「為萬世開太平」終戦内閣総理大臣・鈴木貫太郎の関連史跡2(晩年の地・千葉県野田市関宿町)

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千葉県野田市関宿町。
この地に、鈴木貫太郎記念館がある。
関宿町は、鈴木貫太郎が幼年期と最晩年を過ごした土地。
前々から気に掛かる場所でした。

実は先日に、関西に出張がありました。
せっかくなので、足を伸ばしたのが、「鈴木貫太郎生誕の地」。
生誕の地に行ったのであれば、晩年の地、にもです。

本記事は「その2・晩年の地」です。
「鈴木貫太郎関連史跡1・誕生の地(大阪府堺市)」は以下より。

鈴木貫太郎。日本の戦争を終わらせた総理大臣。実は先日に、関西に出張がありました。どこかに寄れないかな、と地図を見ていたら見つけたのが、「鈴...

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鈴木貫太郎

1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日。
海軍大将。終戦時の内閣総理大臣。
海軍士官として、海軍次官・連合艦隊司令官・海軍軍令部長などを歴任。
予備役後に侍従長・枢密院顧官・枢密院議長などを歴任。
小磯国昭内閣のあと、内閣総理大臣に就任。日本を終戦へと導いた。

1868年1月18日(慶応3年12月24日)、和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾)に生まれる。伏尾は下総関宿藩の飛地であり、関宿藩久世家の家老であった父の鈴木由哲は、代官として和泉国大鳥郡伏尾に赴任しており、鈴木貫太郎は、その関宿藩飛地の堺伏尾で生まれている。3年後の1871年(明治4年)、鈴木貫太郎は本籍地の関宿に居住を移している。

日清戦争

1884年(明治17年)、海軍兵学校に入校(海兵14期)。
1895年(明治28年)、日清戦争に従軍。第三水雷艇隊所属の第五号型水雷艇第6号艇艇長として威海衛の戦いに参加。水雷射出の失敗があり部下の上崎辰次郎上等兵曹は戦後に責任を感じ艇内で自刃。追悼碑「上崎上等兵曹之碑」が、今も海自第二術科学校(海軍水雷学校跡)に残っている。

令和元年11月・横須賀 JR田浦駅近く。 現在の「海上自衛隊第2術科学校」は、海軍水雷学校の敷地を受け継いでいる。 海軍水雷学...

日露戦争

1897年(明治30年)、海軍大学校入校。(海大1期)
1903年(明治36年)、ドイツ駐在中に海軍中佐昇進。イタリアで建造されていた装甲巡洋艦「春日」の回航委員長となり日本に向けて航行中に日露戦争が開戦。日本に到着した鈴木貫太郎は、そのまま春日副長に就任に黄海海戦に参戦。

1905年(明治38年)、第四駆逐艦司令として、高速近距離射法でもって、ロシア戦艦3隻に魚雷を命中させる活躍をする。この際の猛訓練から、鬼の貫太郎・鬼の艇長・鬼貫と渾名された。

1914年(大正3年)、海軍次官に就任し、シーメンス事件の事後処理を行う。
1915年(大正3年)、先妻とよ(1912年、死去)の後妻として、足立たかと再婚。足立たかは 裕仁親王( 昭和天皇)の年少期の教育係を勤めたこともあり、後に侍従長を務める鈴木貫太郎ともども、夫妻で 昭和天皇に仕えることとなる。
1923年(大正12年)、海軍大将に昇進。1924年に連合艦隊司令官、1925年に海軍軍令部長に就任。

侍従長

1929年(昭和4年)、 昭和天皇の希望があり、鈴木貫太郎は海軍を予備役となり、侍従長に就任。
「大侍従長」として、 昭和天皇の信任が厚かったが、1930年(昭和5年)、ロンドン軍縮会議の政府案に反対する加藤寛治海軍軍令部長を説得するなどが、青年将校たちからは、のちに牧野伸顕とともに「君側の奸」として命を狙われることとなる。

平成28年撮影 上信電鉄「山名駅」のすぐ隣に「迎光碑」というものがある。 揮毫 侍従長海軍大将 鈴木貫太郎 書これは昭和9年(193...

二・二六事件

1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件が勃発。
鈴木貫太郎はたか夫人とともに、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの夕食会に参加し、2月25日11時過ぎに麹町三番町にあった侍従長官邸に帰宅
2月26日午前5時頃に安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が官邸を襲撃。
下士官が兵士たちに発砲を命じ鈴木は四発撃たれ、肩、左脚付根、左胸、脇腹に被弾。
安藤輝三陸軍大尉がとどめをさそうとすると、たか夫人が「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。
安藤は軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令し、たか夫人に「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と発し、侍従長官邸を立ち去っている。
反乱部隊が去った後、たか夫人は止血処置を行い、湯浅倉平内大臣に連絡。湯浅内大臣に鈴木貫太郎は、「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と話をするが、こののちに出血多量で意識を失い、近くの日医大飯田町病院に運び込まれている。
瀕死の重傷ではあったが、幸いにして急所を外れおり、快復した。

1937(昭和12年)1月に、鈴木貫太郎は、生地に鎮座する多治比売神社に、二・二六事件での負傷からの本快祝の参拝をしている。
「重症を負った時、多治速比売命が、枕元にお立ちになって命を救われました。そのお礼にお参りに来ました」と語られている。

元記事は平成29年2月投稿、平成31年4月ほか追記あり 深くは掘り下げずに、思いついたことをちらりほらりと書いてみようかと思います。...

終戦内閣総理大臣

1941年(昭和16年)12月8日、対米英開戦。大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発する。
1945年(昭和20年)戦況悪化の責任をとり辞職した小磯国昭内閣の後任として、内総理大臣に就任。 昭和天皇から頼まれ首相に就任する異例の事態であった。また、77歳2ヶ月での内閣総理大臣就任は戦前戦後を通じて日本最高齢の記録、江戸時代の生まれで非国会議員での就任は最後にあたる。

今日、私に大命が降下いたしました以上、私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります。

昭和20年4月7日、内閣総理大臣  鈴木貫太郎の表明

昭和20年の鈴木貫太郎内閣主要人物
内閣総理大臣:鈴木貫太郎
外部大臣:東郷茂徳
内大臣:木戸幸一
陸軍大臣:阿南惟幾
参謀総長:梅津美治郎
 参謀次長:河辺虎四郎
海軍大臣:米内光政
軍令部総長: 豊田副武
 軍令部次長:大西瀧治郎
内大臣:木戸幸一
枢密院議長 :平沼騏一郎

ポツダム宣言を黙殺する

1945年7月26日、イギリス・アメリカ・中華民国の名において発表された「ポツダム宣言」は、7月27日未明、外務省経由で宣言内容を把握。直ちに最高戦争指導会議及び閣議を開き、その対応について協議を開始。

外務大臣・東郷茂徳の「この宣言は事実上有条件講和の申し出であるから、これを拒否すれば重大な結果を及ぼす恐れがある。よって暫くこれに対する意見表示をしないで見送ろう。」という意見で合意し、政府の公式見解は発表しないという方針に決まった。
しかし、継戦派の梅津美治郎・阿南惟幾・豊田副武らが、宣言の公式な非難声明を出すことを政府に強く提案し押し切られる形で、28日午後におこなわれた記者会見で、鈴木貫太郎首相は「「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な價値あるものとは認めず默殺し、斷乎戰爭完遂に邁進する」とコメント。「ポツダム宣言を黙殺する」との発言には、鈴木貫太郎首相は「黙殺=ノーコメント(特に意見を言わない)」の意であったが、「黙殺する」が大きく取り上げられ、連合国側は拒絶と解し誤解を生むこととなってしまった。
鈴木貫太郎は、のちに「(軍部強硬派の)圧力で心ならずも出た言葉であり、後々にいたるまで余の誠に遺憾とする点」であると反省している。

昭和20年8月9日・御前会議

広島そして長崎と新型爆弾(原子爆弾)が投下され、ポツダム宣言を受諾するしか道がない状況下での御前会議は、昭和20年8月9日に開催された。

これまで陸軍を代表して「一撃講和」、一線を交えてからの講和を(陸軍へのジェスチャーとしての側面もあったが)主張していた阿南惟幾陸軍大臣も、ここに至って、ポツダム宣言の受諾を受け入れる方向へとなりつつあった。

陸軍の声を代表する阿南惟幾陸軍大臣は、米内光政海軍大臣と激論を戦わせ、結論が出ず、ついに鈴木貫太郎首相は、最後の手段として、 昭和天皇のご臨席を仰ぐ御前会議を決断する。

昭和天皇ご臨席のもとに午後11時50分に開始された御前会議。

阿南惟幾陸軍大臣は「本土決戦は必ずしも敗れたというわけではなく、仮に敗れて1億玉砕しても、世界の歴史に日本民族の名をとどめることができるならそれで本懐ではないか」という意見をし、梅津美治郎陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長は阿南の意見に賛同。
東郷茂徳外務大臣は「終戦やむなき」と意見し、米内光政海軍大臣と平沼騏一郎枢密院議長が賛同。
意見が出揃った8月10日深夜2時ごろ、鈴木貫太郎総理大臣は、自らは発言せずに「意見の対立のある以上、甚だ畏れ多いことながら、私が 陛下の思召しをお伺いし、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと思います」と 昭和天皇の意見を求めた。終戦反対の強硬派は不意を突かれた形となった。
昭和天皇は身を乗り出すと
「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の意見に同意である」
「もちろん忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持ちをしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」との「ご聖断」を下した。

そうして、ご聖断が下された御前会議が終了した。
しかし、8月13日に、ご聖断があったにも関わらず、最高戦争指導会議は紛糾しており、翌日に再び 聖断を仰ぐことになった。

昭和20年8月14日・御前会議

8月14日午前11時、御前会議開催。
阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍令部総長は、「このままの条件で受諾するならば、国体の護持はおぼつかなく、是非とも敵側に再照会をすべき」という意見を述べた。阿南らにとって最期に死守すべき事項が「国体護持」(天皇制の継続)であった。
意見を聞いた 昭和天皇は、「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と述べられた。その瞬間、会議は慟哭に包まれ、鈴木貫太郎首相は、至急詔書勅案奉仕の旨を拝承し、繰り返し聖断を煩わしたことを謝罪した。

慟哭する阿南陸相に対して、 昭和天皇は「あなん、あなん、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」とやさしく説いたという。

終戦時の陸軍大臣・阿南惟幾。多磨霊園に墓所があり、三鷹に邸宅跡がある。関連する史跡などを徒然に記載していきたいと思う。 阿南...

大東亜戦争終結ノ詔書

昭和20年8月14日、終戦の詔書の審議も無事に終わり閣僚たちが終戦の詔勅への署名する。

大東亜戦争終結ノ詔書

(全文)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣總理大臣鈴木貫太郞

大東亜戦争終結ノ詔書
(読み下し)
朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置を以って時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ

朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり

そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず 延べて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何を以ってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉し 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排せい 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うか如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣鈴木貫太郎

国立公文書館で公開のあった「終戦の詔書原本」。

こうして、日本の降伏が決まった。

鈴木貫太郎内閣閣僚の署名が終わり、総理大臣室を訪れた阿南陸相が、鈴木貫太郎に最後の言葉を発している。。
「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍の意志を代表して、これまでいろいろと強硬な意見ばかりを申し上げましたが、総理に対してご迷惑をおかけしたことと想い、ここに謹んでお詫びを申し上げます。総理をお助するつもりが、かえって対立をきたして、閣僚としてはなはだ至りませんでした。自分の真意は一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、あえて他意あるものではございません。この点はなにとぞご了解いただくよう」と謝罪。
同席していた迫水内閣書記官長は、陸軍の暴発を抑えるために心にもない強硬意見を発していた阿南の心情を理解しもらい泣きをしている。

鈴木首相は、阿南陸相の肩に手をやって「阿南さん、あなたの気持ちはわたくしが一番よく知っているつもりです。たいへんでしたね。長い間本当にありがとうございました」「今上陛下はご歴代まれな祭事にご熱心なお方ですから、きっと神明のご加護があると存じます。だから私は日本の前途に対しては決して悲観はしておりません」と答え、阿南は「わたくしもそう信じております」と同意。

阿南陸相が部屋を離れた後に、鈴木首相は迫水に「阿南君は暇乞いに来たんだね」と。
鈴木貫太郎は阿南惟幾に最期の覚悟を感じ取っていた。
ちなみに昭和4年に、阿南惟幾が侍従武官に就任した際の、当時の侍従長は鈴木貫太郎であり、その時から阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかった。

私邸焼き討ち(宮城事件)

昭和20年8月15日の早朝、終戦反対派が決起し、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員など数名が身柄を拘束され、宮中占拠、そして近衛第一師団長森赳中将を殺害する宮城事件が発生。
佐々木武雄陸軍大尉ら国粋主義者が宮城事件に連動して総理官邸及び小石川丸山町私邸、平沼騏一郎邸などを襲撃。
鈴木貫太郎も襲撃されるも、からくも私邸から脱出。そのときに鈴木貫太郎私邸は焼き討ちされた。今は石垣のみ残る。

現在の文京区千石3丁目。不忍通りの猫又坂に名残の石垣だけが残っている。当時は丸山町と呼称された地域。この地に、終戦時の総理大臣・鈴木貫太郎...

8月15日の未明、阿南惟幾が自刃。
8月15日の玉音放送後、終戦に伴う臨時閣議が開催。
まず鈴木貫太郎首相から冒頭に話があった。
「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。反対論を吐露しつつ最後の場面までついて来て、立派に終戦の詔勅に副署してのち、自刃して逝かれた。このことは立派な態度であったと思います」「実に武人の最期らしく、淡々たるものであります……謹んで、弔意を表する次第であります」との報告とともに、阿南の遺書と辞世の句も披露した。
同日、鈴木は昭和天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職。東久邇宮内閣が成立する8月17日まで職務は執行している。

永遠の平和、永遠の平和

1945年(昭和20年)12月15日に、枢密院議長であった平沼騏一郎が戦犯容疑で逮捕されたために、鈴木貫太郎が就任(2回目)。翌年の昭和21年6月3日に公職追放令の対象となったために辞職し、郷里の関宿に隠棲。

1948年(昭和23年)4月17日、肝臓癌のため関宿町で死去、享年81。
死の直前、鈴木貫太郎翁は危篤状態で口がきけなくなっていましたが、突然唇が動き、非常にはっきりとした声で「永遠の平和、永遠の平和」と二度繰り返し、再び口を開くことなくまもなく永眠したという。
墓所は関宿町の実相寺。
遺灰の中に二・二六事件の時に受けた弾丸が混ざっていたという。
遺品の多くは野田市の鈴木貫太郎記念館で管理されている。


鈴木貫太郎翁終焉の地

野田市関宿町。
鈴木貫太郎が晩年を過ごした邸宅跡に建つ鈴木貫太郎記念館の周辺には、関連する史跡が点在している。

終戦内閣総理大臣
鈴木貫太郎翁終焉の地
吉田茂謹書

昭和33年2月 関宿農事研究会建立

正二位勲一等 鈴木貫太郎閣下経歴
 慶応三年     関宿須主久世大和守代官の長男として泉州境に生る
 明治二十年    海軍少尉
 明治三十九年   授功三級金鵄勲章
 大正三年     海軍次官
 同 七年     海軍兵学校長
 同十一年     呉鎮守府司令長官
 同十二年     海軍大将
 同十三年     連合艦隊司令長官
 同十四年     海軍々令部長
 昭和四年     侍従長兼枢密院顧問官
 同十一年     男爵
 同十九年     枢密院議長
 同二十年四月   内閣總理大臣
 同二十年十一月  萬世の為に太平を開き郷里関宿に帰山
 同二十一年十二月 枢密院議長再任
 同二十二年    青年有志を集め農事研究会を結成
 同二十三年四月  関宿に於て薨去八拾一歳
  日本青年協会理事 青木常盤撰文      
  関宿町教育長 奥原謹爾書

鈴木貫太郎翁邸跡

終戦内閣総理大臣
鈴木貫太郎翁邸跡

 終戦内閣総理大臣鈴木貫太郎翁は、終戦処理の大任を果たし、昭和21年9月、郷里関宿に帰られました。
 時に80才であり、且つ2・26事件の時には、数発の弾丸を身に受け、その内の時の一発は体に残っていましたが、矍鑠として居られました。
 翁はこの地に農事研究会を発足させ、青年を指導され、将来酪農を農業経営に採り入れていくべきことを助言されました。
 「酪農の町関宿」の基礎は、翁がきずかれたといっても過言ではありません。
 昭和23年4月17日「永遠の平和」の一言を残し、82才で大往生されました。
 平成2年8月
  野田市教育委員会

鈴木貫太郎翁邸跡・門扉

鈴木貫太郎翁邸跡・井戸

鈴木貫太郎翁邸跡・戦没者慰霊碑

鈴木貫太郎翁の19回忌に85歳なった鈴木たか夫人が昭和42年に奉納したもの。
タカ夫人は貫太郎翁の没後も関宿に居住して、酪農の推進など関宿の発展に尽力し、昭和46年に逝去している。

萬霊供養塔

為 
日清日露両戦役・太平洋戦・戦死病没者諸霊・殉国出陣学徒・原爆・被災諸霊
追善菩提

大乗妙典一字一石寫経奉納

昭和42年4月17日
 願主 鈴木孝子
      85歳


鈴木貫太郎記念館

鈴木貫太郎記念館。
昭和38年(1963年)、吉田茂総理の提案などもあり開館。
令和元年(2019年)10月の東日本台風で被災、耐震診断でも建物強度不足が指摘され、長期休館(臨時休館)を余儀なくされている。
鈴木貫太郎記念館の補強改修が困難なために、記念館の再建を予定している。

「為萬世開太平」塔碑

「万世のために太平を開く」

大東亜戦争終結ノ詔書(玉音放送)の一節。
堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
(堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す)

大東亜戦争終結ノ詔書(終戦詔書・玉音放送)は、8月14日付けで詔として発布された。
大筋を内閣書記官長・迫水久常が作成、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、更に14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が加筆して完成し同日の内に天皇の裁可があった。
大臣副署は当時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎以下16名による。

安岡正篤が加筆した「以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」は、もとは、張横渠(ちょうおうきょ、1020~1077、張載とも、北宋の儒学者)が残した「四言教」という名文の一節からとられたという。

為萬世開太平
 鈴木貫太郎書

終戦内閣総理大臣
鈴木貫太郎記念館
 迫水久常書

迫水久常は、鈴木内閣の内閣書記官長。
終戦詔書(いわゆる玉音放送)を起草した人物の一人。

 本館は故内閣総理大臣海軍大将男爵鈴木貫太郎の遺品を蒐集陳列しその事蹟を保存する
 鈴木貫太郎は慶應三年に生れ日清日露の両戰役には水雷艇長として威海衛の敵港深く突入し或は駆逐隊司令として日本海海戦に敵艦二隻を撃沈水雷戦術の第一人者であったが武運に恵まれ身に一彈も受けず部下に一人の戰死者も出さなかったという
 海軍軍人最高の栄誉たる軍令部長に就任在任中侍従長の下命を受け今上陛下の側近に奉仕せらる昭和十一年所謂二・二六事件勃発し反乱軍の撃った三彈は眉間心臓の急所を突いたが奇跡的に一命を取り止められた而して第二次世界大戰の終末史上未曽有の国難であった終戰内閣の宰相となり特に天皇陛下の萬世の為に太平を開くとの御聖旨を体し祖国を救う大勇猛心に一億玉砕民族滅亡への方途に追いつめられていた至難な戰局の収拾に身命をささげられ克く国体の護持と民族存続の大偉業を達成された即ちポツダム宣言の無條件受諾を敢行し昭和二十年八月十五日終戰詔勅の玉音放送を奏請して日本を今日に救い世界平和の礎を築いた功績は世界史上に燦として不滅の光を放つものである実にかくの如き行動は盡忠無私の人ならでは不可能事であって国民として何人も忘れ去ることが出来ない
 終戰後は郷里関宿に歸住村民古老と交わって農事を奨励し或は郷土青年の先頭に立って国民精神の
振興に専念されたが余生僅か一年有七ヶ月昭和二十三年四月十七日永遠の平和の一語を残してこの地関宿の自邸に眠るが如き大往生を遂げられた享年八十一歳菩提寺実相寺に葬る
 この不世出の偉人を顕彰し国民の亀鑑として永く後世に傳える為近郷市町村の有志が相図り當記念館を発起建立する
  昭和三十七年  財団法人 鈴木貫太郎記念会

入館料は、無料。しかし、閉館中。。。

お知らせ
 現在、諸事情により館内展示物がございません。ご来館の皆さまには申し訳ございませんが、ロビーでの資料映像(タカ夫人による2・26事件の証言)のみとなりますので、ご了承承りたく案内いたします。
 尚、説明希望の方は、担当までお申し出下さい。
  鈴木貫太郎記念館

鈴木貫太郎記念館の早期再建を期待しています。
再建は、やはり鈴木貫太郎ゆかりの関宿でお願い致します。


集乳所新設記念の碑

集乳所新設記念の碑が東側の駐車場にある。

以和為貴
関宿町酪農組合は去る昭和廿四年同志廿四名を以て創立し同廿六年事務所と集乳所を鈴木家邸内に設けその機能を拡充強化して発展の態勢を整へ同廿九年近代的集乳所を同邸内に新設して不動の基盤を確立した今や組合員八十名を数へその旺盛なる活動と合理的経営進歩的運営とはラヂオ放送に新聞報道に数次採擇せられて広く世の注視を浴びてゐる組合結成以来僅に五星霜真に驚異的な躍進と謂はざるを得ない按ずるに本組合の創設並に爾後の進展向上は一に元首相故鈴木貫太郎翁と孝子令夫人の薫化誘掖の賜で翁の遺訓「正直に腹を立てずに撓まず励め」の一語は組合員の信條であり全員その高諭を服膺し高風を欽慕して百折不撓千挫不屈の精神を堅持し夙夜精励してゐる更に本町酪農事業の創始者杉本峯蔵翁並に本町農事研究會に於ける有畜農業の提唱指導者岡本敏夫先生酪農経営の合理化近代化の教示啓発者楢原恭爾博士及び常に助言を惜しまざる浜野政三博士の懇志芳情は組合員の深く銘記する所である茲に集乳所新設に際し碑を建て由来を記してこれを記念する
 昭和二十九年五月十四日   鈴木孝子篆額  奥原謹爾撰文並書

以和為貴

鈴木孝子の名前が見える。

集乳所新設記念の碑
 晩年をこの地で過ごした鈴木貫太郎翁は、地元の農家の若者を教育するために、指導者を招いたり尽力しました。その影響もあり、関宿地域で酪農がさかんとなったといわれています。
 この碑は、昭和29年(1954年)、鈴木家の敷地に集乳所が新設されたのを記念して、関宿町酪農組合によって建てられた記念碑です。タカ夫人により書かれた貫太郎翁に日常訓「以和為貴(和をもって貴しとなす)」の文字が刻まれています。
 野田市教育委員会

集乳車が停まっている。

関連

野田市公式ホームページ
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場所


実相寺

鈴木貫太郎、鈴木孝雄兄弟のお墓がある。
関宿藩主久世家の菩提寺でもある寺院。

旧関宿藩主久世家
終戦内閣総理大臣鈴木貫太郎翁 菩提寺
日蓮宗 寶樹山 實相寺

寶樹山 實相寺
海軍大将
男爵 鈴木貫太郎書

報恩感謝
 この門柱は昭和18年2月、矢口米男・寛両氏の浄財により建立されました。「宝樹山 實相寺」の山号寺号は、終戦内閣総理大臣・鈴木貫太郎翁の直筆であります。建立当時、袖垣も取り付けられた姿を予定していましたが、戦中戦後の動乱期のため、完成することはできませんでした。(略

実相寺
 当山は、宝樹山本足院実相寺と称し、日蓮宗のお寺です。創建は神亀元年(724年)行基により、法相寺として茨城県総和町水海の地に開山したといわれています。
 その後、真言宗に改宗しましたが、応永16年(1409年)、日蓮宗の高僧の一人と言われる妙親院日英上人により、日蓮宗に再度改宗され現在に至っております。
 長禄元年(1475年)の頃、古河公方足利成氏の重臣であった簗田氏が関宿城に入場した時、当山は水海より関宿の地に移されました。
 境内には、中雀門と呼ばれる唐破風形式の山門、大きな袴をはいた鐘楼堂、そして明治4年(1871年)に関宿城本丸の一部の建物{宝歴6年(1709年)に建造}を移築した現在の客殿(千葉県では本丸の建物が現存するのはここだけです)があります。また、本山は江戸中期以後、明治まで関宿城主であった久世家の香華院(菩提寺)であったため、久世家歴代の城主と奥方の位牌が安置されています。
 墓地内には関宿藩の家老職を勤めた富田家・奥原家・亀井家など久世家関係の家臣を始め、終戦内閣総理大臣を勤めた、鈴木貫太郎翁(元海軍大将・元侍従長)夫妻、弟の鈴木孝雄翁(元陸軍大将・元靖国神社宮司)夫妻など鈴木家の墓もあります。 
 野田市教育委員会


海軍大将
終戦内閣総理大臣
 鈴木貫太郎翁墓所 左手奥
陸軍大将
 鈴木孝雄翁墓所 左手前


鈴木貫太郎墓所

鈴木貫太郎墓

鈴木貫太郎墓には、鈴木貫太郎と鈴木タカが眠る。

大勇院殿尽忠孝徳日貫大居士
 昭和23年4月17日 薨 (俗名 鈴木貫太郎)
貞烈院殿妙聞賢徳日孝大姉
 昭和46年9月23日 薨
  俗名 タカ 享年89

鈴木貫太郎墓の右隣には、両親である鈴木由哲・きよ夫妻の墓。
鈴木由哲は、幕末の関宿藩久世家の家老。晩年は関宿町町長を務めた。
鈴木家に子供がなかったため、由哲が倉持家から養子入り(倉持家は足利氏家臣の家柄で足利家管財文書係)。

鈴木家の墓

鈴木貫太郎の長男、鈴木一は、鈴木家の墓に眠る。

鈴木一(はじめ)
農林省山林局長、侍従次長、外務省出入国管理庁長官等を歴任。鈴木貫太郎内閣では内閣総理大臣秘書官も勤めている。。

鈴木由哲家
長男
 鈴木貫太郎:海軍大将、内閣総理大臣
次男
 鈴木孝雄:陸軍大将、第14師団長、靖國神社宮司
三男
 鈴木三郎:関東都督府外事総長、久邇宮御用掛
四男
 鈴木茂(永田茂):永田家養子、陸軍中佐、40代で若死している


鈴木孝雄墓所

鈴木貫太郎の弟(鈴木由哲次男)の鈴木孝雄墓所も同じく実相寺にある。

鈴木孝雄家之墓

鈴木孝雄
明治2年10月29日(1869年12月2日) – 1964年(昭和39年)1月29日)
陸軍大将。栄典は勲一等功三級。砲兵監・第14師団長・陸軍技術本部長・軍事参議官を歴任。
昭和10年(1935年)に現役を退いて、昭和13年から昭和21年までは靖国神社第4代宮司に就任。また、大日本青少年団長も務めている。戦後は、公職追放されるが、追放解除後の昭和29年(1954年)からは、旧陸軍将校たちで結成された偕行社会長となる。
昭和39年(1964年)1月29日死去。

鈴木武之墓

鈴木武は、鈴木孝雄の長男。
岡田啓介内閣の首相秘書官を勤めおり、2・26事件に際しては、岡田啓介首相救出や鈴木貫太郎侍従長遭難収拾などに功績があった。
昭和19年、北見航空機副社長に就任。
昭和20年には、叔父である鈴木貫太郎の内閣総理大臣秘書官を拝命。終戦工作に協力をする。

鈴木孝雄次男の鈴木英は、岡田啓介の次女を娶っている。義理兄にあたる岡田貞外茂と鈴木英は海兵同期。岳父の岡田啓介が襲撃された二・二六事件の際は横須賀海軍航空隊教官であった。鈴木英の海軍時代の最終階級は海軍中佐、海自では海将まで昇進している。

写真の右手に鈴木孝雄家墓所。
写真の突き当りに鈴木貫太郎家墓所。

実相寺。

明治4年(1871年)に関宿城本丸の一部の建物{宝歴6年(1709年)に建造}を移築した現在の客殿。
千葉県内に残る唯一の本丸建造物。

実相寺 場所


野田市郷土博物館

「令和4年度企画展 見て、見て、ハッケン! 野田の歴史」(令和4年6月11日から9月19日まで)にて、鈴木貫太郎の展示があるというので足を運んでみた。

実際には、関宿から公共機関では野田市内を縦断できず、関宿からは横の春日部まで戻ってからの東武線で南下して野田市駅まで赴くという、移動にかなりの手間が生じている。

鈴木貫太郎の展示資料(野田市郷土博物館)

鈴木貫太郎翁の生涯
 鈴木貫太郎翁は、慶応3年12月24日に関宿藩飛び地領の代官所で生まれました。その後は、江戸を経て明治5年に関宿に移り住むと、現在の野田市立関宿小学校に通います。幼少期の翁は心優しい性格で、よく泣くことから「泣き貫」とあだ名されました。その鳴き声は、大工町(現在の境大橋千葉県側のたもと付近)まで聞こえたと伝わります。
 貫太郎翁は、海軍に入ると日清・日露の両戦役に参加します。特に水雷の専門家として知られ、海軍大将まで出世すると、連合艦隊司令長官や軍令部長を歴任しました。その後は侍従長、枢密院議長を経て内閣総理大臣に就任し、日本を終戦へ導きます。戦後は、故郷の関宿に戻り地元の若手農家を中心に酪農を推奨するなど郷土の発展に尽くし、昭和23年4月17日、「永遠の平和」の言葉を残しこの世を去ります。

鈴木貫太郎海軍時代成績表
明治20年(1887)
鈴木貫太郎の海軍兵学校の成績表。成績表の中でも、5位佐藤鐵太郎(中将)は貫太郎へタカっを紹介し、結婚の仲立ちをした。38位小笠原長生(中将)は、鈴木貫太郎を顕彰する「鈴木貫太郎記念太平会」の顧問に就任するなど、後々まで交流を持っていた。

絵はがき
「帝国駆逐艦 朝霧」

当時、海軍中佐であった貫太郎翁が、日露戦争の日本海海戦において第四駆逐隊司令とし乗船していた駆逐艦・朝霧の絵はがき。

儀礼長剣
大正2年(1913)
鈴木貫太郎が海軍軍人として儀礼の際帯剣したもの。この剣は士官級の者が所持し、基本的に皆同じ形式であったが、明治29年の変更により将官級の者は金具に桐紋を付す事となった。本資料はこの桐紋が付され、少将任官以降に使用したことがわかる。また、他の者とほぼ同じ形式とはいえ上質なつくりとなっている。

鈴木貫太郎肖像
作者:安達真太郎
昭和40年(1965)
鈴木貫太郎の肖像。モデルとなった時期は海軍軍令部長時代と推測される。軍服などは現存するが、勲章は戦時中に焼損してしまったため、写真を元に描かれたと考えられる。この絵画は「8月9日の御前会議」などの絵画と共に、記念館拡充事業の中で制作された。

鈴木タカ肖像
作者:安達真太郎
昭和41年(1966)
鈴木タカの肖像。写真のモデルとなった時期は、昭和初期頃と推測される。タカは、昭和天皇の「養育掛」をつとめ、その中でも最も信頼された人物である。二・二六事件の際は、襲撃した安藤輝三大尉らにとどめを想い留まらせ、貫太郎翁の窮地を救った。
※現在、野田市鈴木貫太郎記念館では、二・二六事件を語るタカ夫人の肉声を公開中

礼用檜扇
大正期
鈴木タカが儀礼の際に使用したもの。元々は宮中で使用されたものだが、近代では、主に儀礼の際に使用されており、収納箱には「礼用」と書かれている。扇には、蝶や鳥が描かれている。

地元の英雄として
 鈴木貫太郎は関宿を離れた後も、小学校の式典や両親への近況報告などで、度々関宿に帰ってきていました。そのため、市内の小学校には貫太郎翁の書が残されている学校もあります。特に旧関宿町の人々は地元の著名人として捉え、貫太郎翁が二・二六事件で瀕死の重傷を負った際は、出身校の関宿小学校では児童と教職員が皆で快復を祈るほか、町内にはお百度参りをする人もいたと伝わります。また内閣総理大臣就任時には、関宿の食材を直接東京の邸宅へ届けるなど、物心両面で支えました。

鈴木貫太郎就任祝い作文
昭和20年(1945)6月頃
鈴木貫太郎の内閣総理大臣就任を祝い、東葛飾郡の小学生が書いた作文。各学校1名程度が選抜されて送られたと考えられる。児童が郷土の誇りや高齢であった貫太郎翁の身体を心配する内容が多いが、B29による爆撃など当時の様相についても書かれている。

子どもたちの感想文では、鈴木貫太郎が東葛飾郡出身で郷土のほまれと書かれているが、「関宿の飛び地」は「関宿」という解釈で問題ないということですね。

辞令(首相退任)
昭和20年(1945)8月17日
鈴木貫太郎の首相退任時の辞令。稔彦王は、貫太郎の後任で、皇族出身の唯一の内閣総理大臣東久邇宮稔彦親王のこと。首相就任時の辞令書は行方不明で戦災で焼失してしまったと考えられる。

鈴木貫太郎顕彰と記念館建設
 鈴木貫太郎記念館の建設は、貫太郎翁を顕彰する「洗心会」からはじまり、関宿町、野田市、流山町を巻き込みます。野田市が建設の主体となると中央財政会へ働き掛けを行い資金を集めました。建物は昭和38年には完成しますが、内装や展示物の充実を図るため、吉田茂や鈴木貫太郎内閣の元閣僚の力を借り、絵画の制作や松屋銀座を会場とした企画展を行います。その結果、昭和41年に開館式が行われ正式に開館しました。

鈴木貫太郎記念館建設会議(市民会館会議)
昭和三五年(1960)三月29日
鈴木貫太郎記念館建設に関する書類郡。鈴木貫太郎記念館建設を貫太郎翁の13回忌追悼会でPRするための会議を市民会館菊の間で行ったことが分かる。また、出席者の中には当時野田市郷土博物館の運営協議委員を務めた市山盛雄の名前も見られる。

パース図
昭和36年頃
鈴木貫太郎記念館の建設前のイメージ図。設計した創建設設計事務所は、旧関宿町役場など、町内の公共建築に携わっていた。

起工式木槌
昭和37年(1962)7月7日
起工式で使用された木槌。柄には、「昭和37年7月7日」と記載されており、「為」の字型木の裏にも「7月7日着工」と記載されていることから、同日が着工日であることがわかる。

「為」の字型木
昭和37年(1962)7月
鈴木貫太郎記念館の「為萬世開太平」の碑塔の「為」の字の型木。型木は塔の字を埋めるためのくぼみをつくるためのもので、ほとんどの型木は塔から剥がす際に壊れており、「為」が唯一原型のまま残った。長年、地元出身の工事関係者が保存していた。

扇子「為萬世開太平」
昭和41年(1966)8月
鈴木貫太郎記念館の開館式典で配布された扇子。印刷物。鈴木貫太郎翁が生前に揮毫した書をもとに作成し、落款を押したもの。関宿地域をはじめ複数の現存が確認されている。

開会式写真
昭和41年(1966)
記念館に入館する鈴木家と関係者の写真。左からタカ夫人、貫太郎長男の妻である布美、貫太郎の長男一と続いている。

内閣総理大臣からの花輪
昭和41年(1966)
当時、内閣総理大臣であった佐藤栄作は鈴木貫太郎記念会の名誉総裁を務めていた。この人選は名誉総裁であった吉田茂によるものと考えられる。

開会式の出席者
昭和41年(1966)
鈴木貫太郎記念館の開館の主体となった鈴木貫太郎記念会の役員ら。前列左から須賀清八(関宿町長)、戸邊鐵太郎(元野田市長)、茂木啓三郎(キッコーマン社長)、迫水久常(参議院議員)、太田耕造(亜細亜大学学長)の順で着席している。

鈴木貫太郎掛軸
昭和18年(1943)
貫太郎翁77歳の書。翁が好んだ「老子」の一節、「慈は、以て戦えば則ち勝ち、以て守れば則ち固し。天将に之を救わんとす、慈を以て之を衛」が書かれている。「慈愛がある人は、それによって戦って勝利を収め、守っては攻略されがたい。天が(その国を)救おうとすれば慈愛をもって保護する」の意である。

鈴木貫太郎記念館再建へ

場所

※撮影:2022年7月


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