「下志津駐屯地・高射学校 観桜開放」下志津陸軍飛行学校跡地散策(令和5年)

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かつて「下志津原」と呼ばれていた平坦な土地には、佐倉藩の射撃場から発展した陸軍の射撃場が広がり、そして「陸軍砲兵射的学校」があった。

そして、共同訓練を行っていた「下志津陸軍飛行学校」もあった。

千葉県佐倉市と四街道市の間に広がる、平坦な土地は、「下志津原」と呼ばれ、陸軍の射撃場があった。往時の名残は格別にはないが、記念碑が建立され...

陸軍砲兵射的学校は、のちに四街道に移動し、「陸軍野戦砲兵学校」となる。

軍郷四街道。軍郷としての四街道の繁栄は、佐倉藩が洋式砲術(高島秋帆流砲術)の演習を行っていた「下志津原」にはじまる。下志津原に築かれた砲兵...

そして、下志津原を活用すべく近くには、航空学校が開設される。
「下志津陸軍飛行学校」では、射撃観測などで、砲兵との連動訓練などを実施することもあり、「陸軍野戦砲兵学校(野砲兵校)」が近くにあることは多くのメリットがあった。


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下志津陸軍飛行学校

主に空中偵察に関する各種の教育と研究を行った陸軍の学校。

明治45年(1912)に、日本陸軍は飛行機操縦者の教育を国内で本格的に開始する。
当時は、国内唯一の航空関係部隊であった所沢の飛行試験場の気球隊での教育から始まった。
大正4年(1915)に常設部隊として所沢に「航空大隊」が創設。

所沢航空発祥記念館に展示されている「アンリ・ファルマン機」。日本で初めての動力飛行を行った飛行機。徳川好敏とともに初フライトを行ったアンリ...
明治44年(1911年)、日本初の飛行場として、所沢飛行場が開設。以来、昭和20年(1945年)の終戦に至るまで、日本の航空発展の歴史は、...

大正8年、「陸軍航空学校」が所沢に開設。フォール大佐を長とするフランス航空団が航空教育を指導。
航空偵察観測は、砲兵との連携が重視されたために、陸軍野戦砲兵学校と下志津陸軍演習場にて航空教育を実施。
大正10年(1921)4月、「陸軍航空学校」は、所沢を本校に、空中偵察訓練がすでに実施されていた「千葉の下志津」に分校を設置。
陸軍航空学校下志津分校」が開設される。

「下志津分校」は砲兵の連携に最適な環境ではあったが、所沢の陸軍航空学校本校とは離れており、本校分校との連携には難儀があった。
大正13年(1924)5月、陸軍航空学校が再編となり、「所沢陸軍飛行学校」、「下志津陸軍飛行学校」(偵察等)、「明野陸軍飛行学校」(空中戦闘等)の3校が設立された。

昭和11年(1936)に、下志津陸軍飛行学校銚子分教場を設置。

千葉県銚子市に点在する戦争関連の史跡を散策してみる。 翔天の碑 この地に飛行場ありき下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地 ...

昭和13年(1938)7月、「水戸陸軍飛行学校」が新設され、通信関連の教育や幹部候補生教育は、水戸に移管となった。

茨城県ひたちなか市。 戦前、水戸の周辺には3つの陸軍飛行場があった。水戸飛行場(水戸東飛行場)水戸南飛行場(吉田飛行場)水戸北飛行場...

昭和16年(1941)3月に、下志津陸軍飛行学校八街分教所を設置。
昭和19年(1944)には、広島市の吉島にも分教所が設置されていた。

下志津教導飛行師団

戦局の悪化とともに、下志津陸軍飛行学校も教育機関から防空戦闘機関に移行となり、教育と作戦行動が並行するようになり、昭和19年6月に下志津陸軍飛行学校は閉鎖。下志津教導飛行師団に改編となった。

昭和20年7月には、下志津教導飛行師団は教育部隊と作戦部隊の分離改編がおこなわれ、教育部隊は「教導飛行師団 第5教導飛行隊」となった。そして作戦部隊として「教導飛行師団 第1・第2独立飛行隊」が編成された。
昭和20年8月15日、終戦。

※移築格納庫

「千葉公園体育館」は、1946年から始まった千葉市の戦災復興都市計画事業の一環として計画された千葉公園整備計画の中に組み込まれて建設が決定...

陸上自衛隊下志津駐屯地(陸上自衛隊高射学校)

昭和30年(1955)、陸上自衛隊下志津駐屯地が開設。陸上自衛隊高射学校も設置されている。
下志津駐屯地司令は、高射学校長が兼任している。


下志津陸軍飛行学校跡地散策

下志津駐屯地の観桜一般公開がありましたので、足を運んできました。
良い感じに桜が満開です。かなりの雨でしたが。。。

下志津陸軍飛行学校の歩哨舎(門柱)

平成23年に正門改修工事が行われている門柱(手前)。
かつては下志津陸軍飛行学校の「歩哨舎」であった。
歩哨舎の外観を生かして、内部空間を塞いで、近年に「門柱」としたようだ。

陸上自衛隊 下志津駐屯地

高射学校

駐屯地観桜開放のお知らせ

雨天中止しなくて良かったです!

桜散策コースガイド

正門から右側のみ見学可能。「桜メイン」の開放ですから。
左側にも行きたかったが。

いくつか記念碑が集まっています。

下志津陸軍飛行学校跡碑

下志津陸軍飛行学校跡

菅原道大 の揮毫
昭和41年5月建立

菅原道大は、水戸つばさの塔も揮毫していました。

下志津陸軍飛行学校跡碑の裏面

下志津は所沢明野と共に陸軍航空揺籃の三大基地であった
大正8年偵察観測班創設以来分校より下志津飛行学校〇〇成長し大東亜戦争熾烈化に伴い教育師団となり次で第五教育飛行隊の基地として終戦を迎えたこの間二十有六年教育せし学生総数実に四千五百九十四名の多きに達するの功績を遺した
 昭和四十一年五月
  第八代校長 菅原道大

菅原道大は、陸軍中将。
大正14年(1925年)に菅原は陸軍航空科へ転科し航空少佐として飛行第6聯隊に着任。
昭和6年(1931年)、「下志津陸軍飛行学校教官
昭和14年12月に、「下志津陸軍飛行学校長」
昭和16年(1941年)、開戦時は第3飛行集団長。マレー作戦の航空作戦を指揮。
昭和17年7月、新設された第3航空軍司令官に着任。ビルマ航空戦を指揮。
昭和18年5月、内地に帰還し陸軍航空士官学校長に着任。
昭和19年3月、航空総監部次長。7月には、航空総監兼航空本部長を拝命。12月、第6航空軍司令官。沖縄方面の航空作戦の責任者として、海軍の戦艦大和の菊水作戦の支援や、指揮下の義烈空挺隊の義号作戦の指揮を執ることとなる。
昭和20年8月15日、終戦。
海軍の九州方面の航空責任者であった宇垣纏が沖縄に特攻出撃する中で、陸軍の九州方面の航空責任者であった菅原のもとにも部下たちが最後の特攻出撃を申し出る中で、「陛下の終戦玉音を拝聴した後は、余は一人の兵士も殺すわけにはゆかぬ。皆、おとなしく帰れ」と部下を諭している。
海軍側の宇垣纏中将、大西瀧治郎中将が亡き後、陸軍側の責任者とて、自決することを断念し、特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決意。
「特攻平和観音奉賛会」を設立し、「特攻平和観音像」「知覧特攻平和観音像」「知覧特攻観音堂」を建立している。

(特攻観音堂は平成30年5月撮影 ) 世田谷観音 (世田谷山観音寺) 江戸三十三観音第32番札所 昭和26年...

古河内貞一先生碑

陸上防空の慈父
古河内貞一先生碑

FATHER OF ELPASO

古河内貞一は、戦前に海外で活躍した医師。メキシコ国境に近い米国テキサス州エルパソに1924年に医院を開業し、戦前戦後を通じ、民間領事といわれるほど日、墨米人間に絶大な信頼があり慈父と慕われた人物。

古河内先生略歴
明治20年 千葉市寒川町に生まる
大正12年 渡米 テキサス州率医科大学にて研修
大正13年 テキサス州エルパソ市において開業 爾来市民に広く仁愛の恵を施し市民慕いて慈父と敬う
昭和30年 以降留学自衛隊員の誘致指導に尽力
昭和35年 日米親善の功績により日本政府から勲四等瑞宝章を受く
昭和35年 産業発展等の功により大日本農会から緑白綬章を受く
御高徳を讃え昭和40年7月これを建つ

第一ロケット実験訓練隊記念之碑ほか

第一ロケット実験訓練隊記念之碑

第一ロケット実験訓練隊は、防空装備近代化の一環として昭和34年12月に新設。昭和43年夏に高射学校の改編に伴い廃止。
石碑は廃止となった昭和43年8月の建立。

8H編合記念
第309射撃中隊
 昭和51年8月1日

記念
第123特科大隊

第123特科大隊は、昭和34年創設、昭和45年廃止。

広報史料館

広報史料館

入れませんでしたが、非常に興味深いものが入口の前に展示してありました。

三式12糎高射砲

三式12糎高射砲
 三式12cm高射砲は、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)にアメリカのB29爆撃機に対抗するために高度10,000mまで届く高射砲として量産化され、約120門製造された。
 本高射砲は、当時陸軍の対空兵器として多大な期待がかけられ、試作から量産までを担当した㈱日本製鋼所の功績は高く評価された。
 その後、本高射砲の出現によりB29爆撃機が更に高高度を飛行するようになり、陸軍はそれに対抗して15cm高射砲の開発に着手することとなった。
 本砲身は、2008年1月横浜市・子安台公園で横浜環状北線の土壌調査中に出土したものであり、現存する唯一の方針である。

前面

背面

99式8糎高射砲

由来書
 「京阪地区」昭和3年から軍官民の総合防空訓練を定期的に行うなど平素から防空について関心が高かったが昭和16年11月中部防空旅団が編成完結し以来、質、量ともに増強され第2次大戦末期には高射第3師団が展開配置されていた。
 この高射砲は発見された一(神戸市生田区)から見て神戸地区の防空に任じていた。
 高射砲第12連隊又は高射砲第123連隊の主力火砲であり99式8糎高射砲12門中の1門であると推定される。

25ミリ機関砲

25ミリ機関砲
 この機関砲は、第2次世界大戦の末期(20.4.1~20.6.23)沖縄本島の防衛に当たったものである。
 沖縄首里西方真嘉比、安里、天久台地区及び大名方面等で活躍し、特に天久台地区の激戦で一角を固守する独立第2大隊機関砲第103大隊(大隊長 苧坂清治少佐 千葉で編成 19.7.20 第62師団に編入)は、よく奮戦し沖縄の防衛に活躍した大隊装備の25ミリ機関砲の一門である。
 この機関砲は沖縄首里東側の大名附近で発見したもので昭和48年8月 第101不発弾処理隊によって発掘したものである。

この砲身は、なんだろう?

野外展示。こちらは陸自時代ですね。

75mm高射砲(M51)

40mm自走高射機関砲(M42)

35mm2連装高射機関砲(L-90)

地対空誘導弾改良ホーク

下志津のつつじ

毎年、4月29日に下志津駐屯地創設記念行事「つつじ祭り」が開催。

右が桜の開放エリア。

左は立入禁止。。。

グランドの隅に。

天皇の松

天皇の松

天皇の松の由来
この松は今上天皇が皇太子当時大正11年五月旧下志津飛行学校の開校式に行啓の際将校集会所の前庭(現位置より東百米)に記念植樹された由緒ある松であり昭和49年2月11日に移植し「天皇の松」と命名し末永く保存することになったものである。
 昭和54年10月吉日

グランド

通信鉄塔

通信鉄塔がシンボルになってますね。

高射学校本部庁舎

理想を持て
勇気を持て
前進せよ
 昭和42年6月
 福富繁書

福富繁
陸軍としては、陸大56期、陸軍少佐で第28軍参謀。
戦後は、陸将、第4代の陸上自衛隊高射学校長。


下志津駐屯地の観桜開放

ここからは観桜を。写真で。

医務室

下志津厚生センター(体育館)
トイレと売店はこちら

迷彩の真価を発揮する溶け込み具合。

立ち入りできないエリアも多く、古そうな建物観察とかはできませんでした。

通信鉄塔と桜

雨がすごかったので、人出はまばら。
逆にゆっくり見学できたのは良かったですね。
4月29日の「つつじ祭り」にも足を運びたいと思いつつ。

撮影:2023年3月25日


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