「忠魂祠堂」と「軍艦比叡鎮魂碑」

平成30年8月撮影・横須賀・光心寺

「忠魂祠堂」

明治33年10月28日に創建。
昭和12年2月6日に再建。
建立は横須賀鎮守府。


明治二十七八年戦役(日清戦争)、明治三十七八年戦役(日露戦争)、満洲・支那事変、大東亜戦争戦死病没者を祀る御堂。

「忠魂祠堂」光政謹書
扁額は米内光政によるもの
再建時(昭和12年)の海軍大臣

横須賀・光心寺
忠魂祠堂の手前に

「軍艦比叡鎮魂碑」


昭和57年5月吉日、比叡会及び遺族外有志一同建立
軍艦比叡戦死者188柱を祀る

「軍艦比叡戦没者供養塔」五輪塔
昭和61年4月19日 軍艦比叡会建立

軍艦比叡艦歴  
 比叡は大正三年八月巡洋戦艦として横須賀海軍工廠で完成し横須賀在籍の新鋭艦として活躍した。
 昭和五年軍縮会議の結果練習戦艦となりその兵装機関の一部を撤去し第一線を退いたがその間にも昭和八年の特別大演習、同十年の南九州行幸及び翌十一年の特別大演習の三回にわたり大元帥陛下の御召艦としての栄に浴した。 
 昭和十二年「アーマー」の取付け、「バルジー」の新装備、前檣楼の改装射撃盤の近代化等の再改装が呉工廠で行われ同十五年初めに最新鋭の高速戦艦として第一線に復帰した。同年秋横浜沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式には重ねて御召艦となった。
 昭和十五、六年には高松宮宣仁親王殿下がその砲術長として勤務された。
 昭和十六年十二月大東亜戦争が勃発すると、比叡は新編成の第一航空艦隊の支援部隊として「ハワイ」、印度洋「ミッドウエー」等の海戦に参加し大いに武威を輝かした。 昭和十七年後半南東方面の戦局が急を告げるや 同方面に再び作戦し、第二次「ソロモン」南太平洋海戦に参加した。同年十一月十二日深夜「ガダルカナル」島敵飛行場砲撃の任を帯びた特別挺身攻撃隊(戦艦霧島、軽巡一隻、駆逐艦十二隻)の旗艦として目的地に突入したとき、予期しない敵重巡部隊と遭遇し激しく交戦した。比叡の放った主砲の初弾で敵重巡部隊の旗艦「サンフランシスコ」の艦橋を吹き飛ばしよく敵の大部を倒したが、比叡も亦百発以上の被弾を受けその一発が不運にも舵取機に命中し航行不能に陥った。十三日早朝から敵機の反復攻撃を受け単艦よく奮戦したが日没におよび阿部司令官の命により、乗員を駆逐艦に移乗し、自ら「キングストンバルブ」を開いたがなお沈まず、最後に駆逐艦雪風の雷撃で止めの一撃を加えざるを得なかった。英霊百八十八柱は艦と運命を共にした。
( 「軍艦比叡鎮魂碑」碑裏面の引用は以上 )

軍艦比叡戦没者供養塔趣旨
軍艦比叡は昭和十六年十二月(一九四一年)今次大東亜戦争開戦と同時に第一航空艦隊支援艦隊としてハワイ 印度洋 南太平洋及びミッドウエー海戦等に参加し輝かしい武勲を樹てた。昭和十七年後半戦局は極度の急を告げ南太平洋海戦特に第三次ソロモン海戦に参加
「ガダルカナル島」の敵飛行場の撃破粉砕の任を帯び特別挺身攻撃隊の旗艦として同泊地に突入したが期せずして十一月十二日敵重巡部隊と遭遇暗夜の混戦となり比叡の主砲及び各砲は一斉に敵艦船に対し火蓋を切り精錬された砲員の的確で痛烈な斉射は敵重巡部隊を撃滅した。比叡もまた敵の好目標となり昭和十七年十一月十二日夜から十三日に亘る敵の激しい砲雷爆撃により露天甲板以上の戦闘員多数は肉を裂かれ骨を砕かれこの鮮血に埋もれた伏屍が累々と激戦の惨状を呈した。この海戦で実に一八八柱に及ぶ犠牲者は比叡と共に同十三日夕刻南海の果てにその姿を没した。
戦死された尊い犠牲者の魂は戦後日本の復興と悠久の平和世界に誇る経済の発展に繋がる原動力となっていることは正に戦没者の遺産で日本人の心の奥に今も脈々と生き続けており軍艦比叡会はこの栄光の軍艦比叡と英霊の遺徳を後世に残すべくさきに軍艦比叡鎮魂碑を建立したが更に茲に有志相集い永代の供養を捧げる赤心を結集して軍艦比叡戦没者供養塔を建立して英霊の安らぎを念願するものである。 (「軍艦比叡戦没者供養塔」塔側面 趣旨引用は以上)

横須賀・光心寺
「忠魂祠堂」の裏山には防空壕跡もありました。
今回は友人車で参拝させていただきましたが、最寄り駅はJR衣笠駅より徒歩5分ほどの地に鎮座。 清廉な寺院空間となりますので失礼のないように参拝を。