サイトアイコン 近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝

「若宮八幡宮と川崎大師」周辺の戦跡散策

令和元年10月

川崎でちょっとだけ時間が出来たので、京急大師線で川崎大師駅まで足を伸ばしてみました。

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若宮八幡宮御本殿
(旧川中島国民学校奉安殿)

若宮八幡宮本殿
旧川中島国民学校奉安殿

昭和12年4月
川崎市立大師尋常小学校より分立独立して「川崎市立川中島尋常小学校」として創立。
昭和16年4月「川崎市立川中島国民学校」と名称変更。(現在の川崎市立川中島小学校)
「奉安殿」の創建年代は不詳。1935年(昭和10年)頃に全国各地の小学校にて奉安殿建設が活発化してきたという。

若宮八幡宮が戦災で焼失してしまい、戦後に「川中島国民小学校」から奉安殿を移設し、若宮八幡宮の本殿として再活用。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

若宮八幡宮(川崎)

旧大師河原総鎮守
境内には「かなまら祭」で有名な金山神社がある。
室町期1500年代の創建。
創建以来、川崎大師平間寺の鎮守社。明治の神仏分離で平間寺から独立。

境内社の金山神社

若宮八幡宮から川崎大師へ移動。

祈りと平和の像
(川崎大師 平間寺)

川崎大師境内に、弘法大師1150年遠忌を記念して昭和59年(1984)建立。制作者は円鍔勝三。
中央には富士山の上に降臨した観音をモチーフとした女神が「祈り」、周囲には鹿野苑で楽器を奏でる天女たちが「平和」を表している。

一心祈念 恒久平和
     大本山川崎大師 平間寺
一盌からピースフルネスを
     茶道裏千家淡交会川崎支部
修練 奉仕 友情
     社団法人川崎青年会議所

「祈りと平和」の像に寄す
 茶道裏千家家元勤仕による当山ご供茶式と茶道裏千家淡交会川崎支部、川崎青年会議所、川崎大師平間寺共催の大茶会は、三者の協調に献身的な努力のもとに、大いに地域社会の文化向上に寄与し、ここに、心新たに意義ある20周年を迎えた。
 本年、宗祖弘法大師壱千百五十年御遂忌並びに、当山吉例十年目ごと大開帳奉修の法縁にあたり、大師の鴻恩に報謝の誠を捧げ三者の目的達成、発展を期するとともに、更に祈りに徹してやすらぎに住し、永遠の平和を願う真心を伝承せんがために、ここにこの像を建立する。
 作者は、霊峰冨士の頂上に来迎された観世音菩薩(女神)の天にひろがる大慈悲心と釈尊の初転法輪の聖地・鹿野苑にみなぎる世界永遠の平和の祈りを象徴されている。
 因みに、彫刻家である、文化功労者・日本芸術院会員・圓鍔勝三先生にこの制作を依頼した。
 昭和59年10月7日 
  大本山平間寺貫首
   第四十四世 
   中興第一世 
    大僧正 隆天

「祈りと平和」像賛歌
   貫主 高橋隆元
いまここに
  仰がん祈りの像
いまここに
  讃えん平和の像  
みほとけは
  女神とともに
  神鹿のあそぶ苑に
 平和を奏でて
  人びとを見まもり
 慈悲の
  まなざしを示し給う 
祈りの声は 
 宇宙に広がる 
  朋友よ 幸せに 
  朋友よ 豊かに
平和のハトは
 蒼天に翔ぶ 
  朋友よ 明るく 
  朋友よ 健やかに
   
昭和60年10月7日
 「祈りと平和」の像建立1周年に寄せて

霊木「奇跡の銀杏」
(川崎大師 平間寺)

霊木「奇跡の銀杏」
 この銀杏は、第二次世界大戦の大空襲により幹の大半を焼失。今でも痕跡を樹木の根元に見ることができます。戦後、川崎大師はご信徒の信授により大本堂をはじめ七堂伽藍を復興。
同様にこの銀杏も奇跡的に蘇生、灰燼に帰した川崎大師の歴史を今に伝える古木であります。
「奇跡の銀杏」の樹勢にあやかり、健康長寿、心願成就を祈念ください。 
 平間寺

忠魂碑
(川崎大師 平間寺)

乃木希典書
明治三十七八年戦役(日露戦争)にて戦没した大師河原村出征軍人を祀る。
明治四十二一月建立。

川崎大師 平間寺

平間寺(へいけんじ)は真言宗智山派の大本山。
大治3年(1128)建立。本尊は弘法大師。

川崎大師駅へ。

発祥之地
京浜急行電鉄株式会社

京急「発祥之地」碑

 京浜急行電鉄株式会社は、明治31年2月25日 大師電気鉄道株式会社 として設立され、翌明治32年1月21日、川崎六郷橋~川崎大師間の営業を開始した。
 開業時の資本金は 9万8千円、営業路線は 単線2粁、車輌数は5両で 開業当時の営業報告書には、次の通りに記されている。
 
 全般ノ機械運転上成績好結果ニシテ一日モ運転ヲ中止セシ事ナク即チ 五月丗一日ニ至ル本期間ノ営業日数ハ一百三十一日ナリシ而シテ乗客ハ相応ニ多ク 毎月廿一日ノ如キハ非常ノ雑踏ヲ極メシモ線路ノ単線ナリシト車輌ノ不足ナリシ為メ 充分ニ乗客ヲ運ビ能ハザリシノ感アリ本期間平均一日一哩ノ乗車賃ハ 五拾円九拾銭二厘ニ相当セリ。元来本社ハ関東ニ於ケル電気鉄道ノ嚆矢ニシテ 成績ノ如何ハ将来電気鉄道事業ノ発達ニ重大ナル関係ヲ有セシモノナリ 幸ニシテ今ヤ営業初期ニ於テ相応ナル純益配当ノ報告をナスヲ得 又運転開始以来一人ノ負傷者ヲ生ズルナク毎月廿一日ノ如キ数万ノ老幼群集シ 往来叢ルガ如キ場所ニ於テ乗客ヲ満載シ乍ラ一日弐百五六十回余ノ運転ヲナシテ 過チナカリシハ実ニ本社ノ幸福ニシテ亦以テ電気鉄道ノ市街交通機関ニ適シ 更ニ危害ノ虞レナキヲ表示スルヲ得タルモノナリ

 かくて好調裡に営業を開始した大師電鉄は 同年4月 京浜電気鉄道と改称 昭和23年6月 京浜急行電鉄 となり 逐次事業の拡張を図って今日の隆昌をみるに至った。
 ここに創立70周年に当り
会社設立発起人代表 立川勇次郎 はじめ先人の遺徳を偲び 大師電鉄発祥のこの地 に本記念碑を建立する。
 昭和43年12月21日
  京浜急行電鉄株式会社

以上、川崎大師と若宮八幡宮を近代史・戦跡目線での参拝散策でした。

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