沖縄最古の慰霊塔「魂魄之塔」と「有川中将以下将兵自決の壕」米須霊域(沖縄戦跡散策8)

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沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その8」となります。

その7は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


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米須霊域

沖縄本島南部の糸満市に所在する「米須霊域」は、「平和祈念公園」に次ぐ霊域。
米須霊域は、「ひめゆりの塔」の南側に位置している。
米須霊域の西側には、全国植樹祭の会場となった「平和創造の森公園」が広がっている。


有川中将以下将兵自決の壕

歩兵第64旅団長・有川主一陸軍少将(ありかわもりかず・死後に中将)

歩兵第64旅団は、第32軍 第62師団 所属
第32軍隷下の全部隊が玉砕した。

有川中将以下将兵自決の壕

石第64旅団は沖縄県民の絶大なる協力を得て奮戦力闘したが武運拙く、将兵は悉く玉砕し、旅団長有川圭一中将は高級副官竹下勇大尉以下の将兵と共に此の壕で自決した。時は昭和20年6月21日の未明であった。
茲に全国篤志家の賛助を受け、記念の碑を建てその偉烈を後世に伝える云爾
   昭和56年6月21日 建立
     鹿児島県沖縄戦歿者慰霊会

場所


魂魄乃塔

沖縄では最古にして最大の合祀数となる慰霊塔。
沖縄戦最後の激戦地「米須」に建立された。
元々は納骨堂であり、沖縄各地に点在する慰霊塔で最古のものとされている。
(ご遺骨は、現在は、国立沖縄戦没者墓苑に転骨されている)

魂魄

<建立の経緯>
糸満市米須集落の南方300m、海岸寄りにある。ここは沖縄戦最後の激戦地であり、日本軍も住民も米軍に追い詰められて逃げ場を失い、陸海空からの激しい攻撃を受け命を落とした人は数多い。敗戦直後、米須地区に移転収容された旧真和志村(現在の那覇市)の住民が米軍の許可を得て遺骨収集班を結成、道路や畑、丘、森に散っていた遺骨を集め魂魄の塔を建立した。合祀柱数3万5000は沖縄では最大の慰霊塔にあたるが、昭和54年2月摩文仁が丘に完成した国立沖縄戦没者墓苑にその大部分は転骨された。
なお、塔は終戦直後の石積みで素手造りであり崩れる恐れがあったため、平成元年補修され、あわせて碑文の刻板が設置された。
塔の裏側には
 にぎたまと なりてしづもる おくつきの
 み床の上を わたる潮風
と刻まれている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_007/index.htmlhttps://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/konpakunotou

魂魄の塔
 この地は今次大戦でも一番の激戦地であり、日本軍も住民も追いつめられて逃げ場を失い、陸、海、空からの攻撃を受けて、敵弾にあたって倒れた屍が最も多い激戦地の跡である。
 戦後、真和志村民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのがこの魂魄の塔である。
 祭神三万五千余柱という、沖縄で一番多く祀った無名戦士の塔であったが、その後、昭和五十四年二月摩文仁の丘に国立沖縄戦没者墓苑が完成し、遺骨は同墓苑に分骨して安置してあります。
 和魂となりてしづもるおくつきの
 み床の上を渡る潮風
  建立年月日 昭和二十一年二月
   財団法人 沖縄県遺族連合会

和魂となりてしづもるおくつきの
み床の上を渡る潮風
 翁長助静 詠 
  潭洞 書

 歌意は、和魂「平和でもの柔らかな徳を備えた霊魂」となってねむるおくつき(奥津城=墓)のみ床の上を潮風が吹き渡っている、ということです。
 終戦の翌年の昭和二十一年一月、沖縄の各地に散らばっていた旧真和志村民は自分の村に帰る予備的措置として、この米須一帯の地に集結させられました。
 沖縄戦において、島の南の果てまで追いつめられ、逃げ場を失った日本軍や民間人は、ここ
で夥しい数の戦死者をだしました。 戦死者の屍は目をおうばかりに散在し、放置されたままとなっていました。
 このような惨状をみかねた当時の金城和信真和志村長は村民に呼びかけ、遺骨の収集へと乗り出しました。そのとき、糸満高校真和志分校校長をされていた翁長助静先生は、生徒を指揮して遺骨収集の先頭にたつかたわら、この魂魄建立に協力し、表記の歌を墓碑の裏に刻まれました。
 この歌はいわば無名の戦死者に捧げられた鎮魂歌となっています。
 なお、当時の歌碑は長い年月の流れに風化され、歌の文字もほとんど読取ることができないまでに失せてしまっていました。そこで、この歌碑はこれに心を痛めた当時の教え子たちが、戦後五十周年の節目にこの歌碑を建立しました。
       平成七年六月

 沖縄は国内でひとり戦場となり、言語に絶する状況下、20万余の同胞が散華した。
 かかる中で、昭和21年1月23日、九死に一生を得た真和志村民は、米軍によって当地に終結させられ、金城和信氏が村長に任命されたが、一帯は累々として亡骸が横たはる有様であった。
 この光景を痛嘆した金城村長は、先づ御遺体を弔ふべく決意し、夫人と共に、村民の協力を仰いで鄭重なる収拾を始めた。
そして、今は敵も味方もないとの信念で、彼我2万余柱を奉じて納骨堂を造り、同年2月27日、金城村長はこれを魂魄と名付け、自ら石碑に墨書して「魂魄」と刻んだ。
 更に、金城ご夫妻は、信子と貞子の愛娘を戦死させたこともあって、同年4月5日、乙女たちを祀る「ひめゆりの塔」を建立した。
 ひめゆりの名は、金城村長が、女子師範学校と県立第1高等女学校の姫百合に因んで命名したもので、自ら石碑に「ひめゆり」と刻み、亡き生徒たちの名を刻んだ。
 続いて金城ご夫妻は、同年4月9日、男子学徒を祀る「健児の塔」も建立した。
 後に金城和信氏は、遺族連合会の会長となり、戦没者とその遺族のために生涯を捧げ、正五位勲三等に叙せられた。
 今では、方々に慰霊塔が建つようになったが、思えば、焼土と化した終戦直後に建立されたこの「魂魄の塔」こそは、沖縄における最初の鎮魂碑である。
 東京大学名誉教授 中野精一

場所


金城和信翁の胸像

「魂魄の塔」の隣に建立、北村西望の製作。昭和55年10月23日除幕式。
金城和信翁は、明治31年3月1日生まれ。戦前は沖縄県の小学校長などを歴任され、戦後の米軍占領下では、摩文仁におかれた真和志村の村長に就任。
米軍の許可を得て、ご遺骨の収集を開始し、昭和21年(1946年)2月に、戦後初の慰霊塔であり納骨堂として「魂魄の塔」が建立された。

金城和信翁は、明治三十一年沖縄に生れ その性寡黙にして温情溢れ 進んで艱難に当たる
思えば昭和二十年春夏の間 凄絶比類なき戦場となった沖縄は学徒を含む県民の殆どが戦列に加はり 実にその大半が国に殉じた
然るに戦火終るも 沖縄は引続いて米軍占領下に置かれ 為に人々は戦没者を祀ることに対し 先方の干渉を慮り実行を恐れたこのとき身を挺して県民の先頭に立った偉丈夫があった その人こそ金城和信である 翁は戦野に累々たる三万余の遺骨を拾収するや「魂魄の塔」を建立 鄭重にこれを収めてその尊い霊を慰め 続いて「ひめゆりの塔」「健児の塔」を建て戦没学徒を悼んだ
爾来 翁は沖縄県遺族連合会会長となり 英霊の顕彰 遺家族の福祉援護 戦没学徒の処遇及び全国都道府県慰霊塔建設などのために尽瘁し その業績は遺家族の親 戦没学徒の父として遍く知られるに至った
しかして日本国家は 八十一歳の翁を正五位勲三等に叙し 授くるに瑞宝章を以てし 翁が一生の労苦に報いその功績を讃へた ここに翁の威徳を慕ふ者相集って胸像を建立するに至る
見よ いまなほ この地に在りて ふる里を見守る翁のまなざしを 翁よ 翼はくは魂魄この世に留まり次代を背負ふ人々を加護し給はらんことを
 昭和五十五年十月
  金城和信先生威徳顕彰会議 
  文化勲章日展会長北村西望書 

沖縄戦継承事業 戦場に動員された21校の学徒隊
 戦前、沖縄には21の中等学校がありました。沖縄戦では、これらのすべての男女中等学校の生徒たちが戦場に動員されました。女子学徒は、15歳から19歳で、主に看護活動にあたりました。男子学徒は14歳から19歳で、上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成されました。鉄血勤皇隊は、軍の物資運搬や爆撃で破壊された橋の補修などにあたり、通信隊は、爆撃で切断された電話線の修復、電報の配達などの任務に従事しました。沖縄戦により、学業半ばで多くの学徒が短い生涯を散らしました。


東京之塔(東京都)

所在地糸満市山城
建立年月日昭和46年10月27日
敷地面積8,000㎡
合祀者数103,500柱(沖縄戦戦没者6,500柱、南方諸地域戦没者97,000柱)
管理団体東京都

東京之塔

 さきの大戦中、南方諸地域において戦没せられた東京都の関係者は実に10万有余柱に及ぶ。
 顧みればわれら同胞が戦禍に堪えて刻苦精励すること20有余年、よく平和の恩恵に浴しえたことは、ひとえに英霊が戦火の悲惨と生命の尊厳を貴い血をもって示されたたまものにほかならない。
 よって戦没者遺族をはじめ都民1100余万こぞって慰霊の誠を捧げ平和への誓いをこめ、ここ沖縄の激戦地米須の丘に謹んで東京の塔を建立する。
 み霊よ安らかに眠りたまえ
  昭和46年10月
   東京都南方地域戦没者慰霊碑建設委員会

「東京乃塔」の概要 東京都
この「東京之塔」は、さきの大戦において、南方諸地域で戦没された、東京都関係十万余柱の慰霊のために、建立されたものであり、一千百余万都民の心からなる平和への願いを象徴するものであります。

1、所在地
沖縄県糸満市字山城南コブサ原五百六十八番地

1、規模構造
敷地は約八千平方メートルあります。
基壇は八メートル四方で、遺族代表が多摩川で採取した小石を敷き詰めてあります。
基壇中央に直径五メートルの塚があり、塚は建設当時の、二十三区、二十三市九町、九村を象徴する六十四個の石をもって構成されています。
塚の中心に縦一.三メートル、横二.三メートルの石棺の形を模した舟型式の黒御影石の塔が据えられています。
上段広場は、約四百五十平方メートルで三方を石垣で囲んであります。
この石垣は、沖縄産の栗石を用い、沖縄特有の積み方をしております。

1、竣工
昭和四十六年九月三十日

南方戦域方向盤

トラックやマリアナの方向を拝む

場所


因伯の塔(鳥取県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和46年11月4日
敷地面積1,894㎡
合祀者数13,904柱(沖縄戦戦没者539柱、南方諸地域戦没者13,365柱)
管理団体鳥取県

因伯の塔

鳥取県民はその総意に依り此所に碑を建て大東亜戦争に当たり沖縄その他南方地域に於て戦没した郷土の勇士の偉勲を偲びその冥福を祈る
塔石は佐治石である
 昭和46年11月
  鳥取県知事石破二朗書

場所


紀乃國之塔(和歌山県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和36年11月30日
敷地面積932㎡
合祀者数839柱
管理団体和歌山県

紀乃国之塔はこの地で祖国の安泰を祈念しながら壮烈な最期をとげた和歌山県出身839柱の英霊を祀るため、昭和36年11月敬弔の誠をこめて県民が建設したものであります。爾来遠く海を渡ってこの塔を訪れ英霊に対面されるご遺族や県民が年を追うて多くなりました。私も昭和44年11月参拝する機会を得ましたが、浄域を拡張整備したいとの声がとみに高まるを聞き、且つまた建塔された各位の意向を推察するとき、浄域を更に荘厳にすることが戦後25周年記念事業として最もふさわしいと考えて整備することにいたしました。 こいねがわくは諸霊には郷土の人々の捧げる追弔敬祭の微衷をおうけ下さらんことを。
 昭和45年11月
  和歌山県知事 大橋正雄

場所


北霊碑(北海道)

所在地沖縄県糸満市米須
建立年月日昭和29年4月(昭和47年10月と平成8年11月に改修)
敷地面積640平方メートル
合祀者数40,850柱(沖縄戦戦没者10,850柱、南方諸地域戦没者30,000柱)
管理団体(一財)北海道連合遺族会

曠古の大東亜戦争はその惨烈ここ沖縄の決戦に極まって我北海道出身の将兵1万有余名も玉砕護国の楯とはなった。昭和29年4月北海タイムス社、北海道沖縄遺族会が、その霊を悼み全国に魁けて本碑を創建したが、爾来風雨18年漸くその補繕を迫られるに及び茲に本会の発議により、本年恰も沖縄の祖国復帰を卜し道並に全道市町村の助成及び沖縄会の協力をも得て浄財を募り、本島はもとより伊江島、慶良間等40余島並に広く南方海域諸島に散華した北霊凡そ3万余柱の招魂の聖碑ともなして之を改修した。
願わくは英魂、永遠に瞑せられんことを。改修にあたり終戦以来慰霊事業諸般に亘り献身的な奉仕援助を戴いた沖縄遺族連合会会長金城和信翁以下の御恩徳を銘記し永く後世に伝うる次第である。
 昭和47年5月15日

場所


大和の塔(奈良県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和42年11月16日
敷地面積642㎡
合祀者数15,871柱(沖縄戦戦没者556柱、南方諸地域戦没者15,315柱)
管理団体奈良県

この塔は、すぐる太平洋戦争においてふるさとを遠くはなれた南海の島々で、祖国の安泰と繁栄をいのりつつ散華された奈良県出身戦没者 1万 5000余柱のみたまを慰めるため、県民の心をこめて ゆかりの地ここ米須の丘に建立したものである。
1967年11月
奈良県知事 奥田良三

場所


大分の塔(大分県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和40年11月17日
敷地面積314㎡
合祀者数約1,430柱(沖縄戦戦没者)
管理団体(一財)大分県遺族連合会

建塔の記
 太平洋戦争における最終段階としての沖縄の死闘の歴史は何人も涙なくして語ることができません。
 戦後10余年、県民生活もやや安定した1961年11月、大分県の遺族代表が初めて沖縄に巡拝したとき
 ふるさとの
  山河も泣かむ
   この島に
 散りたる若き
  御霊祭れば
と記した県産檜の白木の柱を建て、沖縄に散華した県出身 900余柱の霊を慰めたのであります。
 他方数県で現地に永久的な慰霊塔を次々に建立するようになりましたので、このたび県遺族会の発意で、ここ最後の激戦地米須の丘に大分県耶馬渓産の霊石を用い「大分の塔」を建てることにいたしました。
 謹んで哀悼の誠を捧げ、英霊の御冥福と世界の平和を祈念する次第であります。
  1965年11月
   大分県知事 木下 郁
   大分県沖縄戦没者慰霊塔建設委員会 会長 小林政治

場所


ひろしまの塔(広島県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和43年5月23日
敷地面積1,594.2㎡
合祀者数34,635柱(沖縄戦戦没者1,271柱、南方諸地域戦没者33,364柱)
管理団体広島県

献辞
海を渡り また 海を渡り
郷土はるかに 戦って還らず
沖縄に散り 南方に散る 護国の英霊 3万4600余柱
ここに とこしえに 鎮まりませば
ふるさとの 妻子 父母 老いも若きも
海を渡り また 海を渡り
ここに もうでて み霊安かれと
祈らざらめや 祈らざらめや
 昭和43年 5月
  広島県戦没者沖縄慰霊塔建設委員会
  会長 県議会議長 檜山袖四郎

場所


讃岐の奉公塔(香川県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和43年5月18日
敷地面積910㎡
合祀者数32,413柱(沖縄戦戦没者1,120柱、南方諸地域戦没者18,637柱、満州および中国方面戦没者12,656柱)
管理団体香川県

むかしむかし、
讃岐の国の殿様に仕える可憐な乙女がおってな
その娘はお姫様の身代わりに病気になり、悲しくも命を失った
人々はその死をいたみ、誠実にして至純
献身的なその心をあわれんで
「奉公さん」と名づけ
人形を作り功績をたたえたそうな

讃岐の奉公塔建立の碑
ここ沖縄、南方諸地域、中国大陸で祖国の安泰を願い
家族を案じつつ亡くなられた
3万2413柱の御霊
とこしえに安かれと祈るとともに
郷土の発展と恒久平和の実現を心から願いつつ
郷土人形奉公さんを想い起し
「讃岐の奉公塔」と命名する
  昭和43年5月吉日
   香川県戦没者沖縄慰霊塔建立委員会

場所


島根の塔(島根県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和44年3月28日
敷地面積1,179㎡
合祀者数908柱(沖縄戦戦没者)
管理団体(一財)島根県遺族連合会

島根の塔
美しく花開くためには
そのかくれた根のたえまない
営みがあるように
私達の平和で心静かな日々には
この地に散ったあなた達
の深い悲しみと苦しみが
そのいしずえになっていることを思い
ここに深い祈りを捧げます
 昭和44年 3月
  島根県知事 田部長右衛門

場所


開南健児之塔

開南鉄血勤皇隊・開南通信隊(開南中学校)
 開南中学校は、戦前の沖縄県で唯一の旧制私立中学校で1936年(昭和11年)に創設されましたが、沖縄戦によりわずか9年という短い歳月で廃校になりました。
 1945年(昭和20年)3月25日前後、教頭から「空襲下で学校としてまとまって入隊するのは難しいので、各自で入隊するように」との指示を受け、各自で部隊に向かうことになりました。
 開南鉄血勤皇隊の入隊先の第六十二師団独立歩兵第二十三大隊は、激戦地となった宜野湾ー浦添戦線に配置され多くの犠牲者を出した部隊で、入隊した開南中学生が全員戦死しました。
 3月9日、通信隊要員の生徒は、高嶺村の大城森(現糸満市)に駐屯していた第24師団司令部に配属されました。
 生徒らは、同地で訓練を受けた後、5月中旬、部隊とともに首里に移動しましたが、前田(現浦添市)方面の劣勢がはっきりした5月下旬頃、高嶺村の大城森に撤退することになりました。その後、真栄里集落西側に布陣していた大隊へ配置換えになり、それから国吉集落西側に布陣していた大隊へ配置換えとなりました。
 国吉へ配置換えになって間もなく、米軍野営陣地へ切り込みましたが、多くの犠牲者を出しました。8月29日に生徒らは米軍に収容されました。

戦没生徒らのご芳名が刻まれた銘板

場所


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

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