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軍都佐倉の戦跡散策・その1(歩兵第二聯隊佐倉兵営跡地散策)

千葉県佐倉市。佐倉市を代表する「佐倉城址」は、佐倉城址公園や国立歴史民俗博物館などとなっているが、戦前は「佐倉聯隊」(歩兵第2聯隊・歩兵第57聯隊)の兵営地であった。

佐倉は、行こう行こうと思って2022年5月に戦跡散策を実施、そこで時間切れや散策漏れなどがいろいろあって2023年1月に再訪。写真が夏だったり冬だったりするのは、そのためです。
特に一日で、佐倉城址の散策と、歴博の見学を一気にやろうとしてはダメです。
歴博だけで、真面目に見学すると、歴史好きなら一日を消費します。

本記事は、「その1」となります。


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位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1828-72
1948年9月26日、米軍撮影の航空写真を加工。

上記から佐倉城址界隈を切り抜きし、画像を回転。
本丸を上にしてみる。

下図は佐倉連隊跡関連位置図。
上記の航空写真と位置合わせ。

みてのとおり、「佐倉連隊跡関連位置図」という便利な案内看板が随所にあります。戦跡散策も快適ですね。


佐倉連隊案内図

これは、歴博の入口正面、愛宕坂の下に。

明治7年、日本最初の軍隊歩兵第二連隊が佐倉に駐屯し、多くの部隊が編成・訓練され、西南戦争、日清・日露戦争にこの地から出生されました。明治42年には、第二連隊にかわって歩兵第五七連隊が移転し、昭和19年のフィリピン戦で多くの命が失われ、壊滅しました。


佐倉兵営跡の碑

散策順は、番号順ではなく。
なぜなら、佐倉城の大手門から、入城したので、番号順に散策するのが困難だったのです。番号は、歴博からの順路、ですね。

佐倉兵営跡の碑
佐倉市城址公園自由広場の南側にある。昭和41年に建立、現在地に移ったのは歴博建設後。題字は連隊長をつとめた今村均陸軍大将の書。

今村均は、陸士19期、陸大27期首席。最終階級は陸軍大将。
1932年4月、佐倉の歩兵第57連隊長を拝命している。
開戦時は、蘭印作戦を指揮。
昭和17年意向は、ラバウルの第八方面軍司令官として陸軍を統率し、海軍の草鹿任一中将以下の南東方面艦隊と共に、終戦まで孤立する中でラバウルを維持している。

佐倉兵営跡
 元聯隊長 今村均謹書

歴代聯隊長名(23代目まで)が、裏面に刻まれています。
今村均は、第17代聯隊長。

歩兵第二聯隊長佐倉兵営全図
「佐倉兵営跡の記念碑」は昭和41年に旧佐倉57連隊本部跡付近に設置されたものです。
国立歴史民俗博物館が明治100年記念事業として建設されるにあたり昭和51年5月ここに移設しました。

皇紀二千六百年奉祝記念

桜 壱百本
躑躅 参拾本

明治天皇御駐蹕記念碑
 陸軍大臣 林銑十郎 敬書

背面は、削られていました。。。

 こゝは、旧佐倉城二乃丸の入口で連隊になってからは、この前後に連隊本部及び兵舎十数棟があった。佐倉城は土井利勝が、徳川家康の命により、元和3年(1617年)完成以後延享3年(1746年)以来堀田氏の所領したものであるが、明治6年ごろ(1813年)建造物はすべて取りこわされた。同7年歩兵第2連隊がおかれた。後、明治42年第1師団歩兵第57連隊となり、以来昭和20年(1945年)8月15日まで、千葉県一円を徴兵区と定められ、名実共に房総健児練武乃地であった。
 この間、西南、日清、日露、欧洲大戦、関東大震災、日支事変、大東亜戦争と数多く乃国難におもむき常に師団最強の部隊として郷土の信頼にこたえた。
 本連隊乃主力は、昭和11年乃2.26事件以来満洲に移駐し、同19年7月まで、孫呉において、ソ満国境の警備に当たったが、同年11月フィリッピン乃レイテ島に転進し、宮内連隊長の下、物量を誇る米軍と50日にわたり激戦し玉砕した。こ乃内第3大隊はグアム島において奮戦した。
 別に第57連隊を母胎として動員編成された歩兵第157連隊は、昭和12年9月より福井部隊(後に南部、赤松)として上海に上陸、大場鎮、杭州、廬山、修水、南昌、高安、江南の中支戦線において活躍し、又別に歩兵第212連隊は、山口(信)部隊として昭和14年4月より中国山東省、山西省において房総健児の勇名を輝かせた。
 このたび連隊関係有志相語らい、軍旗の下に祖国乃ため散華せられた方ゝ乃御めい福を祈り兵営跡が永久の平和公園としてよみがえる事を祈念し佐倉連隊乃いわれを伝えるものである。
 昭和41年10月吉祥日

皇太子殿下御野立所

明治44年5月21日

大将5年5月21日建設

ちかくに空堀

場所


車道の碑

車道の碑
大正9年建立。兵営と大手門とを直通させる新道の完成記念碑。連隊への物資搬入のため、佐倉城時代の不便を解消しました。

第1師団経理部員の名前が刻まれていた。
大正9年8月の銘あり。

場所


旧佐倉連隊脂油庫

旧佐倉連隊脂油庫
旧陸軍(歩兵第五十七連隊等通称佐倉連隊)が小銃、機関銃等の手入れ用の油を保管していた倉庫です。
この倉庫は、昭和9(1934)年発行の「営内配置図」においてその存在を確認することができます。昭和20(1945)年の終戦まで使用されていたと推定されます。
佐倉連隊のうち歩兵第57連隊は、その一部が昭和19(1944)年8月にグアム島にて壊滅(玉砕)しました。また主隊は、同年11月のフィリピンレイテ戦でその大部分を失い、セブ島にて終戦を迎えました。
佐倉連隊の戦争遺構として大変貴重です。
※油脂庫ともいいますが、、「営内配置図」においては『脂油庫』と記載されております。

場所


弾薬庫の跡

弾薬庫の跡
姥が池西側坂道を登った奥の窪地にあった。万一の爆発に備えた土手や建物に使われたコンクリートの一部が残されています。

場所


姥が池

佐倉城址に古くある池。伝説も多く残っている。


訓練用の12階段

訓練用の12階段
兵士が高所からの飛び下り訓練に使用したコンクリート製の階段。木製の飛び下り台と違い、壊すのが大変なため、戦後も残ったと考えられます。

場所

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軍犬・軍馬の墓

軍犬・軍馬の墓
軍曹安藤一能が建てた軍犬房号之墓(昭和7年)、近衛歩兵第五連隊第二機銃隊が建てた軍馬北盤之墓(昭和18年)が並んで立つ。連隊の敷地内には、犬舎・鳩舎・厩舎がありました。

場所

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佐倉陸軍病院跡

佐倉陸軍病院跡
創設は明治7年。佐倉屯営病室・佐倉営所病院・佐倉衛戍病院・佐倉陸軍病院と名称が変遷した。昭和40年代までテラスを配した洋風病棟が残っていました。

場所


東京鎮台佐倉営所病院跡の碑
(東京鎮台佐倉営所病院記念碑)

明治・大正・昭和・平成の
 四世に亘る
  佐倉醫のこころ 
   茲に遺す 
    仁の心を腎に

病院・療養所の変遷
明治 7年 5月 
 東京鎮台佐倉営所病院として創設される
明治20年11月
 佐倉衛戍病院となる
昭和11年11月
 佐倉陸軍病院となる
昭和20年 8月
 軍事保護院佐倉病院となる
昭和20年12月
 国立佐倉病院となる
昭和25年 4月
 国立療養所佐倉病院となる
昭和28年 4月
 国立佐倉療養所となる
昭和52年 4月
 腎不全対策の基幹施設 
 腎移植センターとして機能付与される
昭和54年 4月
 国立佐倉病院となる
 江原台に移転する
平成16年 3月
 国立病院・療養所再編計画により
 国立千葉東病院に経営統合される

記念碑の建立に際して
 この地には、かつて病院が存在しておりました。当時の建物は、国立歴史民俗博物館の建設に伴いすべて解体され、元の敷地に残る樹木にのみ往時を偲ぶことができます。
 この病院は、戦前戦後の百年余りにわたり、国策や社会動向と密接不離に変転し続ける舞台となり、その軌跡は今も多くの人々の記憶に刻まれています。
 私たちは、佐倉城跡に連綿と息づいた病院の歴史を将来に語り継ぐ為、多くの方々のご支援をいただき記念碑を建立致しました。
 平成19年3月
  東京鎮台佐倉営所病院記念碑建立事業実行委員会建之

病院時代の往時を偲びし樹木。

場所


佐倉城の礎石(兵舎の礎石)

あたりまえですが佐倉城の史跡もあります。

佐倉上の礎石
 昭和59、60年(1984、1985)国立歴史民俗博物館の研究棟を建設するために、同敷地を発掘調査し、旧陸軍の営所跡を検出した。
 兵舎跡の基礎には、大量の石が詰めてあったが、主柱の建つ位置には佐倉城の礎石を埋め込んでいた。
 佐倉上は、江戸時代初期の元和年間(1610年代)に土井利勝がこの地に築いた城である。明治時代初期(1873)に同じ場所に陸軍の営所をおく際に、佐倉城の建物は取り壊し、その基礎を兵舎の基礎に転用したのである。

場所


兵士が文字を彫り込んだモッコク

兵士が文字を彫り込んだモッコク
本丸跡にある県指定天然記念物。幹に「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが掘られています。

あっ、わかりますね。

「昭十八年十月」「砲隊」って、いまでも刻んだ跡が残っています。

場所


佐倉城天守跡

場所:


土塁

場所


兵営の便所跡

兵営の便所跡
雨天休憩所近くに土台のみが残る。江原新田では連隊と契約し、下肥・馬糞の払い下げを受け、汚物掃除を担当していました。

これは、良い感じに、残ってますね。

往時は、なかったであろう樹木も、戦後七十年以上ともなれば、コンクリートを破壊する根力でもって、存在感をアピール。

樹木の力って凄いなを実感。。

ここは、良いですね。写真を撮り続けてしまいます。

場所


佐倉城馬出跡

場所


椎木曲輪(侍屋敷)【兵舎跡】

椎木曲輪(侍屋敷)
 歴博があるのは「椎木曲輪」と呼ばれる侍屋敷地区で、連隊時代は兵舎がありまいsた。歴博駐車場も侍屋敷の跡で、外側には「杉坂」と呼ばれる坂や秋葉神社がありました。


円勝寺跡・愛宕神社跡

円勝寺跡・愛宕神社跡
 円勝寺は城内にあった真言宗の寺院でしたが、明治の廃仏毀釈で消滅しました。奥には愛宕神社があり、田町の氏神でもありましたが、連隊建設後は立ち入りが禁止されたため、移転しました。

場所

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衛兵所跡

衛兵所跡
 ここに常に衛兵が立ち、連隊に出入りする者を監視していました。

場所


田町門跡・愛宕坂

田町門跡・愛宕坂
 成田街道に沿った城下町の一部「田町」から城内への門で、門の裏手に番所がありました。現在歴博のある場所は椎木曲輪と呼ばれ武家屋敷がありました。田町から現ザウ歴博のある椎木曲輪へ上がる坂は、愛宕神社の下にあるため「愛宕坂」と呼ばれていました。現在の歴博入口は連隊建設の際にまっすぐに出入りできるよう変更されたものです。

歴博正面

佐倉連隊跡&佐倉城址&歴博、これは面白い良いですよ。戦跡散策の入門編としてもおすすめ。

※撮影:2022年5月及び2023年1月


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