宮城県仙台市。仙台を代表する観光地でもある青葉城址(仙台城址)に宮城縣護國神社が鎮座している。そのため、青葉城址の観光客も自然の流れで参拝するために、非常に賑わっている護國神社。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。
御英霊に感謝を。
本編は、仙台の戦跡散策の「その1」です。
目次
宮城縣護國神社
青葉山の仙台城(青葉城)本丸跡に創建。
明治維新以降の諸事変、戦役における宮城県出身戦歿者をはじめ、元第二師団管区(福島、新潟、山形の一部)戦歿の御祭神五万六千余柱を御祀りしている。
国際センター駅から歩いていったので、途中の見どころを押さえつつ。
仙台城址の石垣。
宮城縣護國神社
社号標は、鈴木孝雄謹書。
鈴木孝雄は陸軍大将。終戦時の内閣総理大臣の鈴木貫太郎の弟。
由緒
明治維新から大東亜戦争に至るまで、幾多の戦役で尊い生命を御国に捧げられた 郷土出身者の み霊を祀る。
明治37年8月27日仙台城(青葉城)本丸阯に招魂社として創建され、昭和14年内務大臣指定護國神社となり、昭和20年7月仙台大空襲の戦火により神社施設を全焼したが、戦後現在の姿に復興した。
現在 御祭神5万6千余柱をお祀りしている。
(神社本庁包括別表神社)
御本殿
御本殿は、日本民族の祖神と尊ばれている 伊勢神宮の 外宮「風宮」の旧御正殿で、昭和28年の第59回神宮式年遷宮に際し、戦災で消失した当社の御復興にあたり、神宮の特別の思召しを以って昭和30年東北に初めてさずけられた極めて尊い御殿である。
建築様式は、唯一神明造(「掘立式で棟の左右を棟持柱で支える」で伊勢神宮よりそっくりそのまま御移築したものであるが、お屋根のみ建物を永く保存するために萱葺を銅板葺に改めてある。
宮城縣護國神社 由緒
御英霊に感謝を。哀悼を。
朱塗りの護國神社。
参拝
御朱印を頂戴しました
英霊顕彰館(宮城縣護國神社境内)
平成16年、宮城縣護國神社創立百周年を迎え、この創立百周年のよき年を契機として、英霊の遺徳を正しい歴史に沿って展示し、永く後世に伝えるべく「英霊顕彰館」を開館した。
英霊顕彰館 サイト
概要
護国神社は、平成16年、創立百周年を迎えました。
この創立百周年のよき年を契機として、英霊の遺徳を正しい歴史に沿って展示し、永く後世に伝えるべく「英霊顕彰館」を開館いたしました。
「明治維新・戊辰戦争→日清戦争→日露戦争→第一次世界大戦→満州事変→支那事変→大東亜戦争→終戦・戦後→アジアの独立」と戦史を追いながら、それぞれの戦役・事変で散華された我が郷土の英霊について遺影・遺書・遺品等を中心に展示しております。
館内は遺影・遺書・遺品等を中心に展示。
歩兵第四聯隊の軍旗
大日本帝国陸軍第二師団歩兵第四聯隊。
終戦時に仏領インドシナ・サイゴン西北約80キロのホクモンのゴム林内で奉焼された。
復元した軍旗には、数多くの亡き歩兵第四聯隊の御英霊の魂が宿っている。
乃木大将
「古道照顔色」
明治維新
日清戦争
日露戦争
第一次世界大戦
上海事変・満州事変
ノモンハン事件・支那事変
大東亜戦争
特攻
終戦
利根
飛龍
雪風
矢矧
大和
巡潜乙型
秋津洲
北上
宮城縣護國神社の歴史
随想録
陣中有情
ガダルカナル島での日記
陸軍大尉 安田憲一命は、ガ島で戦士した。
戦時日誌
硫黄島収集遺留品
仙台空襲
三浦襄命(仙台市出身)
バリ島にて自決
「独立を約束できず謝罪のため人柱となる。屍を越えて独立を獲得せえよ」とバリ島民に告げ、自決。同島民には今なお『バリ島の父』として記憶される。
さくら陶板(靖國神社ご創立150年記念事業)
ビルマの竪琴
改めてゆっくりと観覧したと思います。
ありがとうございました。
鎮魂の泉(宮城縣護國神社境内)
御製
鎮魂の泉
「鎮魂の泉」
この「泉」は、我国の今日の平和と繁栄を念じつつ遥かなる異国の戦場で力の限り尽され、ついに一滴の水も飲めず散華された郷土出身56,000余柱の御祭神に、青葉城本丸下百八十㍍の地中より汲み上げた水を、四六時中捧げ御霊が永久に鎮られますように作成した。
石組は、「宮城の山河」をモチーフにし、武運長久を祈願された産土(うぶすな)神社より奉納された石、及び激戦地ガダルカナル島、ビルマ、硫黄島、グァム、サイパン、宜昌(中国)、占守島(中千島)等、御祭神ゆかりの戦跡の石、砂、サンゴ礁等を用いて大東亜戦争終結五十周年を記念し建立した
平成七年八月一五日
浦安宮(宮城縣護國神社境内)
別宮浦安宮。
左宮には天照大御神・豊受媛大神・級長津比古神・級長戸辺神、右宮には当地に屋敷神として古くから祀られている白水稲荷大神と伊達政宗公がまつられている。
昭忠碑(宮城縣護國神社管理)
仙台城(青葉城)本丸跡に建つ昭忠碑(宮城縣護國神社管理)。
明治35(1902)年、仙台にある第二師団関係の戦没者を弔慰する目的で建立された。
東日本震災により高さおよそ15mの石塔上部に設置されたブロンズ製の鵄(とび)が落下・破損する被害を蒙った。
鵄本体旧状通りに戻した場合、大地震が発生した際には再び高所より落下する恐れがあるため、安全性を考慮して塔の下に設置復元を実施。
鵄は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)が依嘱を受けて同校内で制作・鋳造したもの。
昭忠
元帥大勲位功二級彰仁親王書
小松宮彰仁親王
明治34年8月起工
明治35年7月竣工
東日本大震災の記憶~昭忠碑(しょうちゅうひ)~
設置年
明治35年(1902)(明治33年制作委嘱 明治34年着工)
設置目的
西南戦争・日清戦争等戦没者慰霊碑
所在地
仙台市青葉区川内 青葉山公園仙台城本丸跡
所有者
宮城縣護國神社
「昭忠」揮毫
小松宮彰仁親王(1846~1903)
(昭忠とは、忠義を明らかにするという意)
全体の高さ
約20m
鵄の材質
とび ブロンズ製
鵄の重量
4,689トン(修復後の内部構造材を含む総重量)
鵄の制作
宮城県昭忠会(陸軍第二師団関係者で組織され、会長は宮城県知事)が東京美術学校(現在の東京藝術大学)に制作委嘱
川邊正夫(岡山県生まれ1874~1918)全体構想立案
沼田一雅(福井県生まれ1873~1954)鵄原型製作
桜岡三四郎(茨城県生まれ1870~1919)鵄の鋳造
津田信夫(千葉県生まれ1875~1946)鵄の鋳造
昭忠碑の塔上に設置された鵄は、戦前の金属供出を免れた明治30年代制作のブロンズ彫刻作品として希少であり、仏像を除くブロンズ彫刻として東北地方で最も古い時期に設置された重要な作品です。
平成23年3月11日の東日本大震災により、鵄が塔上から落下し、大きく破損しました。
破損した鵄は、平成25年2月、文化財レスキュー事業により、石段前に仮設置され、平成26年5月から文化庁補助事業として、保存修復事業が開始されました。平成27年7月、修復のため東京のアトリエに運ばれましたが、平成28年10月、修復作業が完了し、石塔の安全性を考慮し、塔の上ではなく、基壇上に設置されました。
伊達政宗公騎馬像
昭忠碑とおなじく、東日本大震災で被災した伊達政宗公騎馬像。2023年3月に修復が完了し、旧来の姿を取り戻している。
政宗の騎馬像は、昭和10(1935)年5月、藩祖公没後三百年祭を記念し、宮城県青年団が寄付を呼びかけて建立されたもの。
第二次世界大戦中の金属供出令によって消失するが、昭和39(1964)年9月に復元鋳造。
本丸跡からの眺望
仙台の戦跡散策、つづいては、仙台城址周辺の散策へ。
※2023年8月撮影