北の丸・千鳥ヶ淵周辺の戦跡散策

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平成28年5月撮影

灯台下暗し。近いと何時でも良いやと思って訪れない場所がある。

ある日の午後。
ふと思いたって北の丸の戦跡史跡散策を決行。考えてみれば良く歩くわりにはこの界隈は気にしてなかったなあ、と。

(北の丸といえば、近隣の近代建築としての九段会館は、もう・・・)

北の丸公園の田安門から散策開始。

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彌生慰霊堂(弥生慰霊堂)

戦前は「彌生神社」(弥生神社)として祀られていた聖域。 参道脇には力強い狛犬が控えていました。

警視庁及び東京消防庁の殉職者を祀る。

警察・消防殉職者のために、1885年(明治18年)10月7日「弥生神社」創建。
弥生とは当初の鎮座地である文京区向ヶ岡弥生町に由来。

戦後、警視庁として「弥生神社」を管理できなくなった為、1947年(昭和22年)10月に現在地に遷座するとともに名称を「弥生廟」と改称。
1983年(昭和58年)9月に「弥生慰霊堂」に改称し、従来の神式慰霊祭から無宗教形式の慰霊祭に変更。

慰霊、そして感謝を。

昭和天皇御野立所

この彌生慰霊堂の地は、もう一つ歴史的な場所。

昭和天皇御野立所

 大正12年(1923)9月1日午前11時58分、関東地方一帯に大地震が発生した。死者、行方不明者14万人、家屋の全壊、焼失57万戸、罹災所帯69万に及ぶというわが国災害史上未曽有の大惨事であり、東京遷都の噂すら流れたほどであった。
 時に摂政であらせられた 昭和天皇は「東京ハ依然トシテ国都タルノ地位ヲ失ハズ、コレヲ以テソノ善後策ハヒトリ旧態ヲ回復スルニ止マラズ、進ンデ将来ノ発展ヲ図リ・・・・・」との詔書を発せられて、復興の方針を明示されると共に、同月十五日親しく被災地を御視察遊ばされた。
 それより6年有余の歳月と7億円(昭和5年度一般会計歳出16億円)の巨費を投じて鋭意再建に努めてきたが、漸く復興が成り、昭和5年3月26日皇居前広場に於いて、天皇陛下の親臨を仰ぎ、帝都復興祝賀の式典が盛大に挙行された。
 昭和天皇は、これに先立つ24日、被害の甚だしかった下町一帯の復興状況を、約五時間に亙り御視察遊ばされた。その第一歩を駐めさせ給うたのがこの地である。当時はここから東京湾まで眺望することが出来た。
 その後ここに「御野立所記念碑」が建てられたが、長年の風雪に曝されて損傷が著しくなっていた。この地は嘗て近衛歩兵第一聯隊が駐屯していたところである。そこで有志相倚り昭和天皇御誕生日を卜して「御野立所記念碑」を再建し、御聖徳を偲び奉るものである。
  平成元年(1989)4月26日
   近衛歩兵第一聯隊會

位置関係

USA-M377-65
1947年(昭和22年)07月24日‐米軍撮影

北の丸公園 

武道館の前、通りを挟んだ茂みに石碑がありました。

皇紀二千六百年 植樹記念碑

陸軍少将 三浦真書

詳細は不明。


近衛歩兵第一連隊跡記念碑

日本陸軍最初の連隊として、明治7年(1874年)創設。
皇居守護の要たる名誉ある連隊。
その近衛歩兵第一連隊、通称「近歩一」を記念する碑

近衛歩兵第一連隊跡記念碑

近衛歩兵第一聯隊記念碑

 近衛歩兵第一聯隊は、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、明治7年(1874)1月23日、
 明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年(1945)大東亜戦争の終末に至るまで、71年余りの間この地に駐屯して、日夜皇居の守護に任じ、
 大正天皇 今上天皇も皇太子であらせられたとき、それぞれ10年の長きに亘り御在隊遊ばされた名誉ある聯隊である。
 西南・日清・日露の各戦役及び日華事変には、軍に従って出征して輝かしい勲功を樹て、大東亜戦争に於いては、帝都防衛の一翼を担った。
 近衛兵には、毎年の徴兵検査で全国から厳選された優秀な壮丁を以て充てられていた。
  昭和42年(1967)1月23日 全国近歩一会


近衛歩兵第二連隊跡記念碑

こちらは近衛歩兵第二連隊の記念碑。
近歩一と同じく日本陸軍最初の歩兵連隊。
栄光ある近衛連隊として、近歩一とは別に独立した記念碑が建立されている。

近衛歩兵第二連隊記念碑
傍らに植えられるは橘の木。

近衛歩兵第二連隊記念碑
昭和8年建立の柱
近衛歩兵第二連隊将校一同

天業快弘
皇道宣布

近衛歩兵第二聯隊記念碑

 近衛歩兵第二聯隊は、明治7年1月23日、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、
 明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年大東亜戦争の終結に至るまで、70余年の間此の地に駐屯して日夜皇居の守護に任じ、この間明治10年西南の役、ついで日清、日露の各戦役に出陣し更に昭和には、日支事変にて南支、拂印へ出征し、輝かしい勲功を残した。
 近衛兵は毎年全國から選抜された、優秀な壮丁を以って編成されていた。
 平成10年1月23日 近歩二会


吉田茂像

船越保武 作
安岡正篤 文
桑原翠邦 書

吉田茂像の碑文を「昭和の黒幕」と称された安岡正篤氏が作文なされたのが趣深い。

吉田茂像碑文
吉田茂
古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦ニ社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩ニ方リ萬世ノ為ニ太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事ニ任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ舉用シ民心ヲ鼓舞シ以テ復興ノ大義ニ盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉勲ト謂フベシ後人相謀ツテ茲ニ厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善イ哉
昭和五十六年九月

北の丸公園の南出口。

こちらの門は、乾門。
正月の一般参賀の北の参出口としておなじみですね。

北白川宮能久親王銅像

東京国立近代美術館工芸館の隣。
明治28年、近衛師団を率いて台湾出征。疫病に罹らせ給い台南に於いて薨去遊ばされた。御年49歳。

騎兵の銅像として、躍動感も一級品。


東京国立近代美術館工芸館
近衛師団司令部庁舎

国重文
明治43年(1910)造営。
陸軍技師田村鎮の設計による赤レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風。明治洋風建築の代表建築。

東京国立近代美術館工芸館
かつての「近衛師団司令部庁舎」(国重文)

魚眼にて。

「近衛師団司令部庁舎」(近代美術館工芸館)

正面中央の玄関部には、小さな八角形の塔屋。
両翼部には、張り出しがある簡素なゴシック様式の建物。
日本人技術者が設計した現存建物としても貴重。

細部をみてみると、陸軍名残の星型もあり。

流線形が美しい雨樋。
流線部に開口窓があり、異物を除去する事が出来ます。
これは機能美溢れてますね。

ちょうど無料開放日でしたので内部にも。
エントランスホールを内側から。

1階階段を下から。

階段踊り場の曲線美に萌える。

階段踊り場から。

2階

風格に溢れてます。
見ていて全く飽きないですが、ぼちぼち次の場所に。

千鳥ヶ淵をめぐる。

近衛師団司令部庁舎から首都高を渡った先、この緑のこんもりとした空間が次のポイント。

近衛第一師団
 地下壕・地下防空陣地跡

陥没の恐れがあるため、立入禁止

近衛師団司令部庁舎と皇居に挟まれた、この場所。

今は入口が塞がれてしまっているが、この場所が近衛第一師団隷下の近衛機関砲第一大隊の地下壕、地下防空陣地跡という。

近衛第一師団隷下の近衛機関砲第一大隊が展開された地下壕・地下防空陣地跡。

そのこんもりとした台地の上には竪穴通気口があった。
この下が地下空間がある証でもあり。
覗いてみましたが木の枝ばかり…

高射機関砲台座跡

唐突に、不自然な石のベンチが見えてくる。

これ、実は高射機関砲(九八式二十粍高射機関砲・九八式高射機関砲)の台座跡という。七座残っていた。

ここに先ほどの近衛機関砲第一大隊が展開されていた、と。

今は特に何かを説明するでも案内するでもなく、台座は静かにベンチとして第二の余生を過ごしていた…


せっかく千鳥ヶ淵まできたので、参りましょう。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

千鳥ヶ淵戦没者墓苑。

鎮魂と…
感謝と…

祈念する空間。

戦士たちは名を残し、戦士たちは靖國で逢おうと散りゆけれど。
ただ不幸にもその戦士たちの遺骨に名が紐付け出来ず、帰る場所を失ったために、千鳥ヶ淵墓苑に眠る…

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

いつも8月15日には、この場所にも足を運んでたが、8月15日の政争空間を垣間見てしまうと心にはざわつきがあった。
この日は初めて、この場所で心穏やかに拝する事が出来たかも知れない。

御製
いくさなきよを
あゆみきて
おもひいづ
かのかたきひを
いきしひとびと

終戦60周年の御製を常陸宮妃殿下が謹書

御製
くにのため
いのちささげし
ひとびとの
ことをおもへば
むねせまりくる

千鳥ヶ淵墓苑創建の年(昭和34年)に 昭和天皇から下賜された御製を秩父宮妃殿下が謹書

墓苑の一隅に。
引き揚げに伴う死没者の永遠の平和祈念碑 強制抑留者の尊い命を失われた方々の追悼慰霊碑
改めて合掌。

さざれ石に、大賀ハス。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑。
はじめて、こんなにゆっくりと参拝させていただきました。

昭和34年、国により建設された「無名戦没者の墓」です。

無名戦没者などはいない…と。

不幸にして千鳥ヶ淵戦没者墓苑に埋葬されたのは名が残らなかった遺骨であれども、その御霊は靖國神社に集う、と。
靖國神社で会おうと誓って散った名のある戦士たちの御霊は靖國神社に祀られ家族達に祀られ、名が判明しなかった遺骨のみが千鳥ヶ淵に眠ると…


千鳥ヶ淵を北上して靖国通りに。
スタート地点近くに戻ってきました。

元帥陸軍大将大山巌公像

日露戦争の陸軍の中心人物。満州軍総司令官。 「陸の大山、海の東郷」

品川 弥二郎像

大山は薩摩、品川は長州。 軍人と政治家。両者の像が今は並んでいる。

九段下の靖国通りに。

高燈篭(常燈明台)

靖国神社の常夜灯として明治4年(1871)に建設。靖国神社に祭られた霊のために建てられたという。
昭和5年(1930)に現在地に移転。

豪北方面戦没者慰霊碑

靖國神社入口の向かって右脇。北の丸の反対側に人知れず鎮座。

豪北とは、東南アジア地域のこと。
靖國神社には良く参拝している方々もここに目を向けることは少ないかもしれない。
私も久し振りに訪れました。

九段下から北の丸公園~千鳥ヶ淵を経て、靖國神社に。
たまにはこんな散策も良いかもしれない。

靖國神社境内の慰霊碑等はまたの機会で。
幾つか点在してるんですが、今回はいったん〆

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