都電荒川線「熊野前停留場」、日暮里舎人ライナー「熊野前駅」より北側、隅田川の方に向かって5分ほど歩く。
熊野前保育園の壁に沿って案内板が立っていた。
目次
ドーリットル空襲
昭和17年(1942)4月18日。
米陸軍所属のB-25爆撃機16機が米海軍所属の空母ホーネットより発進し、日本本土への空襲を実施。この空襲がアメリカ軍による日本初空襲(東京初空襲)であり、ミッドウェー海戦のきっかけともなった。
「ドーリットル空襲」の名称は爆撃機隊の指揮官であったドーリットル中佐に由来する。
日本側の被害は、死亡約90人、負傷約460人であったという。
尾久初空襲(尾久本土初空襲)
ドーリットル隊長自らが機長となった1番機は、米空母ホーネットを8時15分に発艦。「十条の東京第一陸軍造兵廠」をターゲットとしたが、目標を外れてしまい早稲田に焼夷弾を4発投下、早稲田中学の学生が直撃弾で死亡している。
2番機のフーバー機は8時20分に発艦。途中で1番機を追い抜き「赤羽の陸軍造兵廠兵器庫」を目指していたが、目標が確認できず、目についた施設「尾久の旭電化工業尾久工場」を爆撃。爆弾は工場をそれて周辺に落下。
大日本帝国「帝都・東京」への最初の投下となった爆撃は、荒川区尾久町であったため「尾久初空襲」とも呼称。尾久での死者は10名、重軽傷者48名、全半焼38棟といわれている。
なお、3番機は王子や川口を爆撃するとともに、葛飾の水元国民学校に対し機銃掃射なども行っている。
東京初空襲の地
真珠湾から4ヶ月後。
勢いを失わない日本軍に対するアメリカ軍が決行した起死回生の一手「ドーリットル空襲」。
ドーリットル爆撃隊による大日本帝国「帝都・東京」に対する最初の爆弾投下が、ここ荒川区東尾久の地となり、この場所が「東京初空襲の地」「日本本土初空襲の地」となった。
東京初空襲の地
昭和17年4月18日正午過ぎ、日本の本土が初めてアメリカ軍による空襲を受けた。昭和16年12月8日の日本軍の真珠湾攻撃から約4ヶ月後のことである。中でも、最初に被害があったのが、この付近の尾久町八、九丁目で、12時20分頃、ドーリットル隊(ドーリットル空襲)の2番機が爆弾3個と焼夷弾1個を投下した。
『荒川区史』所収の警視庁警備係の調査によれば、尾久では、死亡10人、重傷34人、軽傷14人、全焼43戸、全壊9戸、半焼1戸、半壊13戸の被害があったという。落下地点では、直径10メートル、深さ5メートルもの穴があき、家屋が倒壊し、上下水道やガス管も破壊された。また、焼夷弾による火災で全焼した家屋もあった。当時、干潮時で、消火に隅田川の水を利用することはできなかったが、地域の人々の尽力により、13時50分に鎮火した。
この空襲を契機に翌5月には、熊野土地区画整理組合が設立され、電化通りから北側の現尾久橋通りが整備された。
荒川区教育委員会
爆弾の着弾地点は3箇所。
荒川区東尾久8丁目の熊野前保育園の近くに2箇所、着弾。
荒川区東尾久7丁目のADEKA前に着弾。
着弾地点は、いまは静かな住宅街。
ドーリットル爆撃隊3番機が爆撃目標としたという旭電化工業尾久工場(ADEKA)の方に向かって歩くと、高架の向こうに既視感のある光景が。
これは、、、
付記:TRICK(トリック)の池田荘
ドラマ「TRICK(トリック)」で山田奈緒子が住んでいた「池田荘」。
(実際には「あおい荘」という)
山田奈緒子の池田荘の先に、一際に大きなビルが見える。
旭電化尾久工場跡
かつてこの地には「旭電化工業株式会社尾久工場」があっった。
旭電化工業(ADEKA)は、古河財閥・古河グループの流れを組む企業。大正4年(1915)に、日本のソーダ工業の創業・電解ソーダ法によるソーダ製品製造を目指して創業された「東京電化工業所」に端を発する。化学品・日本の電解ソーダメーカーとしての先駆者であった。
大正7年(1918)に旭電化尾久工場が竣工。
以来、当地は一大化学工場であった。
昭和40年(1965)に工場転出が決定し、昭和52年(1977)に東京都が跡地を買収。
株式会社ADEKA
旭電化工業株式会社は、平成18年に「株式会社ADEKA」に社名変更。工場転出後に敷地を縮小して当地には本社機能と研究機関が残っているのみ。
都立尾久の原公園
旭電化工業尾久工場跡地を東京都が買収。
買収地の西側には「東京都立大学荒川キャンパス」「東尾久運動場」「東尾久浄化センター」となり、東側が「都立尾久の原公園」
都立尾久の原公園は平成5年(1993)開園。
なお、東尾久浄化センター敷地内の土壌でダイオキシン類及び重金属等の濃度が環境基準値を超過という発表もあったり。(化学工場跡地ゆえの因果関係は・・・
尾久の原公園の水辺の案内
尾久の原公園の水辺は工場跡地に生まれた湿性地の保護に重点を置いて多様な生物生育環境の創出を図るのを目的として、公園の整備をしています。(以下略
位置関係
国土地理院航空写真
ファイル:USA-M379-No2-26
1947年07月24日-米軍撮影
上記の航空写真を一部加工
赤星★が「ドーリットル爆撃隊2番機」が投下した爆弾着弾地点。
以上、「東京初空襲の地」であり「日本本土初空襲の地」でもある場所の散策でした。
〆
関連
ドーリットル空襲をきっかけに帝都防空の飛行場として突貫工事が行われたのが、「成増飛行場」
昭和17年4月のドーリットル隊B-25爆撃機による東京初空襲から2年半後となる昭和19年11月のB-29による東京初空襲の目的地は「中島飛行機武蔵製作所」でした。
そして昭和20年3月