「特攻観音堂」と「特攻勇士の像」

(特攻観音堂は平成30年5月撮影 )

世田谷観音 (世田谷山観音寺)

江戸三十三観音第32番札所

昭和26年に睦賢和尚が独力で建立。
同年5月、金竜山浅草寺に請い開眼の法を修したとされる寺院。 境内には特攻で犠牲となられた英霊を慰霊する「特攻観音堂」が鎮座。

入口の左右に。

石碑 「奉安 特攻平和観音」元竹田宮 竹田恒徳 書

門標 「世田谷山観音寺」元内閣総理大臣 吉田茂 書

参道の左手、赤門の奥には「旧小田原代官屋敷」
現在は観音寺本坊として使用。

特攻平和観音

昭和27年5月。
元海軍大将 及川古志郎、元海軍大将 高橋三吉、元陸軍大将 河辺正三、元陸軍中将 菅原道大、元海軍中将 寺岡謹平らが発起人となり特攻平和観音像が造立。(法隆寺夢違観音像模写)
陸軍側及び海軍で犠牲になられた英名が各々二体の特攻平和観音尊像胎内に奉蔵されている。

特攻観音堂

昭和31年05月。世田谷観音寺内に旧宮家「華頂宮家」の持念仏堂を移築し「特攻平和観音」を遷座。

陸軍2244柱
 航空1355柱・空挺615柱・海上挺進265柱・戦車9柱
海軍4174柱
 航空2548柱・特潜437柱・回天104柱・震洋1085柱
合計6418柱

国のために生還を期することのない特攻作戦に志願して若き命を捧げた特攻隊員英名が「特攻平和観音」に奉蔵されている。

石碑「世界平和の礎」

昭和39年10月吉日 吉田茂 謹書
特攻観音堂の左手前に。

特別攻撃隊の頌

 わが国が存亡をかけた大東亜戦争においては、開戦当初から生還を期すことのない特攻作戦が決行された。
 弱冠十七、八歳から三十歳代までの勇士が、肉親への愛着を断ち切り洋々たるべき人生を捨てて、空に、海に、陸に、決然として肉弾攻撃を敢行し、偉大なる戦果を挙げ、ことごとく散華された。その数およそ六千柱。壮烈無比なこの攻撃は敵の心胆を寒からしめ、国民はひとしくその純忠に感泣した。
 特別攻撃隊の戦闘は、真に至高至純の愛国心の発露として国民の胸奥に生き続け、また世界の人人に強い感銘を与え、わが国永遠の平和と発展の礎となっている。
 ここに心から愛惜の情をこめて特別攻撃隊の諸資料を、この遊就館に納め、その精神と偉業とを後世に伝える。
昭和六十年十二月八日 特別攻撃隊慰霊顕彰会 会長 竹田恒徳

あゝ 特攻(特攻勇士の像

特攻隊戦没者慰霊顕彰会は全国各地に「特攻像」建立を行っており世田谷観音には平成19年09月23日建立。

私たちはあなたたちを忘れない
あゝ特攻

多くの「特攻勇士の像」が護國神社境内に建立されている中で、当寺には特攻観音堂があり地蔵菩薩と特攻像が並んで建立されている。

天山隊之碑

元海軍大将 高橋三吉 書
昭和36年12月 天山隊遺族会建之

特攻観音堂の左脇に慰霊碑。
「天山」は日本海軍が九七式艦上攻撃機(九七式艦攻)後継機として配備した艦上攻撃機。戦争末期には零戦や彗星とともに特攻機となっている。碑には天山を模した彫刻あり。

「天山隊之碑」 碑銘
大東亜戦争末期昭和20年4月6日鹿児島県串良基地進発沖縄周辺に来寇中の敵機動部隊に体当り攻撃を敢行し戦艦5隻空母2隻及び艦種不詳3隻を轟沈或は大破し多大の戦果を挙げ全員散華せり
神風特別攻撃隊菊水部隊天山隊員(以下個人名は略)

(もちろん記録として、歴史としては、そのような多大な戦果を挙げていなかったことは今では明らかではあるが、「戦果を挙げた」として信じて特攻された御英霊に対して無粋なことはしたくなく。歴史を知るものとして事象を理解しつつ… ここは、いち日本人の心情として碑銘に気持ちを委ねる。)

神州不滅特別攻撃隊之碑

昭和42年5月 神州不滅特別攻撃隊顕彰会建立

第二次世界大戦も昭和二十年八月十五日、祖国日本の敗戦と云う結果で終末を遂げたのであるが、終戦後の八月十九日午後二時、当時満州派遣第一六六七五部隊に所属した今田均少尉以下十名の青年将校が、国敗れて山河なし生きてかひなき生命なら死して護国の鬼たらむ、と又大切な武器である飛行機をソ連軍に引渡すのを潔しとせず、谷藤少尉の如きは結婚間もない新妻を後に乗せて、前日二宮准尉の偵察した赤峰附近に進駐し来るソ連軍戦車群に向けて大虎山飛行場を発進、前記戦車群に体当たり全員自爆を遂げたもので、その自己犠牲の精神こそ崇高にして永遠なるものなり 此処に此の壮挙を顕彰する為記念碑を建立し英霊の御魂よ永久に安かれと祈るものなり (碑銘引用は以上、以下個人名は略)

「特攻観音堂」
関連冊子などを戴きました… 公式サイト→PDFダウンロード可

「特攻平和観音経」
恭しく伏して惟んみるに天地開闢以来この世に生を享けしもの幾十百千万億兆なるを知らず。…
嗚呼尊い哉、嗚呼仰がん哉、長存不滅の光
南無特攻平和観世音菩薩…

公式サイトによると特攻平和観音様 月例参拝日が毎月18日午後2時より行われているということで。 機会があれば参列してみたいものです。


世田谷観音の境内を散策。
紙垂のある木。敬しく恭しい御神木。
ご住職のメッセージが掲示してあった。

大地は命の根源である

私達は大地を粗末に扱っている 大地は私達のものだと思っているからである そうではなくて私達が大地の一部なのだと知ればもっと愛情と敬意をもって扱うようになるだろう

阿弥陀堂(1枚目)は京都二条城からの移築という。
三層の建物は金閣寺を模している。向かい合った六角堂(不動堂/2枚目)も特徴的な様相。
寺歴は浅いが、移築建築や移築物が多い寺院。
不動堂「不動明王ならびに八大童子」は国重文。

狛獅子を従えた文殊観音様

境内にはさざれ石がありました。
「さざれ石のいわおとなりて苔のむすまで」
良き苔むす。
ちょっと交通の便は悪いけれども、とても佳き空間でした。
また訪れたいと思います。

御英霊の真心に感謝と哀悼の誠を捧げつつ…

各地の「特攻勇士の像」

訪れたことのある、ほんの一部ではございますが。

靖國神社

特攻勇士を讃える

戦局がいよいよ悪化した大東亜戦争の末期、
陸軍航空 西尾少佐以下1344名、
義列空挺隊 奥山少佐以下88名、
戦車隊 丹羽准尉以下9名、
海上挺進戦隊 岡部少佐以下266名、
海軍航空 関大尉以下2514名、
特殊潜航艇 岩佐大尉以下436名、
回天 上別府大尉以下104名、
震洋 石川大尉以下1082名、
計5843名の陸海軍人は敢然として敵艦船等に突入散華され今日の平和と繁栄の我が日本の礎となられた。
その至純崇高な殉国の精神は、国民ひとしく敬仰追悼し、永久に語り継ぐべきものである。
平成17年(2005)6月28日
財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会

群馬縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士の像 
平成21年3月建立

日本は昭和の一時期、米英及び重慶支那と大東亜戦争を戦った。
自国の安全と欧米の植民地支配からアジアを開放するためだった。
戦は優勢に推移し南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島沖縄と敵の反攻を許した。
この時、一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必至の戦法が採られた。
貧しく誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十才前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。
その勇姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現在の人よ、
命に代えて何を守ろうとしたか、
この像に問い続けて欲しい。

栃木縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士の像

私たちは決して忘れない

かつて太平洋戦争の末期、敵の圧倒的戦力を阻止しようと爆弾をかかえ、あるいは魚雷を抱いて敵艦等に体当たりを敢行した特攻隊員のことを。
祖国の安泰を信じ、太平洋の陸に海に空に散華した特攻隊員は、全国で実に五千八百余柱、本県で九十四柱に及ぶ。
このたび、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会寄贈の「特攻勇士の像」を、多くの県民の浄財によってここに顕彰碑として建立することができた。
特攻隊員の崇高な美挙が、この碑によって永遠に語り継がれることを願うものである。
平成二十二年八月十五日
     栃木県特攻慰霊顕彰の会

埼玉縣護國神社

埼玉県特攻勇士之像 (平成25年建立)

あの苛烈を極めた大東亜戦争の末期、多くの埼玉県出身の若者たちが特攻隊員となり家族・故郷・祖国を守るため、烈々たる祖国愛に燃え敢然として散華されました。
生還を期せず、若い命を進んで国に捧げられたこれら特攻隊員の崇高な精神が永く県民の心に刻まれるとともに次代を担う若門精神の糧となることを願うものであります。
ここに散華された英霊の勇姿を末永く後世に伝えるため、公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会のご協力を得て、埼玉県下遺族、戦友、崇敬者団体をはじめ幅広い県民の真心籠るご浄財をもって埼玉県特攻勇士之象を建立し謹んで奉納いたします。 
平成二十五年十月吉日
埼玉県特攻勇士之像建設委員会

千葉縣護國神社

あゝ特攻
千葉県特攻勇士顕彰碑

我が祖国日本は昭和16-20年米英支ソ蘭豪と大東亜戦争を戦った。
自国の安泰と欧米の植民地支配からアジアを解放するためだった。
戦は連戦連勝南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島から沖縄と敵の反攻を許した。
この時一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必死の特攻戦法が採られた。 貧しくとも誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十歳前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。

その雄姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現代の人よ、
命に代えて何を守ろうとしたのか、
この像に問いかけてほしい。

戦後同26年5月3日連合国最高司令官マッカーサー元帥が米上院軍事外交合同委員会で日本の戦は自衛のためであったと証言し米報道機関が全米に発信した。

日本国民よ、この事実を銘記せよ。

長野縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士之像

大東亜戦争の末期、特別攻撃隊が編成され、祖国の平和と繁栄を祈り、愛おしい父母妻子家族と別れ、一機一艇をもって敵艦に体当たりして、勇戦敢闘し散華されました。
長野県出身者は、陸海軍合せ百六十余名の若者が特攻隊員として戦死されております。
松本市内には、出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立って行きました。
又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。
国家存亡の危機に敢然と立ち向かわれ、今日の平和な日本の礎となられた諸英霊の崇高なる精神を永く県民の心に刻み 、後世に伝えるため、終戦七十周年を期しここに建立いたしました。
平成27年10月10日 長野県特攻勇士之像建立委員会

國の為 誠の道を一筋に
 進み行くこそ大和魂
  秋山白厳 詠


特攻勇士之像 に拝する機会がありましたら、記事を追記してまいります・・・