戦前、唯一の福岡県出身の首相。
そして戦後、唯一の文官として「いわゆるA級戦犯」有罪判決を受け死刑となった政治家、広田弘毅。
福岡市内で、広田弘毅にゆかりある地を巡ってみました。
目次
廣田弘毅(広田弘毅)
広田 弘毅(廣田 弘毅)
1878年〈明治11年〉2月14日 – 1948年〈昭和23年〉12月23日)
日本の外交官、政治家。勲等は勲一等。
外務大臣(第49・50・51・55代)、内閣総理大臣(第32代)、貴族院議員などを歴任。
「石屋の倅から総理大臣へ」
石屋の倅から立身出世して位を極めたが、戦後の極東軍事裁判で文官としては唯一のA級戦犯として有罪判決を受け死刑となった。
国立国会図書館・近代日本人の肖像>
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/183
廣田弘毅(初名は、廣田丈太郎)の父・廣田徳平は箱崎の農家であったが、石材店の廣田家に師弟で修行し養子として石材店を継いだ。
明治22年(1889年)10月18日、国家主義組織「玄洋社」の出身である来島恒喜の大隈重信への爆弾襲撃(大隈重信遭難事件)で、襲撃後に自決した、来島恒喜の墓碑を寄贈したのが、石材職人として廣田徳平であった。
廣田家と玄洋社のつながりを物語るエピソード。
廣田弘毅は、福岡県立尋常中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に入学。玄洋社の所有する柔道場で柔道に励み、新しい柔道場落成式では総代を務めている。このころ玄洋社の社員になったという。
修猷館卒業直前、『論語』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅〈「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力〉ならざるべからず)から採った「弘毅」に改名している。
1898年(明治31年)修猷館卒業後、東京帝国大学法科大学政治学科に学んだ。学費は玄洋社(初代社長)の平岡浩太郎が提供している。また頭山満の紹介で副島種臣(政治家)、山座円次郎(玄洋社社員・外交官)、内田良平(黒龍会)や杉山茂丸の知遇を得た。
1904年(明治37年)日露戦争に際しては、捕虜収容所で通訳を行い、ロシア情報の収集に当たった。
1905年(明治38年)の外交官及領事官試験は落第、韓国統監府に籍を置いて次期試験に備えた。赴任直前に玄洋社幹部・月成功太郎の次女の静子と結婚。
1906年(明治39年)の外交官及領事官試験は、合格者11人のうち首席で合格し、外務省に入省した。吉田茂と外務省で同期。
外交官として、廣田弘毅は、第二次山本内閣・幣原内閣での欧米局長を務め日露戦争語の国交回復として日ソ基本条約締結に尽力する。
1926年(大正15年)にオランダ公使を拝命し、ハーグ対独賠償会議の日本代表を務める。
1930年(昭和5年)、駐ソビエト連邦特命全権大使を拝命、満洲事変に対応する。
1933年(昭和8年)斎藤内閣の外務大臣に就任。前任者の内田康哉の推薦によるものであった。次の岡田内閣でも外相留任。「協和外交」として万邦協和を目指した。
1936年(昭和11年)2月、二・二六事件が発生すると岡田内閣は総辞職。
1936年(昭和11年)3月5日、廣田弘毅内閣が発足。
二・二六事件直後の対応に追われ、特に陸軍に対して、当時の陸軍次官、軍務局長、陸軍大学校長の退官・更迭、軍事参事官全員の辞職、陸軍大臣・寺内寿一ら若手3人を除く陸軍大将の現役引退、計3千人に及ぶ人事異動、事件首謀者の将校15人の処刑など大規模な粛軍を実行させた。
その見返りとして、軍部大臣現役武官制を復活させ、軍備拡張予算を成立させざるを得なかった。
1937年(昭和12年)近衛内閣の外務大臣に就任。
直後に、盧溝橋事件が勃発。不拡大方針は実らず戦線は拡大。近衛内閣による「国民政府を対手とせず」声明に至る。
1938年(昭和12年)五月、廣田弘毅は外務大臣を辞任した。後任は陸軍出身の宇垣一成であった。その後、太平洋戦争中は、元首相として重臣会議に参加。
1945年(昭和20年)12月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、廣田弘毅を逮捕。A級戦争犯罪人容疑者として巣鴨プリズンに収監した。
GHQは、廣田弘毅に対し、組閣時に閣僚人事に軍の干渉を受けたことや、首相時代に軍部大臣現役武官制を復活させた点を重視し、日中戦争をはじめたことによる「対アジア侵略の共同謀議」や「非人道的な行動を黙認した罪」を起訴。
外交官出身で平和主義者であったにもかかわらず、軍部の台頭を抑えられなかった責任を問われた廣田弘毅。
「高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては喜んで全責任を負うつもりである」という意志でもって、極東軍事裁判に臨んでいた広田弘毅は、他の被告が自己の正当性を主張する中でも、「自分一人が責任を取ればよい」という覚悟からか、家族に対しても裁判の内容を語らず、廣田は公判で沈黙を貫き通し、無罪の主張を一切行わなかった。
裁判において軍部や近衛文麿に責任を負わせる証言をすれば、死刑を免れる事ができたとされているなかで、重臣会議や御前会議に参加していた廣田が弁明をすることで、 天皇に類が及ぶことを心配したから、であったともいう。
1948年(昭和23年)11月4日、死刑判決。
A級戦犯として起訴された28名のうち、文官で死刑となったのは廣田弘毅、ただ一人であった。
11人の裁判官のうち、3人(インド・オランダ・フランス)が無罪、2人(オーストラリア・ソ連)が禁錮刑を主張するも6人が死刑を主張。近衛文麿が自決していたために、文官の大物戦犯であった廣田弘毅の死刑判決には衝撃がはしり、減刑運動もあり郷里の福岡で7万人、東京で3万になど、全国で数十万という署名が集まった。
なお、廣田弘毅の妻・静子は東京裁判開廷前の1946年(昭和21年)5月18日に鵠沼の別邸で服毒自殺している。自殺は玄洋社幹部を親に持つ自分の存在が夫の裁判に影響を与えると考えていたためとされている。
1948年(昭和23年)12月23日の午前0時21分、巣鴨プリズン内で絞首刑を執行された。70歳没。
廣田弘毅像(広田弘毅像)
広田弘毅銅像は、舞鶴公園の南側、NHK福岡放送局・国体道路に面した北側に立像している。
廣田弘毅
進藤一馬書
廣田弘毅先生銅像碑銘
廣田弘毅先生は1878年2月14日、徳平、タケの長男として福岡市鍛冶町(現中央区天神3丁目)に生れる。幼名を丈太郎といい、のち自ら改めて弘毅とす。修猷館、一高、東大に学び、柔道を玄洋社明道館にて練磨す。学を卒えて外務省に入り、山座圓次郎氏の薫陶を受く。東亜の平和維持に心を砕き、特に韓国、中国、ソ連との関係改善に努力す。外務省欧米局長、駐オランダ公使、駐ソ連大使を歴任、1933年国際連盟脱退後の難局を受けて斎藤内閣の外務大臣となる。
1936年、2・26事件突發直後、内外の情勢緊迫せるなかに内閣総理大臣の大命を拝し、死力を盡して粛軍の徹底を期す。さらに近衛内閣の外務大臣として入閣、軍部の暴走阻止と日中戦争の早期和平を図るが果たさず第一線を退く。太平洋戦争終結に当たり、重臣としてソ連大使マリクと和平を図るも及ばず終戦を迎う。
然るに、極東軍事裁判は先生が文官なるにもかかわらず軍と通謀、大陸、南方への侵略を企図したとして絞首刑を宣す。而して当たらず。全国民、この悲報を意外とす。先生、毅然として判決を受け、一言の弁解もなく従容として巣鴨刑場の露と消ゆ。時に1948年12月23日午前零時34分なり。郷党この不当を悲しみ、不運を嘆く。ここに同志相図り像を刻んで、その遺徳を永遠に顕彰せんと之を建つ。
後学 進藤一馬 撰并書
1982年5月15日
廣田弘毅先生銅像建設期成会
会長 進藤一馬
進藤一馬は、福岡市出身の政治家。
玄洋社2代目社長であった進藤喜平太の子息。
中野正剛の秘書を経て、最後の玄洋社社長(1944‐1946)に就任。
A級戦犯として起訴されるが起訴されずに釈放。
衆議院議員、福岡市長などを歴任した。
浩々丹心輝萬古
広田弘毅の辞世の句。
浩々丹心輝萬古
浩々たる丹心万古に輝く
大きな真心は永遠に輝く
広田弘毅の菩提寺「崇福寺」で揮毫されたご遺墨を写したもの。
廣田弘毅の句としては、下記も有名。
風車、風の吹くまで昼寝かな
「今は風が吹かずとも(不遇の時でも)、風車が回るように好機が巡ってくるまで、焦らずじっくりと(昼寝するように)時を待つ」の意。
外交官としてオランダに赴任していた頃、3年間を過ごす中で詠まれたという。
忍耐と好機を待つ心境は、広田弘毅の潔い生き方と、不遇を乗り越える精神力を示している。
東京裁判で文官としてただ一人死刑判決を受け処刑された、元内閣総理大臣・広田弘毅。
処刑直前、面会に訪れた教誨師の花山信勝氏に対し、多くを語らず「すべては無に帰して、言うべきことは言ってつとめ果たすという意味で自分は来たから、今更何も言うことは事実ない。自然に生きて自然に死ぬ」と述べたと言う。
「士不可以不弘毅」(『論語』巻四 泰伯第八)
士はもって、弘毅ならざるべからず
「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力
道を挟んで福岡縣護国神社が鎮座している。
場所
https://maps.app.goo.gl/bTDpSXV2Nahm6wNR7
水鏡天満宮
旧社格は村社。菅原道真が川の水面に写る自分の姿のやつれ具合を見て嘆いたことにちなみ創建された古社。
江戸時代初期に福岡城の鬼門にあたる現在地に遷座された。
福岡の「天神」の地名の由来ともなった神社。
廣田弘毅が揮毫した社号標と扁額が残る。
天満宮
水鏡天満宮の南側の鳥居の「天満宮」の石額の書は、広田弘毅が11歳の時に揮毫したもの。
水鏡神社
日清戦争戦勝祝いに建立された社号標「水鏡神社」は、廣田弘毅が17歳のときに揮毫したもの。
場所
https://maps.app.goo.gl/94WGb8CqtnVfxb3g6
廣田弘毅先生生誕之地
1878年(明治11年)2月14日
福岡県早良郡福岡鍛冶町(のち福岡市中央区天神三丁目)の広田徳平(通称:広徳)とタケの長男として生まれる。初名は丈太郎(じょうたろう)。
「丈太郎」から「弘毅」に改名したのは旧制修猷館中学卒業直前。
「論語」巻四、泰伯第八にある「士不可以不弘毅」から採ったという。
出光石油の創業者・出光佐三による揮毫
出光佐三は、福岡県宗像市の出身。
場所
https://maps.app.goo.gl/ey9vPAA5KMBmJDRU9
興禅護国・聖福寺(廣田弘毅菩提寺)
聖福寺(しょうふくじ)
福岡県福岡市博多区にある臨済宗妙心寺派の寺院。
栄西創建で、日本最初の本格的な禅寺、「扶桑最初禅窟」
境内は国の史跡に指定
福岡空襲の戦災からは逃れ江戸時代に再建された伽藍などが残る。
山号は安国山(通称は安山)。
第三十二代首相 廣田弘毅の菩提所
平岡浩太郎(玄洋社初代社長)の菩提所でもある。
廣田弘毅の東京帝国大学法科大学政治学科の学費は玄洋社(初代社長)の平岡浩太郎が提供していた。
興禅護国
弘毅書
広田弘毅が聖福寺に贈るために書いたもの。
興禅護国
この碑は、広田弘毅(1870~1948)が聖福寺に贈るために
書いたものです。(裏面には興禅護国論の序文の一部が刻まれています。)
弘毅は福岡市出身の外交官・政治家で第32代の内閣総理大臣を
務めた。
『弘毅』の名は修猷館中学時代に聖福寺第2世東瀛老師に相談
して「論語」 巻四、泰伯第八にある「士不可以不弘毅」から採って幼名『丈太郎』から変えた。又『弘毅書』という自署は巣鴨プリズンにいた時に用いたと伝えられている。
妻の死去に際して、聖福寺第1世戒應老師に妻と自分の戒名
を授かった。
「興禅護国」は聖福寺開山栄西禅師の著した『興禅護国論』からとったもので、二度目の中国渡海から戻った禅師は京都で布教を始めたが、在来仏教側から批判を受けた。これに対して禅師は禅宗が天台宗の教えに反するものでないことを主張し、禅を興すことが国を護る要因となるとの考えから護国の教えを説いた『仁王護国般若波羅密経』から書名を付けた。
ちょうど聖福寺造営中(1195~1204)の事であった。
日本茶発祥の木
禅寺らしい静謐な佇まい。
廣田家の墓所(廣田弘毅・静子夫妻の墓、両親の廣田徳平・タケ夫妻の墓)も、聖福寺墓地内にある。(一般非公開)
下記を参照。
場所
https://maps.app.goo.gl/CA9BrGQUagaqX6CQA
以上、福岡市での、廣田弘毅を巡る散策でした。
※撮影:2025年7月
