「富山県」カテゴリーアーカイブ

「富山大空襲」と富山の近代建築(富山の戦跡散策6)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
その6では、「富山大空襲」と富山市街地に残る近代建築などを。

なお、2026年9月にも富山に訪れており、富山大空襲関連に関して追記をしました。


富山の戦跡散策1


富山大空襲

昭和20年8月1日、富山は米軍B-29爆撃機182機による大空襲を受けた。
富山市街地は99・5%を焼き尽くされ廃墟となり、死者は約3,000人、負傷者は約8,000人、被災者は約11万人にのぼった。
「富山大空襲」は、地方都市としては人口比で最も多くの犠牲者を出した空襲であった。

当時、米軍は、空襲目標として中小都市を選定していた。すでに空襲により都市機能を破壊した東京・大阪・名古屋・横浜・神戸・川崎・尼崎を外し、原爆投下候補として、京都・広島・新潟・小倉を外した、空襲対象地は137都市となり、富山市は人口12万7,000人で36番目であった。
しかし富山市は呉羽紡績・日清紡績・日本曹達・不二越などの近代的大工場が集まり東岩瀬港の改修と東岩瀬臨海工業地帯を始めとした臨海工業地帯が発展しつつあり、米軍としては重要な爆撃目標であった。
ただ、米軍は、富山において工場群を狙う戦略爆撃は実施せず(結果、工場群は、ほぼ無傷)ではなく、労働者(市民)の住む都市爆撃を敢行し、富山は多大な犠牲を払った。

https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/kuushuu

https://www.toyama-gokoku.jp/ihouroku/2013/12/post-44.html


戦災復興記念像(天女の像・富山城址公園)

富山城址公園内に。

 昭和二十年、太平洋戦争は激烈の度を加え、八月二日未明に、富山市は、B29百七十余機の焼夷爆弾攻撃を受け、市街地は一夜にして焦土と化しました。
 約二万五千の世帯、十一万人の市民が罹災し、約八千人が重軽傷を負い、二千七百余人の尊い生命が失われ、まさに、壊滅的な状況になりました。
 惨憺たる焼土と、絶望の虚脱の中から、富山市民は、平和を渇望し郷土の復興に気力を燃やし、槌音高く、県都富山の再建に立ち上がりました。
 市民の決意と総力の結集が実を結び、戦災復興の大大事業が完成し、今日の近代的都市に生まれ変わりました。
 この天女の像は、恒久の平和を念願するとともに、尊い犠牲に敬虔な祈りを捧げ、市民の努力による偉大な業績を記念して、富山復興特別事業協議会により、昭和四十九年八月一日に、戦災復興記念像として建立されたものです。
 平成二十年八月一日
  富山市

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/toyama_toyama_003/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/bfEzy39FMocorHACA


富山城址公園

富山市郷土博物館(模擬天守)。

加賀前田藩の分家となる富山前田藩の居城。
富山大空襲では、米軍は爆撃中心点を富山城址の東南に設定している。
なお富山城自体は、明治4年(1870)の廃藩置県により廃城となり払下げ解体となっている。
現在の模擬天守は、1954年(昭和29年)完成。

呑んだあとに散歩していたので、夜の様相も。

2026年9月

場所:

https://maps.app.goo.gl/UvCBUbbZ3Mg6Ukhe6


殉職警防團員之碑(富山城址公園)

富山城址公園内に。

皇紀2600年(1940年・昭和15年)を記念して建立。
明治42年から昭和15年までの30年間で、消防・水防活動中に亡くなった消防組員および警防団員20名の殉職者の慰霊顕彰碑。
また第二次大戦中に活動していた当時の消防関係者の志気を高めるという意味も込められていた。

警防団は昭和14年に結成。防護団(防空)と消防団(火防・水防)を統合し、警察の指揮下にあった。

殉職警防團員之碑

殉職警防団員之碑
 警防団員とは、戦前の名称で、現在の消防団員をいいます。
 消防団員は、住民の生命、身体、財産をあらゆる災害から守るという崇高な使命と長い伝統のなかで培われた旺盛な郷土愛護の精神に燃えています。
 水火災害に敢然と身を挺してその職に殉じた消防職団員の霊を弔い、その功績を永くたたえるとともに、県下消防関係者の志気を鼓舞するために建設されました。
 昭和20年8月2日未明の富山市空襲には奇跡的に戦禍を免れています。
    昭和15年12月竣工 (皇紀二千六百年)
    木曽川産 水成岩
    本碑揮毫 富山県知事 矢野兼三
    (財)富山県消防協会 

明治天皇御製
事しあらば 火にも水にも いりなむと
思ふがやがて やまとだましひ

明治40年に詠まれた歌
意訳:事故があったときには、火の中水の中飛び込んででも、救助しようとするその心こそが大和魂だ
万葉集の「事しあらば火にも水にもわれなけなくに」の表現が取り入れられている。

https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori34/tayori34.htm

場所:

https://maps.app.goo.gl/4RJxHoMYSa5uyrX37


前田正甫像(富山城址公園)

富山城址公園内に。

前田正甫(まえだ まさとし)は、富山藩二代目藩主。産業奨励とし富山売薬(富山反魂丹)を推進し、いわゆる「越中富山の薬売り」を発展させた人物。

場所:

https://maps.app.goo.gl/QfuQLr2w7SYBTLHe7


愛こそ平和の母なれ(県庁前公園)

富山県出身の彫刻家・横江嘉純の作品。
終戦から10年を経て、平和を希求する強い心が慈愛に満ちた母子の姿に表現。
1968年の製像。目黒区民キャンパスや糸魚川の親不知記念広場にも建立されている。


お野立所(県庁前公園)

大正13年 秋
 当時、摂政宮であった昭和天皇は、北陸地方における陸軍特別大演習の統裁ならびに地方事情の視察のため富山県に行啓になりました。
 11月10日午前に汽車にて富山駅にお着きになり、富山県庁にて県知事らに拝謁を賜りました。同日午後からは、富山県立神通中学校での奉迎式に御臨席ののち、このお野立所(陛下の御座所)において県下の児童生徒らの体操や運動競技を親しくご覧になりました。
富山県

大正13年当時は、この付近は神通川の廃川地で、神通中学校の敷地であった。
現在は県庁前公園として、大きな噴水が特徴的な公園。


殉職警察官之碑(県庁前公園)

富山県庁前公園に。

殉職警察官之碑
内務大臣 男爵 山本 達雄 書

昭和9年5月竣工

殉職警察官之碑
 昭和九年五月竣工 (常願寺川産水成岩)
 殉職者 建立時 三十柱
     令和六年八月現在 一四四柱 
 本碑 揮毫 内務大臣 山本達雄
 副脾 稿 漢詩家 国府種德
    撰文 富山県知事 斎藤樹
    揮毫 臨済宗国泰
       寺派管長 佐竹竜水

碑文要旨
 立山を仰ぎ見れば、高くそびえてまことに崇高であり、越の海を望み見れば、まことに広大である。しかし、わが富山県の殉
職警察官の義勇もその崇高、広大さにおいては、かの立山や越の海に比類するものというべきである。
 警察官の任務は、安寧を擁護し、秩序を維持し、邪悪を戒め、災禍を救うにあり、一身の安危を忘れて、敢然として職務に挺
身すべきものであるが、思うに、旺盛な義勇心がなくては、どうして至難の事に処し、ひいては世人の期待にそい得ることができ
ようか。まさにこの旺盛な義勇心こそ、警察精神というべきである。
 社会の治安と民衆の福祉のために捧げられた、本県殉職警察官の義勇を知るならば、かの立山の山霊、越の海の海神も、その崇
高偉大さに一歩も二歩も譲るであろう。
 富山県警察本部
 富山県警友会

場所:

https://maps.app.goo.gl/gjyoNzQK5S2GR4jc8


平和群像(富山駅前)

平和群像
作者は松村外次郎、建立は昭和24年(1949) 9月、再建が平成2年 (1990) 3月。

平和群像
 「平和群像」は、未来永劫の平和を祈念し人類の至高の英知を現わす自由と正義、希望と真理を象徴するモニュメントとして、原型製作者 松村外次郎のもと渡辺義知氏ら数名が協力して富山市制60周年と平和記念の一環として、昭和24年9月にコンクリート製で建立されたものです。
 その後、歳月を経て風化損傷がはげしく原型保持が困難となったことから、富山市施行100周年を記念して横山豊介氏の監修を受けて原形のままブロンズ像で再生したものです。
 平和のシンボルとして市民の皆様に愛されることを願ってやみません。
  平成2年3月 富山市
   原型製作者 松村外次郎

場所:

https://maps.app.goo.gl/v8ozqHKctTCTfFL69


富山大空襲で破損した「常夜灯」(松川・舟橋)

寛政11年(1799)の建立。
富山大空襲で破損した常夜灯。
2026年に、富山大空襲の戦火をくぐり抜けた「神通川船橋常夜灯」として、富山市の有形文化財に指定された。

場所:

https://maps.app.goo.gl/wC4kFApVoBVbxUSj7


富山大空襲で破損した「富山別院創立記念碑」

富山大空襲により一部破損しているが、明治初頭の廃仏毀釈と富山東別院創立を物語るモニュメントとして今日まで伝承されている。

富山別院創立記念碑
このたび、法要の記念整備整備事業の一環で、記念碑が境内正面に移転整備されました。
富山別院は、創立以来、大火や戦火によって何度も消失しています。そのような中、創立時から残っている唯一のモニュメントがこの記念碑です。第二次大戦の富山空襲により石碑の一部は損壊して読めません。それでも、明治維新の際に富山藩で廃仏毀釈があったこと、明治13年に説教所が建てられ、17年に別院へと昇格した際にこの石碑が建立されたこと、松任本誓寺(現白山市)の住職、松本白華がこの文章を書いたということが読み取れます。(以下略)

場所:

https://maps.app.goo.gl/2aMrKkEQ8e25Z8L16


富山大空襲で破損した「日枝神社の敷石」

富山大空襲で破損した日枝神社の参道敷石が残されている。

富山大空襲の傷跡
この石畳は昭和20年8月1日未明から約2時間に渡って米軍機B29による富山市への大空襲の折、雨の様に投下された焼夷弾が当たって割れた数十枚の一枚です。
 その他破損したものは、平成14年参道改修工事を以ってすべて修復した。

日枝神社御社殿

御社殿前の鳥居

奉納 日独戦争記念

大正六年六月建立
日独戦争は、第一次世界大戦での日本とドイツ領「青島」やドイツ東洋艦隊本拠地の南洋諸島での戦い。

弁慶石
弁慶が怪力で転がし、義経が腰掛けたという石。
佐々成政の庭石でもあったという。

大正四年(1915年)の御大典記念で献納された鳥居と狛犬。

場所

https://maps.app.goo.gl/LMEn6urwCkB9UeHi8


富山大空襲で焼けた石碑(応声寺)

焼夷弾の熱と炎で表面が焼け、碑文が読めなくなった石碑

亀谷先生之碑
明治初年頃、梅沢町の亀谷家は医師として生業を営む傍ら、私塾・寺子屋として地域の子どもたちに漢籍や読み書きを教えていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/RaWhNDAJwgZzUwdK7


富山大空襲の爆撃痕が残る梵鐘(大法寺)

幼稚園の神様。

場所:

https://maps.app.goo.gl/g5dQvdspAsnpH6LQA


富山薬学教育発祥之地碑

1894(明治26)年に,私立の「共立富山薬学校」が この地梅沢町に設立。
その後、「富山薬学専門学校」の門柱を、梅沢町に居住していた 一人の卒業生が譲りうけて、昭和40年(1965) に自宅の庭先である共立富山薬学校の跡地に建てたもの。という。
なお、市立の「共立富山薬学校」は、明治30年に富山市「富山市立薬学校」となり、明治40年に富山県「富山県立薬業学校」を経て、昭和24年に国立富山大学に統合されて「富山大学薬学部」となっている。

場所

https://maps.app.goo.gl/Eyqr6Qjh6BTQug6X9


富山県庁本庁

国会議事堂の設計を担当した大蔵省営繕管財局工務部長の大熊喜邦が監修し、1935年(昭和10年)8月17日に完成。
1945年(昭和20年)8月1日に富山市一円を焼き尽くした富山大空襲では、焼夷弾の直撃を受けたとされるが焼け残った。
全国の庁舎の中では5番目に古い建造物。国登録有形文化財。

夜の散歩

場所:

https://maps.app.goo.gl/v9im9SuXp9kkNNjJ6


富山市役所

1992年完成。最上階の展望塔から富山市街を一望できる。

富山城方面

富山県庁方面

富山電気ビルディング方面


富山電気ビルデイング

1936年(昭和11年)4月8日に竣工。
富山市内では富山県庁舎(富山県庁)とともに第二次世界大戦以前に竣工した建築物。
富山大空襲では焼夷弾の屋上への直撃で焼失した5階部分を除き、耐えぬいた。
第二次世界大戦後の1945年11月には、進駐軍の富山司令部が設置(1952年6月廃止)されている。

富山電気ビルデイングの前を路面電車が走る

場所:

https://maps.app.goo.gl/X6zsLvAKqtfPaj7y9


富山あれこれ

富山地方鉄道の路面電車でなんとなく南富山駅に行ってみたり。

富山地鉄路面電車

富山駅

鱒寿司自販機!

駅そば、立山そば(202509)

「しろえび天ぷら」と「ますずし」、「ニシンの昆布巻」
ますの寿司でおなじみの「源」
駅そばで富山を満喫。
(202509)

駅ビルのどんぶり屋さんで。
特別純米「立山」(202509)

富山スペシャル天丼(白えび・ブリ・ほたるいか)(202509)

ねばり昆布生姜(202509)

駅ビルで買って、ホテルで晩酌
「焼き鯖すし」「幻の瀧」(202509)

居酒屋で、
「呉羽梨」とほうじ茶のJIN(202509)

千代鶴(202509)

羽根屋(202509)

羽根屋(202609)

勝駒(202509)

富山の地酒(202609)

シメそば、を

とろろそば、とろろ昆布おにぎり(202509)

コロッケそばも美味しい。(202609)

あんばやし(味噌田楽)(202509)

冷やしそば出しラーメン(202509)

ラーメン屋さんで。
富山ブラックラーメン(202509)

おでん(202509)

元祖のお店で。
ブラックラーメン
さすが元祖だけあって、いちばん黒かった。
(202509)

別のラーメン屋さんで。
モツ串(202609)

モツ味噌ラーメン(202609)

別日に。
モツ味噌が美味しかったので、今度はブラック。これも美味しい。モツトッピング。
ブラックラーメン(202609)

駅ビルの8番ラーメン(202609)

いろいろ買ってますね。
ビーバー
ロングサラダ(202509)

いろんなビーバー(202609)

北陸っぽいもの。

新幹線アイス(202509)

パウチ日本酒(202509)

ビーバーとハッピーターンと柿の種(202509)

新幹線様に。(202609)

カウヒーが美味しい。。。

高田屋さんの「鱒の寿」
先輩におすすめされて。(202509)

2026年は、青山総本舗さん(202609)

※撮影:2025年9月及び2026年9月

富山の食も堪能満喫、また来ますね。富山良い街です。
一連の富山散策は、いったん、〆で。


関連

富山市に投下された模擬原爆(富山の戦跡散策5)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
その5では、「富山に投下された模擬原爆」に関連する戦跡に赴いてみました。


富山の戦跡散策1


パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾)

パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾)は、1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾(原爆)である「ファットマン」の模擬爆弾として開発された。「パンプキン」は特殊形状な爆弾であった「ファットマン」の投下訓練とデータ取得の爆弾として、日本全国に投下され、その訓練と解析の実績が長崎に投下された「ファットマン」へのつながることとなった。
パンプキンは、18都道府県30都市に50発(うち1発は任務放棄し爆弾は海上投棄された)が7月20日 – 8月14日の間に投下され、全体で死者400名・負傷者1200名を超す被害が記録されている。

下記はアメリカ・ラスベガスのアトミックミュージアム展示の「ファットマン原寸大模型」
(2025年4月撮影)


富山に投下された模擬原爆

米軍の原爆投下部隊・第509混成群団が広島・長崎を前に模擬原爆・パンプキン爆弾で投下訓練を実施。
富山市内には4発の模擬爆弾が投下された。
7月20日、3発の模擬原爆が、富山市内の重要な軍需工場となっていた不二越製鋼東岩瀬工場、日満アルミニウム及び日本曹達富山製鋼所を目標に投下。
これによる被害は死者47人、重軽傷者40人、また家屋4戸が火災に遭ったほか、家屋約50戸が損害を受けた。
7月20日の爆撃は天候不順のために目標には命中できず、観測も失敗したために、7月26日に富山市豊田地区に対して一発のパンプキン爆弾と再度投下している。この26日の爆撃では死者は6人、重軽傷者は50人、全壊家屋は8戸、半壊家屋は50戸が被害を受けた。
この一連の富山市の中田地区・森地区・下新西町地区・豊田本町地区における4発の模擬原爆による被害は、死者53人、負傷者90人であった。

そして、富山市は、8月1日に「富山大空襲」を迎えることとなる。


爆心地
(7月20日・中田地区の模擬原爆の爆心地)

昭和20年7月20日に投下された模擬原爆の「爆心地」。

昭和二十年
世界初の原子爆弾の模擬爆弾の跡地
 終戦間際の昭和二十年(一九四五年)七月二十日朝八時過ぎ、突然「Bニ十九」が飛来して、市の北部で基幹産業の工場地帯に三発(当地の他·森地内·下新地内)の爆弾を投下されました。
 後に解ったことですが、後に広島·長崎に投下された、世界初の原子爆弾の模擬爆弾であること、当初は、新潟もその候補地であった為、気象条件も似た富山が選ばれ、時間帯も朝に設定されていたとのことです。
その為、当地域では、通勤途上の十数人が犠牲となられ、また負傷者も多く出ました。
 当町内では、奇跡的に犠牲者はありませんでした。負傷者は、数名あったようです。
 しかし、家屋にも焼失した家、屋根も床も抜け柱だけの家や半壊の家が多く出ました。
 又、遠く離れた「小学校」の南向き窓ガラスはすべて割れ、破片も屋根·床を貫通していたようです。又、工場のスレートも多く破損しました。
 その爆風の威力は、田んぼの稲もまるで刈り取ったかのように、根元から綺麗に何處かに消し飛んでしまったと、翌日の新聞が報じています。
 跡地には、大きな窪地ができ、数年間に亘り直径十五メートルを超える池となり、筏を浮かべることもできました。
 これは、長崎に投下されたものと同じ形状であること·色合いが黄褐色でもあり「パンプキン」と云われていました。

爆弾の大きさ
直径:1.5M
長さ:3.5M
重さ:4.5トン

被爆後の空撮写真には、
1の現在地には、明らかに爆弾の跡に水がたまっているのが、はっきりと写っています。
窪地を年々埋めて現在のようになりました。
2は、中田八幡社の元の場所で、森地内の投下場所とほぼ等距離にあった為、被災しませんでした。
昭和31年に、全体を持ち上げて、コロ引きで、現在地まで移設遷座されました。
その後、経路沿いに植樹して、現在の桜並木になりました。

爆撃により発生した大きな窪地

爆心地の裏手にある不二越の工場。
ちなみに不二越のブランド名「NACHI」は、那智熊野大社に由来する富山発祥のメーカー。
もともとは、不二越を目標にした爆撃であった。

中田八幡

場所:

https://maps.app.goo.gl/kA6FDoP8nMExcaqL7


上記の東岩瀬の爆心地の最寄り駅。

東富山駅

あいの風とやま鉄道(旧・JR北陸本線)の駅。
明治41年(1908年)開業時は「東岩瀬駅」。
昭和13年に「不二越鋼材工業株式会社東岩瀬工場」が駅近くに設置され、工業地帯への貨物駅も担うことになった。
戦後の昭和25年に富山港線の越中岩瀬駅が東岩瀬駅へと改称することになり東富山駅に改称。

西口駅舎本屋は1908年(明治41年)9月竣工。

レンガ倉庫。
かつては、駅灯室として用いられ、駅本屋と同じく、1908年(明治41年)9月築。


平和祈願之碑

7月26日、富山市での2回目となる「模擬爆弾」が投下されたのが、「富山市豊田地区」であった。

平和祈願之碑

大東亜戦争被爆地の記
一九四五年(昭二十年)七月二十六日朝八時頃アメリカ軍の爆撃機B29が飛来し豊田のこの地に爆弾を投下しました そのため鈴木善作(当時四十九才)ほか十五名の者が被爆犠牲者として尊き生命を断ちました。
人類にとって戦爭ほど醜く嘆き悲しまずにいられないものはありません。
再びと、このようなことの起ることはなく未来永遠に人類が平和でありますことを請い願ってこの碑を建立します。
 一九八八年(昭六十三年)七月二十六日

昭和六十三年七月建之
犠牲者の遺族が自費で建立した「平和祈願之碑」。
当地で犠牲になった鈴木善作・レツ夫妻ら住民16人を悼み、善作氏の息子である故・善蔵氏が1988年、着弾地から数十メートルの所有地に退職金を元手に建立。内部には爆弾の破片と防空頭巾が収められたという。

総務省>追悼施設
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/toyama_toyama_004/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/p3sKeQFoFVbNrq2Y9

帰路は富山港線ポートラムで富山駅に。

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策6 へ


富山関連

模擬原爆関連

砲身を台座とした「利田忠魂碑」(富山の戦跡散策4)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
その4では、「砲身を用いた忠魂碑」に赴いてみました。


富山の戦跡散策1


富山駅から東に約10キロ。
富山県中新川郡立山町の利田小学校脇にある「利田忠魂碑」。
バスの場合は、富山駅から日置バス停で下車して、そこから歩きで、ざっくりトータル1時間ほどで到着。


利田忠魂碑

青の砲身と金の地球と金の鷲
みたまやすらかに、と、忠魂碑に合掌

建立の由来
大正十三年
利田忠魂碑は利田村民の総力により戦没者のみたまに感謝の誠を捧げんと建設費二千八百円(当時の村年予算二千円)の巨費と四百六十人の奉仕によって建設される
上部は日本海海戦に武勲をたてし志保丸の砲身で長さ七・二米、重さ六・七屯、海軍軍人として活躍中の曽我大佐 宮崎中尉 保正一等兵曹の三氏が海軍省から払下げに努力されたものである。
昭和十四年
蘇我の藤田金太郎翁が砲身の上に地球と鷲を寄贈される
昭和四十三年
明治百年を記念し大改装を行い追悼法要を執行する
平成三年八月
利田小学校グランド整備のため現在地に移転建設する

忠とはまごころ いつわりのない心 まことの心である
合祀する六十五柱のまごころに感謝し
永遠の平和を祈念するものである

合祀する六十五柱のまごころに感謝し永遠の平和を記念するものである
 平成三年八月吉日
  利田自治振興会

碑文中に出てくる「志保丸」という艦船は、日本海海戦時には海軍には存在しておらず、調査の結果、戦艦「安芸」の砲身が下附されたともいわれている。

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/tut/1339942?page=2

ん?戦艦安芸??となると、砲身の忠魂碑(慰霊碑)は、兵庫西宮の鳴尾八幡でも拝見してましたが、そちらも戦艦安芸という話が伝承されている。。。

「金鷲輝く 日本の 栄ある光 身に受けて」、、、あっ金鵄か、国民歌「紀元二千六百年」は。

場所

https://maps.app.goo.gl/o1xFzDnWAQQWJWPbA


行き帰り

バスは休日は2時間に1本程度。

行きは良いけど、帰りのバスが無いので、越中三郷駅まで50分くらい歩きました、地方あるあるです。

富山地方鉄道

越中三郷駅

ちょうど、電車が入線して、行ってしまいました。。。

これは良い佇まい。

昭和6年(1931年)開業。

「鐵電山富」「驛鄕三」
開業時の社名で右書き

予備知識無しで訪れましたが、これは良い。歩いて正解でした。

「みさと」ではなく、「さんごう」

ぼーっと、無人駅で一休みする時間も良いものです。

富山駅に戻ります。

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策5 へ


関連

富山県忠霊塔・富山陸軍墓地(富山の戦跡散策3)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
初の富山県散策、その1の「富山縣護國神社(富山県護国神社)」、その2の「富山歩兵聯隊」関連の戦跡に次いで「富山陸軍墓地」に赴いてみました。


富山の戦跡散策1


富山歩兵聯隊跡のある富山大学前から、シェアサイクルを活用して、一気に「富山陸軍墓地」へ。
富山市の西にある呉羽山。その呉羽山の南東に富山大学、北東に「富山陸軍墓地」という位置関係。


富山県忠霊塔(旧富山陸軍墓地)

富山陸軍墓地は市営長岡墓地にある。現在は「富山県忠霊塔」。
陸軍墓地として個人墓はなく、忠霊塔と3つの合葬碑が残っている。

富山県忠霊塔の沿革について
 明治四十一年、歩兵第六十九連隊が富山で編成され、同隊の公傷病死者の分骨を埋葬する「陸軍墓地」が、この富山市北代の地に設けられました。その後、各戦役ごとに「忠魂碑」が建立されて、陸海軍戦没者を合葬されております。
 向かって中央の「忠霊塔」は昭和十六年十月に建設されましたもので、昭和十二年七月よりの日華事変関係戦没者四七八六柱を合葬し、以来、太平洋戦争の戦没者を合葬してあります
 向かって右の一番目の碑は、昭和七年第一次上海事変戦没者一四八柱が合葬され、同年十二月に建立されました。
 向かって右の二番目の碑は、昭和十年から同十二年にわたる、第一次満州事変に従軍された、歩兵第三十五連隊の戦没将兵五八柱の分骨を合葬してあります。
 忠霊塔の向かって左の碑は、歩兵第三十五連隊が富山に移駐したため、金沢陸軍墓地に合葬してあった、日清日露戦役の戦死者の分骨を富山に移されたもので、昭和八年に建立されたものであります。
 これら旧陸軍墓地の合葬者は二八七四八柱にのぼっています。
 現在ご英霊に対しましては、富山県遺族会によりまして毎年八月に、慰霊祭が厳修されております。
 ご英霊の永遠のご冥福をお祈りします。
  平成九年七月吉日
   寄贈 社団法人 日本郷友連盟富山県支部

中央に忠霊塔
むかって右に上海事件陣歿者合葬碑、
むかって左に、満州事変陣歿者合葬碑と陣歿者病死者合祀碑がある。


忠霊塔(旧富山陸軍墓地)

「忠霊塔」は、昭和十六年十月に建設。
昭和十二年七月よりの日華事変関係戦没者四七八六柱を合葬し、以来、太平洋戦争の戦没者を合葬。

2023年に改修工事があり、忠霊塔は安全面を考慮し、建立時の14メートルから9メートルに低くなった。

合掌
みたまやすらかに

2023年の改修工事の際に、銘板には高岡銅器を使用。


陣歿者病死者合祀碑(旧富山陸軍墓地)

大正14年5月に歩兵第35聯隊が、金沢から富山に転営したため、金沢陸軍墓地に合葬されていた日新日露戦争の戦死者の分骨を、富山に移されたもので、昭和8年9月に建立された。

陣歿者病死者合祀碑
陸軍中将 荒蒔義勝書

荒蒔義勝は、昭和7年(1932年)9月から昭和9年8月までに第9師団長であった。第9師団は北陸3県(富山・石川・福井)を管轄。

大正14年5月転営
昭和8年9月建之


上海事件陣歿者合葬碑(旧富山陸軍墓地)

昭和七年第一次上海事変戦没者一四八柱が合葬され、同年十二月に建立。

上海事件陣歿者合葬碑
陸軍中将 植田謙吉 書

昭和4年(1929) 支那駐屯軍司令官、昭和5年12月に第9師団長となる。第9師団長在任中に、第一次上海事変勃発し出動。停戦交渉中の昭和7年(1932)4月29日の天長節爆撃事件により左脚を失う重傷を負う。上海事件陣歿者合葬碑は、第9師団長として揮毫している。

昭和7年12月建之


満州事変陣歿者合葬碑(旧富山陸軍墓地)

昭和10年から同12年にわたる、第一次満州事変に従軍された、歩兵第三十五連隊の戦没将兵五八柱の分骨を合葬。昭和12年5月建立。

満州事変陣歿者合葬碑
陸軍中将 蓮沼蕃 書

蓮沼蕃は石川県出身。陸大兵学教官時代の教え子が栗林忠道であった。
昭和10年8月から昭和14年8月まで第9師団長。その後、最後の侍従武官長を終戦まで務めた。

昭和12年5月建之


石灯篭(旧富山陸軍墓地)

陸軍星の五芒星が刻まれた石灯篭

これは何だろう?

昭和8年3月1日建之


旧富山陸軍墓地入口

富山陸軍墓地の入口。

大灯篭

昭和12年奉納

手水石も陸軍星の五芒星、昭和12年奉納

門柱

場所:

https://maps.app.goo.gl/qSyiVWewrN2ZSANF9

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策4 へ


関連

富山歩兵聯隊跡(富山の戦跡散策2)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
初の富山県散策、その1の「富山縣護國神社(富山県護国神社)」に次いで、「富山歩兵聯隊」関連の戦跡を巡ってみました。


富山の戦跡散策1


富山の歩兵聯隊

明治29年(1896年)、石川県野田村(現在の陸自金沢駐屯地)に「歩兵第35聯隊」聯隊本部を設置。
明治40年(1907年)、「歩兵第69聯隊」が歩兵第7連隊(金沢)及び歩兵第35聯隊(石川)内に設置。
明治41年(1908年)、「歩兵第69聯隊」が石川から富山の東呉羽村に移転。
大正10年(1921年)、「歩兵第69聯隊」は富山からシベリア出兵。七尾港からシベリアに出征。
大正14年(1925年)5月、宇垣軍縮により富山「歩兵69聯隊」は廃止。「歩兵第35聯隊」が金沢から富山に転営。「歩兵第69聯隊」の600余名は、新たに富山に配属された歩兵第35聯隊に編合。

歩兵第35聯隊
昭和7年(1932年)「歩兵第35聯隊」は第一次上海事変に出征。
昭和12年(1937年)「歩兵第35聯隊」は第二次上海事変に出征し、南京追撃戦の第9師団の主力として活躍。その後、徐州会戦などに参戦し、昭和15年からは満洲駐屯。
昭和19年(1944年)7月、沖縄に移駐し防御陣地の構築に参加。11月に台湾に移駐し、終戦を迎えている。

歩兵第69聯隊
昭和12年(1937年)動員され、第109師団隷下。
昭和15年(1940年)再動員され、第52師団隷下。
昭和17年(1942年)大本営予備として待機
昭和18年(1943年)トラック島に進出、防御陣地構築にあたり、そのままトラック島で終戦を迎える。


富山歩兵聯隊跡

富山市五福の県営富山野球場のちかくに、記念碑が建立されている。
現在の富山大学五福キャンパスから県営野球場のあたりが、富山歩兵聯隊の地であった。

富山歩兵聯隊跡

題字は、瀬島龍三氏。
瀬島龍三氏は、富山県出身。陸士44期次席、陸大51期主席。最終階級は中佐。太平洋戦争のほとんどを陸軍参謀本部部員として陸軍中枢の作戦担当にあたった人物。
戦後は伊藤忠商事会長、亜細亜大学理事長、中曾根康弘首相顧問などを務めた。

この地は明治41年5月より昭和20年10月まで37年間、越中飛騨信濃等の青年が入隊し錬武に励んだところである
 題字 瀬島龍三 書
 昭和53年8月19日建之
富山聯隊跡地記念碑建設協賛会


本土決戦機動兵団歩兵第514聯隊動員編成跡地

昭和20年(1945年)4月に本土決戦に備えて創設された陸軍聯隊の動員編成地。

1945年(昭和20年)4月2日、第209師団が創設され、第209師団所属歩兵第514聯隊(加越第21613部隊・加越第3部隊)が動員された。
第209師団は機動打撃師団として、上陸してくる敵に対し、「地上特攻」総攻撃すべく水際殲減決戦部隊であった。
富山大空襲では、隊員25人が爆死している。

本土決戦機動兵団歩兵第514聯隊動員編成跡地
歩共第514聯隊(通称加越第3部隊)(富山市)の創設記念碑文

 昭和20年終戦目前の4月、本土決戦(米軍本土進攻)準備のため、陸軍において8個の機動師団が動員され、その款下に第1総軍、第12方面軍 第36軍(浦和)、金沢師管区では第209師団が編成され、その隷下部隊として 步兵第514聯隊(通称加越第3部隊)総勢4368名が富山市に創設された。
 機動師団の特質は、師団を拳げて、一意怒涛の「地上特攻」総攻撃を連続不断に実施し、上陸してくる敵を水際において殲減すべき決戦の思想のもと、皇士防衛の重大任務を帯び、穿貫戦力を保持するため、兵は、昭和19年懲集の19歳から20歳の現役兵を主力とし、下士官は25歳以下とし、小隊長は、全員、予備士官学校卒業直後の見習士官を当て、中隊長並びに将校は年齢30歳以下、大隊長は、陸軍士官学校区隊長(現役将校)より赴任し、各方面軍の優秀戦歴者を現地から充用し、当時陸軍では最も若い年龄の最精銳で編成された。
 4月27日動員第1日、富山聯隊兵営(現国立富山大学)から5月5日次の各分駐所べ移駐した。聯隊本部及び直轄中隊の聯隊砲中隊·通信中隊·作業中隊·乗馬小隊は、富山男子師範学校(現富山市立南部中学校)及び西田地方国民学校(現市立西田地方小学校)へ、
第1大隊は安野屋国民学校(現富山中部高校校庭)及び県立神通中学校(現県立富山中部高校)
第2大隊は、私立大谷女学校(現機部町公園)及び星井町国民学校(現富山市角川介護予防センター)へ
第3大隊は、県立富山中学校(現県立富山高校)へ移駐
 5月5日及び5月25日の2回にわたり、現役初年兵入隊。5月12日第209師団長初度巡視を神通中学校て受閲、聯隊は編成定員を充足し、将兵一同強固な団結のもと、日夜重大任務の即戦必須の猛訓練に邁進。
 6月19日軍旗親授式が宮中で拳行、大元帥陛下御手づから聯隊長陸軍中佐力石勝寿、聯隊旗手陸軍少尉山口重信に親授され、荘重にして御力強い勒語を賜る。6月21日神通中学校按庭において、軍、官民、国防諸団体、学生ら県民総参加で、軍撰奉拝式を盛大に挙行。8月1日第36軍司令官初度巡視·検開を呉羽山練兵場で受閲。
 8月1日深夜~2日未明にかけて、B29爆撃機170余機(米軍戦術任務報告書)による富山市への大空襲時、聯隊各分駐所は富山中学校以外は全焼し、隊員25人が爆死した。焼実弾の猛火の中、聯隊旗手山口重信陸軍少尉は、師範学校裏の 冷川の中で天佑神助無事軍旗泰安の任を果たす。
 聯隊は、空襲後富山中学校及び校庭に集結するも、本土決戦の重大任務のため8月3日一面の焼野原となった富山市を後に、転進地下新川郡の16ヶ所の各国民学校、光闡寺に移駐したが、戦況は米軍進攻の危機が急迫し、聯隊は、引続き本土決戦に即応すべく必須の訓練に邁進した。8月13日決号作戦警戒命令発令され将共士気旺盛なりしところ、突如運命の8月15日終戦(聯隊本部、三日市国民学校·現黒部市役所)、8月25日 軍旗奉還式を挙行(三日市国民学校)、軍旗は8月29日に陸軍省へ奉還した。聯隊は9月3日復員下令され、三日市国民学校において解散式を挙行し、9月5日解散した。聯隊は、決戦地域関東に赴くことなく創設から5ヶ月で青史を終えた。11月中旬兵器弾薬一切は残留部隊が立野ヶ原演習場廠舎(現城端·福光地区)において進駐軍(司令部富山電気ビルに駐屯)に引渡しを終了した。
 戦後平和の礎に、昭和の大戦末期において国家存亡の危機に直面し、終戦·占領·独立·復興を経て平和日本への史実があったことを後世に伝える。
  平成27年4月27日(動員編成70周年記念日)
   公益財団法人借行社 富山偕行会
   一般社团法人日本郷友連盟 富山県郷友会
   防衛大学校同窓会北陸地区支部

機動兵団歩兵第514聯隊創設記念碑 建立誌
 聯隊旗手山口重信陸軍中尉(昭和20年8月20日昇任)は97才でご健在であり、終戦後70年の節目にあたり、当時の米軍本州上陸が差し迫り、日本が土壇場の中、富山で聯隊が編成された歴史を後世に伝えようとの声が彷彿と上がり、当時の憂国と明日への希望の思い出を留め、新たなる日本、新たなる北陸、新たなる富山の建設の思いの礎としたく、記念碑建の隣の旧歩兵第35聯隊碑傍地に記念碑を建立したものである。
(以下、記念建立委員会名簿及び建立協賛及び賛同団体名・会社名・個人名などは略)

県営富山野球場

富山地方鉄道富山市内軌道線呉羽線

富山縣護國神社の最寄りとなる「安野屋」から、歩兵聯隊跡地となる「富山大学前駅」まで、路面電車を活用。

ちょうど居合わせたのが「7018号」
富山地鉄の路面電車7000形で唯一、登場時からのクリーム色と緑の「旧塗装」を維持している車両。

富山大学前電停の近くにあったシェアサイクルを活用して、その3では、陸軍墓地に訪問します。

場所:

https://maps.app.goo.gl/c3vayBNuBCaSq1br8

※2025年9月撮影


富山の戦跡散策3 へ


関連

富山縣護國神社(富山の戦跡散策1)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
初の富山県散策、まずは「富山縣護國神社(富山県護国神社)」から。


富山縣護國神社(富山県護国神社)

富山縣護國神社は、富山県出身の明治維新から大東亜戦争までの戦没者を祀る。また、境内の伊佐雄志神社として、富山大空襲での戦災死された御霊、公務殉職者、神社関係者の御霊を祀る。

明治45年(大正元年・1912年)3月に「富山縣招魂社」として設立が認められ、翌年の大正2年(1913年)8月に竣工、9月18日に鎮座式が執り行われた。
昭和14年(1939年)4月1日、全国の招魂社が護國神社に改称されるにあわせて「富山縣護國神社」に改称。
昭和20年(1945年)8月の富山大空襲で手水舎など一部を残して社殿焼失。
昭和22年、「富山縣鎮靈神社」と改称し、仮殿竣工。
昭和26年10月24日、「富山縣護國神社」に復称。
昭和29年10月20日、現在の社殿の竣工となる。

https://www.toyama-gokoku.jp/concept/

 私達の祖國日本は、幕末以來、幾多の戦役を經験してまゐりました。そして、その折、澤山の方々が國の爲、又、家族、郷土の為に、世界の平和と共存共榮を祈りつつ、尊い命を棒けられました。

 ここ、富山縣護國神社は、それらの方々の御靈を尊んで、「御英靈」とお呼びし、神さまとしてお礼り申し上げてゐます。
 現在、日本の國が平和で、何不自由なく暮せるのも、ひとへに、諸英靈の大きなお守りのおかけであることを私達は決して忘れてはなりません。
 御英靈に感謝の
 まことを棒けませう
 どうぞ、手水舎にて身心を清められ、神さまのおそば近くで御參拜下さい。


大灯篭(富山縣護國神社)

昭和13年4月の建立。富山空襲の難を逃れた。

富国徴兵保険相互会社、世相を感じる会社。

大灯篭のレリーフ。
靖國神社の大燈籠の基壇部分日清戦争から満洲事変までの主な戦闘場面が、陸海軍それぞれ7面描かれているが、そのなかから「日露戦争奉天入城式」(左)と「日本海海戦の戦艦三笠艦橋の東郷元帥」(右)を、靖國神社の許可を得て、奉掲。


御社殿(富山縣護國神社)

広々とした境内。参道が折れ曲がっている。

清々しい神域

大拝殿

みたまやすらかに
参拝

旧社号標

「富山縣招魂社」

昭和10年7月建之、富山大空襲の難を逃れた。

昭和12年3月10日再建とある鳥居


御朱印(富山縣護國神社)

御朱印。「忠魂不滅」
遺詠は、お祀りされている高田豊志命が御家族に遺言としておくられた最後の手紙の中の「母上様」宛の歌

忠魂不滅
 遺詠
  夢にだに忘れぬ
   母の涙をばいだきて
   三途の橋を渡らむ

 この御朱印に書かれてる歌は、富山縣護國神社にお祀りされてをります高田豊志命が御家族様宛に遺言としておくられた最後の手紙の中の「母上さま」宛とした歌でございます。
 高田豊志命は昭和二十年五月十三日、飛行第二十戦隊陸軍伍長として台湾宜蘭基地を出撃、沖縄本島西海岸に群がる米艦船に体当たりし散華されました。
 父豊次郎さんが、八十歳になられた時、戦後久しく仏壇に収められてるた白木の箱の中に「うた日記」を発見されました。この「うた日記」には、高田豊志命が昭和十八年の三月から二十年の四月まで、毎日和歌を作ることを志し、和歌七八三、俳句十七、詩文九が書き綴られてをりました。この「うた日記」は遺芳館に展示されてをります。


伊佐雄志神社(富山縣護國神社)

伊佐雄志神社として、富山大空襲での戦災死された御霊、公務殉職者、神社関係者の御霊を祀る。


遺芳館(富山縣護國神社)

御英霊の遺書や遺品を展示。

見学を。

奉納模型

幣帛料など。

富山大空襲
昭和20年8月1日、死者約3,000人、負傷者約8,000人。

朝倉豊次海軍少将の軍装
朝倉豊次は、富山県出身(現在の黒部市前沢の出身)
富山県出身の唯一の閣下(海軍少将)
海兵44期48番卒業
太平洋戦争開戦時は重巡洋艦「高雄」艦長。1943年12月に、戦艦「武蔵」艦長(第三代艦長)。
1944年5月に海軍少将に昇進、8月に武蔵艦長を猪口敏平大佐に引き継ぎ、南遣艦隊参謀長を経て、第10方面艦隊参謀長兼第13航空艦隊参謀長兼第1南遣艦隊参謀長として昭南島(シンガポール島)で終戦を迎えた。
終戦後は、富山に戻り、黒部市の初代教育長を務めている。

天に星 地に花 人に愛

左は、山崎定義陸軍中将の軍装
山崎定義は、富山県出身(現在の富山市)
名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校(15期)を卒業。金沢歩兵第35聯隊勤務。日露戦争では小隊長として出征し、旅順包囲戦で負傷。
1910年、陸軍大学校(22期)卒業し、陸軍歩兵学校勤務。
桜歩兵第57連隊長や東京歩兵第2旅団長などを務め、1934年に陸軍中将昇進し待命、予備役編入。
1936年に富山市長に就任。1940年に市長を退任。


聖帝四代御製碑建立の記

聖帝四代御製
明治天皇御製
 世とともに 語りつたへよ 國のため 
  命をすてし 人のいさをを

大正天皇御製
臨靖国神社大祭有作
武夫重義不辞危 
想汝従戎殞命時 
靖国祠中嚴祭祀 
忠魂萬古皇基

昭和天皇御製
爆撃に たふれゆく民の 上をおもひ 
いくさとめけり 身はいかならむども

今上天皇御製
國がため あまた逝きしを 悼みつつ 
平らけさせき世を 願いあゆまむ

 富出縣護園神社が御創立百周年を迎え 、しづかに戦歿御英霊のおこころをおしのび申し上げ、その精神が青少年の教育の基本となることを願ひつつ、御創立百周年記念大祭を齋行し、そしてその記念大祭を更に意義あらしめる為に、明治天皇、大正天皇、今上天皇が我国の為、散華された御英霊の遺徳を偲び、或は、国民の上を思ひ遣り給ひてお詠みなられました御製・ 御製詩を石に謹刻申し上げたのであります。
 この『 聖帝四代御製碑』が、これからの日本を擔ふ青少年諸君を始め縣民全ての精神的指針となり、祖國日本の復古維新の源となることを祈念してやまないのであります。
    富山縣護園神社
      宮司 栂野守雄


拓魂

富山県出身の満蒙開拓殉難者1千4百余柱の慰霊顕彰碑。

建立の由来 
満蒙開拓の事業は 昭和7年に始まり 終戦まで重要国策として進められ 本県からは 県選出の開拓団並びに青少年義勇隊 報国農場等合せて5千5百余名の多数の同志が入植していた 私達開拓者は 故国を離れ 満蒙の地に民族の先達として 不屈の精神をもって五族協和の道義世界建設の理想に燃え 新天地の開拓に精進していた しかるに敗戦という冷厳なる事実に直面し 言語に絶する民族の悲劇に遭い 1千4百余名の将来ある生命が絶たれた かって日本の生命線と呼ばれた彼地に 雄図空しく斃れた非命に痛恨の情が尽きない 開拓の精神は創意発展の神髄であり 真理探究の道である 諸君の悠久の生命を信じ 遺志を無にすることなく 恒久平和への道標としてここに合祀し 碑を建立して 道義日本の将来を祈念するものである
  昭和51年8月 建立
   富山県満蒙開拓引揚者一同


馬魂碑

陸軍歩兵第69聯隊の軍馬慰霊顕彰碑。
富山大学の地は、陸軍歩兵聯隊の軍用地、であった。のちほどで訪問しますが、後述。

碑歴
旧陸軍歩兵第69連隊時代の建立になる馬魂碑は、戦後長い歳月その所在が明らかでなかったが、昭和51年3月富山大学構内整備作業中発見
 ここ護国神社境内に移設し永くその魂の安らかんことを祈る
   昭和51年8月11日 (再建)
     富山県馬術連盟会長 平野平好
     富山県馬事振興会会長 松村清年


つばさの塔

富山県出身陸軍少年飛行兵の戦没者48柱の慰霊顕彰碑

つばさの塔
 昭和9年2月に誕生した陸軍少年飛行兵は同20年8月の終戦に至るまで 航空部隊の中核として約3万人が巣立ち 富山県からも多くの紅顔の少年たちがこれに参加した
 顧みれば 支那事変や大東亜戦争で 祖国の繁栄と同胞の幸せを祈りながら 尊い命を捧げられた多くの人たちが思い出される
 なかでも 14歳で志願し 17歳で出陣して 大空の決戦場に花と散った陸軍少年飛行兵の至純な姿を忘れることはできない
 日本の空に 平和が訪れて既に26年 かって苦楽を共にした われわれ生存者相集い今は亡き 郷土出身の友を偲び 心からその栄誉と崇高な精神を讃え 永く後世に伝えるとともに 世界永遠の平和と人類の福祉を祈念して ここに「つばさの塔」を建立する
  昭和46年6月13日
   元陸軍少年飛行兵 富山県内生存者一同


嗚呼 海原よ 大空 に

海軍甲種飛行予科練習生の戦没者の慰霊顕彰碑

神風特別攻撃隊第五七生隊
海軍大尉森丘哲四郎辞世
ちはやふる 
 神の持たせる
  命なり 
砕きて守れ 
 大君と國
  同期 千玄室謹書

富山県黒部市出身の森丘哲四郎氏は海軍飛行14期予備学生
裏千家家元であった千玄室が同期であった。

連合艦隊告示(布)第一〇九号
布告
海軍少尉森丘哲四郎外二十六名神風特別攻撃隊第五七生隊員トシテ昭和二十年四月二十九日勇躍出撃沖縄本島東方約六五浬附近ニ於テ航空母艦四隻戦艦三隻ヲ基幹トスル有力ナル敵機動隊ヲ捕捉相続イテ必死必中ノ体当リ攻撃ヲ決行シ克ク其精華ヲ発揚シテ悠久ノ大義ニ殉ス忠烈万世ニ燦タリ
仍テ茲ニ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス
 昭和二十年六月十日
  聯合艦隊司令長官 小沢治三郎


金鵄勲章碑

金鵄勲章受勲戦没者の慰霊顕彰碑

金鵄奉献
 金鵄勲章は明治23年2月11日勅令をもって制定せられ戦場における武功抜群の軍人にのみ授与せされた国家最高勲章であります。
 御英霊は国家の興亡に際し身命を捧げて護国の華と散られたものでその武勲は悠久不滅でありよき平和日本の礎を築かれたことは厳然たる事実であります。国民は斉しくご英霊の至誠に応え崇敬の誠を捧げなければなりません。
 ここにご英霊の鎮魂を慰めその勲を顕彰し併せて金鵄の尊厳を後世に伝え国運の隆昌を祈念するためこの碑を奉納いたします。
 敬白
  昭和53年10月吉日
    富山県金鵄会

金鵄勲章のレリーフ


建国記念塔

建国の日 2月11日


パール判事の碑

不正なる裁判の害悪は原子爆弾の被害よりも著しい
印度国判事
ラダビノード・パール


明治百年記念

碑歴
明治維新の大業成り明治改元より百年を迎えるに当たり不滅の偉業と恩恵を讃えその精神と教訓を今に生かし世界的視野のもと新世紀に臨む決意を確固とし次代へ継承し限りない希望をこめ富山市大場町奉納の安政の大鳶崩れに流出と伝えられるこの巨石に刻してこれを建立する
 明治43年4月吉日 
  明治維新百年富山縣護國神社記念事業実行委員会


天皇皇后両陛下御親拝記念碑

昭和33年10月19日の御親拝


第一次世界大戦従軍記念碑

第一次世界大戦において青島に出兵した戦没者の慰霊顕彰と従軍者を顕彰する碑

大勲位守正王御諚
  國護る自衛の躾道義心
 第一次世界大戦従軍記念碑
 山東省青島
   ビスマルク兵舎駐屯

國のため 朽ちて流れん みなと川 来くむ人の あれを悟りて
 昭和44年1月11日 建立


噫 ニューギニア

ニューギニアに出征した富山県出身の戦没者の慰霊顕彰碑

ニューギニア島を思わせる形をした碑石


嗚呼 トラック諸島

トラック諸島にて戦没された御英霊200余柱の慰霊顕彰碑

 大東亜戦の様相益々苛烈を極め、南方戦域死守の要いよいよ急を告げる昭和18年秋、精鋭を誇る我が聯隊及び師団司令部は中部太平洋トラック諸島に急派された。
 遠征途次、南海に幾度か魚雷・空爆の猛襲を受け乍ら救援のため、サイパン島を迂回した第2陣と一丸となり、海軍と密に連携して夏島を中心とする各島に分散配置した聯隊は、敵の制海・制空により補給途絶・孤立無援の戦況下、連日の凄惨執拗な艦・空爆撃を受け、人間生存の極限とも思える飢餓及び、特有の悪疫を克服し乍ら玉砕の覚悟を以て、遂に敵の攻略を許さなかったのである。
 しかし乍らこの大任遂行中、酷熱の赤道間近に於いて戦歿された御英霊が200余柱の多きに達したことは、痛恨の極みである。
  嗚呼悲壮なるかな!!
 戦後正に40年、嘗ては死生血涙を共に苦闘を続け今は亡き戦友のご冥福を祈ると共に、涙を呑んで散華なされた南溟の空を仰ぎ、鎮魂の誠を捧げるためゆかりのある聖域にこの碑を建立した。
   昭和60年12月8日
    金沢第52師団司令部 富山歩兵第69聯隊 トラック諸島戦友会

お知らせ
 1 碑文の裏面にトラック諸島の位置を表示してあります
 2 碑の正面下にトラック諸島夏島に現存する「戦没者の墓」の1/5の模型と、その上に墓石を用いた玄武石(現地より持参)の原石を添えてあります
 3 碑に正面した方向(南南東)にトラック諸島が在ります。機会ある毎に遥拝し英霊をお慰めして下さい

トラック諸島夏島に現存する「戦没者の墓」の1/5の模型

墓石を用いた玄武石(現地より持参)の原石


皇太子殿下御降誕記念

陸軍大臣の林銑十郎の謹書
昭和8年12月23日に、 明仁さまが御降誕あそばされた。


紀元二千六百年記念

昭和15年(1940年)は紀元2600年。


支那事変記念

昭和12年(1937年)の盧溝橋事件から始まった支那事変の戦没者慰霊顕彰碑。
昭和14年に建立。
歩兵第35聯隊の第22代聯隊長の川久保鎮馬による揮毫


大正天皇御製 登呉羽山碑

大正天皇御製 登呉羽山
皇太子時代の明治42年(1909)に呉羽山に登られた。

珍しい漢詩の御製

登呉羽山
雨後風無秋気温 (雨後に風無くして秋気温かく)
呉羽峻阪留履痕 (呉羽峻阪にして履痕を留む)
維昔秀吉進征旆 (維れより昔秀吉進みて旆を征し)
敵将力窮降軍門 (敵将力窮まりて軍門に降る)
吾来此地見形勢 (吾此地に来りて形勢を見れば)
中越全景眼中存 (中越の全景眼中に存り)
立岳衝空向東聳 (立岳空を衝き東に向かいて聳え)
神通水漲指北奔 (神通水漲り北を指して奔る)
兵営一路連城中 (兵営一路城中に連なり)
海湾直接罷亞原 (海湾直に罷亞原に接す)
眺望如此難多得 (眺望かくの如く多く得ること難からん)
真是北国好公園 (真に是れ北国の好き公園なり)


陸軍省境界杭(陸軍省境界標石)

境内の一画に、陸軍の境界標石(境界石・境界杭)がまとめられている。

片側には「陸軍省」、もう片側には「疆界」

「疆界」の境界は珍しい、あまり見かけない。

上から

奉納砲弾も残る

富山縣護國神社
静謐な凛とした神域を保たれた良きおやしろでした。
ありがとうございます。

※撮影:2025年9月


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