令和元年10月。
靖國神社御創立150年の節目の年の再整備。
令和元年10月10日に「靖國神社外苑休憩所」に新たにオープンした食堂が「靖國八千代食堂」
名物は「鳥濱トメさんの玉子丼」・・・
いただいてきました。
ほんのりと甘みを感じる、トメさんのやさしさに包まれた味わい。
玉子と玉ねぎ、往時を偲ぶシンプルな、しかし奥深い味。
一口二口と口に運んでいくとともに、なにやら目頭が熱くなってきてしまいました。
心から、ありがたさを感じつつ。美味しさを味わいつつ。
鳥濱トメさんの玉子丼
鹿児島知覧で「富屋食堂」を営んでいた鳥濱トメさん。
「富屋食堂」は陸軍指定食堂となり、多くの特攻隊隊員が食堂の面倒を見たことから「特攻の母」と呼ばれた。
特攻隊員が食した「トメさんの玉子丼」が、再現され、靖國八千代食堂でいただくことができるようになりました。
名物は、鹿児島県知覧の富屋食堂で「特攻の母」と慕われた鳥濱トメさんの玉子丼。お孫さんの鳥濱明久氏の総監修を経て、当時の味をそのままに再現致しました。鳥濱トメさんの味を受け継ぐ鳥濱明久氏(鹿児島知覧 富屋食堂「ホタル館」館長:鳥濱トメ孫)並びに鳥濱トメ顕彰会の全面協力のもと、明久氏が想いを込めて作った知覧直送の割り下をそのまま使用し、沖縄救出のために「靖國で会おう」と散華された英霊を送り出したトメさんの想いをそのままに再現致しております。
https://www.yasukuni.or.jp/news_detail.html?id=195
知覧より直送する本物の味
特攻の母
鳥濱トメの玉子丼
旧知覧特攻基地の軍指定食堂であった富屋食堂で「特攻の母」と愛された鳥濱トメさんが特攻隊員のみなさんに振舞った玉子丼には一体どれほどの想いが込められていたことでしょう。
当店の玉子丼は、トメさんの味を現代に受け継ぐ富屋食堂「ホタル館」館長、そしてトメさんのお孫さんである鳥濱明久氏が想いを込めて作った割り下を、鹿児島知覧から靖國へ直送いただき、そのまま使用しています。
当時、富屋食堂で使用されていた「お重」なども店内に展示しています。またこの玉子丼の収益の一部は、特攻資料館 富屋食堂「ホタル館」の整備維持などに寄付しています。
鳥濱明久氏(鹿児島知覧 富屋食堂「ホタル館」館長:鳥濱トメ孫)並びに 知覧特攻の母 鳥濱トメ顕彰会の全面協力のもと再現した、玉子丼。
鳥濱トメ プロフィール
明治35年6月、鹿児島県坊津町(現南さつま市)生まれ。大正15年5月、24歳の時に長女の美阿子(鳥濱明久氏母)が誕生。昭和4年、27歳でそれまでの貯えを元手に「富屋食堂」を開業し、翌年次女礼子も誕生します。
昭和17年に「富屋食堂」は陸軍指定食堂となり、昭和20年3月、知覧からも特攻隊の出撃が始まると、富屋に多くの特攻隊員が出入りするようになりました。たくさんの隊員たちからお母さんと慕われ、トメはその出撃を見送り続け、いつしか「特攻の母」と呼ばれるようになりました。戦後、知覧の観音堂建立に尽力し、建立後は欠かさず毎日参拝に通い、平成4年に89歳で大往生を遂げるまで続けた、愛情あふれる形でした。
知覧より直送する本物の味
特攻の母
鳥濱トメの
玉子丼
富屋食堂の三段重
この三段重は
鹿児島知覧にて特攻の母と
呼ばれた「鳥濱トメ」の
経営した富屋食堂で
実際使われていた、お重です。
特攻隊員が食べてたいと言った、
卵丼のお重として使われ、
戦後はうな重等に
昭和50年迄使われました。
孫 鳥濱トメ
八千代食堂の卵丼
令和元年10月1日
特攻隊の母と呼ばれた
鳥濱トメが経営した
富屋食堂の再興のご馳走が
卵丼でした
出撃する直前
特攻隊員の食べた卵丼は
孫の私が受け継ぎ現在も
知覧にて、提供している
だし汁を八千代食堂に
送ったものです
孫 鳥濱明久
例大祭で賑わう境内。ちょうどお昼時、行列ができるほどに盛況でした。
是非に靖國神社御参拝の帰りに味わってほしい、往時の味わいです。
公式サイト
英霊への想い 靖國の未来をつなぐ
靖國八千代食堂
公式サイト
特定非営利活動法人
知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会
特攻観音(世田谷)
かつての靖國神社外苑休憩所
追記(令和3年8月15日)
富屋食堂の知覧茶
富屋食堂の知覧茶
この知覧茶は、靖國神社外苑休憩所の靖國八千代食堂と知覧富屋食堂との共同企画商品です。
特攻の母と言われた鳥濱トメさんのご遺徳と、
先の大戦で散華された特攻隊員の方々の想いを偲び、
特攻の地、知覧の茶葉を100%使用致しました。
〆