神奈川宿を散策した流れで、神奈川台場跡地も散策してみる。
なんとなくの流れですが。
目次
神奈川台場
江戸時代末期に勝海舟により設計され伊予松山藩が築造した台場。
現場総指揮は平野弥十郎(「しょこたん」こと中川翔子の御先祖様。母方の五世祖父にあたる。)。
平野弥十郎は、土木工事の請負として、(品川台場、1854年)、神奈川台場工事(1858年)、築地ホテル館建築工事(1865年)、東京~横浜間鉄道工事(高輪築堤、1869年)といった日本の近代化に関わる大工事を請け負っている。
神奈川台場は、東京湾に侵攻してきた船舶に対する防衛を目的として築造された。
海岸から東京湾に突き出るように埋め立てられ、他の台場には見られない船溜まりという構造を持っていた。
総面積は約2万6000平方メートルで、埋立には付近の権現山(神奈川県神奈川区幸ヶ谷。頂部は現在の横浜市立幸ヶ谷小学校の敷地に該当)の土砂が使われた。
1860年(万延元年)に竣工。
砲台を設置していたが実戦に使用されたことはなく、諸外国の貴賓が港に入った際に祝砲を上げるに留まっている。
1899年(明治32年)に、台場としての施設廃止後の跡地は転用され、現在はJR貨物の東高島駅の敷地などとして利用されている。
神奈川台場は、羽を広げたコウモリのような形をしていることから通称「コウモリ台場」とも呼ばれ、欧州の城などをモデルにして造られたとされる。対近代戦用の稜堡式城郭として、扇型に近い形状で3つの稜堡星形の形状を伴っている台場、である。
14門の大砲が設置され、前面(大砲の照準方向)は、約2.4km離れた象の鼻方面を向いていたという。
象の鼻(横浜開港時の東波止場)も、黎明期の横浜港の重要な港湾建造物。
位置関係
今昔マップ
なるほど、コウモリ台場だ。コウモリの形をしている。
神奈川台場跡(西部)
JR貨物の東高島駅の西側。内陸側。石垣が残っている。
神奈川台場跡
安政6年(1859年)5月、幕府は伊予松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。
当時の台場は総面積2万6千余平方メートル(約8千坪)の海に突き出た扇形で、約7万両の費用と 工期約1年を要し、万延元年(1860年)6月竣工した。
明治32年(1899年)2月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正10年(1921年)頃から 埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。
場所
神奈川台場公園
神奈川台場公園は海に築かれた台場と陸地をつなぐための通路である「西取渡り道」があった場所。
神奈川台場跡(西部)とセットのエリア。
資料展示がメインの公園。メインの遺跡は地下に眠っている。
地図と絵に見る神奈川台場の歴史
横浜の開港により、開港場の付属施設として「神奈川台場」が築造されました。
安政6年(1859)5月、幕府が伊予松山藩に砲台の構築を命じ、勝海舟が設計にあたりました。
約7万両の費用と約1年の工期を要し、万延元年(1860)6月に竣工した当時の台場は、総面積2万6千㎡(約8千坪)で、海に突き出た扇形をしていました。
明治32年(1899)2月に廃止されるまで、礼砲や祝砲を発射する施設として使われていましたが、大正10年頃から埋め立てられ、いま地上部には石垣の一部だけが残っています。
神奈川台場関係年表(月日は和暦)
弘化2(1845)年
2月 アメリカ捕鯨船メルカドル号が浦賀入港を求める。この年、幕府が三浦郡鶴崎に台場を新設。
弘化3(1846)年
閏5月27日 ビッドル艦隊が浦賀に入港、通商を求める。
6月28日 鎌倉沖にデンマーク船発見。
嘉永2(1849)年
1月 浦賀奉行が三浦郡観音崎・十石・旗山・猿島台場を視察。
閏4月8日 イギリス船マリーナ号が東京湾に侵入。
嘉永5(1852)年
4月19日 幕府が三浦郡観音崎に新造した台場を川越藩に引き渡す。
嘉永6(1853)年
6月3日 ペリーが浦賀沖に来航。
6月8日 ペリー久里浜に上陸、アメリカ合衆国大統領の国書を幕府に渡す。
7月18日 ロシア使節プチャーチンが長崎に来航。
8月24日 幕府が品川台場の築造に着手。
11月1日 幕府が徳川斎昭の主張を入れ「海防の大号令」を発令。
嘉永7(1854)年
1月16日 ペリー艦隊が小柴沖に錨をおろす。
3月3日 日米和親条約締結。
安政3(1856)年
7月21日 アメリカ総領事ハリスが下田に来航。
安政4(1857)年
4月28日 幕府が松山藩に神奈川宿周辺地域の警備を命じる。この年、松山藩が神奈川宿の並木町に台場を築造する。この台場は神奈川台場が完成した頃に廃止された。
安政5(1858)年
6月19日 日米修好通商条約締結。その後、オランダ・ロシア・イギリス・フランスと同様の条約を締結。
12月13日 松山藩が幕府に神奈川宿の猟師町のどこに台場(神奈川台場)を築造すべきかをうかがう文書を提出する。
安政6(1859)年
5月 神奈川台場仕様書と入用内訳書が作成される。
6月2日 横浜が開港する。
7月 神奈川台場の工事が始まる。
万延1(1860)年
6月19日 神奈川台場が竣工。松山藩主松平勝成が視察する。
文久2(1862)年
8月21日 生麦村でイギリス人が薩摩藩の藩士に殺害される(生麦事件)。
慶応2(1866)年
7月 松山藩が神奈川台場の警備を免除される。その後、台場の警備は慶応3年1月から古河藩が担当する。
慶応4(1868)年
1月3日 戊辰戦争が始まる。
4月24日 神奈川台場が新政府に引き渡される。
9月22日 天皇誕生日を祝って神奈川台場から祝砲を発射する。
明治4(1871)年
9月 神奈川台場が東海鎮守府(海軍省)の管轄となり、明治17(1884)年12月、横須賀鎮守府の管轄に移る。
明治32(1899)年
神奈川台場が廃止された。
前述と同じですが。
神奈川台場跡
安政6年(1859年)5月、幕府は伊予松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。
当時の台場は総面積2万6千余平方メートル(約8千坪)の海に突き出た扇形で、約7万両の費用と 工期約1年を要し、万延元年(1860年)6月竣工した。
明治32年(1899年)2月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正10年(1921年)頃から 埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。
場所
海側に移動。。。
盛大に再開発中で、なおかつ貨物の東高島駅を大迂回しないと線路の向こう側に行けないので、動線はかなり悪い。
「Historia Residense 海舟」に残る石垣
コットンハーバーエリアに到着。
「Historia Residense 海舟」ビル。佳き名称。
石垣がありますね。
神奈川台場跡(星野町公園)
もう一つの台場跡地。ここにも石垣が残っている。
開港百五十周年記念 神奈川台場跡
神奈川台場跡地
安政6年(1859年)5月、幕府は伊予松山藩に命じ、勝海舟の設計で台場(砲台)を構築した。
台場は総面積約26,000㎡(約8,000坪)の海に突き出た扇形で、約7万両の費用と工期約1年を要し、万延元年(1860年)6月竣工した。
国交のある国々と礼砲や祝砲を交換するという、当時の国際港としてはなくてはてはならない重要な役割を担った施設である。
明治32年2月に廃止されるまで台場として使われたが、大正10年(1921年)頃から埋め立てられ、現在では、石垣の一部を残すのみとなった。
神奈川台場と象の鼻
安政5年(1858年)に米、蘭、露、英、仏と通商条約が結ばれ、翌年(1859年)横浜港が開港する。港には波止場が作られ、そのうちの一つ西波止場(イギリス波止場、後の象の鼻)は、国際航路に乗船した旅客の出入や輸出入品の揚げ下ろしに利用された。
初代の波止場は、2本の並行な形状だったが、慶応2年(1866年)の大火をきかっけに道路などが整備されたのにともない、波止場の延長工事がおこなわれた。
この工事によって、東側の波止場は大きく湾曲し、波除けとして機能するようになった。こうして、のちに「象の鼻」と呼ばれる防波堤が誕生した。
台場と波止場は国際港のもっとも重要な施設で、明治4年(1871年)、岩倉具視を全権大使とした使節団が西洋諸国に出発した際にも、「象の鼻」からはしけに乗船し、神奈川台場からは祝砲が打たれている。
2つの史跡は現在もその遺構が残っているが、横浜市では、平成21年(2009年)開港150周年を記念して、開港当時の歴史を現在に伝えるため、神奈川台場の再整備工事、「象の鼻」の復元工事を行った。
位置関係は、これがわかりやすいですね。
石垣が残る。
星野町公園。
なんとなく実施した「神奈川台場跡」散策。
位置的には「瑞穂橋」と連動して、それなりに面白みのある散策になりました。
勝海舟とか、しょこたん中川翔子とか、歴史が絡んでそれもまた面白し。
※撮影:2024年5月