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旅順港閉塞作戦・小池幸三郎を偲ぶ(日露戦争の戦跡散策・埼玉川口)

令和元年8月散策

2019年の8月某日、この日は埼玉県川口市に足を運ぶ機会があった。
せっかくなので、川口市内に残る戦跡を散策してみる。

川口市総鎮守「川口神社」
境内に「川口護國神社」が鎮まっており、その傍らに水兵姿の凛々しく躍動感あふれる胸像が鎮座してた。

小池幸三郎像(日露戦争)
軍帽のペンネント(兵用軍帽前章)は、乗艦「大日本軍艦高千穂」
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小池幸三郎

小池幸三郎は明治13年(1880)7月15日、現在の川口市に産まれる。
明治33年(1900)、徴兵年齢に達した20歳の小池幸三郎は横須賀海兵団に入団。
明治35年(1902)に軍艦「高千穂」の乗組員となる。
明治37年(1904)2月10日、日露戦争が勃発する。
同年3月27日、連合艦隊は第二回旅順港閉塞作戦を実施。小池幸三郎は閉塞隊に志願し、広瀬武夫指揮する福井丸に乗組し敢然と作戦に従事。
閉塞船福井丸沈没後、カッターボートにて帰還途中に、小池幸三郎は被弾し戦死を遂げる。享年二十五歳。

小池幸三郎の葬儀は川口市内の善光寺で斎行。(墓所も善光寺)

日露戦争戦勝30周年を記念して昭和11年(1936)に川口市公会堂(現在の川口市立中央公民館)前に小池幸三郎像が設置。

平成7年5月27日に川口市海交会によって、川口神社境内「川口護國神社」に小池幸三郎銅像を移転。

海軍一等機関兵小池幸三郎を偲ぶ

海軍一等機関兵小池幸三郎を偲ぶ
君は小池武平氏の次子。
明治13年7月15日、川口町268番地に生る。
明治33年12月横須賀海兵団に入り、同35年6月軍艦高千穂の乗組員となる。
日露の戦役起るや直ちに旅順の攻略に従い、決死旅順港口第二次閉塞隊に志願し、広瀬武夫海軍中佐指揮の福井丸に乗船して、猛砲火の下に港口水道に突入したが、黄金山の西海岸半鏈に達した時、ついに敵駆逐艦の魚雷をうけた。
よって自ら爆沈して任務を完遂し、広瀬中佐・杉野兵曹長と共に帰らず、英魂とこしえに靖国の霊となる。
実に明治37年5月23日夜である。

忠勇義烈

旅順港閉塞作戦

第二回目の旅順閉塞作戦において広瀬武夫指揮下で使用された「福井丸」。
福井丸は旅順港閉塞作戦に際して、閉塞船として自沈用の爆薬やセメントなどを積み込み出港。
旅順港にて爆薬に点火し、乗組員はボートで退避。
その際に杉野孫七上等兵曹が福井丸にて行方不明となり、広瀬武夫少佐が船内を三度捜索したが見つからず。
 ※ このときのエピソードが唱歌「広瀬中佐」の題材となる。

1.轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。
  荒波洗ふ デッキの上に、
  闇を貫く 中佐の叫び。
  「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」。

2,船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)、
  呼べど答へず、さがせど見へず、
  船は次第に 波間に沈み、
  敵弾いよいよあたりに繁し。

3.今はとボートに 移れる中佐、
  飛来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、
  旅順港外 恨みぞ深き、
  軍神廣瀬と その名残れど

文部省唱歌「広瀬中佐」

広瀬少佐は退却時に艇上にて砲弾の直撃を受けて戦死。
この際に菅波政次二等信号兵と小池幸三郎二等機関兵も戦死している。

第二回旅順口閉塞作戦での戦死者は4名。
 広瀬武夫 少佐(没後、中佐)
 杉野孫七 上等兵曹「朝日」乗組(没後、兵曹長)
 小池幸三郎 二等機関兵 「朝日」乗組(没後、一等機関兵)
 菅波政次 二等信号兵曹 「高千穂」乗組(没後、一等信号兵曹)
いずれ福井丸に乗り込んでいた。

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」でも、小池幸三郎 二等機関兵の戦死シーンが描かれている。

旅順港閉塞作戦を記念した小池像。

つい最近まで、川口市にこのような素晴らしい像があるとは知りませんでしたし、大河ドラマ「坂の上の雲」で観ていた小池幸三郎の戦死シーンのことも失念してしまっていたことが申し訳なく。
小池の地元である川口市では、いまも胸像がこうして損なうこともなく後世に伝承され慰霊顕彰されおりました。
この素晴らしい躍動感あふれる胸像、変わらずに伝承されていくことを祈念。

ちかくの善光寺には「小池幸三郎のお墓」があるというのであわせて脚を運んでみました。


善光寺(埼玉県川口市)にある小池幸三郎之墓

海軍一等機関兵勲八等功七級
小池幸三郎之墓

川口市舟戸町にある真言宗智山派寺院善光寺

海軍一等機関兵勲八等功七級小池幸三郎之墓
香炉台 桜に錨

小池幸三郎の勇姿に

合掌

感謝と哀悼を


小池幸三郎像のある川口神社の境内には川口護國神社が鎮座している。

川口護國神社

平和の神 
川口護國神社

【御祭神】
国家公共につくした人の神霊
【御祭日】
四月第二土曜日
【御由緒】
川口護國神社は、昭和二十三年四月、時の川口市長の指導により市役所神殿の譲渡を受け、西南戦争から大東亜戦争に至る各戦役にて戦没せられた川口市出身全英霊を奉斎するお社として、川口神社境内に設立を見たものである。
爾来毎年四月あるいは五月に、川口市遺族会が主体となり例大祭を斎行してきた。平成十五年からは市民有志が主催し、遺族のほか市内各界代表者の参列を得て川口市民平和祈願祭を奉行してゐる。

御製
國がため あまた逝きしを 悼みつつ 
 平らけき世を 願ひあゆまむ

わが郷土から出征して尊い一命を国に捧げ、平和と繁栄の礎となられた英霊に感謝し、また平和への努力を誓うため、全市民こぞって参拝すべき神社である。

川口神社

埼玉県川口市金山町鎮座。川口市総鎮守。明治社格は県社。

国威宣揚台
大東亜戦争戦勝祈願の大鳥居

日露戦争ゆかりの橋が近くに保存されているというので脚を運んでみた。

凱旋橋(川口市指定文化財)

明治39年(1906)1月に日露戦争出征兵士の凱旋を祝し架設された。

凱旋橋
明治39年1月架設
片側の欄干のみが残されている。

川口市指定記念物 史跡
凱旋橋跡付凱旋橋之碑
平成21年6月24日指定

 日露戦争終結の翌年の明治39年(1906)5月13日に挙行された川口町(当時)出身兵士の凱旋祝賀会に際し、凱旋パレードの通過点として当時ここを流れていた錫杖寺杁用水に架設された石像アーチ型の凱旋橋の遺構です。橋は同年1月に、たもとに建立された凱旋橋之碑とともに竣工し、2月18日には開通式が行われました。由来などを記した凱旋橋之碑は、現在、川口神社境内に移設されています。
 川口の鋳物業は、日露戦争(1904~1905)を契機として砲弾や機械部品などの製造が盛んになり、工場数も倍増し大量受注大量生産体制が確立しました。これが戦時体制下での鋳物生産体制に組み込まれたことにより、技術の進展と相まって飛躍的に近代化が図られるようになったのです。
 この凱旋橋跡は、江戸時代にあっては日光御成街道川口宿の北の玄関口に位置し、続く近代には本市を代表する地場産業である鋳物業発展のエポックとなった日露戦争とこれにかかわった人々の記憶を留めている貴重な歴史遺産です。
川口市教育委員会

場所

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川口市立文化財センター

川口神社の境内には、「凱旋橋之碑」が移設保存されている。

凱旋橋之碑 (川口市指定文化財)

川口神社境内。凱旋橋の由来が記載されている。

近衛師団長陸軍中将 浅田信興 題額
浅田信興(1851‐1927)は武蔵国川越藩出身。
日露戦争時は近衛歩兵第一旅団長として出征し、戦中の明治37年(1904)9月に陸軍中将に進級し近衛師団長に新補。最終階級は陸軍大将、男爵。

日露戦争に際して川口町からの応召従軍者は74名。
凱旋橋之碑には、海軍一等機関兵 小池幸三郎 をはじめ、生きて凱旋が叶わなかった川口出身の戦死者三士のことを讃えている。

川口には何度も脚を運んだことがあり、川口神社も過去に参拝をしたことがあったが、かつての私はさほどに戦史に興味を抱いていなかったということもあり、小池幸三郎像を気にすることもなく、凱旋橋の存在も知らなかった。

いま、改めて興味をもって訪れてみれば、その極めて貴重な存在に感じ入ることでき、戦後の破壊等を免れて、こうして今日まで残ったことの意義深さを知ることができた。これは後世に伝承し続けなければならない史跡。
良き見聞ができたことに感謝。
今回は時間がなかったので訪れませんでしたが、川口には海軍史的に興味深いエピソードもった艦長のお墓もあるので、また来ることになりそうです。


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