JR大阪環状線玉造駅のすぐ隣の鉄橋。ここに無数の穴が開いている。
この無数の穴は、機銃掃射の弾痕、という。
中央の柱に残る、強烈な痕跡。H鋼の2枚を貫通した弾痕に、すさまじい威力を感じるとともに、恐怖と悲劇も思い起こさせるものがある。
目次
位置関係
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。
大阪城には陸軍第四師団司令部が置かれ、そして大阪城の西側、森ノ宮駅の北側には「軍需工場」(大阪砲兵工廠・大阪陸軍造兵廠)が展開されていた。
大阪陸軍造兵廠は、空襲により、80%を焼失している。
このエリアが重要な軍事拠点であり、逆に言うと、米軍からすれば重要攻撃拠点であったことがわかる。
黒門町架道橋(橋脚)
道路の真ん中にある、黒門町架道橋の橋脚部分。
大きくえぐられた穴がある。なかなかに衝撃的な穴である。
機銃弾痕は、東側から西側に銃弾が飛んだことを予想させる痕跡を残していた。
東側。
交通量が多いため、なかなかじっくりと写真を撮ることも難しいため、グーグルストリートビューの画像を借ります。
東側。
機銃痕をマークしてみた。
実は、ひとつ謎がある。
銃痕が下から上って、どういうことでしょうか?
国土地理院の地図で高低差を見てみると、大阪城南部の高低差がわかってきます。
それこそ大阪城のの東側は低地、南の高台には「真田丸」もありました。
この高低差は、今も昔も変わりません。
つまり、米軍の戦闘機(P-51 マスタング)は、あり得ないほどの超低空飛行で長堀通り上を飛行し、地表スレスレの位置から、黒門町架道橋を機銃掃射したことが予想されます。
長堀通りの高低差に合わせて超低空飛行での機銃掃射であれば、「黒門町架道橋」の部分が下から上ということも理解はできます。行為そのものに理解出来るかはまた別ですが。
黒門町架道橋(橋桁)
橋桁部分にも無数の機銃掃射痕跡がありました。
位置関係
東成警察署 中道本通警ら連絡所
玉造駅からほど近いので、脚を運んでみた。
建設は、昭和12年(1937年)。暗越奈良街道の細い道に面している。
この界隈は、ほぼ空襲で焼失したなかで、残った戦前の建造物。
「警ら連絡所」は、警察官は常駐せず、主にパトロール中に立ち寄る、といういうもので、どうやら大阪のみで使用されている名称のようで。
場所
※撮影:2022年7月