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濃飛護國神社(大垣)

2024年6月に大垣に立ち寄る機会があったので、大垣城の護國神社を参拝してきました。
御英霊に感謝を。

時間の都合で、午前5時台という早朝参拝でした。
社務所開始前のために、御朱印などはいただけず。また再訪したいものです。


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濃飛護國神社

大垣城址(大垣公園)に鎮座する。
岐阜県(主として西濃・飛騨地方)出身の戦没者1万8900余柱を祀る。

現在、岐阜県には主要な護國神社が3つ存在している。
「濃飛護國神社」「岐阜護國神社」「飛騨護國神社」

創立の順番
 1870年(明治3年)  大垣城内に大垣招魂社(後の濃飛護國神社)
 1909年(明治42年) 高山城址に飛騨招魂社(後の飛騨護國神社)
 1940年(昭和15年) 岐阜城金華山の麓に岐阜護國神社

1869年(明治2年)、旧大垣藩主・戸田氏共が戊辰戦争に参加した大垣藩士の戦死者54名を祀るため、大垣城下の操練場に仮招魂祠を創建したのに始まる。
1870年(明治3年)に大垣城内に「大垣招魂社」(後の濃飛護國神社)が創建。
1875年(明治8年)9月、国庫から毎年神饌、祭祀料、営繕費が支給されることになり、「官祭招魂社」(大垣招魂社)となった。

1939年(昭和14年)3月27日に官祭「濃飛招魂社」に改称し、次いで「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年3月15日内務省令第12號)による同年4月1日の官報告示を以って内務省指定の「濃飛護國神社」と改称した。
社殿造営工事中の1945年(昭和20年)7月29日、大垣空襲で本殿、拝殿、社務所を全焼。
現在の社殿は、1956年(昭和31年)4月に起工。1958年(昭和33年)4月21日に本殿が竣工し、翌1959年(昭和34年)に幣殿及び拝殿が竣工。

岐阜県内では、濃飛護國神社と岐阜護國神社が、内務省指定護國神社となっている。(飛騨護國神社は指定外護國神社)

濃飛護國神社
陸軍大将 林仙之書

社号標は、大日本傷痍軍人会大垣市分会による建立。
林仙之は、大日本傷痍軍人協会会長を勤めていた縁で揮毫。

参道

1965年(昭和40年)に、西濃運輸(現・セイノーホールディングス)創業者・田口利八が大鳥居を奉納。

1959年(昭和34年)に幣殿及び拝殿が竣工。

官祭招魂社
陸軍中将 上田太郎 謹書

濃飛護國神社になる前時代の社号標。
上田太郎は岐阜県出身。第19師団長などを歴任。

濃飛護國神社裏参道
天皇陛下皇后陛下御親拝記念

昭和40年に岐阜国体行啓にあわせて御親拝されている。

御本殿


神馬像(濃飛護國神社)

日露戦役満二十五週年記念

招魂社

天皇陛下 皇后陛下 行幸啓記念

昭和40年に岐阜国体行啓にあわせて御親拝


石灯籠(濃飛護國神社)

愛国婦人会安八郡幹事部
明治43年4月建之


忠魂顕彰之碑(濃飛護國神社)

忠魂顕彰之碑
戦さのため若くして異国の地に散られ給ひし御霊の華は 
郷土の幸を祈りて永久に美しく咲き給ふ
拝礼


傷痍之碑(濃飛護國神社)

傷痍之碑
日傷援護議員協議会々長 衆 議 院 議 員 武藤嘉文 書

平成元年3月吉日建之
財団法人岐阜県傷痍軍人会西濃支部


恒久平和之碑(濃飛護國神社)

恒久平和之碑
シベリヤ抑留者ダモイ会
 今川順夫書

平和記念碑建立の志
 昭和20年8月15日に、第二次世界大戦は漸く終戦を迎える事が出来た。しかしその当時旧満洲地区に居た約60万の日本軍将兵及び民間人は、直ちにソ連軍の支配下に入り、極寒のシベリア地区抑留の身となった。
 ラーゲル(収容所)生活では、粗末な服装と僅かな食糧を与えられただけで、冬は零下60度の寒さに耐え、夏はブヨとダニの猛襲に悩まされ、シベリアの雪の中での大木の伐採や、バム鉄道(第2シベリア鉄道)の路盤工事、炭坑での石炭堀等の重労働を強いられ、明日の命が誰一人として保証されなかった中で、男泣きに泣きながら歯を食いしばり唯ひたすら「何時かはダモイ」(日本へ帰る)皆でダモイ・ダモイを合言葉に、それを一つの盾とし、又大きな励みとして、一日も早いダモイに望をかけ、厳しい労働に耐え忍び、漸く生き伸びて帰還することが出来たのである。
 しかし中には飢餓と酷寒と重労働など、あまりにも生き地獄のような過酷な条件に耐え切れず、幾多の戦友がシベリアの地に散っていった。その数は6万とも10万ともいわれて居る。
 今思いを致せば当時のシベリアの悲惨さが、脳裏に深く焼き付き、改めて平和の尊さが偲ばれるのである。
 私達シベリア抑留者西濃地区ダモイ会会員一同は、これらの悲惨な戦争は二度としてはならないと心に誓い合い、永遠の人類平和のために此処に平和の碑を建立し、後世に残すものである。
 1991年(平成3年)8月9日
   大垣市・西濃地区ダモイ会  会長 今川順夫

此の恒久平和の碑は1945年、中国満州の地において終戦、日本に帰れると思ったら、ロシヤ軍によって強制連行され日本兵約60万人以上の人が極寒のシベリアの地において飢餓と、重労働に苦しみながら約6万人以上異国の土と化した。 明日の命がだれ一人として保証されなかったなかで、このような悲惨なことが二度とあってはならないと平和の誓いを込めてこの碑を建立しました。
   大垣西濃地区ダモイ会(ダモイとは帰る)
  「国の賠償に代わる労務提供者」として我々は抑留された。


大垣城址

大垣城は国宝に指定されていたが、昭和20年(1945年)7月29日の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失している。

※撮影:2024年6月


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