日本陸軍史上初の近代兵士反乱「竹橋事件」の戦跡散策

都内をいろいろと巡っていたら、いつの間にか、「竹橋事件」に関係する散策が出来ていたので、簡単にまとめてみることにしました。


竹橋事件

1878年(明治11年)8月23日に竹橋付近に駐屯していた「近衛砲兵大隊竹橋部隊」を中心とした兵士の反乱が発生。動機は、西南戦争における財政の削減、行賞についての不平であった。

近衛砲兵を中心に東京鎮台予備砲兵や近衛歩兵の一部も同調した、日本陸軍史上初の近代兵士による反乱「竹橋事件」

7月上旬、かねてより士官に比べ兵卒の恩賞が極めて少ない事に不満を抱いていた近衛砲兵大隊第2小隊馭卒の長島竹四郎は、同馭卒小島萬助と増給を強請せんと論じた。
続いて彼らは8月上旬、近衛歩兵第2連隊第2大隊第2中隊兵卒の三添卯之助と接触、近衛砲兵大隊第1小隊馭卒高橋小三郎、小川弥蔵、東京鎮台予備砲兵第1大隊の兵卒らとも接触した。反乱の機運は同予備砲兵第1大隊附内山定吾少尉、下副官梁田正直曹長、第1中隊平山荊火工下長(一等軍曹相当官)ら将校下士官も巻き込み、決起の計画が練られた。

そうして、8月23日に反乱兵259名が山砲2門を引き出して蜂起。
近衛砲兵第一大隊長の宇都宮茂敏陸軍少佐は、騒ぎを聞きつけ部下の反乱兵を制止しようとするが反乱兵に殺害され、続いて週番士官の深沢巳吉大尉も殺害されてしまう。

東京鎭台予備砲兵第一大隊長の岡本柳之助陸軍少佐は、一度は暴動に賛成するも、直前で静観姿勢に転換。竹橋事件に際しては、東京鎮台予備砲隊は飛鳥山に行軍し、近衛砲兵大隊竹橋部隊の暴動発生後も、そのまま飛鳥山で静観を続け暴動には不参加であった。しかし、岡本は、竹橋兵営の隊長としての責任を問われ事件後に官職となっている。

近衛砲兵大隊竹橋部隊は、砲兵隊の門前を出ると、すでに、近衛歩兵第1聯隊、近衛歩兵第2聯隊が出動しており、これと銃撃戦になった。
反乱軍は、近衛歩兵聯隊との戦闘にまぎれて、大蔵卿であった大隈重信邸に銃撃を加える。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したから、とされている。

1時間にわたる戦闘で鎮圧軍側では坂元彪少尉ら2名が死亡し、4名が負傷。対する反乱軍側も6人が死亡し、70名以上が捕縛された。

この戦闘で小銃弾を大幅に消耗してしまった反乱軍は午後12時、やむをえず天皇のいる赤坂仮皇居へと向かい、集まる参議を虜らえようとした。この道中で、さらに20余名が馬で駆け付けた近衛局の週番士官の説得に応じて投降、営舍へ戻った。残る94名は仮皇居である赤坂離宮に到着すると、騒ぎを諌めようとした近衛局当直士官・磯林真三中尉に誘導され、正門へ到着し、「嘆願の趣きあり」 と叫んだ。

赤坂離宮正門を警備している西寛二郎少佐率いる近衛歩兵隊が一行を阻止し、武器を渡せと叫ぶと、反乱側代表として前へ出た兵士は一瞬斬り掛る風を見せたが、士官の背後に近衛歩兵一個中隊が銃を構えているのを見て、士気を喪失し、刀を差し出した。
続いて絶望したリーダー格の一兵士大久保忠八が銃口を腹に当てて自決した。これをしおに、残り全員が午前1時半をもって武装解除し投降。蜂起してからわずか2時間半後のことであった。

一方、東京鎮台予備砲隊では内山少尉が数名の部下を連れ赤羽火薬庫まで弾薬を取りに行くが、時既に暴動は鎮圧されていた。

竹橋事件での戦闘での死者は鎮圧側は2名、反乱側は6名、であった。

https://maps.app.goo.gl/EM4v9p9fBeW6oeQ19

https://maps.app.goo.gl/n2vkbMSNdFVRmFiR9

23日に勃発した竹橋事件は、収束後の8月24日午前8時に、早くも陸軍裁判所で逮捕者への尋問が開始された。
そして、約2ヶ月後の10月15日に竹橋事件関係者への判決がくだされた。
騒乱に加わった者のうち、55名は同日銃殺刑(うち2名は翌年4月10日処刑)。内山定吾少尉ら118名が准流刑(内山はのちに大赦)、懲役刑15名、鞭打ち及び禁固刑1名、4名が禁固刑。
士官でも岡本少佐のほか、近衛砲兵大隊第2小隊長の津田震一郎大尉、松尾三代太郎騎兵大尉らが官職剥奪で除隊、甲斐宗義大尉が降官、川上親枝中尉、池田綱平少尉、松村恒久大尉らが停職となった。事件に直接参加していない兵士、民間人1名を含め、全体で処罰を受けたものは394名だった。

竹橋事件の結果、軍人への統制を強めるために「軍人訓戒」や「軍人勅諭」が発布、軍内部の秩序を維持するために「憲兵」が創設、近衛兵以外の皇居警備組織として「問部(のちの皇宮警察)」の設置などが進んだ。


竹橋

明治時代には、橋西詰に近衛砲兵大隊竹橋部隊があった。
1878年(明治11年)8月23日、西南戦争後の処遇を巡って、竹橋兵営に居住する同部隊の兵士215名が武装蜂起したために、のちに竹橋事件と呼ばれることになる騒乱が起きた。
天皇と宮城を警護する近衛兵が、宮城に向かって発砲したために明治政府は驚愕し、反乱が鎮圧されたのちに53名の兵士が銃殺で処刑された。

大正15年5月竣工。平成5年三月改修。
「竹橋事件」は、明治11年。

場所

https://maps.app.goo.gl/TCJ168oPbYB8NvoeA

竹橋の橋西詰

警視庁第一機動隊や厚遇系猿の宿舎のあるあたり、科学技術館の裏手に、竹橋事件を起こした「近衛砲兵大隊」(竹橋部隊)が駐留していた。


大隈重信候 雉子橋邸跡

竹橋のすぐ近くにあった大隈重信邸。
竹橋事件で、反乱兵士は、大隈重信邸を襲撃する。

大隈重信邸跡
 近代になるとこの地は、明治政府の既が置かれましたが、明治9年には二度の総理に就任し、早稲田大学を創設するなど多方面に活躍した大隈重信が邸宅を構えます。
 その後、フランス公使館、憲兵練習場、国営竹平住宅を経て現代を迎えます。

 早稲田大学創立者大隈重信(1838~1922)は、明治新政府に出任し、大蔵卿等を歴任し、日本国の「円」の創設に尽力しました。また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎作りに貢献しました。
 大隈重信は、1876(明治元年)年10月から1884(明治17年)年3月まで、この雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)に住み、1882(明治15)年10月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。
 創立125周年を記念して
  2007(平成19)年10月  
   早稲田大学・千代田稲門会

「大隈記念講堂」の時計塔を模している。

清水門の前。

早稲田大学>

https://www.waseda.jp/top/news/60890

https://www.waseda.jp/top/news/60918

場所

https://maps.app.goo.gl/BGGgP9irB892wkSa6


清水門

近衛砲兵大隊の兵営(竹橋の砲兵営)や、近衛歩兵連隊の兵営(近衛歩兵営)などに一番近い門が清水門であった。
反乱軍は清水門近くの清水橋を渡り、隣接する雉子橋付近にあった参議・大隈重信の邸宅に向けて砲撃・銃撃を加えるなど、この清水門・竹橋周辺の一帯は一晩にして激しい戦闘・暴動の現場となった。

場所

https://maps.app.goo.gl/MmYZmPJnGjkvP8SA8


竹橋事件処刑場跡
(東京海洋大学越中島キャンパス)

竹橋事件から2ヶ月後の10月15日。
竹橋事件関係者への判決がくだされた。
騒乱に加わった者のうち、55名は判決即日に銃殺刑となった。
処刑場所は、越中島練兵場の地。

現在は、東京海洋大学越中島キャンパスのグランド。

https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/bunkazaisiseki/shiseki/16061.html

場所

https://maps.app.goo.gl/WSkLVpYxk2zVQc4D7


竹橋事件の合葬墓(青山霊園)

青山霊園の西側にひっそりと佇む竹橋事件の合葬墓。
青山霊園内 2種イ11-29

合葬之墓

「合葬の墓」としか記載がないが、これが竹橋事件で銃殺処刑された反乱兵士たちの墓。

昭和18年12月建之

旧近衛鎮台砲兵之墓

大赦 明治二十二年二月十一日

明治22年の大赦によって、福井清介(詳細不明)、内山定吾(竹橋事件では鎮台予備砲兵大隊の陸軍砲兵少尉・無期流刑から後に大赦)らの発起により、建立された。

 この碑は、一八六七年(明治11年)八月二十三日夜に起きた「竹橋事件」殉難者の鎮魂のためのものである。事件は東京竹橋にあった、近衛砲兵大隊の兵士を主力に東京鎮台予備砲兵第一大隊、近衛歩兵第二聯隊の同調者をまじえて、将校、下士官の連座者をふくみ、日本陸軍史上唯一の兵士の叛乱となった。三百余人が、待遇改善その他の要求をかかげて直接行動に訴えたのである。兵士たちはすべて徴兵によって陸軍にとられ、その多くは、前年の西南戦争の戦火をくぐりぬけて命をひろっている。徴兵制度への根本的疑問、明治維新以後の政治に対する不満が、天皇への直訴をふくむ行動へ兵士たちを馳りたてていった。生れ在所の百姓一揆の伝統、のちの自由民権運動につながる志向も、兵士たちをささえる火であったと思われる。
 叛乱は鎮圧され、同年十月十五日、兵士五三名が深川越中島で銃殺刑になり、遺体は青山墓地に埋められた。現在の都立赤坂高校正門付近と推定される。
 一八八九年(明治二二年)帝国憲法発布にちなむ大赦ののちに、福井清介、内山定吾らの発起により、計五六名の事件殉難者を祀る「旧近衛鎮台砲兵之墓」が埋葬地に建立された。
 この墓は、第二次世界大戦末期の混乱で行方不明になっていたが、百回忌にあたる一九七七年十一月、現在地に移されているのを発見した。
 事件の真相は明治政府によって抹殺され埋歿せしめられ忘れられた歳月が過ぎたが、全国的な研究と調査がすすみ、ようやく全容があきらかになろうとしている。
 たたかい、かつ踏みにじられた明治の青春の記念としていまここにこの碑を建て、「竹橋事件」が後世に伝えられるべき火となることを願う。
この碑は、遺族をはじめ事件にかかわったわれら一同の反戦平和への悲願の証でもある。
  一九八七年十月十五日  澤地久枝 撰

竹橋事件殉難者名簿

1878(明治11)年10月15日刑死
近衛砲兵大隊兵士
浅見綾次郎 伊藤丈三郎 今井政十郎 岩本久蔵 浦塚城次郎 小川弥蔵 門井藤七 金井惣太郎 菊池作次郎 木島次三郎 木村円解 久保田善作 小島万助 是永虎市 近藤租舟 桜井鶴次 笹井常七 佐藤種五郎 沢本久米吉 新熊保治郎 新家仲吉 高橋小三郎 高橋竹四郎 田島盛介 谷新四郎 辻亀吉 堤熊吉 中沢章治 長島竹四郎 永合竹次郎 野中与吉 羽成常助 馬場鉄市 広瀬喜市 藤橋吉三郎 布施仙吉 松井善助 松宮弁次郎 松本久三郎 宮崎関四郎 水上丈平 見山今朝治 本橋兼次郎 山中繁蔵 山部七蔵 山本丈作 吉田定吉

東京鎮台予備砲兵第一大隊兵士  
真田兼松 鈴木直次 高見沢卯助 宮崎忠次 横山昇

近衛歩兵第二連隊兵士
三添卯之助

1879(明治12)年4月10日 刑死
東京鎮台予備砲兵第一大隊下士  
平山荊 梁田正直

1879年8月23日 自殺
近衛砲兵大隊兵士 
大久保忠八

竹橋事件  
墓と碑の由来
 「旧近衛鎮台砲兵之墓」は、一八七八(明治一一)年八月二三日の竹橋事件で死刑に処せられた、近衛砲兵大隊兵士四七名・近衛歩兵第二連隊兵士一名・東京鎮台予備砲兵第一大隊兵士五名・同隊下士官二名および事件当日夜自殺した近衛砲兵大隊兵士一名の・計五六名の墓である。
 下士官二名は、翌一八七九(明治一二)年四月一〇日になって処刑されたが、兵士五三名は事件後二か月足らずの一〇月一五日深川越中島で銃殺され、当青山墓地の陸軍墓所(現都立赤坂高校正門付近)に埋葬された。
 一八八九(明治二二)年の帝国憲法発布に伴う大赦により、墓碑建設が許され、無期流刑から生還した鎮台予備砲兵大隊少尉内山定吾や同志、遺族らの手によって、頭書の墓碑が建立された。
 しかし、第二次大戦後、赤坂高校の建設の際、墓は現在地に移されたという(異説もあって、経緯の詳細は不明)。たまたま隣接地に住む遺族の高樋和夫氏が、独力で墓を探し当て、守って来たが、くしくも、兵士の一〇〇回忌に当たる一九七七(昭和五二)年、作家澤地久枝氏も墓を突き止め、広く世間に紹介した。
 同じ年、麻生三郎氏を中心に、「明治一一年竹橋近衛暴動の真相を追求する会」(現「竹橋事件の真相を明らかにする会」)が結成され、すでに澤地氏が始めていた全国的な遺族の「掘り起こし」を、さらに精力的に進めた。
 その結果、多くの遺族が判明し、一九八五(昭和六〇)年遺族有志によって全国遺族会が発足し、左隣の「合葬之墓」と、合わせた「旧近衛鎮台砲兵之墓」の管理権を、東京都から委譲された。
 「竹橋事件の真相を明らかにする会」の運動も大きく前進し、事件の真相とその意義の解明は本格的な軌道に乗りつつある。
 墓の右隣の碑(撰文澤地久枝)は、この事件を、裏面に刻まれた五六名の殉難兵士たちの名とともに日本の歴史に永遠に留めるため、兵士たちの一一〇回忌を機として多くの人々の思いと協力を集めて、建てられたものである。
 なお、前記「合葬の墓」は明治年間に陸軍刑務所で刑死ないし獄死した兵士の内、引き取り手のなかった一七名を合葬して一九四三(昭和一八)年に建てられた(その経緯も不明)。
 その中には事件に参加して準流刑一〇年に処せられ、獄死した、近衛砲兵大隊兵士市川朝吉・宮崎又作の二名も、含まれている。
  一九七八年一〇月一五日   
   竹橋事件全国遺族会  
   竹橋事件の真相を明らかにする会

陸軍境界標もある。
詳細は不明だが、墓石と同じく青山霊園にあった陸軍墓地からの移設だろうか?

場所

https://maps.app.goo.gl/exTM7198KE3JR1gQ6


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