風船爆弾の打ち上げ基地。
打ち上げ基地は、3ヵ所あり、以前に、「大津」と「勿来」は取り上げておりました。
・風船爆弾大津基地
・風船爆弾勿来基地
・登戸研究所。風船爆弾は登戸研究所で開発された。
今回は、3番目の打ち上げ基地として、一宮基地(上総一ノ宮)を訪問してきました。
最初に、書いておきますが、正直言って、何も無いです。
勿来基地も何もなかったけど、それ以上に何も無いです。
行ったことに意義のあるレポートです。
目次
風船爆弾(ふ号)
太平洋戦争において日本軍が開発・実戦投入した、気球に爆弾を搭載した爆撃兵器。
日本本土から偏西風を利用して北太平洋を横断させ、時限装置による投下でアメリカ本土空襲を企図。
「風船爆弾」は、戦後の名称。当時の呼称は「気球爆弾」であり、防諜符号として「ふ号」「風船」などと呼称されていた。
千葉の気球聯隊が母体となり、ふ号差苦戦気球聯隊が編成され、連隊本部と第1大隊が茨城県大津、第2大隊が千葉一宮、第3大隊が福島勿来であった。
発射基地(放球基地)も、千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の各海岸に設けられ、昭和19年11月から昭和20年3月までのあいだに、約9300発が放球されたという。
9300発のうち、アメリカ本土到達が300発前後。
1945年5月5日オレゴン州で風船爆弾不発弾に触れた民間人6人が爆死。あとは小規模の山火事など。 風船爆弾による心理的効果は大きく米国内では箝口令が引かれていた。
実戦に用いられた兵器として、約7,700 km(茨城県からオレゴン州への概略大圏距離)は、発射地点から最遠地点への攻撃。
また、ほぼ無誘導で、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器であった。
風船爆弾は、登戸研究所第一科で開発されたものであった。
明治大学生田キャンパス内の「明治大学平和教育登戸研究所資料館」には、風船爆弾の復元展示や気球紙の作り方の説明などもある。
こちらは、江戸東京博物館に展示の風船爆弾復元模型。
気球部分を約1/5、ゴンドラ部分を約1/2に縮小して復元。
風船爆弾(復元模型)
縮尺:気球部:約約1/5、ゴンドラ部分:約1/2
風船爆弾は、日本軍がアメリカ本土の攻撃のために開発したもので、和紙をこんにゃく糊で貼りあわせて作った直径10mの気球に、爆弾や焼夷弾を吊り下げて飛ばした兵器である。陸軍によって秘密裡に開発されたこの兵器は、軍の施設のほかに、日本劇場や東京宝塚劇場、国技館といった大きな空間を持つ施設で製造された。製造にあたっては、学徒勤労動員によって集められた女学校の生徒たちが多数従事した。完成した風船爆弾は、太平洋沿岸の千葉県の一宮や茨城県の大津、福島県の勿来にあった各打ち上げ基地より、1944年(昭和19)11月から翌年4月にかけて9,000個あまりが打ち上げられた。そのうち300個弱がアメリカ大陸に到達し、オレゴン州では6人が犠牲になったという。
この模型は、実物を保管しているアメリカ・ワシントンの国立航空宇宙博物館が作成した報告書などをもとに、気球部を約1/5、ゴンドラ部分を約1/2に縮小して制作した。
※江戸東京博物館展示資料より
風船爆弾打ち上げ基地跡(一宮町)
特に基礎などが残っているわけではなく、一宮町教育委員会による解説があるのみ。
風船爆弾打ち上げ基地跡
風船爆弾は、旧日本軍がアメリカ本土への攻撃のために開発したもので、和紙をこんにゃく糊で張りあわせて作った直径10mの気球に、爆弾や焼夷弾を吊り下げて飛ばした兵器です。この計画は「ふ」号作戦と呼ばれ、一宮、茨城県の大津(北茨城市)、福島県の勿来(いわき市)の計3カ所の打ち上げ基地より、昭和19年(1944)の11月から翌年にかけて合計で約9000個が打ち上げられました。そのうち300個弱がアメリカ本土に到達したといわれ、オレゴン州では民間人6名が犠牲になりました。
一宮の打ち上げ基地は打ち上げのためのコンクリート台が数基据えられたといい、風船爆弾の資材の運搬のために、打ち上げ基地に向かった上総一ノ宮駅より引込線(線路、現在の一ノ宮停車線に沿う)が敷かれました。戦後、基地は旧日本軍によって破壊されたため、現在は当時の面影は残されていません。
※実際の打ち上げ基地は看板の建てられている場所の道を挟んだ海側の一帯にあったといいます。
平成31年(2019)3月
一宮町教育委員会
風船爆弾打ち上げ基地跡
風船爆弾とは、和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて作った直径約10メートルの巨大気球で、中に水素ガスを入れ爆弾を積んだ兵器です。太平洋戦争末期の昭和19年(1944)秋から翌年春まで、偏西風に乗せてアメリカ本土へ向けて飛ばしました。
打ち上げ基地は、全国で3ヵ所でした。
一宮(千葉)大津(茨城)勿来(福島)に造られ、一宮には12ヶ所の発射台があり、約2500個を打ち上げたといわれています。
一宮町教育委員会 平成24年3月
ちなみに同じ場所に、加納藩台場跡もある。
当時の一宮藩主加納久徴が砲台を造らせた跡地。
実際には、海側に発射台があった。
場所
九十九里浜(一宮海水浴場)
九十九里浜の南端。一宮海水浴場の南。
風船爆弾を偲ぶものはないけど、太平洋の海原を、往時を偲びながら、なんとなく眺める。
海岸線から、放球台のあった方向を望む。
サーファーで賑わう浜。一宮海水浴場方面。
上総一ノ宮駅
かつては、上総一ノ宮駅から、風船爆弾打ち上げ基地まで引き込み線が引かれていた。
一宮町役場
このあたりは引き込み線の線路が並走していたと思われるが、もうなにも痕跡がない。
このあたりで、引込線は写真の右側(南)にカーブしたと推測。
道路は緩やかに左に曲がっている。
位置関係
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M636-A-No2-306
1947年11月08日、米軍が撮影した航空写真を参照。
拡大。
一宮基地の放球台は、12基あったという。
白い半円もしくは全円が砲球台の跡。
ちなみに、上総一ノ宮駅から、海岸まで歩きました。久しぶりに歩くのに飽きる道のりでした。
ざっくり片道3キロ、往復6キロの道のりでした。。。。
※撮影:2023年5月
関連
陸軍気球連隊の第二格納庫は解体されダイヤモンドトラスがモニュメントとして残っている。