榴岡公園周辺の宮城野地区の戦跡を巡ってみました。
本編は、「その4」です。
目次
仙台陸軍地方幼年学校阯
仙台市立宮城野中学校の敷地内にいくつかの記念碑が建立されている。
敷地外から見学。
仙台陸軍地方幼年学校阯
第一期生 多田駿書
昭和14年建立。
多田 駿
1882年(明治15年)2月24日 – 1948年(昭和23年)12月18日)
陸士15期・陸大25期。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市出身。
支那事変のトラウトマン和平工作の中心人物。
こちらは、1939年(昭和14年)4月1日に、再生した仙台陸軍地方幼年学校の記念碑。
再興した幼年学校は、太白区三神峯であったので、この記念碑は移設。
太白区三神峯時代の仙台陸軍地方幼年学校の記念碑も、宮城野区五輪時代の敷地に移設されたので、ちょっとややこしい。
なお、三神峯公園にも「雄大剛健」幼年学校の碑が建立されているが、未訪問。
以下は、仙台市歴史民俗資料館より。
仙台陸軍地方幼年学校
日清戦争後の軍備拡張に応じるため、明治29年(1896)5月の条例改正により、陸軍中央幼年学校と陸軍地方幼年学校(東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)が設けられた。地方幼年学校の採用生徒は各校50名、年齢は13~15歳、毎月の納金は6円50銭、陸海軍将校の子弟は半額、戦死者の遺児は免除、修学期間は3年だった。明治30年(1897)9月には、榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東側に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設立された。
しかし、第一次世界大戦後の軍備縮小で大正13年(1924)には廃校となる。その後、昭和12年(1937)には、仙台幼年学校として復活し、第1期生は第41期生として広島陸軍幼年学校に入校し、昭和13年(1938)には仙台市三神峯に完成した仙台陸軍幼年学校に転校した。昭和20年(1945)8月の配線まで、49期生におよんだ。仙台幼年学校の出身者には、多田駿(第1期生)、板垣征四郎(第2期生)、土肥原賢二(第2期生)、中島鉄蔵(第4期生)、石原莞爾(第6期生)などがいる。
いくつかの石碑があつまっている。
仙台陸軍地方幼年学校記念碑
1924年(大正13年)3月。軍縮により地方幼年学校が廃止となったことにより、設置された記念碑。
当地=宮城野区五輪時代の仙台陸軍地方幼年学校。
明治42年建立の「皇太子殿下手植えの松」碑と
「明治天皇 昭憲皇太后 御大葬遥拝之地」碑
場所
宮城野原練兵場跡
(宮城野原公園総合運動場)
いまは楽天イーグルスの本拠地、ですね。
この地は、かつて練兵場でした。
明治天皇 大正天皇 御野立所跡
正門入口のすぐ脇に、記念碑がありました。
明治天皇 大正天皇 御野立所跡
第二師団在仙各部隊、将校下士卒等一同によって、昭和2年(1927) 建立
練兵場の北端にあり、戦後に撤去されていたものを昭和44年(1969)に再建したもの
場所
騎兵 捜索 第二聯隊之跡
明治40年(1907)に第2師団編成改正があり、宮城野練兵場の南端に山砲兵第1大隊が設置。大正14年の軍縮によって、山砲兵第1聯隊は新潟高田に移転。
跡地には、騎兵第二聯隊が移転。騎兵第二聯隊は昭和15年(1940)に乗馬中隊と軽装甲車中隊編成となり、太平洋戦争中は、捜索第二聯隊と称された。
東海道
騎兵 捜索 第二聯隊之跡
東街道
東街道は「あずま」への道で白河から多賀城までの道であった。
この街道は仙台市では、鈎取から木ノ下の西、宮城野原を経て多賀城に、向かっていた。
騎兵捜索第二聯隊之跡
大正14年 川内からこの地に移駐
宮城野の 萩喰いさかる 軍馬かな
虚子
場所
※撮影:2023年8月