平成31年3月(通信学校・久里浜駐屯地)及び平成30年5月(工作学校関連)撮影
目次
「海軍工作神社」
久里浜八幡神社
境内社「海軍工作神社」
昭和16年4月に久里浜にて開校した、海軍の工作術教育を行う海軍術科学校「海軍工作学校」校内に祀られた神社を発祥とし、戦後に海軍工作学校戦没者慰霊として久里浜八幡神社境内に遷座したという。 社号標は「平成7年8月吉日建立・・・」と銘記あり。
「久里浜八幡神社」を参拝。
境内地からは弥生式土器も出土しており、周辺には古墳も点在。 当社の創建は養老4年(720)という。
「海軍工作学校跡」碑
海軍少将 美原泰三 謹書(終戦時の海軍工作学校長)
久里浜公園
海軍工作学校は工作術専門の教育機関として昭和16年4月開校。(それまでは工機学校が工作術を兼務)特殊潜航艇「海龍」は海軍工作学校の研究開発であった。 海軍工作学校卒業者のうち戦死者は5千余人という。
海軍工作学校跡碑
建設之趣旨
昭和十六年此の地に創設された海軍工作学校は、従来工機学校の一分科であった工作科が始めて独自の教育機関を持った画期的なもので、その後更に沼津分校の設立に拠て発展して行ったのであります。其の間、数万の学生、練習生に工業技術(金工、木工、潜水)教育を施し大きな成果を挙げました。
此の学校を卒業した若者或は職員として深いゆかりのあった、工作科関係の多数の人達が太平洋戦争に殉じ尊い生命を捧げ、北海の果て又は南冥の戦場に散華されましたことは誠に痛恨に耐えません。戦後復員した者達は、本校等で習得した技術と旺盛な精神力を夫々の分野に於て発揮し祖国復興に大きな役割を果し、平和日本建設の原動力となったものと確信致します。
今此の母校跡に記念の碑を建設し、謹んで海軍工作科関係戦没英霊の御冥福を御祈りするとともに此の地を訪れる卒業生、遺族並びに関係の皆様が当時を偲ぶよすがとし、永くその業績を称えたいと念願するものであります。
昭和五十二年三月 発起人一同 (碑文引用ここまで)
旧海軍工作学校戦没者慰霊祭
http://kurihama.info/event/kousakugakkou_ireisai/
当地は毎年5月22日13時に久里浜八幡神社より神職が出向し、神式にて慰霊祭が斎行されているという。 すでに遺族会は数年前に解散しており現在は久里浜観光協会が主導・・・
久里浜には海軍工作学校のほかにも、海軍通信学校(現在の久里浜駐屯地)や海軍機雷学校(のち海軍対潜学校)があった。海軍対潜学校は現在の「横須賀刑務支所・久里浜少年院」の近く。ちなみに最後の対潜学校長は木村昌福 少将。そこにも跡地の石碑がある。
久里浜駅近くの長安寺に慰霊碑があるというので立ち寄ってみました。
「浦賀引揚援護局引揚者精霊塔」
昭和22年1月
浦賀引揚援護局建立 引揚船コレラ病没者(身元不明者)を祀っているという。
(神奈川県忠魂碑等建立調査集・参考)
合掌を…
同じく、久里浜の長安寺にある「祠」
「通校神社(海軍通信学校神社)」
海軍通信学校庁舎前に鎮座していた「通校神社」。
「通校神社」 は終戦後に長安寺に遷座されている。
「海軍通信学校」跡
現在の陸上自衛隊久里浜駐屯地
日本海軍においては、明治36年(1903)に海軍水雷学校に於いて無線電信術練習生として無線通信要員の育成がはじまり、昭和5年(1930)に海軍通信学校が独立するに至っている。
昭和14年(1939)11月に通信学校は 久里浜に移転。昭和18年には通信科要員の需要が増し、海軍防府通信学校が併設され、従来の通信学校は「海軍横須賀通信学校」と改称。
平成31年3月の久里浜駐屯地「桜まつり」で敷地内見学。「海軍通信学校跡」の碑は立入禁止エリアでしたので許可を得て望遠撮影。
海軍通信学校庁舎(現在の本館)
昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」は閉校後は復員局を経て米軍が接収。
戦後、昭和25年に「警察予備隊」が発足すると久里浜部隊が開設され、その後は「保安隊」の通信学校となる。
昭和29年に陸上自衛隊が設立すると、当地は「陸上自衛隊通信学校」が開設。陸上自衛隊として最も古い駐屯地であり、旧海軍通信学校庁舎をそのまま使用している。
海軍通信学校兵舎
(第一兵舎・第二兵舎)
昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」
おそらく本庁舎と第一兵舎・第二兵舎は開校当初同じ時期に建設されたものと推測。
海軍通信学校・海軍栓
陸上自衛隊久里浜駐屯地内
海軍通信学校・車庫
陸自時代の現在も同じく車庫として使用されている。
久里浜駐屯地内の記念碑
久里浜駐屯地「歴史館」
観桜
もともと「桜まつり」でしたね。観桜も。
非常に空いていた久里浜駐屯地。午前9時から2時間ほど滞在。
ちょうどこの日は米軍のフレンドシップデーとも被っていたというのもあるのかな。私は、このあとは横須賀走水方面に赴きました・・・