サイトアイコン 近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝

拓魂公苑(満洲開拓殉難者之碑)

令和元年8月撮影

聖蹟桜ヶ丘駅からバスで「記念館」まで。
聖蹟記念館のある「桜ヶ丘公園」の手前に「満洲開拓殉難者」を祀る聖域がある。

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満洲開拓殉難者之碑
「拓魂」碑

(表面)
拓魂

(裏面)
満洲開拓受難者之碑
 昭和38年4月
 満洲開拓殉難碑建立委員会建之
  加藤寛治書

満蒙の荒野に無残に散った8万の開拓者と、その人々を守りつつ自らも逝った関係者多数の御霊を祀る。

合掌

この土地(1,621平方メートル)と満州開拓の歴史を刻んだ拓魂碑などは、社団法人全国拓友協会の厚意により都市計画公園用地及び紀念碑等として東京都が寄贈を受けたものです。
 平成13年3月
  東京都

満洲開拓殉難者之碑建設の由来
 この碑は、満蒙の荒野に無残に散った八万の開拓者と、その人々を守りつつ自らも逝った関係者多数の御霊が合祀してあります
 昭和7年(1932年)はじめられた、満洲の開拓事業は、満蒙の天地に世界に、比類なき民族協和の平和村建設と、祖国の防衛という高い日本民族の理想を実現するために、重大国策として、時の政府により行われたものであります
 凍土をおこし黒土を耕し、三十万の開拓農民は、日夜祖国の運命を想いながら黙々と開拓の鍬を振るいました
 然し、その理想の達せられんとした昭和20年の夏、思わざる祖国の敗戦により、地と汗の建設は一瞬にして崩れ去り、八万余の拓士と関係者は、満蒙の夏草の中に露と消えていきました
 そして、そこには、未だ一輪の花も供えられたことはないのです
 ここに同志相図り、水漬きこの多摩川の丘に一碑を建てて、祖国と民族のために、雄々しく不屈の開拓を戦い抜き、そして散っていった亡きこれらの人々の御霊をお祀りするとともに、再びかかる悲しみのおこることなき世界の平和の実現を、心からお祈りせんとするものです
 昭和三十八年八月  
 建設委員長 安井 謙

 上掲の由来文にもあるように、非業に斃れた満洲開拓犠牲者の御霊を祀るべく、関係者相図り、昭和三十二年に国や全国都道府県の強力なご支援と、内閣総理大臣や各国務大臣を歴任された方々など多くの有識者のご理解とご協力のもと、満洲開拓殉難者之碑建設委員会(委員長 安井誠一東京都知事)が発足し、その後、跡を継いだ実弟の安井謙氏(後の参議院議長)を筆頭とする建設委員会各位の並々ならぬご尽力によって、同三十八年ようやく満洲開拓に所縁のある景勝の地、ここ聖蹟桜ヶ丘の一角を選定して土地を取得し、その中央に拓魂碑を建立、同年八月十日に除幕式が執り行われました。
 さらにその後、碑の周囲を取り巻くように、関係者それぞれが在満当時所属していた開拓団ごとの団碑の建立も逐次行われ、その総数百七十三基を数えるに至り現在見られるような拓魂公苑に整備されました。
 爾来三十有余年、全国拓友協会と拓魂碑奉賛会の共催のもとに桜花爛漫の四月第二日曜日を「拓魂祭」の例祭日と決め、毎年毎年全国津々浦々から集い来る老若男女の数は、たとえ荒天風雨の日となるも一〇〇〇名を下ることはなく、各々がこの拓魂碑および各団碑の前にぬかずき、香を焚き花を捧げ、在りし日の肉親縁者や同志を偲ぶ慰霊の行事を続けて今日に至りました。
 いま、私ども満洲開拓関係者の最大の悲願は、この公苑と拓魂碑等の永久護持にありますが、そのための方途として、この度理解ある関係各位のご尽力と、東京都知事のご英断により、これらを都有施設としてお引き受け戴くとともに、爾後の維持管理をもお願いすることになりました。
 それに伴い、ここに全国拓友協会の所有にかかる公苑敷地一六二一㎡及び樹木、拓魂碑、団碑等の一切を東京都に寄付することと致しました。
 拓魂よ永遠なれと念じつつ。 
 
 平成十三年一月吉日  
 社団法人全国拓友協会 会長 戸谷義次

柵のように見える石柱はひとつひとつが慰霊碑です。

拓魂碑を中心に左右を囲むように開拓団ごとに慰霊の団碑が建立され、その数は173基に及ぶという。

慰霊の団碑(むかって左)

慰霊の団碑(むかって右)

中央には桜の木。春はさぞかし美しい空間となるだろう。。。

桧山桜
 中隊長の遺徳を偲んで
 昭和四十七年建碑記念樹 第三次桧山中隊生存者一同

入り口には「馬頭観音」

場所

すぐとなりは、聖蹟記念館。

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