サイトアイコン 近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝

昭南島改称記念の国旗掲揚塔(大阪東住吉区北田辺ノ榎神社)

昭南島。
1942年から1945年にかけて、日本統治下にあったシンガポールを「昭南島」と呼称していた。
現在に残る、歴史的に貴重な国旗掲揚塔の記念碑。
「昭南島」と刻まれた文字列を、この手の記念碑で初めて拝見したので、戦跡として記録。


スポンサーリンク

昭南島

第二次世界大戦において、日本軍第25軍(第25軍軍司令官・山下奉文中将)は初戦で「マレー作戦」を決行し、難攻不落とされた大英帝国が誇る一大拠点であったシンガポールを昭和17年2月15日に陥落させた。

大英帝国(イギリス極東軍司令官・パーシバル中将)のシンガポール降伏に伴い、日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」と改名された。そして軍政下の行政組織として「昭南特別市」が設置された。

日本ニュース 陸軍報道部発表<特輯シンガポール陥落>

「マレー(馬来)方面、帝国陸軍部隊は、本15日午後7時50分、シンガポール島要塞(ようさい)の敵軍をして無条件降伏せしめたり。」老英帝国の威信、ついに地に落つ。時に昭和17年2月15日、全国を興奮のるつぼに投じた歴史の夜はほのぼのと明けて、一億の民草あげて感激の奔流と化し、続々宮城前広場に参集、この声天にも届けと母国の...

「マレー(馬来)方面、帝国陸軍部隊は、本15日午後7時50分、シンガポール島要塞(ようさい)の敵軍をして無条件降伏せしめたり。」
老英帝国の威信、ついに地に落つ。時に昭和17年2月15日、全国を興奮のるつぼに投じた歴史の夜はほのぼのと明けて、一億の民草あげて感激の奔流と化し、続々宮城前広場に参集、この声天にも届けと母国の弥栄(いやさか)を唱え奉る。靖国神社社頭は夜の明けきらぬ頃より参拝者引きも切らず、大東亜聖戦の華と散った多くの英霊も、この日世紀の朝を寿ぐかのようであります。町々は戦勝祝賀の歓喜に沸き立つ中にも、米英倒れる日まで戦い抜かんとする一億国民の意気は火と燃える。

日本ニュース 陸軍報道部発表<特輯シンガポール陥落>

シンガポール陥落は、日本国中を歓喜の渦に包み込んだ。
そんな熱狂のなかで、国旗掲揚塔の記念碑として建立されたと思われる。


昭南島改称記念の国旗掲揚塔

境内奥の大黒社の前にある国旗掲揚塔。

昭南島改稱記念
昭和17年3月10日建之

設立団体などは不詳。
日本軍がシンガポールを占領したのは昭和17年(1942年)2月15日。
占領後シンガポールは「昭南島」と改称し、その記念で、約1ヶ月後に国旗掲揚塔が建立された。


榎神社

JR阪和線・美章園駅が最寄り。
行基菩薩に由来の有る桑津墓地内にある神社。

大阪市東住吉区>榎神社

 拝殿の裏に朽ちた大きな切り株が祀(まつ)られています。元は樹齢800有余年を数える榎の大木でした。土地の人々がこの木をご神体として社殿をつくり、年々参詣者も増加したので、昭和27年(1952年)4月に宗教法人となり、翌昭和28年(195..

大阪市東住吉区>桑津墓地

榎神社境内にある桑津墓地には、行基菩薩の開基との伝承があります。ただ、行基年譜をみると、行基自身がこの地で布教活動をした事実を検証できませんので、その弟子達が行基の名を借りて布教活動をしたものではないかと思われます。(行基由来の伝承につい..

かつては、樹木で覆われていたようだが、現在は樹木は伐採され開放的な空間となっている。

場所

Google マップで地図を検索。乗換案内、路線図、ドライブルート、ストリートビューも。見やすい地図でお店やサービス、地域の情報を検索できます。世界地図も日本語で、旅のプランにも便利。

※撮影:2023年7月


関連

80年前の節目を偲び、先人たちの生き様に想いを馳せる。 また、この日がやってくる。 はじまりの日。 大東亜戦争に散りし英霊たちに… 感謝を...
秋葉原・岩本町界隈。「和泉橋」の隣の駐輪場に、ひっそりと「昭和の遺産」が残っていた。 国旗掲揚所跡(国旗掲揚台跡・国旗掲揚塔...
令和元年9月撮影・国立市 JR国立駅南口。訪れたときは、赤い三角屋根で有名だった 「旧国立駅舎」( 大正15年(1926年)建造 )...
小江戸川越として著名な観光地。小江戸といえば近世的な見どころが多数ではあるが、近代目線でも見どころが豊富。実は、川越には、大きな空襲が無か...

モバイルバージョンを終了