岐阜県岐阜市の稲葉山の麓にある岐阜護國神社。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。
御英霊に感謝を。
目次
岐阜護國神社
岐阜城の築かれた金華山の北麓に鎮座する。戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでの、岐阜・中濃・東濃各地区出身の英霊37,800余柱を祀る。
現在、岐阜県には主要な護國神社が3つ存在している。
「濃飛護國神社」「岐阜護國神社」「飛騨護國神社」
創立の順番
1870年(明治3年) 大垣城内に大垣招魂社(後の濃飛護國神社)
1909年(明治42年) 高山城址に飛騨招魂社(後の飛騨護國神社)
1940年(昭和15年) 岐阜城金華山の麓に岐阜護國神社
岐阜県内には、1870年(明治3年)に大垣城内に大垣招魂社(後の濃飛護國神社)が創建。
1909年(明治42年)に高山城址に飛騨招魂社(後の飛騨護國神社)が創建。
岐阜市ほか10郡には招魂社がなかった。日露戦争後の1908年(明治41年)、岐阜市郊外の稲葉郡北長森村(現・岐阜市野一色)に陸軍歩兵第68聯隊が設置され、1917年(大正6年)に稲葉郡那加村(現・各務原市)に陸軍各務原飛行場が開設されると、当地出身の英霊を祀る招魂社建立の機運が高まった。
1918年(大正7年)に歩兵第68聯隊は岐阜県知事、市町村長及び在郷軍人などの有志と共に招魂社の創建を企画したが実現しなかった。
1937年(昭和12年)の支那事変勃発に伴い、1939年(昭和14年)3月10日に2市10郡209ケ村の代表者が内務省へ創立を出願し、内務大臣から創立許可を受けた。
翌1940年(昭和15年)11月に社殿が竣工、同19日に鎮座の儀、翌20日に幣帛供進の儀が執り行われて「岐阜護國神社」と称し、内務大臣指定護国神社に指定され創建した。
結果、岐阜護國神社は、創建は後発であったが、岐阜県内では、濃飛護國神社と岐阜護國神社が、内務省指定護國神社となった。(飛騨護國神社は指定外護國神社)
御英霊に感謝を。
岐阜護國神社
御朱印(岐阜護國神社)
御朱印をいただきました。
霊璽簿奉安殿(岐阜護國神社)
英霊の霊璽簿(名簿)を護る耐火耐震造の奉安殿
招魂祭場(岐阜護國神社)
御英霊の御霊をお招きする場。
招魂斎場
新たに御英霊を御本殿にお祀りする際に、御霊をお招きする招魂祭を行う場所です。
中央にある、美しく苔むした磐座に御英霊の御霊をお招きします。
御霊は依代に遷され、御本殿にお祀りされます。
足乳根宮(岐阜護國神社)
足乳根宮(たらちね宮)
女性の悩み・出会い
英霊に支えられた女性(母・妻・恋人など)を女神としてお祀りしとります。
女性の参拝にはある時は母、ある時は姉、またある時は先輩、友人とお姿を変え、女性の悩みをお聞きいただき導いて下さる神様として信仰されています。
愚多羅愚多羅のかわらけ割り
(岐阜護國神社)
民俗風習が同居している護國神社は珍しい。
河童堂(岐阜護國神社)
土着の水神様の使いとしてカッパを祀る。
河童堂
水難守護・水練上達・無病息災
当社が創建される以前、この地は長良川の河川敷で沼地が広がり、古くから河童が棲むといわれていました。
水の神様の使いである河童をお祀りし土地の鎮めをしています。
毎年7月に子供の水難防止・水練上達・無病息災を祈念する河童祭が行われ、河童の仮装をした子供達が参列します。
御神田(岐阜護國神社)
中央に河童がいますね。
大八州(岐阜護國神社)
我が国の雅称。大八洲国。
岐阜護國神社の境内の庭は、大八洲を見立てた庭造りとなっている。
鵜飼桜(岐阜護國神社)
岐阜市内きっての早咲き桜
鎮霊社(岐阜護國神社)
戦災犠牲者(空襲や海外移民、敵味方を問わず)及び無縁の遺族や遺骨を祀る鎮霊社
また、サイパンテニアン両島の遺骨が分骨祭祀されている。
この御社には先の大戦の戦没将兵の他にも空襲や海外移住民などの多くの犠牲者が祀られています 人は誰しもが その所を得て祀られねばなりません 友敵恩仇を問わず 不祀怨念もいまは解脱供養し万霊を浄斎して大平を祈ります 正殿の御英霊も靖国なす神と転生され安心されますよう鎮魂の御社です
霊社は伊勢の神宮古殿賜材・霊像に大秡詞と般若心経・床下には戦跡地よりの収骨・遺品を納めた家郷の墳墓です。
昭和53年終戦33年忌建立
平和之碑(岐阜護國神社)
岐阜県フィリピン慰霊碑建立奉賛会により、昭和54年5月7日、比島ルソン島リサール州モンタルバン町に建立除幕された。
「岐阜県出身戦没者慰霊碑」「主碑」を周辺環境の変化、遺族、戦友の高齢化等による慰霊巡拝の激減により、将来の慰霊碑の管理等を考慮し、慰霊碑「主碑」を撤去し、ご英霊を郷土岐阜県へお帰り願うこととし、平成16年4月、ご英霊お迎えの慰霊巡拝を行い、4月20日現地で還霊祭を斎行し、碑の撤去を行ったものである。
この「平和之碑」は、撤去された「主碑」の銘板であり、岐阜県へ持ち返り、平成16年7月18日還幸祭を行い、ここに安置するものである。
なお、レイテ島に建立してある「副碑」は、現地オルモック市により日比親善の碑として永久管理されます。
防人群像(岐阜護國神社)
防人とは御英霊のことで、ここではサイパンのバンザイクリフに見立て、御英霊が遠く日本の未来を信じ、玉砕する様子を表している。(愛知文明作)
「郷国思慕」
昭和の戦いは万葉のむかしから、うたい継がれた海ゆかばで兵士は出征し、大君の辺にこそ死なめの歌さながらに散華されました。
防人はその兵士の古称です。
昭和五十九年五月十三日 寄進
発起 サイパン、テニアン遺族会
庭師寄進碑(岐阜護國神社)
終戦二十三年忌 庭師寄進碑
戦友乃 みたま弔う 時得しと
庭のたくみも わざをつくしぬ
終戦二十三年忌盛夏建立
庭師らが記念の寄進なり
神馬像(岐阜護國神社)
陸海軍軍人ニ下シ給ヘル勅諭之碑
(岐阜護國神社)
留守第3師団長 陸軍中将 曽田孝一郎
曽田孝一郎は陸士5期、陸大16期。満洲軍参謀、台湾総督府陸軍部参謀長、台湾軍初代参謀長、鎮海湾要塞司令官などを歴任。大正15年予備役。昭和3年消臭され、留守第3師団長(名古屋・本体は山東出兵)に着任している。
境内風景(岐阜護國神社)
かつての扁額かな。
本神社は長良川河畔に位置するため、浸水を防ぐために境内を囲むように防水壁が設けられいる。
そして、洪水時に使用される陸閘もところどころに設けられている
金華山の山頂に岐阜城が見える。
岐阜護國神社から見ると、かなり高い。
岐阜城
標高329mの金華山(稲葉山)。
山頂には、復興模擬天守がある。昭和31年落成。
引き続き、岐阜護國神社の周辺を散策
明治大帝聖像
明治天皇ご崩御100年に岐阜公園千畳敷に建立されたものを移設。
平成24年3月。
明治大帝
明治天皇は御名を睦仁、御幼稱は祐宮と申し、孝明天皇の第二皇子として嘉永五年九月二十二日(陽暦十一月三日)京都御所朔平門外の權大納言中山忠能邸内後産所に於て誕生せられた。 御生母は忠能の女、從一位勳一等中山慶子である。 萬延元年七月十日准后夙子(後の英照皇太后)の御子として儲君に治定せられ、次いで九月二十八日親王宣下を受けられ、慶應二年十二月御父天皇が崩御されるや、翌三年正月九日踐祚せられた。 時に御年十六である。 翌四年八月二十七日即位の禮を/擧げられ、同年九月八日明治と改元あり、御在位四十六年に亘られたが、明治四十五年七月三十日御年六十一を以て崩御せられた。 翌八月二十五日御追號を定めて明治天皇と稱し奉り、九月十五日御遺旨によつて、京都府紀伊郡堀内村大字堀内字古城山(京都市伏見區桃山町古城山)に斂葬し奉つた。 御陵名は伏見桃山陵と申上げる。 「御資性英武嚴明にあらせられ、而して善く侍補耳に逆ふの諫を嘉納し給ふ、是れ眞に寛仁大度の君徳に適はせ給ひて大舜太宗に揆を同うし給うなり」とは侍講元田永孚が納諫の御盛徳を稱揚し奉つた語である。
御製 述懐
いにしへのふみ見るたびに思ふかな
おのがをさむる國はいかにと
照古鑑今 源深流長
今日、我が日本の輝かしい繁栄の、もといを築かれた明治天皇の御遺徳を永く顕彰し、国民等しく、これを景慕するため、明治100年・昭和43年を追憶して御料林・国有林・金華山のふもとに、御遺旨によって斂葬し奉つた伏見桃山陵に対峙して、崩御の御命日に聖像を建立する。
明治大帝崩御百年のこの年に明治大帝のご偉功を後世に末永く継承することを旨として昭和四十七年に岐阜公園千畳敷に建立された明治大帝聖像を「明治大帝崩御百年聖像移設委員会」の提言により多くの方々に親しんで頂けることを願いこの地に移設する
明治大帝崩御百年聖像移設委員会
平成二十四年三月
場所
満蒙開拓青年義勇軍 伊藤中隊慰霊碑
拓魂
満蒙の 野に鍬とりし開拓の 勇士の夢を とわに忘れじ
昭和17年3月5日満蒙の曠野に開拓を夢見 小さな胸に大望を抱いて第三次岐阜中隊を編成 中隊長伊藤喜馬太氏外二百八十九名 茨城県内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所に入所 同年四月二十七日親兄弟と別離の哀しみを胸に秘め曠漠たる満洲の地四平省昌図青年義勇隊訓練所に入所 夏は水沸く猛暑に悪疫と闘い 冬は零下三十余度の酷寒をものともせず農事に亦軍事訓練に励み一意祖国日本の為と信じつゝ互いに励まし助け合い 昭和二十年三月 三ヶ年の義勇隊訓練を模範中隊として修了した
その後大東亜戦争酣と成り一部は軍奉仕に出動他は銃と鍬を肩に氷雪未だ解けやらぬソ満国境 虎林県五十鈴開拓団に入植 開拓精神に則り日夜健闘したが同年八月十日未明突如ソ聯軍の参戦により我等の夢は空しく破れ去り宝西城外にて最悪の戦闘状態となり中隊長外若い義勇隊員四十九名 父母を呼びつゝ異国の夏草を血に染め散った同志のなきがらを手厚く葬むる事も出来ず心ならずも二十有余年の歳月は流れた
幸い 我等無事帰国した者 会い集い茲に同志の冥福を祈り永遠にその栄光を称えて故郷の地にこの碑を建立する
昭和四十一年三月
伊藤中隊帰還者一同
追碑文
雄途心ざし、満蒙開拓青少年義勇軍として国策に呼応し、華々しく満蒙の荒野の地に移住し、希望の達成に全魂を傾け、食糧増産、軍事訓練にいそしむも、戦局は悪化し敗戦の終結となり、志し半ばにして戦後九死に一生を得て帰郷し、国土復興に、又自らの生活のため苦難に打ち勝ち最善を重ね、今日の繁栄ある郷土と社会を築き挙げ、ここに歓喜に満ちた人生を期して居ることに万福の感がある。
時を追憶すれば日時の経つのは早いもので、渡満半世紀を得る年齢を重ねてきました。
ここに生ある者として、残れる同志拓友は、五十周年を記念として現碑に無き友の銘記、併せて生存者の拓友名を刻み、永遠の拓魂に追碑を建立するものである。
平成四年四月吉日
五十鈴拓友会生存者同志
国旗掲揚台
宣揚皇道
陸軍大将松井石根書
松井石根大将の揮毫
大野伴睦 句碑
草に埋もれて、よくわかりませんでした。
大野伴睦先生略歴
先生は明治23年岐阜県山県郡谷合村に生まれ 生来豪放闊達 大志をいだいて上京し 後の首相原敬 鳩山一郎両先生の知遇を得 政界に進出することとなり 後に衆議院議長 国務大臣 自由民主党副総裁などを歴任し 政界の重鎮となった
永年の政治活動においては常に指導的役割を演じ その間 新時代の要請たる保守党の大同団結を実現されたことは日本政治史上特筆すべきである
青年時代から侠気と情熱にあふれ 義理人情に厚く 他面ユーモアを解し 囲碁 俳句をよくし 虎に関する収集などいずれも政界の第一人者として知られている
特に第二次大戦の犠牲者たる軍人遺族の援護については諸種の悪条件を克服し その実績をあげるために全力を傾注されている
下記両団体は先生の多年のご偉業に報いるため 句碑をたて 永く記念することとした
昭和38年3月 岐阜県知事 松野幸泰 撰文
財団法人日本遺族会 岐阜県遺族連合会建之
平和祈念の碑
傷痍軍人の記念碑
本年は 先の大戦の終結より50年になります
苛烈を極めた戦争を身をもって体験し 二度と戦争を繰り返さないよう 傷痍軍人は心より願っております
戦後の荒廃と苦難の道から立上がり 祖国日本の復興に心血を注ぎ筆舌につくせぬ苦労の上 今日の繁栄を迎えたことを誇りとし 平和の大切さを後世にわたり訴えるため ここに日本国及び世界の恒久平和と繁栄を希求する証として 平和祈念の碑を建立します
平成七年十一月
財団法人 岐阜県傷痍軍人会
平和祈念の碑建設委員会
碑名揮毫は、日傷援護議員協議会会長・衆議院議員・武藤嘉文による。
岐阜県戦歿者慰霊塔
慰霊塔
この慰霊塔は日清戦役以後太平洋戦争に至る間に日本の繁栄と平和を念じ戦陣に散華されあるいは戦禍にたおれた人々の霊を慰め後世永くその遺芳を伝えるため岐阜県民の総意によって建設されたものである
昭和三十一年十一月
岐阜県戦没者慰霊塔建設委員会
(世界の平和を願って)
この慰霊塔は昭和三十一年十一月に建設されたものであるが長い年月の経過とともに老朽化したためここに世界の平和を願い全面改修したものである。
平成五年六月
岐阜県戦没者慰霊塔改修委員会
御製
川の辺に あまたの人のつどひ来て
振るともしびを遠く望みぬ
平和一神
1941年に創始された「いわゆる新宗教」の修養団捧誠会による記念碑。
青年日本の歌
いわゆる「昭和維新の歌」。
作者は海軍中尉で、後の五・一五事件に関与した三上卓。
岐阜公園(日中友好庭園)
1989年(平成元年)に、岐阜市と中華人民共和国 杭州市の友好都市提携10周年を記念して作られた庭園。
なぜか、拓友関連の慰霊碑が、この不可思議な公園にある。できることなら、岐阜護國神社に移設してほしいが。。。
慰霊塔・満蒙開拓青少年義勇隊栗田中隊
満蒙開拓青少年義勇隊慰霊碑。
昭和16年3月美濃若人弐百余名茨城県内原訓練所に満洲開拓義勇隊栗田中隊を編成 同年6月渡満浜江省一面波訓練所及び北安省鉄驪訓練所に多年開拓訓練に励む
19年4月永住地北安省綏稜県南長英屯に入植第4次岐阜義勇隊開拓団生まる
20年8月太平洋戦争終戦 団は解散の悲運 幾多団員は業ならず開拓の礎石と仆る
茲に生存者集ひ殉難同志の霊を慰め開拓の雄図を永く後世に伝う
昭和36年9月吉日
岐阜義勇隊開拓団生存者一同建立
栗田会のあゆみ
風雲急をつげる昭和16年3月当時の国策であった
満洲國建設の使命と新天地開拓の夢と希望に燃え 県知事始め各市町村長より激励の言葉と祝辞を受け 県民からは日の丸の旗と歓呼の声援で見送られ岐阜県郷土中隊として日本を後に大陸に渡ったのである
年齢は八割強が14才の少年であった
記
昭和16年3月8日
満蒙開拓青少年義勇軍として 茨城県内原訓練所に入所した
第3大隊第13中隊に編制された
中隊長は栗田英太郎
昭和16年6月
敦賀港より渡満の途につく元満洲国浜江省珠河縣一面波 一面波訓練所に入所した
昭和16年7月
一部留守隊員を残し関東軍特別演習勤労奉仕隊として ソ連国境近くの軍務についた
昭和16年9月
軍勤解除で鉄驪に移行となった
北安省慶安県鉄山包 鉄驪訓練所 第5大隊栗田中隊
昭和17年
大半の隊員は農作業と軍事訓練が日課となる
約50名は将来の村造りに備えて特殊技能修得の為訓練本部特科隊に編入された
昭和19年春
北安省綏稜県北黒馬劉へ 第4次岐阜義勇隊開拓団として入植した
草葺き掘立て小屋の住居建設から村造りを始めた
村造りの進んでいる隣村の四国村に種々便宜を受けた
十余名が技能修得の為派遣された
昭和20年5月
昭和18年頃より年長者から現地現役入営した
20年5月には一度に70余名が入営した
団に残った拓友は43名となった
昭和20年8月
ソ連が参戦し国境を越えて進攻して来た
日本國敗れて終戦となる
その間にも 召集令状が来て一時は二百余名居た同志が 栗田団長他男子が7名女子子供5名となった
最後の入営者が即時帰団で43名となった
昭和20年9月
団本部襲撃を受け付近の開拓団と共に四国村開拓団に集結した
四国村も襲撃を受け死亡者28名
我々同志からも負傷者が2名出た
昭和20年10月
四国村を出て過酷な避難民の旅が始まった
哈尓浜市に向けて南下 途中ソ連軍に連行されシベリヤ行きになった者が3名居た
この頃5月の入営者の大半はシベリヤの収容所に送られ厳寒と食料不足や強制労働で苦労した
昭和20年10月~翌年8月
この間哈尓浜で生活するも 不衛生と栄養不足 マイナス30度を越す寒さでほとんどの者が発疹チブスにかかり生死をさまよう日々であった
この時岐阜市出身の高井勇氏と知り合い世話になった
病気を克服した者から 思い思いに中國人の住み込み働いた
昭和21年8月
哈尓浜を出て新京 奉天の難民収容所を経て 南下コロ島へ集結した
昭和21年10月
夢破れて避難民の姿で帰国した
帰国早々高井氏の発案に協力 栗田の同志により岐阜駅前に ハルピン街を建設した
これが岐阜市のアパレル産業の源となった
事は岐阜新聞の「終戦から半世紀」の連載記事に紹介されたとおりである
昭和21年~24年
一部中途で進路を変え離農した者も同じく入営しシベリヤに多くが抑留されシベリヤ収容所で苦労した者も逐次帰国祖国の土を踏んだ
昭和27年
戦病死等で不帰の人となった同志の第1回慰霊祭を行ない次年度からは各地で会合を開き旧交を温めた
昭和36年
拓友同志の霊を祀るため 尊い浄財を集めて慰霊塔を金華山水道山に建立した
爾後9月に慰霊の会を催す事を決めた
昭和48年9月
栗田会として発足した
平成元年
四国村引揚者と交流が始まり旧交を温めた
平成3年
栗田会の会員による渡満50周年を記念し思い出の書「青春の追憶」を発行した
日中友好訪中団を結成し栗田会の有志が昭和57年61年と平成3年に訪中し ゆかりの地を訪問残留孤児と対話激励等を行った。
平成7年
終戦後50年水道山からこの地に再び浄財を募り慰霊塔を移設併せて追碑を建立し慰霊祭を行ない生存者の念願を叶えて今は亡き拓友に心から哀悼の誠を捧げる
平成七年九月吉日 栗田会生存者一同
昭和の歴史に残る五十有余年前昭和16年国策としての大事業に僅か14 5歳の少年が中国東北部旧満州に 満蒙開拓青少年義勇軍として我ら栗田中隊二百有余名は 鋤 鍬あるときは銃を手に王道楽土の建設 五族共和の夢を胸に北満の地に渡りしが 図らずも昭和20年敗戦に夢破れ九死に一生を得 裸一貫で帰国 戦後の荒廃した社会のなかで郷土復興 自活の為と根性で恵まれた郷土社会を築き上げた 不運にも異国の地に骨を埋めた拓友同志の霊を祀るため 昭和36年金華山中腹に慰霊塔を建立 慰霊祭を行い青春を追憶慰霊し歓喜してきた今日 年老いて金華山での慰霊祭も至難となり 寂しさを痛感するとき岐阜公園に移設することとなった
この機を記念し拓友同志の名を刻み 後世に記す追碑を建立す
拓友生存者の念願を叶えた戦後半世紀の記念すべき年である
兵戈無用 世界はひとつ
平成七年九月吉日
栗田会 拓友生存者一同
拓友之碑・満蒙開拓義勇隊横山中隊
同じく、満蒙開拓青少年義勇隊の慰霊碑。
拓友之碑
維時大東亜戦争熾烈の半、昭和18年錦秋我々満蒙開拓義勇隊岐阜県中隊は、日本民族繁栄の一翼として墳墓の地に袂別し勇躍渡満以来、現地の厳寒酷暑と闘いつつ開拓に専念す。 然るに図らんや戦争の終結に遭遇し、その夢と事業は遂に水泡に帰し死亡或は雄図空しく生還し今日に至る
而して戦後二十星霜を閲したる現在と雖も、吾々愛国の至誠は不変にして母国の永遠の平和と郷土発展に努力せんことを誓い、併せて義勇開拓精神の同志の魂の寄り処としてこの聖地を選び記念の碑を建立す
昭和四十年八月十五日
旧横山中隊 朋友会一同
教士 馬渕 勲 文
中国人殉難者之碑
中国人殉難者之碑
平野三郎書
碑文
太平洋戦争の末期 日本国内において軍関係の建設工事に従事された中国人が約四万人あり このうち六八三〇人に及ぶ多数のひとびとが殉難されました
岐阜県においても一六八九人が高山市 瑞浪市 各務原市および加茂郡川辺町で従事せられ七三人が殉難されております
遠い異郷の地で亡くなられたこれらのひとびとの冥福を祈り ここにその事蹟を永く後世に伝えるとともに 県民をあげて友好親善の誓いを新たにし 日中両国恒久の平和を祈念してこの碑を建設したものであります
昭和四十七年六月
岐阜県中国人殉難者慰霊事業実行委員会会長
岐阜県知事 平野三郎
岐阜杭州友好盟約記念碑
中日両国人民世世代代友好下去
昭和37(1962)年9月、杭州・王子達市長と岐阜・松尾吾策市長との間で碑文が交換されたことを記念して建立されたもの。
日本国と中華人民共和国の間で「日中国交正常化交渉」が行われた昭和47(1972)年より10年前にあたる。
杭州っぽいらしい。
西湖を模して作られた池。
※撮影:2023年9月