を以って終結した。
然るに旧ソ連は、協定を守る事なく六十余万人の日本将兵を酷寒のシベリア各地に連行抑留し長期に及ぶ過酷な重労働を強制した。飢えと寒さと生地獄の中、祖国日本への帰還の願い空しく、本県出身者四百余名は、遂に力尽きて無念の死を遂げた。
誠に痛恨の極みである。辛酸に耐え生還した私たちはこのことに深く想いを致すと共にその事実を後世に正しく伝え、且つ抑留死没者の冥福と恒久の平和を祈念し、財団法人全国強制抑留者協会の助成並びに会員、遺族等の賛助を得て、ここにこの碑を建立する。
 平成十二年十一月吉日  
 滋賀県シベリア抑留者慰霊碑建立委員会


戦歿軍馬軍犬軍鳩靈之碑

戦歿した軍馬・軍犬・軍鳩の霊を、戦士と共に末長く慰霊顕彰するため彦根・長浜地区の旧軍人等有志が「戦歿軍馬軍犬軍鳩慰霊塔建設委員会」を組織し県下一円に篤志を募って建立。
御影石製台座の上に馬1頭、犬1匹、鳩2羽の像が据えられている。

昭和61年10月1日建立。

戦歿軍馬軍犬軍鳩靈之碑

戦歿軍馬軍犬軍鳩を慰む
昭和二十年の終戦を迎えるまで幾多の戦役に従い傷病に斃れあるひは海没となり草むす屍水漬く屍となり一頭も故国に帰らずして終る軍馬犬鳩幾十百万とも数知れず。
祖国の護りのため英霊と運命を共にした無言の軍馬犬鳩の尊い犠牲をしのび永くその功をたたえると共にその霊を慰むる一端として有志の主唱により県内は勿論全国から五阡余名の方々の浄財を得ここ彦根市尾末町一番地滋賀県護国神社内に慰霊銅像を建立し安らかな眠りと永遠の平和を希う。
 昭和六十一年十月一日


祈 平和之碑

昭和57年5月吉日建立。

祈 
平和之碑
彦根傷痍軍人会

御製
国もると 身をきすつけし ひとびとの 
うへをしおもふ あさにゆうへに
 滋賀縣護國神社宮司 山本浅次郎 謹書

広島長崎の原爆を忘れず
人類の破滅を招く戦争を
二度とおこすことなく
世界の平和を守ろう
 滋賀縣護國神社宮司 山本浅次郎 謹書


拓魂碑

昭和47年12月建立。滋賀県知事 野崎欣一郎 謹書

昭和7年からの満蒙開拓事業に参加した滋賀県送出の44個団隊1800余名の開拓者のうち、青少年義勇隊員も含む物故者約400余名の諸霊の慰霊顕彰のため、滋賀県拓魂碑建立委員会が建立。

顧みるに満蒙開拓事業は昭和七年より二十ヵ年百万戸移住計画に基づき民族協和の理想現実と日本民族の発展とを目ざした当時の国策であった。
この要請にこたえて本県送出の四十四個団隊千八百余名の開拓者たちは、現地の苛烈な気候風土を克服しあらゆる困苦欠乏に耐えながら営々と未墾の沃野を拓き着々その成果を挙げつつあった。
然るに、昭和二十年八月、終戦によってその雄図は挫折したのみならず、異境で遭難した開拓者の末路はあまりにも悲惨であった。
戦火に追われて混乱する治安のなかで一家は離散し母子相擁して命を絶つ者、逃避放浪の末生死不明の者、ひたすら帰国を夢みつつも遂に飢餓と病魔に斃れた者四百名を数え、この渦中に可憐な十四・五歳の青少年義勇隊員の多くもあたら青春を犠牲にしたのである。
爾来二十幾星霜辛うじて生還した拓友をはじめ同志相計り多くの賛同を得て、此の地に拓魂碑を建立するに至った。
悲運の肉親同胞を偲び、諸霊の冥福を祈願するとともに、われわれもまたこの碑に集い、祖国永遠の平和と弥栄を翼うものである。
 昭和四十七年十二月九日  
 滋賀県満蒙開拓物故者 
 慰霊碑建立委員会


拓友碑

昭和44年9月建立。満蒙開拓の慰霊碑。

顧ミルニ昭和七年カラ十九年ニカケテ我国ハ満蒙ノ開拓ヲ国策トシテ日本各県カラ大陸移民ヲ奨メ又満洲各地ニ満洲青年義勇隊訓練所ヲ設ケテ北満ノ守リヲ兼ネ開拓部落建設ニ当ラシメ三年ヲ勉学教練農事ノ訓練期間トシテ十五、六歳ノ青少年ヲ全国各県カラ続々其訓練所ニ入所セシメタ
昭和十八年三重滋賀両県カラ集マッタ青少年二百三名ハ滋賀県甲西町針出身ノ北島光三ヲ隊長トシテ大志ヲ抱イテ元満洲国北安省対店義勇隊ニ入所シタ
爾来三年炎熱ノ大平原二千里果ナイ銀世界ニ理想実現ヲ目サシテ青春ノ情熱ヲ傾ケタノデアッタガ太平洋戦争ハ敗北シ其雄図ハ空シク挫折シタ昭和二十年九月満洲ニ進駐シタソ聨軍ノ命ニヨッテ北安捕虜収容所ニ収容の憂目ヲミタ
厳寒ノ冬来ル頃出所ヲ見タモノノ乏シイ糧ヲ分ケ合ヒ幾十日カヲ過シタ収容生活ニ体力ノ消耗甚シク其上アラユル強制労役ニ服スル事一年有余加エテ混乱スル治安ハ言語ニ絶シ五十一名ノ若イ命ガ赤イ夕日ノ荒野ニ悲シク露ト消エタ
此碑ハ只管帰郷ノ夢ヲ見ツツ今尚寂シク異国ノ土ニ眠ル友ト且又漸クニシテ故国ノ土ヲ踏ンダガ幸薄クシテ早ク逝ッタ友ノ霊ヲ慰メル為ニ此地ニ昭和四十四年九月建立シタ墓石ト礎石ハ隊員数二百三個ノ郷土ノ石ヲ我等ガ持寄ッタモノデアル毎年秋生存者一同ガ墓前ニ集マリ永眠スル拓友ノ冥福ヲ祈ルモノデアル
 昭和四十八年九月
 元満洲国北安省対店青年義勇隊北島中隊
 三滋北義會


花塚

平成4年4月建立

花に感謝
平成元年花塚建立、平成23年花塚改修


宮田思洋句碑

昭和52年春建立。
宮田常蔵(思洋)氏は、能楽シテ方観世流師範・俳人・郷土史研究家。弟子によって建立。

お天守の 窓に野山の錦かな


父の像

昭和44年8月建立。滋賀県遺族会。

平和を願う
戦争で幾百万という兵士が死んだ
兵士には父や母があり妻と子がいた
その子供達は父のいない家庭に育ち
父がほしいと何度か思って大人になった
そして自分達で父の像をつくった
異国で散った兵士も遺された家族も
 願いは一つ平和であった

父の像に捧ぐ 詞 我孫子元治
おとうさん
あなたに抱かれたことのない子が
あなたの遺骨を抱いたとき

おとうさん
あなたの無言の帰還を迎えて
あなたのきびしい声を聞いた

おとうさん
あなたの遺志を継いだ子が
あなたの霊に改めて誓う

おとうさん
あなたの抱き続けた平和への祈りを
あなたの子として祈り続ける   

 滋賀県遺族会青壮年部


母の像

平成19年9月建立。

 祖国の危機に際し、多くの若者が戦場に赴いた。そして幾百万人もが戦禍に散った。
 残された家族は、深い悲しみに耐えながらも敗戦の中で様々な困難と闘い、家族を守り、国の復興に努めた。とりわけ兵士の妻たちは、夫の無言の帰還の日から悲しみや孤独に耐え、唯一子供の成長を頼りに母として必死に生きた。
 子供たちも、その母と父を誇りに、二度と戦争のない世界を目指し、遺族として各種の活動を展開した。
滋賀県遺族会は創立六十周年を記念し、ここに平和への願いをこめて「母の像」を建立する。
 平成十九年 九月 吉日
 財団法人 滋賀県遺族会
      会長 山田利治


天皇陛下皇后陛下御親拝記念碑

天皇陛下皇后陛下御親拝記念碑

昭和50年5月28日建立。

昭和50年5月28日天皇・皇后両陛下には、第26回全国植樹祭ご臨席のため、滋賀県に行幸啓あらせられ、滋賀縣護國神社にご親拝を賜ったのを記念。


滋賀県英霊顕彰館

御英霊のお写真を掲揚

滋賀縣護國神社サイト

https://www.shigagokoku.jp/


彦根城

時間がなかったので、彦根城は寄らずに遠巻きに、見ただけでした。。。

※撮影:2023年6月


関連

ちなみに仕事の移動の関係で、同日で滋賀県と兵庫県姫路の護國神社を参拝しました。。。

護國神社関連

はじめに