沖縄県庁最後の地「轟壕」と「沖縄の島守・島田彰沖縄県知事」(沖縄戦跡慰霊巡拝9)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その9」となります。

その8は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


「沖縄の島守」島田叡沖縄県知事

兵庫県神戸市須磨区出身。
1901年(明治34年)12月25日〜1945年(昭和20年)6月26日。
兵庫県立第二神戸中学校時代に第1回全国中等学校優勝野球大会(いわゆる夏の甲子園の第1回大会)に出場、東京帝国大学法学部)は野球部のスター選手でもあった。
野球殿堂博物館に建立された戦没野球人モニュメントも島田叡の名前が刻まれている。

当時、前任者の泉守紀沖縄県知事は頻繁に東京に出張していた。(在任期間の三分の一を出張で沖縄から離れていた)、1944年末から1月も東京に出張しており、そうして1945年1月に出張中にもかかわらず香川県知事に転任する辞令を得ており、米軍上陸直前で、後任の沖縄県知事選出が難航している状況であった。

その、沖縄がまさに激戦地になること必至の状況下の1945年1月、大阪府内政部長から、沖縄県最後の官選知事として、島田叡は死を覚悟で決然と沖縄に赴いた。

1944年10月の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前のことであった。

戦禍の中において県民を守るため、死を賭して尽力。五ヶ月に及ぶ苦難な戦下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で 疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救い「沖縄の島守」として慕われた。

1945年3月、空襲が始まり、沖縄県庁は、首里の地下壕に移転。以後、沖縄戦の選局の推移に伴い、壕を移転させながら、行政を担っていく。

6月7日ごろに、島田叡知事以下の県庁首脳部が「轟壕」に移動。
6月15日の夜、島田叡知事は県幹部・職員・警察官らを集めて県庁の活動停止を命令。そのため轟豪が「沖縄県庁最後の地」とも言われている。
島田知事と荒井沖縄県警察部長は、翌16日朝、摩文仁の司令部に移動。
6月26日、島田沖縄県知事と、荒井沖縄警察部長は、摩文仁の壕を出たきり消息不明となっており、現在まで遺体は発見されていない。享年43歳。最後まで、沖縄県民とともにあった「沖縄の島守」であった。

1945年7月9日、島田沖縄県知事の殉職の報に際し内務大臣は、行政史上初の内務大臣賞詞を贈り、「其ノ志、其ノ行動、真ニ官吏ノ亀鑑ト謂フベシ」と称えた。内務大臣が一知事に対し賞詞を授与することは、前例がなかった。

墓所は、多摩霊園。


沖縄県庁最後の地「轟壕」

島田叡沖縄県知事がこの地で、沖縄県庁の活動停止を発したことにより、沖縄県庁最後の地とされている。

轟壕
 轟壕は東西方向に伸びる自然洞穴で、地元ではトゥルルチ、またはトゥルルシなどと呼ばれています。
 1945年3月に米軍による空爆や艦砲による攻撃が始まると、真壁村名城の住民が避難しましたが、日本軍の南部撤退で司令部を摩文仁に移した5月末頃から、戦禍に追われた地域外からの住民も避難して来ました。
 6月7日頃に島田叡知事以下の県庁首脳部がこの壕に移動。15日の夜、知事は県幹部を集めて県庁の活動停止を命じており、沖縄県庁最後の地とも言われています。知事は16日朝、摩文仁の司令部に向かいました。同じ頃、銃剣などで武装した日本兵十数人が入り込み、入り口付近を占拠し、軍官民雑居の状態となりました。
 6月18日頃から米軍による、ガソリンや爆薬の入ったドラム缶を落とし込むなどの「馬乗り攻撃」が始まり、死傷者が出ました。手持ちの食糧が尽きた住民のなかには衰弱死する者も出ました。
 6月25日頃、先に米軍の捕虜となった宮城嗣吉さんらが投降呼びかけを再三行ったことから、約500人から600人の避難民は壕を出てきました。

戦没者犠牲者霊供養

合掌

自己責任で。

場所

https://maps.app.goo.gl/RgCtdKnSrNkY79167


島田叡氏顕彰碑

沖縄県最後の官選知事、沖縄戦で殉職した島田叡氏の顕彰碑が、「奥武山公園」に建立されている。
場所は異なるが、島田知事繋がりで掲載。

第27代 沖縄県知事
島田叡氏顕彰碑

《建立の詞》
 1945年1月、島田叡氏は風雲急を告げる沖縄に、大阪府内政部長から第27代県知事として赴任しました。その頃沖縄は、前年の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前でした。それは死を賭した「決断」の着任でした。
 以来、五か月に及ぶ戦時下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救いました。
 最後の官選知事・島田叡は、沖縄戦で覚悟の最期を遂げ、摩文仁の「島守の塔」に荒井退造警察部長をはじめとする旧県庁殉職職員(469柱)とともに祀られています。沖縄県民からいまも「沖縄の島守」として慕われている所以です。享年43歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
 また島田叡は、高校、大学野球でフェアプレーに徹した名選手でもありました。野球をこよなく愛し、すべてに全力を傾けるそのスポーツ精神は、県政の運営にも通底し、つながっていたと思われます。1964年に、故郷・兵庫県の「島田叡氏事跡顕彰会」から沖縄へ「島田杯」が贈られました。そのことが高校球児に甲子園の夢へ育み、大きな励みになりました。
 1972年、「本土復帰」の年に兵庫と沖縄両県は友愛提携を結び、兵庫県民からの寄贈「沖縄。兵庫友愛スポーツセンター」をはじめとするさまざまな交流事業を展開してきました。
 この島田叡知事のご縁でもたらされた兵庫・沖縄両県のこれまでの交流の歴史と絆は、私たち県民の誇りです。島田叡知事の心を表す「友愛の架け橋」は、これまでも、これからも沖縄県民に引き継がれ、次世代を担う若者たちにとって、大きな宝になるものと信じます。
 ここ沖縄県野球の聖地・奥武山にこの碑を建立し、県民のための県政を貫き、県民とともに歩み、沖縄の地に眠る島田叡氏の事蹟を顕彰すると同時に、併せて世界の恒久平和を心から祈念します。
  2015年6月吉日
   島田叡氏事跡顕彰期成会 会長 嘉数昇明
《碑の構想》
祈り(合掌)、命(ぬちどぅ宝)、平和(球、同心円)、希望(両手)、絆(友愛)

《至誠の人・島田叡の素顔》
「座右の銘・愛蔵書」
○「断而敢行鬼神避之」(『史記』李斯列伝より)
“断じて行えば鬼神もこれを避く”
 …意を決して敢然と行えば、鬼神でさえもその勢いを避ける…
○「西郷南洲翁遺訓」「葉隠」
(沖縄赴任に携行した愛蔵書)

「敢然と沖縄に赴任」
○「沖縄も日本の一県である。誰かが行かなければならない。断るわけにはいかんのや、誰か行って死んでくれとは言えない。」
○官尊民卑の時代、同胞意識を持つ知事
 米軍に制海空権を握られ、県外逃避や戦列離脱者が相次ぐ困難の状況下での赴任。
「沖縄の人も同胞じゃないか、同じ人間じゃないか…という気持ちがあった。そう考えていなければ、激戦地になることの必至のあの時期に沖縄にはこない」(元県庁職員の証言)

「極限の沖縄戦のなかで『生きろ!』」
○玉粋・自決という言葉が飛び交う戦場で、「最後は手を上げて(壕を)出るんだぞ…。生きのびて、沖縄再建のために尽くしなさい。」と戒める。

「花も実もある親心」
○「(戦争で)共に死ぬ運命共同体の意識の中で、県民を不憫に思い統制の酒、たばこの増配や村芝居を復活させた。それが島田叡知事の親心です。」(元県庁職員の証言)

《野球人・島田叡の球魂》
「スポーツ・敢闘精神」
○「劣勢としりつつも、なんとかならないかと知恵をしぼり、あくまでも全力を傾けベストを尽くす。これがスポーツ精神だ。叡さんは障害、それを実行した」(三高野球部球友の回想)

「俊足、強肩、巧打の花形選手」
○旧制第二神戸中学(現・県立兵庫高校)、第三高等学校(現・京都大学教養部) 東京帝国大学(現・東京大学)で野球部レギュラー/主将としてチームを牽引。東大三年時には三高の監督も務めた。精神的野球ではなく、頭とスピードでやる島田式科学野球を実践。常に本塁生還を目指した。
○野球殿堂博物館(東京ドーム)には、戦没野球人の一人としてその名が刻まれている。

「沖縄県高野連に贈られた島田杯」
○「島田さんとスポーツ精神とは生涯を通じて一貫したものである。この機会に…島田杯を沖縄の高校野球連盟に贈呈する」(昭和三九年兵庫県「島田叡氏事跡顕彰会」)
 さらに島田氏のご縁で、千葉県からも島田杯が贈られている。それらの優勝杯は、沖縄県高校野球の隆盛に寄与している。

「球場に島田知事の名前を」
○旧制三高時代の一年後輩で、野球部で二年間一緒だった東大教授/英文学者・中野好夫氏(沖縄資料センター設立者)は生前、沖縄戦で戦死した先輩を偲んでこう要望した。
 「将来、沖縄に野球場が出来るのなら、戦時中に住民のために奔走した故島田叡さんの名を祈念につけてもらえないだろうか」

南東側の碑文。島田の生誕の地・須磨と、終焉の地・糸満市摩文仁を詠んだ詩。「北へ」は沖縄戦では「ひめゆり学徒隊」の引率教官も務めた言語学者・仲宗根政善氏(1907~1995)の詩。「南へ」は島田と同じ神戸二中の後輩で詩人の竹中郁氏(1904~1982)の詩。また碑には母校神戸二中(現・県立兵庫高校)の校庭にあるユーカリの樹と摩文仁の海岸の写真が焼き付けられている。

詩碑《追憶の詩》
北へ(須磨・兵庫県)
 ふるさとの
 いや果てみんと
 摩文仁岳の
 巌に立ちし
 島守のかみ
  (詠人 仲宗根政善)

南へ(摩文仁・沖縄県)
 このグラウンド
 このユーカリプタス
 みな目の底に
 心の中に収めて
 島田叡は沖縄に赴いた
 一九四五年六月下浣
 摩文仁岳近くで
 かれもこれも砕け散った
  (詠人 竹中郁)

島田叡氏を縁とする深い絆
兵庫・沖縄友愛グランド

 沖縄がまさに激戦地になること必至の状況下の1945年1月、沖縄県最後の官選知事として、島田叡(あきら)は死を覚悟で決然と沖縄に赴いた。戦禍の中において県民を守るため、死を賭して尽力し、「沖縄の島守」として慕われる。最後は県民と運命をともにする。享年43歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
 その島田叡知事の縁によりもたらされた至誠と信頼。そして尊敬を礎とする兵庫・沖縄の交流の歴史は、1972年「復帰の年」に締結された「兵庫・沖縄友愛提携」を機に一層深まり、数々の交流事業が展開された。
 かつてこの地には、兵庫県民から贈られた「兵庫・沖縄友愛スポーツセンター」があり、多くの若者・県民がスポーツやレクレーションを楽しんだ。
 このグラウンドは、スポーツをこよなく愛した島田叡知事が青少年の嬉戯する姿を思い描き、将来にわたって、なお一層の両県の「絆」が発展することを祈念して「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と呼称するとともに、両県の「友愛の証」とする。
  2015年6月吉日  
  島田叡氏事跡顕彰期成会

兵庫・沖縄
友愛グランド

沖縄・兵庫友愛スポーツセンター跡地の碑

レリーフは、沖縄・兵庫両県の県花デイゴとのじぎくを図案化したものです。

 沖縄・兵庫友愛スポーツセンターは、日本復帰後の昭和50年(1975年)6月、兵庫県民から「友愛の証」として沖縄県に贈られた。
 そして、スポーツやレクリエーション活動の拠点として、沖縄県のスポーツの振興に寄与するとともに、兵庫県との友愛の象徴として中心的な役割を果たした。
 沖縄・兵庫両県の友愛の絆が、より深く恒常的なものとなることを祈念し、ここに記念碑を建立する。
 平成21年3月  沖縄県教育委員会

場所:

https://maps.app.goo.gl/ZrXC2YdMirwW6jVf7

撮影:2022年10月


島田叡墓所(多摩霊園)

多摩霊園の11−1−6に、島田彰の墓がある。

合掌

場所

https://maps.app.goo.gl/jqD7D5GueNDJSagy5

※多磨霊園の撮影のみ2025年9月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その10」へ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です