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「戦前最初で最後の国際的博覧会」名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋

愛知県名古屋市港区にある陸橋。地図を見ていてなんとなく目にとまったところから調べてみたら、興味深い歴史を有していたので足を運んでみました。


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名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋

名古屋市が人口100万人を突破し、名古屋開港30周年を迎え、太平洋の平和と発展に寄与することを目的に、昭和12年(1937年)3月15日から78日間にわたって開催されたのが、「名古屋汎太平洋平和博覧会」であった。

平和博覧会は、名古屋市長(大岩勇夫)が中心となり、そして総裁は東久邇宮稔彦王(当時、陸軍中将)が就任した。
陸軍としては軍事拡大を目論んでいるさなかでの「平和を銘打った博覧会」は断固反対の立場であったが、名古屋に縁があり(平和派)皇族の陸軍中将が総裁では、軍も公式には反対できなかったという。

なお、この当時すでに昭和15年(1940)に東京と横浜で紀元2600年を記念した万国博覧会(紀元2600年記念日本万国博覧会・幻の東京万博)が計画されていたことから、それに配慮し「万国」ではなく「汎太平洋」という名称になったともいう。

名古屋汎太平洋平和博覧会
開催目的
 (1)広く内外産業文化の現状を紹介する
 (2)わが国の産業の振興と日本文化の宣伝を行なう
 (3)関係各国民の平和親善と共同の繁栄に資する
会期
 昭和12年3月15日~5月31日(78日間)
会場
 名古屋市南部臨港地帯の15万坪
出展国
 太平洋沿岸諸国および名古屋市との友好国全29カ国
出展物
 産業、社会、科学など
入場料
 大人=60銭
 子供=30銭
 軍人=30銭
入場者数
 約480万人

昭和前期の大規模な博覧会として、会場496.000平方メートルの敷地の中央を南北に貫通して東西会場に分割し、東会場は運河で3分割、会場の道路は大陸橋と地下道で結ばれた。

東会場には国内特設館14館と、海外より満州、中華民国、蘭領印度、ペルシャ、シャム、中南米などが参加した。
国内の保健衛生館で展示されたドイツから購入したプラスチック製の透明人間が人気を呼んだ。

西会場はメインの航空国防館で、非常時日本の威力を誇示し、国民の戦意高揚を図る展示をした。

「名古屋汎太平洋平和博覧会」会場の道路は幅80メートル、そこに噴水、花壇や緑地帯を配し、中央に高さ50メートルの大平和塔が聳え、そこから数条の道路が放射状につくられ、展示館、特設館や付属設備が建てられるという統制のとれた会場づくりであった。入場者は4.808.164人で、外国人も満州の2.819人を含め6.625人が入場した。

参照

「空間」をつくり、そして活かす空間プロデュース企業。商業施設、ホテル、オフィス、博物館・美術館、ショールームなどの展示、博覧会・イベントなどプロモーションまで。

「平和」を銘打った国際的博覧会ではあったが、博覧会終了の2ヶ月後には盧溝橋事件をきっかけとした「支那事変(日中戦争)」が勃発し、平和は程遠い状況下となってしまった。

名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋
我が国最初の国際的博覧会

 名古屋汎太平洋平和博覧会は、昭和12年、我が国最初の国際的博覧会として注目されました。
 会場は、現在の港北公園周辺50万平方メートルにおよび、国内の各都道府県や外国29か国が参加、会期78日間で総入場者数480万人にのぼる大規模なものでした。

 博覧会名にちなみ、平和の二文字をとって名付けられた平和橋は、港区内で博覧会の跡をとどめる唯一の建造物とされています。
 平成25年、市民に身近な歴史的建造物として「認定地域建造物資産」に認定されました。
  平成26年3月 名古屋市港区役所まちづくり推進室

平和橋
昭和12年港区で、名古屋汎太平洋平和博覧会(日本の産業の振興・文化の発展と高揚・関係国民との平和親善を図ることを目的とする)が開催され、解散期間78日間で、入場者約480万人に達した。
この博覧会のために、約13万円を投入しこの橋が建設された。その名を博覧会の「平和」の二字をとって名付けられ、博覧会の記念として残る唯一のものである。

昭和11年十一月竣工

「ピースあいち」のサイトに、名古屋汎太平洋平和博覧会画報の画像が掲載されている。

http://www.peace-aichi.com/pdf/20181021_hakurankai1937_2.pdf

※2023年3月撮影


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