「陸軍登戸研究所」跡地散策(明治大学生田キャンパス)

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令和元年9月散策

神奈川県川崎市多摩区生田の丘の上に。
現在の明治大学生田キャンパスはかつて大日本帝国陸軍の研究所であった。


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登戸研究所(第九陸軍技術研究所)

昭和14年(1939)、陸軍中野学校を創設し「謀略の岩畔」と異名を残す陸軍省軍務局軍事課長・岩畔豪雄大佐によって、秘密戦研究部門として、通称「登戸研究所」が陸軍科学研究所の下に設立された。
前身は、大正8年(1919)に陸軍火薬研究所が改編して発足した「陸軍科学研究所登戸出張所」であった。

昭和19年(1944)の「陸軍登戸研究所」組織
陸軍第9研究所(登戸研究所)
 所長 篠田鐐 中将 (工学博士)
第一科 科長 草場秀喜 少将
 第一班 風船爆弾・宣伝用自動車
 第二班 特殊無線機・ラジオゾンデ
 第三班 怪力電波・殺人光線
 第四班 人工雷
第二科 科長 山田桜 大佐(工学博士)
 第一班 科学的秘密通信法・防諜器材・謀略兵器
 第二班 毒物合成・え号剤
 第三班 毒物謀略兵器・耐水耐風マッチ
 第四班 対動物謀略兵器
 第五班 特務機関用カメラ・超縮写法・複写装置
 第六班 対植物謀略兵器
 第七班 対動物謀略兵器
第三科 科長 山本憲蔵 大佐
 北方班 用紙製造
 中央班 分析・鑑識・印刷インキ
 南方班 整版・印刷
第四科 科長 畑尾正央 大佐
 第一科・第二科研究品の製造、補給、指導


明治大学・生田キャンパス内を散策してみましょう。

登戸研究所跡碑

明治大学生田キャンパスの「弥心神社」境内に往時を物語る石碑が建立されていた。

登戸研究所跡

すぎし日は この丘に立ち めぐり逢う
 昭和63年10月建之
 旧陸軍登戸研究所 有志


弥心神社(現・生田神社)

小田急線生田駅から明治大学生田キャンパスに赴く通学路、坂道を登りきった先に鎮座している。
今は学生の通学路、当時は研究員の通勤路であった。(小田急線生田駅を利用する場合は、神社のある裏門を通る。南武線登戸駅を利用する場合は、ここではなく正門を通る。)

弥心神社は昭和18年建立。陸軍技術有功賞を受賞したときの金一封で、後述する「動物慰霊碑」と同時期に建立。
登戸研究所の前身であった新宿戸山の陸軍科学研究所から分祀した「発明の神・八意思兼神」を祀り、同時に研究所殉職者を慰霊のために祀ったという。

弥心神社(現 生田神社)
 現在は生田神社といいますが、もとは登戸研究所が1943(昭和18)年に建立した神社で、研究(知恵)の神様である「八意思兼神」を祀る「弥心神社」と呼ばれていました。
 境内向かって右手、1988(昭和63)年に元所員有志により建てられた「登戸研究所跡碑」裏面には「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」という句が刻まれています。これには、一度胸の奥にしまい込んだ研究所時代の記憶を、戦後数十年を経て再びこの丘に立ち、ようやく話し合うことが許された、という万感の思いが込められています。


位置関係

ファイル:USA-M1121-A-20
1948年07月26日に米軍が撮影した航空写真(国土地理院より)

抜粋の上、拡大

上の赤丸が「弥心神社」
右の赤丸が「動物慰霊碑」
下の赤丸が「登戸研究所資料館」

道の雰囲気が、さほどに変わっていないこともわかる。


消火栓

生田キャンパス内に2つ残されている。陸軍の五芒星を残す消火栓。

1つ目は「学生会館」の前に。地中に半分埋まっていた。

もうひとつは「図書館」の前に。

消火栓
 登戸研究所時代に設置された消火栓です。明治大学生田キャンパスとなった今も当時と同じ場所に残る貴重なものです。すでに消火栓として機能しませんが、旧陸軍の☆のマーク(五芒星)が確認できます。現在は埋もれている学食棟前に残る消火栓もこの消火栓同様、以前は左の写真の姿をしていました。


動物慰霊碑

生田キャンパス正門の守衛所裏手に鎮座。動物慰霊碑としては国内最大級。

(表)
動物慰霊碑
篠田鐐書

(裏)
昭和十八年三月
陸軍登戸研究所建之

揮毫の 篠田鐐 は登戸研究所所長。

動物慰霊碑
 1943(昭和18)年、研究で用いられた実験動物の霊を慰めるために登戸研究所が建立しました。台座を含め、高さ約3m、幅約95cm、奥行約15cmの大きさは動物慰霊碑としては国内最大級です。
 敗戦後、軍により証拠隠滅を図られた登戸研究所ですが、この裏面に刻まれた「陸軍登戸研究所」の文字は、戦時中より登戸研究所がここに存在した事実を如実に語ります。


登戸研究所本館跡(ヒマラヤ杉)

「第二校舎A館」と「ヒマラヤ杉」、「図書館」の間にかつて「登戸研究所本館」があったという。
往時からの名残としては、「ヒマラヤ杉」とアスファルトを敷いた車寄せへのアプローチ部分が路面上に残る。

旧登戸研究所本館前一帯
 登戸研究所の本館は、ちょうどこのヒマラヤ杉並木と現在の図書館との間に建っていました。
 1944(昭和19年)に撮影された写真でも当時の杉並木の様子が確認できます。また、写真背景足元に映る円形に囲われた車寄せへのアプローチも、そのままに近い形で植え込みとして残っており、この一帯は登戸研究所時代の名残をもっともよく残す場所となっています。


防火水槽

キャンパス内にいくつか点在して残っている。火薬も扱っていた登戸研究所ゆえに防火水槽の数も多かったという。

中央校舎の脇に。

防火水槽
 登戸研究所時代からある防火水槽です。火災に備え、敷地内の各建物付近に設置されました。現在は花壇として使用されていますが、当時は中に水をためておき、その水を火災の消火に使用しました。この他に資料館エントランス横、農学部南田圃などキャンパス内各所に現存しています。

資料館の入口に。


倉庫跡(通称 弾薬庫)

資料館の裏手に。
登戸研究所で製造された「特殊携行兵器」などが収納されていたとされる倉庫。

倉庫跡(通称 弾薬庫)
 登戸研究所時代に設置された建築物で、通称「弾薬庫」と呼ばれていますが詳細な用途は不明です。
 外観は台形ですが、内部は奥行約3.2m、間口約2.7mの長方形をしており、天井までの高さは約3m。壁面にはスイッチやコンセント跡が見られます。
 第一校舎1号館裏手にも同様の倉庫跡が残っています。


倉庫跡(通称 弾薬庫)

第一校舎1号館の裏手に。
草に覆われた建物。「花卉園芸同好会」と表記が残る。

倉庫跡(通称 弾薬庫)
 登戸研究所時代に設置された建築物で、通称「弾薬庫」と呼ばれていますが詳細な用途は不明です。明治大学となってからは、一時、花卉園芸部が部室として使用していたこともありました。
 外観は台形ですが、内部は奥行約5.7m、間口約4.0mの長方形をしており、天井までの高さは約3m。資料館裏手の倉庫跡より内部は広く、入り口すぐの前室と奥の広い部屋の二間に分かれています。


登戸研究所第二科研究棟(36号棟)
明治大学平和教育登戸研究所資料館

鉄筋コンクリート造りの生物兵器研究棟。この建物は、かつて細菌・ウイルスなど生物・化学兵器の研究開発をしていた登戸研究所第二科の研究棟。
2009年までは明治大学農学部の研究棟として使用され、2010年から明治大学平和教育登戸研究所資料館として開館。

明治大学平和教育登戸研究所資料館
設立趣旨

登戸研究所は、戦前日本の戦争・軍隊を知る上で、きわめて貴重な戦争遺跡である。登戸研究所は、戦争には必ず付随する「秘密戦」(防諜・謀報・謀略・宣伝)という側面を担っていた研究所であり、そのため、その活動は、戦争の隠された裏面を示しているといえる。私たちはこうした戦争の暗部ともいえる部分を直視し、戦争の本質や戦前の日本軍がおこなってきた諸活動の一端を、冷静に後世に語り継いでいく必要がある。

私たちは、登戸研究所の研究施設であったこの建物を保存・活用して「明治大学平和教育登戸研究所資料館」を設立し、登戸研究所という機関のおこなったことがらを記録にとどめ、大学として歴史教育・平和教育・科学教育の発信地とするとともに、多年にわたり、登戸研究所を戦争遺跡として保存・活用することをめざして地道な活動を続けてきた地域住民・教育者の方々との連携の場としていきたいと考えている。
 2010年3月29日


陸軍境界石

資料館の前に。どこからの移築かと思われる。


登戸研究所第二科研究棟(36号棟)
明治大学平和教育登戸研究所資料館
 建屋外観


登戸研究所第二科研究棟(36号棟)
明治大学平和教育登戸研究所資料館
 内部

当時からの設備、流し台などもそのままで残っている。


風船爆弾(ふ号作戦)

登戸研究所第一科を中心に風船爆弾の研究が行われた。

気球紙は、和紙と蒟蒻糊の貼り合わせ、

風船爆弾放球の地

大津

平成29年8月撮影 茨城県北茨城市に点在する「震洋基地跡」と「風船爆弾放球台跡」。あわせて平潟港と大津港の鎮守様も。 平成2...

勿来

東京と仙台の中間地点にある「勿来」。古来、この地には「勿来の関」が設置され、白河の関と並んで、関東と東北の境目であった。太平洋戦争中、ちょ...

一宮

風船爆弾の打ち上げ基地。打ち上げ基地は、3ヵ所あり、以前に、「大津」と「勿来」は取り上げておりました。 ・風船爆弾大津基地 ...

偽札

登戸研究所第三科では主に中国大陸向けの紙幣を偽造していた。通貨謀略戦の要。


解体された26号棟の保存資料

26号棟に第三科が展開されていた。偽札研究の拠点。


時計式時限装置一号

「缶詰爆弾」と「時計」を接続させると「時限式爆弾」となった。
登戸研究所は諜報活動向けに最適な小型兵器の開発が多い。


秘密戦

「秘密戦関係」書籍は防諜教育に用いられた憲兵学校のテキスト。


陸軍技術有功章の賞状

昭和18年4月14日、総理大臣兼任陸軍大臣の東条英機の名で授与された賞状。「秘密戦兵器」は「特殊理化学資材」として記されている。


クランク式暗室

36号棟の当所から作られていた暗室。
写真の現像や細菌戦の研究に使用されていたという。


石井式濾水機 濾過筒

「軍事秘密」として扱われていた濾過筒。
濾過筒には防疫給水に役立つほか、細菌戦実施時にも飲料水を確保できるという側面もある。


登戸研究所本館将校食堂に飾られていた日本画

この絵画が飾られていた理由は不明。
「漁を待つ人々」佐藤耕寛 作


陸軍 電波兵器練習部隊

「登戸研究所」の電波部門が独立して「陸軍多摩研究所(多摩陸軍技術研究所)」となり、その直属部隊となったのが「東部第九二部隊( 東部第92部隊 )」。一橋大学に展開していた。

令和元年9月撮影 国立の一橋大学。戦前は「東京商科大学」日本最初の官立単科大学、日本最初の商科商業大学。関東大震災により「一...

気がつけば3時間くらい、大学構内を散策していたようです。

明治大学平和教育登戸研究所資料館、なかなか見応えがありました。よい展示。

また来ましょう。


明治大学平和教育登戸研究所資料館サイト

明治大学のオフィシャルサイトです。大学案内、受験生向けの入学案内、在学生向けコンテンツ、また一般の方向けの公開講座情報など、明治大学に関する情報をご覧頂けます。

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コメント

  1.  近現代史研究会 戦争遺構研究会 より:

    『校舎建設計画で取り壊しが心配される歴史的、文化的にも貴重な旧日本軍遺構・陸軍登戸研究所跡の保全・再生についての要望書』(2020・01・03)

    明治大学総長殿、神奈川県知事殿,川崎市長殿、文化庁殿。

    RT・M旧日本軍遺構・陸軍登戸研究所跡地も 明治大新校舎建設で取り壊しが心配。太平洋戦争中に生物兵器や風船爆弾などを製造したことで知られる旧日本陸軍の登戸研究所(川崎市多摩区)の遺構の一部が、敷地を所有する明治大の新校舎建設に伴い、撤去される可能性が浮上。現在学内で議論されているが、市の地域文化財として歴史的な価値が評価されていることもあり、教員の一部からは反対の声が上がっている~旧日本軍遺構・陸軍登戸研究所跡は、歴史的、文化的にも重要なものですので正しく評価して校舎建設計画の中に組み込んで保全・再生についてご検討をお願いします。地元の保存・再生を求める声に関西からも少し応援させていただきます!。

    大阪府堺市東区大美野155-13、戦争遺構研究会、近現代史研究会、電話072-236-3357.

    1.目次 : 第1章 陸軍登戸研究所―明治大学生田キャンパスに残る謀略機関の跡を歩く(消された秘密研究機関・陸軍登戸研究所/ 動物慰霊碑の謎 ほか)/ 第2章 偽札による経済・通貨戦争―登戸研究所の中国法幣偽造(密かに行われた中国紙幣の偽造/ 戦争とは経済も謀略もふくめた総力戦 ほか)/ 第3章 市民・高校生が掘り起こした陸軍登戸研究所―戦争の真実を明らかにし、未来へつなぐ(市民が掘り起こした登戸研究所/ 高校生たちが調べた登戸研究所の真実)/ 第4章 地域のみどりを守り、歴史遺産を生かす―川崎市民のとりくみ(川崎市多摩区のみどりと歴史遺産を生かすとりくみ/ 川崎市多摩区に残る戦争遺跡)

    【著者紹介】
    姫田光義 : 中央大学名誉教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

    2.

    3.

    4.読了日:2019/09/12

    2009年6月23日発行(初版)。明治大学生田キャンパスにある登戸研究所には、フィールドワークで何回か訪れた。本書はその後求めたもの。保存にあたっては、市民の運動があったことがよくわかった。生田キャンパス内を歩くと、当時のことが想像できる。今年で戦後74年、失われていく「戦争遺跡」を保存する事業は一刻も猶予ならない。今、戦前あったことを「なかったこと」のように語ろうとする動きが強まっているように感じる。歴史の真実を真…

    5.

    6.

    7.RT・WP『登戸研究所』-1937年(昭和14年)に陸軍科学研究所登戸実験場として開設。その後、第九陸軍技術研究所となり、生物兵器の開発や、敵国経済の混乱を狙って偽札を製造するなど旧陸軍の「秘密戦」を支えた。最盛期の44年には約11万坪(36万3000平方m)の敷地に約100棟が並び、技師や工員ら

    8.

    1.約千人が働いたとされる。戦後、敷地の一部を取得した明治大は2010年、旧実験棟を活用して平和教育登戸研究所資料館を開館し関連資料展示~現在、明治大学の校舎新築計画の中で旧登戸研究所跡地が解体される心配があるので関西から保全再生の要望のお手伝いをさせていただいています。戦争遺構研究会

    2.

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    4.

    登戸研究所第二科研究棟(36号棟)
    明治大学平和教育登戸研究所資料館

    鉄筋コンクリート造りの生物兵器研究棟。この建物は、かつて細菌・ウイルスなど生物・化学兵器の研究開発をしていた登戸研究所第二科の研究棟。
    2009年までは明治大学農学部の研究棟として使用され、2010年から明治大学平和教育登戸研究所資料館として開館。

    明治大学平和教育登戸研究所資料館
    設立趣旨

    登戸研究所は、戦前日本の戦争・軍隊を知る上で、きわめて貴重な戦争遺跡である。登戸研究所は、戦争には必ず付随する「秘密戦」(防諜・謀報・謀略・宣伝)という側面を担っていた研究所であり、そのため、その活動は、戦争の隠された裏面を示しているといえる。私たちはこうした戦争の暗部ともいえる部分を直視し、戦争の本質や戦前の日本軍がおこなってきた諸活動の一端を、冷静に後世に語り継いでいく必要がある。

    私たちは、登戸研究所の研究施設であったこの建物を保存・活用して「明治大学平和教育登戸研究所資料館」を設立し、登戸研究所という機関のおこなったことがらを記録にとどめ、大学として歴史教育・平和教育・科学教育の発信地とするとともに、多年にわたり、登戸研究所を戦争遺跡として保存・活用することをめざして地道な活動を続けてきた地域住民・教育者の方々との連携の場としていきたいと考えている。
     2010年3月29日

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    11.また消える? 旧日本軍遺構 陸軍登戸研究所跡地も 明治大新校舎建設で 川崎

    毎日新聞2019年12月29日 19時59分(最終更新 12月30日 12時24

    ヒマラヤスギが立ち並ぶ旧登戸研究所本館跡地前で、遺構の重要性を語る山田朗館長=川崎市多摩区の明治大生田キャンパスで2019年12月19日午後4時11分、佐野格撮影
     太平洋戦争中に生物兵器や風船爆弾などを製造したことで知られる旧日本陸軍の登戸研究所(川崎市多摩区)の遺構の一部が、敷地を所有する明治大の新校舎建設に伴い、撤去される可能性が浮上している。現在学内で議論されているが、市の地域文化財として歴史的な価値が評価されていることもあり、教員の一部からは反対の声が上がっている。

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     戦後、登戸研究所の敷地の一部は明治大が取得し、理工学部や農学部などが入る生田キャンパスとして使われてきた。キャンパス内には当時の建物や実験に使われた動物の慰霊碑などが残っている。

    1944年に本館前で撮影された記念写真。ロータリーの一部は今も跡地に残っている=明治大学平和教育登戸研究所資料館提供
     今回新校舎の建設が検討されているのは、登戸研究所の本館跡地前の一帯。本館自体は老朽化で1992年に取り壊されたが、当時からあった8本のヒマラヤスギや、ロータリーの形状など一部の遺構が当時の面影を残している。

     新校舎建設について明治大は毎日新聞の取材に「具体的な建設予定地、規模、時期等は未定」としているが、関係者によると、理工学部の教授会で、本館跡地前の一帯を建設候補地とする案が議論されている。2019年中にも承認される可能性があったが、一部の教員が遺構撤去を伴う建設案に強く反対しており、結論は20年1月に持ち越された。

     本館跡地前の一帯を含む遺構は、川崎市が18年11月に「旧陸軍登戸研究所の遺構群」として市地域文化財の一つに選定している。

     市によると、この制度は、指定や登録されていない文化財の多くが取り壊されたり、継承されず消滅したりしているため、地域に根ざした文化財の価値を伝えることが目的。しかし、文化財保護法に基づく制度ではないため、選定された文化財であっても事前審査による許可は必要なく、届け出だけで取り壊しなどの形状変更は可能という。

     本館跡地前の遺構撤去について市は「規制が緩やかな制度の趣旨を踏まえ、コメントできない」との立場だ。 明治大平和教育登戸研究所資料館の山田朗(あきら)館長(同大文学部教授)によると、研究所は謀略やスパイ活動を含む旧日本軍の「秘密戦」のための施設。一般には存在自体が秘密とされていたが、元所員の証言や地元市民らによる調査によって実態が明らかになった経緯がある。

    旧登戸研究所で研究・開発された風船爆弾について説明する山田朗館長=川崎市多摩区の明治大生田キャンパス内の同大平和教育登戸研究所資料館で2019年12月19日午後5時13分、佐野格撮影
     明治大平和教育登戸研究所資料館の山田朗(あきら)館長(同大文学部教授)によると、研究所は謀略やスパイ活動を含む旧日本軍の「秘密戦」のための施設。一般には存在自体が秘密とされていたが、元所員の証言や地元市民らによる調査によって実態が明らかになった経緯がある。

    旧登戸研究所時代からそびえるヒマラヤスギの前で遺構の重要性を語る山田朗館長=川崎市多摩区の明治大生田キャンパスで2019年12月19日午後4時20分、佐野格撮影
    山田館長は「ヒマラヤスギは歴史の目撃者で、今でも本館跡地の前に立つと私たちが戦争とつながる歴史の中にいることが分かる」と指摘。「科学技術が戦争に使われたという暗部を伝える遺構として大学は残すべきだ」と話している。【平川昌範、佐野格】

    登戸研究所

     1937年に陸軍科学研究所登戸実験場として開設。その後、第九陸軍技術研究所となり、生物兵器の開発や、敵国経済の混乱を狙って偽札を製造するなど旧陸軍の「秘密戦」を支えた。最盛期の44年には約11万坪(36万3000平方メートル)の敷地に約100棟が並び、技師や工員ら約1000人が働いたとされる。戦後、敷地の一部を取得した明治大は2010年、旧実験棟を活用して平和教育登戸研究所資料館を開館し、関連資料を展示している。

    登戸研究所

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    登戸研究所(のぼりとけんきゅうじょ)は、現在の神奈川県川崎市多摩区生田にかつて所在した、大日本帝国陸軍の研究所。

    沿革[編集]

    設立[編集]

    1939年(昭和14年)1月、「謀略の岩畔」との異名をとった陸軍省軍務局軍事課長・岩畔豪雄大佐(正確には軍事課長就任は同年2月、大佐昇進は同年3月)によって、特殊電波・特殊科学材料など秘密戦の研究部門として、通称「登戸研究所」が「陸軍科学研究所」の下に設立された。

    登戸研究所の前身は1919年(大正8年)4月に「陸軍火薬研究所」が改編して発足した「陸軍科学研究所」のため、当初の正式名称は「陸軍科学研究所登戸出張所」であった。

    運用中[編集]

    所長には篠田鐐大佐が就き、1939年(昭和14年)9月に正式発足した。

    1941年(昭和16年)6月に「陸軍科学研究所」が廃止され、「陸軍科学研究所登戸出張所」は「陸軍技術本部第9研究所」に改編。1942年(昭和17年)10月、陸軍兵器行政本部が設けられ、その下の「第九陸軍技術研究所[1]」に改編。1943年(昭和18年)6月、電波兵器部門を多摩陸軍技術研究所へ移管。

    1945年1月、「帝国陸海軍作戦計画大綱」が発表され、本土決戦準備のため、登戸研究所は長野県各地、福井県武生、兵庫県丹波に分散移転した[2]。

    同年8月15日、敗戦が決定すると、陸軍省軍務課は「特殊研究処理要綱」を通達し、すべての研究資料の破棄を命令した[3]。それらの資料の殆どが処分され、また、ほとんどの関係者が戦後沈黙したため、長らくその研究内容は不明だった。

    研究・開発された兵器[編集]

    原子爆弾、生物兵器、 化学兵器、 特攻兵器、 謀略兵器、 風船爆弾、 缶詰爆弾、 怪力光線、殺人光線、電気投擲砲。

    上記の通り、怪力光線などのようにいささか空想じみた研究をしており、実態が不明な点が多いこともあって、各種創作物の中ではオカルトめいた怪しい研究所として描かれることが多い。しかし実際には、どちらかといえば謀略やBC兵器、特攻兵器のような、地味かつあまりイメージの良くない研究が主だった。

    中華民国の経済を乱すため、当時として45億円もの中華民国向けの偽札がこの研究所で作られ、30億円もの偽札が中華民国で使用された「杉作戦」が有名である。