所沢には何度も足を運んでいるし、所沢航空記念公園にも何度も通っているのに、ちゃんとまとめていなかったので、本記事にて「陸軍飛行学校」などの戦跡をまとめておきます。
下記の記事とも連動します。
目次
位置関係
国土地理院航空写真
ファイル:892-C2A-107
1944年(昭和19年)9月24日、日本陸軍撮影
一部拡大
現在の様子
今も昔もはっきりと分かる空間。
陸軍航空学校・所沢陸軍整備学校
大正8年、陸軍航空学校が所沢に開設。フォール大佐を長とするフランス航空団が航空教育を指導。
大正10年、陸軍航空学校は、所沢を本校に、千葉の下志津と伊勢の明野に分校を開設。
大正13年、所沢陸軍飛行学校に改称。
昭和8年、少年航空兵教育が追加。
昭和10年、所沢陸軍飛行学校から機関科が分離し、陸軍航空技術学校が開設。
昭和12年、下士官と少年航空兵の整備科を分離し、陸軍航空整備学校が開設され。所沢陸軍飛行学校は廃止。陸軍士官学校分校に転用。
昭和13年、陸軍士官学校分校は、現在の入間基地の地に移転し陸軍航空士官学校として独立。のち「修武台」と命名される。
昭和16年、陸軍航空技術学校は立川に移転。
昭和18年、所沢陸軍整備学校へと名称変更。
昭和19年、所沢陸軍整備学校の敷地内に「少年飛行兵の像」が建立。
昭和20年、所沢陸軍整備学校は陸軍幹部候補生・少年飛行兵の航空整備技術の中心地として機能し終戦を迎える。
改めて、所沢航空記念公園の散策へ。
有刺鉄線支柱
航空公園駅から、西武線に沿って運動場やスポーツ広場を見ながら南下。
台地と低地の境目、台地側に支柱が数本残っている。
樹木に圧迫されたり。
樹木に取り込まれたり。
当時の航空学校の滑走路地区と学校地区の境目。
航空公園スポーツ広場から北側が、当時の滑走路地区となる。
整備工場跡
テニスコートのあるあたりが、整備工場や倉庫のあった場所という。
不自然に階段が残っている。
西武線のすぐ脇。
テニスコート
所沢飛行場前駅跡(所沢御幸町駅跡)
航空公園の敷地から、少し南に。
昭和13年(1938)6月21日「所沢飛行場前駅」が開業。
所沢陸軍飛行場にあった、所沢航空技術学校の要請による開設であった。
昭和15年(1940)12月1日に、軍施設が明らかになる駅名がよろしくないとして、防諜のために「所沢御幸町駅」と改称。
戦後、所沢飛行場跡に駐留していた在日米軍の貨物輸送の兼ね合いで、所沢御幸町駅を北に2キロ移転させることとなった。そうして昭和26年(1951)6月11日に「北所沢駅(現在の新所沢駅)が開設され、「所沢御幸町駅」は廃駅となった。なお、所沢御幸町駅跡は複線化用地に転用され、何も残されていない。
川を越えるガードの袂の築堤上に張りつくようにしてホームと小さな駅舎が設けられた単式ホーム1面1線の棒線駅で、駅舎へは階段が通じていた、という。
このあたりに「所沢御幸町駅」があったという。
正門跡
所沢御幸町駅跡から、北に向かえば、「所沢航空記念公園」は眼の前。
ちかくには、「陸軍東京憲兵隊赤坂憲兵分隊所沢分遺所」や「旭橋・飛行機新道」などもある。
奥に見える野球場のあたりに、「飛行学校本部」があったという。
防空壕跡
所沢航空記念公園には、ところどころ斜地がある。
下記のあたり、防空壕の跡地、といわれている。
いまは、防空壕は埋められている。
飛行船「雄飛号」格納庫跡
雄飛号の格納庫がこのあたりにあった、という。
雄飛号飛行船
青山練兵場で大破した“パルセバル”飛行船を、臨時軍用気球研究会が改装して誕生した飛行船。岩本周平技師が設計主任となって所沢飛行場の格納庫で製作され、1915(大正4)年4月21日に完成、“雄飛号”と命名された。パルセバル飛行船と同じエンジンながら、機体の再設計により速力、上昇力が向上していた。1916(大正5)年1月21日、当時としては画期的な飛行船による東京~大阪往復飛行に出発し、460kmの距離を実飛行時間11時間34分、平均速度40km/hで大阪の城東練兵場まで飛行したが、復路はエンジンの不調と強風のため飛行できず、解体されて鉄道輸送された。その後はほとんど活躍せず、1917(大正6)年7月21日~22日の所沢~仙台間夜間往復飛行を最後に廃船となった。
米軍基地正門(第1ゲート)跡
米軍時代は、日本陸軍時代と異なり、この場所が正門であった。
兵舎跡・校舎跡
所沢航空記念公園の南東エリアに、高台と階段がいくつも残っているエリアがある。
この場所が兵舎と校舎の跡地、である。
基礎っぽい跡も残っている。
自然保護エリアは、当時の倉庫跡、でもある。
この南側に兵舎や校舎があった。
パーキングロット跡(米軍基地跡)
米軍のクラブ駐車場跡。
所沢飛行場跡は、戦後すぐに米軍が進駐し接収された。
米軍所沢通信基地(Tokorozawa Communication Site)として、使用され、返還は昭和46年(1971)6月30日。
その名残が、「英字で残るクラブの駐車場跡地」
CLUB PARKING LOT
荒鷲達の憩いの庭園の跡
少年飛行兵たちの歴史を繋ぐ場所。
荒鷲達の憩いの庭園の跡
戦時中、飛行訓練を終えた少年飛行兵達の憩いの場所であり、終戦間近の特攻隊員が特攻隊基地に向かう時の憩いの場所ともなっていたところです。現在はコンクリートで固まった池の跡が残っています。
なお、一説によると特攻隊員の若者達が寄付した浄財によって造られたとも言われています。
以前は「荒鷲達の憩いの池」の木製の看板が立てられていました。
2022年3月
所沢市・所沢航空資料調査収集する会
建空神社(航空神社)参道跡
なんとなく、このあたりに参道っぽさが残っている。
脇にもなんとなく遺構が。
建空神社(航空神社)跡
少年航空兵像のある場所に「建空神社(航空神社)」があった。
所沢にあった航空神社は、のちに所沢から入間(豊岡)の航空士官学校に移転し、そして戦後は北野天神社に遷座している。
航空発祥の地・ところざわ
航空整備兵の像
この像は、昭和18年、彫刻家故長沼孝三氏(1908~1993)が第二回大東亜戦争美術展に出品し、翌19年5月21日に、当時この地にあった所沢航空整備学校内に建立されたものです。
翼を抱き、空を見上げる航空整備兵三人の姿は、当時の少年飛行兵や整備兵のシンボルとされていました。
戦後、所沢飛行場は米軍基地として接収され、昭和46年の基地返還により、所沢航空公園として整備されました。しかしこの像は痛みがはげしかったため、所沢航空資料調査収集する会では、後世にわたりこの像を保存していこうと、平成9年2月、長沼孝三彫刻館(山形県長井市)の協力をいただき、修復工事を行いました。
空への夢と希望を抱いたこの像が、市民のやすらぎや平和への祈りを込めた像として永く市民に親しまれていくことを願ってやみません。
平成10年3月
所沢市
所沢航空資料調査収集する会
航空発祥の地
航空発祥の地
この地は明治45年我が国で初めて飛行場が解説され同年4月5日早朝徳川大尉操縦のアンリファルマン機が初飛行に成功しました
それ以来、我が国航空界の発達に貢献した由緒ある「航空発祥の地」であります
平成12年4月5日
所沢市
所沢航空資料調査収集する会
所沢市指定文化財(史跡)
航空発祥の地
所沢市が日本の航空発祥の地といわれているのは、明治44年(1911年)4月、所沢に日本初の飛行場が開設されたことによります。
明治42年(1909年)7月、勅令により臨時軍用気球研究会が発足し、航空機に関する研究が開始されました。気球研究会は、設置直後から試験場候補地を検討。栃木県大田原や千葉県下志津なども候補地にあがりましたが、旧所沢町と松井村にまたがる地域に決定されました。気象条件や地形の起伏などが選定の理由であったとされています。
開設当初、所沢飛行場の敷地面積は約76.3ヘクタール。飛行機格納庫、気象観測所、軽油庫、東西方向に幅約50メートル、長さ約400メートルの滑走路を持つ飛行場でした。
所沢飛行場での初飛行は、明治44年(1911年)4月5日の早朝に開始されました。まず、徳川好敏大尉がアンリ・ファルマン機で飛揚し、約1分で着陸。続いて、日野熊蔵大尉がライト機で3分30秒の飛行時間を記録しました。
所沢の住民はもとより、多くの見学者が、飛行を一目見ようと近在各地から集まり、訓練日には桟敷が設けられ、飛翔のたびに歓声が上がったといわれています。
平成23年3月
所沢市教育委員会
場所:
https://maps.app.goo.gl/c1JCC1NEf9zF2RjFA
※撮影:2025年8月