2020年1月
早稲田大学に残る近代建築と戦跡などを散策してみました。
目次
早稲田大学
喜久井町キャンパス
(理工学術総合研究所)
戦時中、喜久井キャンパスの研究所地下には防空壕があった。
空襲に際して周辺住民と学生などが避難していた防空壕も被災し300余名が亡くなったという。
戦災供養観音像(早稲田大学)
戦災者供養観音像建立の由来
第二次世界大戦の終局も近い昭和二十年五月二十五日(1945年)米軍の東京空襲は、山手地区の多くを焼土と化した。
理工学研究所も建物のほとんどが焼失し、とりわけ研究所敷地地下に作られた防空壕に避難した学生数名と、近隣の人々あわせて三百余名が火焔と煙に包まれて、悲しくも尊い犠牲となった。
昭和三十年五月罹災十周年を迎えるにあたりこれらの人々の霊を慰め、永遠の 平和を祈願するため本観音像を建立した。
昭和五十八年三月
観音像製作者 二紀会 永野隆業氏
早稲田大学理工学研究所
近くの感通寺にも、慰霊観音さまがある。
早稲田の穴八幡の交差点。
かつては大隈家、そして近衛騎兵連隊御用達として、この地にあった「 三朝庵」は既に面影が無し。
早稲田大学早稲田キャンパス
早稲田キャンパス内に残る近代建築を巡る前に、記念碑や銅像などを先に。
杉浦千畝レリーフ
第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原千畝は、ドイツの迫害により逃れてきた難民たちに対し1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して大量のビザ「命のビザ(杉原ビザ)」を発給。多くのユダヤ系避難民を救った「東洋のシンドラー」とも呼称される。
杉原千畝は早稲田大学高等師範部英語科予科に入学し外務省留学生試験に合格している。
外交官としてではなく
人間として当然の
正しい決断をした
命のビザ発給者
杉浦千畝
杉浦千畝
(1900~1986)
原型 櫻庭裕介
平成23年10月24日 建立
杉浦千畝レリーフは11号館と14号館の間に鎮座。
杉浦千畝レリーフの隣には「楠」が植樹されている。
楠
この楠の親木は、明治10年に創立者大隈重信が熱海より実を持ち帰り播種し、その後、雉子橋(九段南)から早稲田への本邸移転に際し、大隈庭園に移植されたものである。
明治10年の実生からおよそ125年後の今日まで、学園を見守り続けたその実から再び第二世紀の苗木を育て、各キャンパスにおいて植樹し育成していくものである。
2002年10月
植樹〔第14代総長 奥島孝康〕
総長大隈老侯像
大隈重信像
早稲田大学の創立者である大隈重信の銅像。高さ298センチの立像。昭和7年10月17日に大学創立50周年と大隈重信10回忌を兼ねて制作。製作者は朝倉文夫。
大礼服姿大隈重信石膏像
大礼服姿大隈重信石膏像
小倉惣次郎作
明治40年(1907)10月の創立25周年記念式典の際、大礼服(明治期から太平洋戦争終戦までの宮中の儀式等で着用した最高の礼装)姿の大隈重信像が校庭に設置された。本像は石膏によるその同型像である。
早稲田大学大学史資料センター蔵
元となった大礼服の大隈重信像は現在は大講堂バルコニーにあるという。
坪内逍遥胸像と台座歌碑
坪内逍遥像と台座歌碑
台座上の坪内逍遥胸像は、彫刻家、長谷川栄作氏の願望により昭和37年(1962)に鋳造されてもので、逍遥の「シェイクスピア」講義の姿である。
また、台座は、早稲田大学後援会事業資金、池田恒雄氏、近桂一郎氏の協力により演劇博物館創立70周年記念に建立され、歌碑の内容は逍遥を偲んだ会津八一の自筆の和歌である。
むかしひと
こゑも
ほからに
たくうちて
とかしし
於もわ
みえ
きたる
かも
秋神道人
早稲田キャンパスの近代建築
大隈記念講堂(21号館)
国指定重要文化財
昭和2年建造
重要文化財
早稲田大学大隈記念講堂
所在地 新宿戸塚町1丁目104番
設計者 佐藤功一・佐藤武夫
建築年 昭和2年(1927年)
指定年 平成19年(2007年 )
早稲田大学大隈記念講堂は、創立者である大隈重信に対する記念事業として計画され、同大建築学科の佐藤功一教授と佐藤武夫助教授が設計し、同教授の内藤多仲が構造を担当し、昭和2年10月15日に竣工した。
早稲田大学大隈記念講堂は、早稲田大学のシンボル的存在であり、ロマネスク様式を基調としてゴシック様式を加味した我が国近代の折衷主義建築の優品として、高い評価がある。
また早稲田大学建築学科で永く教鞭をとり、多くの建築家を育てた佐藤功一の代表作としても重要である。
早稲田大学総合案内所
(大隈重信邸守衛詰所)
かつての大隈重信邸守衛詰所であった建物。
明治35年(1902年)建造という。
早稲田大学総合案内
この建物は、戦争によって全焼した旧大隈重信邸(明治35年竣工)の唯一の現存遺構であり、当時は守衛詰所として用いられていたものである。
建物は木造一階建ての簡素なつくりであるが、ハーフ・ティンバーの外観、妻飾りのハンマー・ビームやがらり窓が印象的である。小規模ながら、旧東京専門学校校舎(具ルーンハウス・現在は追分セミナーハウスに移築)と並んで、木造校舎時代の雰囲気を伝える貴重な建築物である。
大隈庭園(大隈重信邸跡)
大隈会館(大隈會舘)の入口門柱に一対の狛犬が鎮座している。台湾狛犬。
早稲田大学
百年祈念
中華民国
台湾同学会敬贈
脚を運んだ日は、天候不良のために大隈庭園は閉門しておりました。残念。
大隈重信邸沓脱ぎ石
早稲田大学
早稲田キャンパス1号館
専門部・高等師範部校舎として昭和10年(1935年)竣工。
現在、1号館には「早稲田大学歴史館」が併設されている。
1号館入口の円柱について
左に位置する一対の御影石円柱は、この建物の建設(1935年竣工)にあたり、明治期に正門となっていた門柱を加工したものである。
戦火に耐え、本学草創期の息吹を今日に伝えるこの円柱は、「歴史を明日に伝える」早稲田大学歴史館の象徴となっている。
早稲田大学
早稲田キャンパス2号館
大正14年竣工の旧図書館。
東京都選定歴史的建造物。
現在は會津八一記念博物館などに使用されている。
東京都選定歴史的建造物
早稲田大学2号館(旧図書館)(早稲田大学)
所在地 新宿区西早稲田1-6-1(早稲田大学)
設計者 今井兼次・桐山均一・内藤多仲
建築年 大正14年(1925)
平成3年(1991)まで大学図書館として使用された。設計者今井兼次は、建築様式について”質実、豪放、端正なる現代の様式に東洋の印象を加味したもの”とした。
建物は本館と書庫からなり、本館は玄関大広間ならびに大階段室、大閲覧室の空間構成がとられている。玄関大広間の柱東武は植物の形態をデフォルメしたもので、石膏製の彫刻である。表現主義の影響を受けたユニークな造形となっている。
東京都
早稲田大学
早稲田キャンパス3号館
昭和8年(1933)竣工の建物(本部校舎)であったが、平成23年(2011)に解体。平成26年(2014)に新3号館が竣工。新3号館の低層部には旧校舎の様相が復元されている。
早稲田大学
早稲田キャンパス5号館
演劇博物館
新宿区指定有形文化財
昭和3年(1928)竣工
正式名称は「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」という。
新宿区指定有形文化財 建造物
演劇博物館
所在地 新宿区西早稲田1丁目6番地
指定年月日 昭和62年3月12日
正式には早稲田大学坪内博士記念演劇博物館という。
昭和3(1928)年10月に坪内逍遥の古稀と「シェークスピア全集」の完訳を祝って学界・演劇界の有志1500余名の協賛により建設された。建物の意匠は逍遥の発案によりイギリスのエリザベス朝(16世紀後半)の様式で、シェイクスピア時代の劇場フォーチュン座を模して設計されている。
鉄筋コンクリート造、地上3階、、地下1階m建坪は約400平方メートルで、内部は逍遥記念室をはじめ8つの展示室、図書閲覧室がある。
また、外部は実際にシェイクスピア劇ができるようになっており、館の正面は舞台、2階のt廊下は上舞台、建物の両翼は桟敷、前庭は一般席となる。
なお、正面舞台上に掲げてあるラテン語は「全世界は劇場なり」という意味で、シェイクスピア時代の劇場グローブ座に掲げてあった看板の句である。
平成3年11月
東京都新宿区教育委員会
早稲田大学
早稲田キャンパス6号館
昭和10年(1935年)竣工。 1号館と同じ時期の建設。現在は教育学部。
早稲田キャンパスの近代建築。
講堂からは1号館と3号館が並ぶ姿が見れる。
さて、ちょっと移動します。
早稲田キャンパスと西早稲田キャンパスのあいだあたりに、「早稲田大学 各務記念材料技術研究所」があります。
早稲田大学
各務材料技術研究所
昭和13年(1938年)、各務幸一郎・良幸父子の寄付により「鋳物研究所」として創立。所長は元海軍中将の石川登喜治。私立大学での理工系研究所としては最初の研究所となる。
現存する建物も昭和13年の竣工。
旧鋳物研究所の正門
この門は旧鋳物研究所(現在の各務記念材料技術研究)の正門であった。
昭和元年から昭和10年まで、早稲田大学の正門として使われていたものである。
昭和13年の鋳物研究所開設に伴い、初代所長の石川登喜治先生がこの門を田中穂積総長から譲り受け、研究所の正門とした。
旧大隈邸の門であったともいわれているが、その確証はない。
第二次大戦中には、鉄資源としての供出を恐れた石川先生が所内に隠され、木製の門が使われていた時期もある。この門では幅が狭く、大型トラックの出入りに不便であるとの理由で平成9年4月に現在の門に取り換えられた。
2011年(平成23年)10月
早稲田大学正門の門柱は1号館に活用され、正門の扉はひっそりと材料技術研究所に保存されていた。
早稲田奉仕園
スコットホール
早稲田大学ではないけども、近くでしたので足を運んでみた。ここにも近代建築が残っている。
スコットホール
東京都選定歴史的建造物
早稲田奉仕園スコットホール
この煉瓦組積造の建物は、1918年の米国バプテスト総会で報告された早稲 田奉仕園の事業に強く賛同された J・E・スコット夫人(1851-1936)によって、天に召された夫の記念として寄贈されたものです。
ヴォーリズ建築事務所の設計原案に基づき、早稲田大学の内藤多仲教授研究 室が施工管理を行い、同研究室の今井兼次助教授(当時)が担当者となって設計 を完成させ、竹田米吉店が施工を請け負いました。
1922 年(大正11年)1月に献堂式(竣工式)を行い、翌年の関東大震災で塔屋の一部 が崩落し補修をされた以外は、現在もほぼその原型が保たれています。
1990年東京都より「歴史的建造物の景観意匠保存」の指定を受け、寄贈者の志を覚え永く後世に保存 したいとの願いから、1991年に多くの賛同者の寄付・協力によって、構造の補強と外観の全面保存改修が行われました。
2008年10月
公益財団法人 早稲田奉仕園
早稲田奉仕園創立者 H.B.ベニンホフ博士(1874-1949)
米国北部バブテストの宣教師として派遣されたベニンホフ は、1908年に早稲田大学の学生に請われて英語による聖書研究会“3Lクラブ”を築地にあった自宅で始めました。
同年早稲田大学 の創立者大隈重信 に要請され、キリスト教に基く学生寮「友愛学舎」を早稲田鶴巻町に創設、奉仕園の礎となる活動が開始されました。その後牛込弁天町に場所を移し、更に1920年現在の土地を購入して、友愛学舎のほか、スコットホール、スポーツ施設などを備えた学生センター「早稲田奉仕園」をつくりました。
長らく早稲田大学の講師も務め、また、日米間の相互理解と親善に努力しましたが、国際情勢の悪化により1941年志半ばにして帰国、再び日本に戻ることを願いながら、1949年1月24日インディアナ州フランクリンで天に召されました。
この像は1963年に関係者の寄附によりたてられました。
2008年9月
公益財団法人 早稲田奉仕園
早稲田大学周辺の散策は以上にて〆