令和元年9月撮影
愛知県名古屋市千種区城山町
城山八幡宮境内、昭和塾堂の場所はかつての末森城二の丸に位置する。
日没の直前でしたが、時間があったので脚を運んでみました。
目次
位置関係
昭和塾堂
愛知県が青年向けの社会教育のために建設した教育施設。
愛知県が城山八幡宮より境内を借り受けて建設。
昭和3年(1928)11月竣工。
地下1階、地上3階、塔屋4階、鉄筋コンクリート構造。
当時の日本建築構造学の権威、佐野利器(としかた)博士の助言のもとに愛知県営繕課酒井勝、足立武郎(設計主任)、黒川巳喜(意匠図・黒川紀章の父)、尾鍋邦彦(構造図)等が設計。
昭和塾堂の命名は第21代愛知県知事柴田善三郎による。
(その後、佐野利器博士は、明治神宮造営局参事を務め、名古屋市庁舎・愛知県庁舎建設の顧問にも就任している。)
昭和改元の記念事業として、柴田知事が中心となり青年教育・社会教育の施設「教化殿堂」として建設。
真上から見ても横から見ても「人文字型」に見える設計は、この施設の目的「人づくり」を表現したものとなっている。
昭和18年には軍部に接収され、陸軍の東海軍司令部(東海軍管区司令部・岡田資陸軍中将・第13方面軍司令官 兼 東海軍管区司令官)として使用。
戦後は名古屋大学医学部、愛知県教育文化研究所、名古屋市千種区仮庁舎などを経て、愛知大学院大学大学院歯学部研究棟として使用された。
昭和42年(1967)に愛知県から城山八幡神社に払い下げ。名古屋大学院大学との賃貸借契約は平成29年(2017)に終了している。
現在は城山八幡宮の管理。
昭和塾堂・写真
昭和塾堂付属体育館
昭和6年(1931)建設。木造平屋建。
現在は武道場「養心殿」として使用されている。
城山八幡宮>昭和塾堂
名古屋大学医学部>愛知縣昭和塾堂概要
名古屋市>千種区
靖國神社遥拝鳥居
殉国碑・忠魂碑(城山八幡宮境内)
殉国碑・忠魂碑
当地、旧田代村の田代小学校校庭に明治以来建っていたもので、昭和21年その維持管理と英霊(田代村出身の戦病死軍人)の慰霊顕彰を目的として当境内に移転されたものである。
靖國神社遥拝鳥居
当碑を通して靖國神社を遥拝する為の標として、昭和62年春、忠魂碑移設40年を記念し「城山三十日講」により造られたものである。
十山字錨
東海海軍連合会誌之
十字字錨
此の錨は往時横須賀港において大型艦艇停泊時の繋留用ブイ繋止錨として使用されたものであります。
重量は四、五トン明治年間の製造と推定されます。
昭和五十五年東海海軍連合会が海上自衛隊より払下げを受け城山三十日講の手によって設置されました。
錨は平和のシンボルでもあり海洋にて戦没された軍人軍属の御霊代として建立したものであります。
昭和六十一年十月誌
東海海軍連合会
城山八幡宮・末森城址
戦国時代の織田氏の末森城跡。
天文17年(1548)に織田信秀(織田信長の父)が築城し居城とした。
信秀死後は織田信勝(織田信行・信長の実弟)の城となるが、信長との争いに破れ謀殺される。
その後、末森城は廃城となるが、小牧・長久手の戦いに際して織田信雄が再利用をしている。
城山八幡宮は、織田信行時代の天文22年(1553)に、加賀白山比咩神社を分霊して白山社を祀ったことにはじまり、明治45年(1912)に末森城址が八幡宮の所有となり、近隣神社と合祀して、昭和11年(1936)に現在地に遷座。昭和31年に「城山八幡宮」と改称。
城山八幡宮 公式サイト 由緒
末盛城跡
天文17年(1548)織田信秀はこの地に城を築き、古渡城から移った。守山城を守る弟信光と連携して、三河の今川方に対する備えのためであった。翌年、信秀はこの城で病死し、三男信行が城主となった。その後、信行は兄のぶながと対立し、稲生原の合戦を起こして敗れ、永禄元年(1558)清洲城で謀殺された。城は翌年廃城となったといわれる。
城山八幡宮の境内として保護されたため、戦国・織豊期の城郭遺稿がよく残っている。
名古屋市教育委員会
近隣には、近代建築として
昭和3年竣工「愛知学院大学楠元学舎第1号館」(旧・ 旧制愛知中学本館 )
大正12年竣工「名古屋地方気象台」
そして、名古屋陸軍墓地などもあるが時間切れ。またの機会。
〆