千葉県印西市。
北総鉄道北総線「印西牧の原駅」。
正直言って乗る機会がなく、行く機会のない場所。なんせ北総線は運賃が高いので、用事がない限りは乗ることもなかった。そのため、印西市に「無蓋掩体壕」があるとは聞いていたが、それだけのために行く気がいまいち起きなかった。
先日、偶然で奇跡的な出会いをした「日本戦跡協会の代表様」から「印西の無蓋掩体壕を見てこようと思っている」という話を聞き、せっかくなので同行させていただくことにした。
そして、無蓋掩体壕と周辺探索を行い、記事をまとめるために、事後調査をしていたら、なにやら他にも見どころがあることが判明。このままでは、半端な記事になってしまう。
そういえば、日本戦跡協会さんと「同じところに何度も行くことってあるよね、、、調査漏れとかで」など話していた矢先、どうやら早速に、再訪しないと行けない感じ。
そんなわけで、本記事は、1回目を日本戦跡協会様との共同探索、2回目を再訪しての単独再調査ということで、まとめさせていただきました。
1回目は2022年1月上旬の晴天写真、2回目は1月下旬の曇天写真、です。
本記事の一部は、日本戦跡協会様との共同探索となります。
日本戦跡協会サイト
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目次
逓信省印旛地方航空機乗員養成所
印旛陸軍飛行場
(印旛飛行場・深草飛行場)
深草とかいて「そうふけ」と読む。草深野(惣深野)。文字通りに草深く茂っている土地であった。
印旛飛行場は舗装をしていない滑走路で、なおかつパイロット養成のための飛行場であった。そのためにもともとの格納庫が少なく、陸軍が使用するようになった際に多くの無蓋掩体壕が造られたという。1982年調査段階では36基が確認されている。
昭和13年、逓信省印旛地方航空機乗員養成所が創設。
昭和17年6月、印旛飛行場が完成。
昭和18年10月、陸軍によって拡張工事が開始。
昭和19年10月、帝都防衛のため、陸軍飛行第二十三戦隊(天翔第19026)が配備。
第十飛行師団の指揮下にあって関東地区防衛任務に従事した陸軍飛行第二十三戦隊は、一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗」を保有していた。ただ、この時期は既に「隼」はB-29爆撃機を邀撃するには無力すぎる戦闘機であった。
陸軍飛行第二十三戦隊は、帝都防空に奮戦。昭和20年2月16~17日の米艦載機群による関東空襲に邀撃し、藤田重郎少佐(陸軍飛行第二十三戦隊 初代戦隊長)以下、多くの搭乗員が戦死。このときは、印旛・柏・松戸・成増・調布・水戸などの多くの陸軍飛行場から戦闘機が迎撃しており、そして多くの戦死者を出している。
位置関係
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-R377-No1-144
昭和22年(1947年)10月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。
飛行場部分を拡大。既に農地開墾が始まっている。
現在の様子に、飛行場用地を落とし込みしてみた。
西の原公園にあった地図。これで位置関係が把握できる。
印西牧の原駅
印西牧の原駅の南西に、当時は飛行場が広がっていた。
現在、線路部分は掘り下げられているが、もちろん当時は、平地であった。
滑走路は、印西牧の原駅の南北にも広がっていた。
南側の駅前に、アパホテル。上の階に泊まれば、往時の飛行場界隈を見渡すことも出来るだろ。ただ。泊まる用事が思い浮かばないが。
観覧車が見える。BIG HOP(ビッグホップ)ガーデンモール印西。
このあたりも飛行場エリア。
西の原公園に、記念碑がある。
印旛飛行場跡地記念碑
平和の碑
逓信省印旛地方航空機乗員養成所跡
陸軍飛行第二十三戦隊印旛飛行場跡
通称 草深飛行場跡
草深野のあゆみ
往古、印旛沼の畔に谷津を抱きし原野あり、草深野と名づく。そが谷津に開墾の鍬が入れられしは凡そ三百三十年前のことにて、開墾に従事せし先人よく過酷なる労働に耐え、豊穣の地となせり。惣深新田と称す。里人、早春には野に出て山菜を摘み、風の音に秋来たりなば、金波を漂わす水田に入りて鎌を振るう。四季は移ろい、凛たる寒気に包まれし野に雄鹿の声渡り大晦となりぬ。時は緩やかに流れ連綿として代を重ねたり。そが草深野に激動の時代を予感させし槌音響きたるは昭和十三年のことにて、逓信省印旛地方航空機乗員養成所の創設行わる。大志を抱きたる若人集い訓練に励む。しかるに軍靴の響き日増しに高く、昭和十八年十月、拡張工事に着手。翌十九年十月、帝都防衛の任に当たるべく陸軍飛行第二十三戦隊配備され、熾烈なる空中戦に挑みたる。雄々しき丈夫、勇躍銀翼を煌めかせ飛翔せしが帰還せざる者また多し。昭和二十年八月、幾多の尊き人命を奪いし第二次世界大戦終結せし後、飛行場跡地に開拓団入植し開墾に取り組みたる。その辛苦筆舌に尽くしがたし。されど不屈の闘志と団結力により、耕地は徐々に拡大し草深野は肥沃の地となりぬ。昭和三十年代後半に至り、国家政策として大都市周辺部に大規模なる新住宅地の造成が進められ、その一環として千葉北部地区宅地開発事業、即ち、「千葉ニュータウン事業構想」が発表されしは、昭和四十一年のことなり。爾来三十有余年、草深野は活気に漲り笑顔溢るる市街地へと変貌しつつあり。
今般、印旛(草深)飛行場跡に有志の発意をもちて、多感なる往時に思いを馳せ、かつ恒久の平和を祈念せんと平和の碑を建立するにあたり、草深野の変遷をここに刻み後世に伝うるものなり。
平成十五年十月吉日
印旛市長 海老原栄選文
印旛飛行場跡地記念碑建設委員会
説明板もある。
印旛地方航空機乗員養成所
陸軍飛行第23戦隊
印旛飛行場
印旛地方航空機乗員養成所
陸軍飛行第23戦隊
印旛飛行場
昭和17年(1942年)、この地域(現在の印西市原、西の原及び草深周辺)に印旛地方航空機乗員養成所として飛行場が設置されました。このような航空機乗員養成所は、全国で15ヶ所ほど設けられた施設で、旧逓信省航空局により、民間の航空機乗員養成所として計画されたものです。
昭和19年、太平洋戦争の戦況悪化によって拡張され、旧陸軍航空基地と兼用となり、首都防衛のため陸軍飛行第23戦隊が配備されました。
部隊は、首都上空の迎撃のほか、硫黄島や北九州などに派遣され、隊員の一部は特別攻撃隊として出撃しました。終戦時には、50機ほどの機体が配備されていたといわれています。
飛行場には、約2,000mの滑走路3本に加え、格納庫や飛行指揮所、射撃場などの付属施設、空襲時に飛行機を隠す掩体壕や誘導路などが整備されていました。
戦後は、入植者による開拓が行われ、その大半が農地となりましたが、施設の一部は開拓事務所や鉄道教習所となり、その後、昭和24年から昭和60年までは、印旛少年院として利用されました。
現在では、千葉ニュータウン事業などによる開発に伴い、当時の面影を残すものはほとんど残されていませんが、掩体壕や敷地内に植えられていた椎の木などが、往時の姿を今に伝えています。掩体壕は、現在1基が保存され、見学することができます。
また、傍らにある「平和の碑」は、この飛行場の存在を後世に語り継ぐとともに、恒久の平和を祈念して、関係者や地元有志の尽力により、平成15年に設置されたものです。
参考文献
・印養誌出版委員会1977『わが青春―印旛航空機乗員養成所』
・山本忠良1979『草深野開拓』
・飛行第二十三戦隊印旛会編1987『飛行第二十三戦隊想い出の記:帝都防衛』
・印西町石造物調査会1987「消えゆく掩体壕」『印西町の歴史』第三号
・小林実ほか編1997『印旛の空:長浜清・陸軍特別攻撃隊員の記録と印旛航空機乗員養成所五期生の回想』
場所
椎の木(西の原南街区公園)
本部や講堂などの主要施設がおかれていたエリア。再開発で区画としても往時を思い起こすことが難しい中、敷地内に植えられていた「椎の木」が往時の姿を伝えているという。
印旛航空機乗員養成所本部跡にあたる。
場所
位置関係
※前述の航空写真より( ファイル: USA-R377-No1-144 )
道路も区画も全く異なっているために、位置関係の照合が難しい。
何も噛み合わない。。。
往時のロータリーの中央が、もしかしたら「椎の木」なのだろうか。
無蓋掩体壕モニュメント(東の原公園)
日本戦跡協会様と最初に訪れた場所が「東の原公園」でした。
ここに、「印旛飛行場と掩体壕」の案内看板がありますが、この公園自体は、往時の飛行場エリアからは敷地外。
印旛飛行場と掩体壕
印西牧の原駅周辺には、昭和16年から昭和20年にかけて通信省航空局の印旛地方航空機搭乗員養成所(通称・印旛飛行場)の滑走路が広がっていました。昭和19年頃からは陸軍の軍用飛行場として使用され、首都防衛の任を果たしていました。現在では、千葉ニュータウンなどの開発が進み、当時の姿を見ることはできませんが、印旛飛行場があったことを示す痕跡として、掩体壕が残っています。
掩体壕とは、飛行場に駐機する軍用機を上空の敵機から守るために作られた格納庫で、太平洋戦争末期、米軍による本土空襲が激しくなる状況で、全国の軍用飛行場に構築されました。掩体壕には、コンクリート製の屋根で作られた有蓋型と、屋根がなく土を土塁状に固めた無蓋型があります。印旛飛行場には、無蓋型の掩体壕が作られ、現存する掩体壕は、造谷川防災調整池の西側に保存されています。大きさは幅約20メートル、高さ3メートルほどで、小型の軍用機ならばほぼ一機格納できる規模となっています。
印西市教育委員会
公園には、無蓋掩体壕を模したものがある。その中央には飛行機を模した砂場。
子どもたちが遊んでいるので、近づいての撮影は行いませんでした。
Google航空写真でみると、たしかに、無蓋掩体壕と飛行機、ですね。
これはなかなか粋です。
東の原公園は印旛飛行場跡地ではないが看板がありますので、脚を運んでみるのも良いかと。
場所
印旛飛行場の無蓋掩体壕
掩体壕
正面に見える構築物は、掩体壕と呼ばれる戦争遺跡です。掩体壕とは、飛行場に駐機する軍用機を上空の敵機から守るために造られた格納庫で、昭和20年、太平洋戦争末期に、米軍による本土空襲が激しくなる状況の中で、全国の軍用飛行場に構築されました。掩体壕には、コンクリート製の有蓋型と、現状で屋根がなく、土塁状の形状の無蓋型が存在します。
印西牧の原駅一帯には、昭和16年から昭和20年にかけて逓信省航空局の印旛地方航空機乗員養成所(通称 印旛飛行場)が所在し、昭和19年頃から、乗員養成所は陸軍の軍用飛行場として使用され、首都防衛の任を果たしていました。滑走路周辺には、規模が横幅約20m、高さ約3mほどの無蓋型の掩体壕が多数存在し、小型の軍用機ならば、ほぼ1機格納できる大きさです。
現在では、千葉ニュータウンなどの開発が進み、当時の姿を見ることはできませんが、掩体壕はこの地域に、印旛飛行場があったことを示す貴重な文化財です。
平成28年4月1日
印西市教育委員会
無蓋掩体壕は、写真で伝えるのが難しいので、まずは、Google航空写真を。
2回目のリベンジ撮影で、魚眼レンズを持ち込みまして。
魚眼でなんとか全容を収めることに成功。
今度から、無蓋掩体壕を撮影するときは、魚眼必須ですね。いうほどに撮影機会はないですが。
無蓋掩体壕の前の道は、かつての誘導路。
晴天時の撮影は、1回目の撮影。日本戦跡協会様との探索時に標準レンズ、で。
スマホでパノラマ撮影もしてみました。
魚眼もしくは、パノラマでないと、左右が収まらないですね。
誘導路の名残、かな。
宅地造成とともに、アスファルト道路も新しくなっていく。
このあたりが飛行場エリアの南東部。写真の右側が飛行場エリア。
場所(無蓋掩体壕)
位置関係
※前述の航空写真より( ファイル: USA-R377-No1-144 )
右の黄枠が現存している「無蓋掩体壕」の場所。
左の黄枠が「射撃場」、そして「排水路(用水路)」
現在と照合する。
現存する「無蓋掩体壕」の場所ははっきりとわかる。
また、航空写真では、「射撃場」の区画もはっくりと残っていることがわかる。
射撃場跡(原青年館)
「開拓記念碑」が原青年館の脇に建立されている。
昭和46年2月16日建立。
この地は、かつて「射撃場」があった場所。
「草深飛行場跡」と刻まれている。
原青年館の周辺。畑と墓地と資材置き場。見渡せばきれいに四角形の空間が広がっていて、整地の先は林となっている。
この区画が「射撃場」の跡地。
この射撃場跡エリアも先行きが不安な雰囲気が。
なにやら造成されそうな気配が。。。
射撃場跡の茂みの中に、新しい境界杭が打たれ始めてました。これは。。。
1回目の探索時に日本戦跡協会様と、竹林を深入りしてみた。
そしたら、見事にビンゴでした。
資材置き場の奥の竹林は高台となっており、射撃場があった場所は低地となっていた。これは「射撃場」の土手の名残と思われます。一人では見つけられなかったかもしれません。
そして、往時の区画と同じ場所にある用水路。位置関係は往時と変わらず。
もちろん、改良さされているはずではあるが、これは飛行場エリアの排水路転用の用水路と思わます。
右側が飛行場エリア。
印税牧の原。再開発により、次々と姿を変えている。
椎ノ木の公園と無蓋掩体壕は、整備されたが、それ以外は、いつなくなってもおかしくない。畑がなくなれば用水も不要。平然と区画も変わるかもしない。
そして宅地化が郊外に広がっている現状で、射撃場跡もいつまでも残っているとは限らない。残る戦跡と消える戦跡の狭間をみつつ、少しでも記録として伝承をしていきたいものです。
※撮影は2022年1月