福岡縣護國神社(福岡博多の戦跡散策1)

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2024年10月末に、福岡県に出張がありまして。
例のごとく、スキマ時間に福岡市内を散策してみました。
実は、いまの仕事7年くらいしているけど、九州出張は初めて。意外と九州とは縁がなかったのだ。

まずは、福岡縣護国神社へ。


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福岡縣護國神社

明治維新から大東亜戦争に至るまでの国難において、尊い生命を捧げて私たちをお守りくださった福岡出身の方々約十三万柱の御英霊をお祀りしている。
祭神の柱数は護国神社では沖縄県護国神社(17万8689柱)に次いで、二番目に多い。

明治元年(1868年)11月、福岡藩主・黒田長知が、戊辰戦争に殉じた藩士を祀るため那珂郡堅粕村(妙見招魂社)と馬出村(馬出招魂社)に招魂社を創建したのに始まる。
明治39年(1906年)6月27日、「馬出招魂社」に「妙見招魂社」を合祀して「妙見馬出招魂社」とした。
昭和13年(1938年)に「福岡招魂社」と改称。
昭和14年(1939年)、招魂社の制度改正により「福岡護國神社」に改称した。
これとは別に、県内には他に4つの護国神社があった。
 山川護國神社 
  三井郡山川村(現・久留米市)
  明治元年、久留米藩知藩事有馬頼咸により創建
 柳河護國神社 
  山門郡三橋村(現・柳川市)
  明治元年、柳川藩主立花鑑寛により創建
 八景山護國神社 
  京都郡祓郷村(現・みやこ町)八景山
  明治元年、小倉藩主小笠原忠忱により創建
 田川護國神社 
  田川郡伊田町(現・田川市)。
  明治2年、華族高千穂教育により創建
昭和18年(1943年)4月、「福岡護國神社」は、現在地の福岡城址南側の練兵場跡に遷座し、上記の4つの護国神社を統合して「福岡縣護國神社」に改称、内務大臣指定護国神社となった。
第二次世界大戦後は「正中宮」と称していた。
日本の主権回復後の昭和32年(1957年)5月17日、元の「福岡縣護國神社」に復した。


福岡縣護國神社参拝

大鳥居
檜の原木で建てられたものとしては日本最大級の鳥居

福岡聯隊会の奉納狛犬

福岡聯隊会

  • 歩兵第24聯隊
  • 歩兵第124聯隊
  • 歩兵第226聯隊
  • 歩兵第113聯隊
  • 歩兵第187聯隊
  • 歩兵第292聯隊
  • 歩兵第359聯隊
  • 歩兵第453聯隊
  • 歩兵第517聯隊
  • 歩兵第72聯隊第2大隊
  • 独立歩兵第12聯隊
  • 第312独立歩兵大隊
  • 第314独立歩兵大隊
  • その他福岡聯隊にて編成された各隊

清々しい神域。

拝する。

ありがとうございます。

広々とした境内であるが、なにかが足りない。
慰霊碑や顕彰碑がない護国神社であった。


御朱印(福岡縣護国神社)

御朱印を頂きました


招魂斎庭(福岡縣護国神社)

明治3年の鳥居。護国神社前身の招魂社時代のものと思われる。
妙見招魂社のもか、馬出招魂社のものかは不明。


あゝ特攻勇士之像(福岡縣護国神社)

私たちは決して忘れはすまい

日本が昭和十六年から二十年にかけて、日本の独立と存続とを守り、且つ欧米列強から植民地化されたアジア諸国を開放するために大東亜戦争で米・英・支・蘭と戦い、緒戦の赫々たる戦果にも拘らず、戦い利非ずして戦況不利となる。沖縄県にまで敵の上陸を許す事態となり、この敵の圧倒的戦力を阻止すべく、遂に一機一艇をもって敵艦に体当たりする苦渋かつ壮絶な攻撃戦法を取らざるを得なかったことを。

持てる力をすべて尽くして散華された二十歳前後の英霊の崇高な勇姿を末永く後世に伝えるべく、特攻隊戦没者慰霊顕彰会の協力を得て、ここに設けた。
戦後の教育と謀略とにより平和・個人主義に偏りがちな現代の人よ、福岡県出身の三○一名の英霊の名を台座に収めしこの像を見て触れて、自分の命に代えても護るものが存在するということを考えて欲しい。
 平成二十四年十二月八日(大東亜戦争開戦記念日)
  特攻勇士之像建立福岡県委員会


平和の像(福岡縣護国神社)

球技禁止って貼られているのが、なにやら悲しい。

平和の像
 第2次世界大戦に斃れし戦士230万 痛恨なり 本県の御霊実に8万8千余に及ぶ 永遠につきざる縁者の 断腸の思い
 されど戦火おさまり巡り来る30余春秋 いま 遺族 県民あい集いて 涙を押さえ世界の平和を祈る ここに万感を込め この神域に”平和の像”を建立す
 優しかりし父よ 愛しき夫よ 子らよ 兄弟よ
 願わくば 空高く 海清く 緑深きわがふるさとに安らぎ給え
  昭和51年6月吉日  福岡県遺族連合会 会長 野見山清造

 この像は五基のブロンズ像から構成されています。また台座後面のレリーフは、戦死された方々のみたまを象徴しています。
 男性像は遺された父であり兄であり弟であり、女性像は母であり姉妹であり、児童像は遺児です。
 亡くなられた方々、遺された人々、みんなの努力によって今の時代が築かれたことを表しています。
 この群像は、置かれる場所の雰囲気を考慮し、静的な中に深く平和への願いを込めたものです。
  制作:廣瀬不可止、小田部泰久、柴田善二、小串英次郎、木戸隆一 


大正天皇御野立所跡・大正5年大演習観兵式玉座御跡
(福岡縣護国神社)

もともと福岡縣護国神社の地は、演習場であった。
歩兵第24聯隊(福岡聯隊)が建立。


末社・堀出稲荷神社(福岡縣護国神社)

由緒
大正年間福岡歩兵聯隊兵士の夢枕に立たれ「吾は祐徳稲荷の弟なり 永き年月埋められたままである 今こそ吾を掘り出し吾を祀れ」と御神託が下り その処から稲荷神の御神体が掘り出されました
その史実に基づいて掘出稲荷と命名されました
此の地に御遷座となったのは 昭和27年9月3日であります

福岡縣護國神社

福岡縣護国神社では、ご英霊をお祀(まつ)りしているほか、安産・初詣で・七五三・商売繁盛・交通安全・厄払い・家内安全等の祈願祭や、神社結婚式を執り行っております。

福岡に居たときは気が付かず、こうして記事をまとめている最中に知ったのだが、
 境内には「台湾歩兵第一聯隊ゆかりの奉納狛犬」
 舞鶴公園の北側には「福岡聯隊の碑」「営門の桃の木」
 NHK福岡放送局の向かいには「広田弘毅像」
 東公園には「官祭 妙見馬出招魂社遺跡保存地」
次回の課題ですね、見逃し悔しい、、、


福岡城址

通りすがらに。

※撮影:2024年10月

その2はこちら

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