東金市の寶珠山法光寺。
寺院墓地の裏山に、かつて速射砲陣地があった。
砲室から外を望む。
目次
法光寺
東金市田中鎮座。日蓮宗寶珠山法光寺。
江戸時代に完成した灌漑用貯水池である雄蛇ヶ池の近くに鎮座。
法光寺の裏山に、速射砲陣地があった。
本堂は、令和元年の房総半島台風により全壊し、その後、再建された。
場所
位置関係
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-109
1947年2月22日、米軍撮影の航空写真。一部加工。
上記を拡大加工。
ちょうど、上田中の谷間を貫く国道126号が、外房から内房にアクセスする幹線道路であることがわかる。東金台地の南端に、御殿山観測所を設け、後背地には東金拠点陣地群が展開。
そして、西に御蛇ヶ池を控える独立した丘陵である上田中速射砲陣地が、東の大豆谷と北の由井と連携することで、上陸してくる戦車部隊に対する強力な防御陣地であった。しかし、敵中に取り残され後退場所がない上田中の陣地は、そのまま全滅することも予想に固くない。
上田中坑道陣地(上田中速射砲防御陣地)
陸軍は本土防衛・首都防衛をするに際し、連合軍の上陸地点として、相模灘・九十九里浜を予測していた。
九十九里浜には、砂浜には蛸壺陣地、丘陵地帯には洞窟陣地を構築し、迎撃体制を整えるなかで、この東金上田中は、近衛歩兵第10連隊独立速射砲中隊が工事を請け負い、独立第二四速射砲中隊の四七ミリ速射砲が配備される計画になっていた。
上田中坑道陣地(上田中速射砲防御陣地)跡を法光寺墓地から
上田中坑道陣地(上田中速射砲防御陣地)を墓地から見学してみる。
すでにいくつかの横穴がありますね。
ブロック塀で塞いである横穴も。
上田中坑道陣地(上田中速射砲防御陣地)跡を坑道内から
戦後も、上田中の洞窟陣地の坑道は一部が残存。現在も墓地の端の方に、一箇所だけ開口している箇所がある。法光寺の庫裡に見学を申し入れれば快諾していただける。
それでは、洞窟陣地、見学してみます。
懐中電灯は必要。見学用には整備されていないので、洞窟内には灯りはない。
「カメ(甕)」が落ちてました。昔は便器で甕が使用されていたけど、違うよね、きっと後世、、、
振り返り。
おや、昔は甕は便器とか言っていたら、今度はほんとに便器だし。
突き当り。弾薬庫かな。
瓶がたくさん。
全体的に砂っぽい洞窟。細かい砂が積もっている。
47mm速射砲砲室。上田中で唯一完成した砲室。
冷蔵庫がある。
竹が生えている。
洞窟に生える竹、なかなかの生命力。
砲室から外に出てみた。もうひとつ開口部があった。
祠もあった。
隣の開口部は倉庫みたい。どこにもつながっていない。
もとの砲室から、洞窟内に戻る。(砲室の外は民家に裏に繋げっている模様)。
左側に進む。
明かりが見える。
表は、さっきの墓地ですね。
中に戻る。
これも弾薬庫かな。
こっちは土砂が流入している。埋まってますね。
外の灯りが見えます。
開口部砲室になるはずの部分。こっちは作りかけ。
竹に覆われている。
スタート地点に戻ってきました。
そんなに広くはないけど、なかなかおもしろい空間だったため、気がつけば20分くらい散策してました。
法光寺の裏山。速射砲陣地を攻勢側の目線でみるとこんな感じ。実際にはこの山を左手に進軍することになるので、側面射撃を食らうイメージ。
大豆谷坑道陣地?
ちなみにバス停(台方一丁目)の近くも、穴がありました。
もしかしたら、上田中と相対する位置関係で連動していた大豆谷坑道陣地に関連する開口部かもしれませんが、遠望のみで。
場所
東金駅
行きは東金駅から歩きました。ちょっと後悔する距離感。
帰りは近くのバス停(台方一丁目)から東金駅に戻ってきました。千葉と東金と成東を結んでいる路線バスが、1時間に1本前後走っているので、状況によっては、東金駅でJR東金線を使用するよりも、バスのほうがアクセス事情が良好かも。
まあ、そもそも公共交通機関で赴くのは不利ですが。
東金駅は歴史が古く、開業は明治33年(1900)。
かつて東金駅から九十九里浜の片貝駅までを結んでいた九十九里鉄道は大正11年(1922)開業、昭和36年(1961)に鉄道を廃止しバス事業に専念。
太平洋戦争中は、ガソリンの入手が困難な中で、気動車の燃料を沿線地域の片貝付近の地下で採取した天然ガスで動くように改造して代用することによって運行を継続という逸話を持つ。
東金界隈は、御殿山観測所のリベンジもありますし、東金飛行場跡(豊成飛行場跡)もありますんで、また再訪します。
※撮影:2023年2月