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新潟新発田の戦跡散策(歩兵第16聯隊)

平成31年3月撮影、新潟県新発田市

歩兵第16聯隊

明治4年(1871)、新潟に東京鎮台第一分営が置かれ、明治7年に、新発田城内に「白壁兵舎」が落成したのを機に新発田歩兵第16聯隊が編成。

明治21年(1888)、第2師団所属。日露戦争時は新設第13師団所属。宇垣軍縮により13師団廃止後に再び第2師団所属に戻る。太平洋戦争時の通称号は「勇1302」

太平洋戦争では、ジャワ島、ガダルカナル島、フィリピン、中国雲南省、ビルマ方面で勇戦し、終戦をベトナム・サイゴンで迎えている。

白壁兵舎
 白壁兵舎広報史料館

明治7年に陸軍兵舎として建築されたフランス様式と和風城郭様式の和洋折衷小屋組等に見られる歴史的建造物である白壁兵舎を移築復元し、平成26年から「陸上自衛隊新発田駐屯地・白壁兵舎広報史料館」として公開されている。


新潟でちょっとだけ隙間の時間ができた3月の某日。新発田に足を運んでみました。まずは史料館を見学。駅から新発田城までは距離があるのでレンタサイクルでの移動を推奨。

新発田兵舎之跡

陸上自衛隊新発田駐屯地・白壁兵舎広報史料館

見学コースは二階から。

二階の窓からは、新発田城が望めます。

兵舎の建築にあたっては、明治政府が取り入れていたフランス式兵制に基づきつつ、日本の伝統的技術を要する棟梁が建設をおこなったために、和洋折衷方式での小屋組みが特徴。

日本の伝統的な「梁と船肘木と柱」箇所と、斜めに組んだ「フレンチトレス方式」が融合した内部。

白壁兵舎の由緒

移築復元前の姿を写した写真と、歩兵第16聯隊本部兵舎鬼瓦

歩兵第16聯隊旗(複製)

明治大正昭和の歴戦の弾雨で房だけが残る。新潟県護国神社に奉納されたものの複製を展示。

終戦を仏印出迎えた歩兵第16聯隊は奉焼通達に対し、跡形もなく奉焼するのが忍びなく、聯隊長決断で房を切り取り各将校に奉持させ、一欠片でも多くを新発田に持ち帰ることとなり、旗竿部だけを奉焼し、竿部の菊の御紋章はノミで粉砕した。これを方方に捨てるのは畏れ多いとのことで、房の欠片とともに幹部に奉持させた。

新発田兵営配置図

本間雅晴中将

本間雅晴(陸軍中将)は佐渡島出身。大東亜戦争ではフィリピン攻略戦を指揮。昭和21年4月3日、マニラにおける軍事裁判で銃殺刑。享年59歳。

本間雅晴陸軍中将のコーナーがありました。新潟出身。

フィリピンのロスバニョスにある本間雅晴中将の慰霊碑・写真

本間雅晴中将 辞世 直筆
甦る 御國の末を 疑はす 心豊かに 身をも捧けむ

本間雅晴中将の書

「以和為光」 和を以て光と為す

「弾幕能落ちるとこゆえ息をつめ、突撃を待つ兵の無事なり」

「竹と達磨」本間雅晴夫人の富士子氏の掛絵。達磨を本間雅晴中将に見立てているともいう。

本間雅晴中将の勲章やステッキ、将官用指揮刀など。

歩兵第十六聯隊歌

作・本間雅晴

歩16当時は中隊長を勤めていた。

新潟にゆかりある軍人として、山本五十六元帥海軍大将と今村均陸軍大将の書も掲げてあった。

山本五十六は新潟は長岡の出身。

今村均は父親の転勤にとこない新発田中学に転入。太平洋戦争時は新発田歩兵第16聯隊を含む第16軍司令官としてジャワ島攻略戦を指揮。

新発田第16聯隊にまつわる数々の展示コーナー

日清戦争・日露戦争

満州事変・シベリア出兵

ノモンハン事件

支那事変(日中戦争)

大東亜戦争

復元室・軍服など

新発田陸軍病院で使用していた衝立 (県立新発田病院)

二階部分の展示は旧軍を中心としたものでした。

一階部分は自衛隊コーナー

白壁兵舎。床下の様子も見学できます。

白壁兵舎と陸上自衛隊新発田駐屯地、新発田城址。

駐屯地の西側に公園があります。

新発田西公園

歩兵第十六聯隊衛戍地内

かつての・・・

越佐招魂社 戦没者納骨堂

戦後新発田に進駐軍が入った際に園内の慰霊塔・碑の取り壊し撤去を要求されたが、当時の町会議員大竹金吾氏の命がけの努力により免れた。今もなお当時のままの形で保存されている。

新発田聯隊 遺勲の譜

明治の建軍以来、国運を賭す全戦役に参加した越佐健児の栄光の勲を宣揚。

越佐戦没者納骨堂(陸軍墓地)

歩兵第十六聯隊創設以来の御英霊の御遺骨が眠る越佐戦没者納骨堂。1万5千柱の御霊がこの地に眠っている。

忠霊
戦友 今村均謹書

今村均陸軍大将は第16軍司令官として隷下の第16聯隊を率い、ジャワ島(蘭印)攻略戦を指揮。今村均陸軍大将自身も新発田中学校を卒業しており、御英霊とご縁が深い。

ガダルカナル島戦記念碑

ガダルカナル島の石を用いた慰霊碑

ガダルカナル島記念碑
太平洋戦争の命運を賭した激戦の島ガダルカナル。
この碑は旧新発田聯隊が凄惨苛烈飢餓と悪疫の中に郷土と県人の栄光を荷いつつ斗い遂に広安聯隊長以下全滅に等しい悲運に遭遇し身を祖国と民族に捧げた尊い記念であります。
ここに駐日英国大使館を始め内外関係者多数の好意と御協力により伝統ある越佐健児の勇戦敢斗をしのび併せてその冥福と平和への祈願をこめ特にガ島の石にきざみ思い出深い菖蒲城址に建立いたしました。
 昭和37年4月23日 ガダルカナル島戦記念碑建設期成会

日露戦役忠霊塔

歩兵第十六聯隊 軍旗奉焼之碑

平成22年8月建立

ビルマ戦慰霊平和塔

昭和45年8月16日 歩兵第十六聯隊あやめ会 建立

ガダルカナル島で広安寿郎聯隊長以下全滅に等しい犠牲を受けた第十六聯隊は堺吉嗣聯隊長以下の精鋭でもって再編された。

マライ半島から進撃した第16聯隊は雲南にて支那軍と死闘をし、堺聯隊長は負傷。新たに井上晴蔵聯隊長を迎え青葉兵団の主力となった第16聯隊はビルマにて英印軍と戦闘を繰り返し、ビルマの山野に井上聯隊長以下2000余柱の犠牲をだした。

この塔は戦後25年、生還したわれら戦友が自ら集い浄財を出し合って建立したもので仏教の国ビルマの象徴であるパゴダに形どり、これを通じ亡き英霊を故山に迎えその冥福を祈り、長く構成に平和をこいねがわんとするものである。
この真情は、必ずや英霊の照覧するところとなるであろう。
(略)
歩兵第十六聯隊と由緒ふかい菖蒲城址の一角に立つ慰霊平和塔は、幾星霜にわたって盤石に硬く在天の英魂の降鑑し帰依するところならんことを祈る。

合同忠霊塔

シベリア出兵戦没者残骨灰埋葬之地

(西伯利亜出兵戦没者残骨灰埋葬之地)

越佐招魂碑

篆書文字、台湾総督・小松宮彰仁親王のご親筆

明治31年11月23日鋳造

西公園にて慰霊碑をめぐり、この日の散策は終了。

西公園の向かいは、新発田駐屯地。

新発田城

戦国時代の豪族・新発田氏の居城。新発田重家は上杉謙信に属し、上杉軍団の中核として有名を馳せたが、上杉景勝と対立し敗退。そののちに秀吉家臣の溝口秀勝が新発田6万石(のちに10万石)の大名として入封。爾来、新発田藩・溝口氏は一度も国替えなく溝口氏12代の治世が廃藩置県まで続いた。

旧二の丸隅櫓
三階櫓

新発田城に残る明治以前の建築物としては、本丸表門は1732年再建。また旧二の丸隅櫓は1668年の大火以降の再建、いずれも国重要文化財。また天守のかわりとして三階櫓が復元されているが駐屯地内のため内部は非公開。

あわただしく新発田駅に戻り、今回の散策は終了。

次に来ることがあれば、史料館をゆっくりと見学しつつ、城下町新発田を楽しみたいと思う。

神雷桜と桜花~靖國神社の桜

靖國神社に献木された神雷桜から、往時を偲ぶきっかけを…

  • 靖國神社の神雷桜
  • 桜花公園の神雷桜
  • 桜花
  • 靖國櫻(靖国桜)

靖國神社

桜の季節になるとどうしても「桜花」のことに触れたくなります
桜賑わう靖國神社で、桜にまつわる先人たちの物語を。
以下に「神雷桜と桜花」にまつわるあれこれをまとめていきます

感謝と哀悼を…


桜花

この美しき言霊は、時に残酷な言霊でもあり。

海軍神雷部隊「桜花」

母機である一式陸攻の爆弾倉に懸吊された状態でロケット特攻機「桜花」は目標近くまで運ばれ、放たれた桜花は操縦士もろとも目標に向かって突入する。

神雷部隊は特攻専門部隊であった…

神雷桜

かつて神雷部隊の将兵たちは戦死したら「靖國神社の御神門を入って右の二番目の桜の木の下に集まって再会しよう」を合言葉にしていた。

戦後生き残った戦友は、この合言葉を大切にし、そうして桜を奉納した。

奉納された桜は「神雷桜」と名を記されている。 (海軍神雷部隊戦友会)

神雷桜
海軍神雷部隊戦友会

今年もまた桜花の季節がやってくる。
靖國神社の桜は、戦友の想い、遺族の想いが込められし桜。 特別な桜。

 貴様と俺とは 同期の桜

 離れ離れに 散ろうとも

 花の都の 靖国神社

 春の梢に 咲いて会おう

境内の桜を見上げつつ、今年もまた往時を偲ぶよすがを。

「桜花」と共に戦いし神雷部隊。
その名を伝承する神雷桜。

靖國神社 神雷桜

見事な桜花… ありがとうございます


靖國神社みたままつり(平成29年7月13日(木)前夜祭)

夏夜の神雷桜

第71回みたままつり(平成29年7月13日(木)前夜祭の朝)

ついつい神雷桜に目がいってしまう。葉桜の木陰で楽しむ境内。

平成29年5月

新緑の神雷桜

平成29年8月

夏の神雷桜


第七二一海軍航空隊
「神雷部隊」

https://ja.wikipedia.org/wiki/第七二一海軍航空隊

桜花

https://ja.wikipedia.org/wiki/桜花_(航空機)


神ノ池神雷桜・桜花公園

茨城県鹿嶋市光。 2016年撮影。
海軍神之池航空基地の跡地。
神雷部隊「桜花」練成の地。
この地にも戦友会の献木がある。 「神ノ池神雷桜」
いつの日か、この地の桜花が咲くときに訪れてみたい…

献木
神ノ池神雷桜
平成8年3月(1996)
寄贈 海軍神雷部隊戦友会

慰霊と感謝を。 若き海鷲たちに。

神ノ池海軍航空基地を物語る掩体壕。

721航空隊「神雷部隊」として特攻機「櫻花(桜花)」訓練基地が展開。 この神ノ池で訓練をした若者たちが鹿屋に出撃し、そして鹿屋から特攻へと…

神ノ池海軍航空基地を物語る掩体壕。

その上部は自然へと帰りつつ。

掩体壕には復元された櫻花11型が展示してあった。

一式陸攻を母機とし、1200キロの爆弾に推進ロケットを装備した有人ロケット爆弾。敵艦上空で母機より切り離されて高速滑空し特攻…

神ノ池海軍航空基地

昭和19年。筑波海軍航空隊では戦闘機パイロット養成施設が手狭になった為に、神ノ池飛行場に戦闘機練成隊を新設し開隊。 のちに秘匿性の高さから桜花訓練基地となり、当地で訓練をつんだ若者たちが鹿屋から特攻へと飛び立つ事となる…

※ 神ノ池は「ごうのいけ」と読みます。常陸国風土記にも記載される歴史ある池。1969年に埋め立てる前は現在の7倍はあった、という。

神ノ池海軍航空基地は、そのほとんどが工場地域。

現在の航空写真で御覧の有様。 この掩体壕が、今日まで歴史を物語る遺産として残ったことにも感謝。

公園の由来
太平洋戦争末期、この地に海軍航空隊神之池基地が開設され、特攻兵器”櫻花”の訓練が行われました。
鹿島製鉄所では、地元及び櫻花関係者の御意向に沿い、構内に残る神之池基地の掩体壕の周辺を整備し、ゆかりの櫻花碑をここに移し、土地の歴史を記念する公園として開放することとしました。壕内には往時がしのべるよう櫻花の復元機を置きました。
この公園が、先の大戦の記憶が風化する中、平和への思いを新たにするよすがとなれば幸いです。
平成5年12月 住友金属工業株式会社鹿島製鉄所 所長 長谷 登

櫻花公園(桜花公園)

神雷竜巻
櫻花隊員

錬成之地

櫻花

山岡荘八

のちに時代小説作家として大家となる山岡荘八氏は当時、海軍報道班員として神雷部隊櫻花隊員と生活を共にしていた。


櫻花
山岡荘八碑裏

太平洋戦争も一段と熾烈を極めた昭和十九年十月一日、祖国日本の興廃をその一身に背負おうと志願して来た紅顔の若者達は海軍百里原航空隊で、特別攻撃隊櫻花隊を結成同年十一月七日この神之池に訓練基地の設置を見た 。

やがて神之池基地で至難な訓練を受けた若者たちは九州最南端の鹿屋の野里村に移り、鹿屋を特攻基地として祖国の国難に殉じて行ったのである。

云わば神之池は、特別攻撃隊発祥の地として、わが日本国民として忘れてはならない、祖国の存立を護った尊い大和魂の故里である。

撰文 山岡荘八  昭和五十三年三月吉日 

建立者 元櫻花隊員小城久作 妻泰子

櫻花の碑。

前面には山岡荘八氏による建碑由来も記載。碑は元桜花隊員の小城久作氏が昭和53年に私費を投じて建立。

側面には小城氏の献歌もある。

 錬成の
 名残とどめぬ鹿島灘
 いまだただよう
 戦友のおもかげ

櫻花
山岡荘八


散った桜を静かに見送る。

手向け花を。散りし桜花を。

自然と手を合わせ頭を下げる。

ありがとうございました。

また来よう。桜の季節に。 そう感じさせる空間であった。


筑波海軍航空隊記念館

霞ヶ浦海軍航空隊(教育部隊・予科練)

鹿島空(水上機部隊独立)
谷田部空(霞空補助)
土浦空(霞空から予科練を引受)

筑波海軍航空隊(戦闘機)

★神ノ池空★(桜花部隊)
谷田部空(戦闘機)

桜花・筑波海軍航空基地 (茨城県笠間市 筑波海軍航空隊記念館にて。)


神栖中央公園

神栖中央公園。 ここに櫻花(桜花)が展示されてます。 ガラスショーケースの中に原寸大復元の桜花が。 この桜花は映画「サクラ花」の撮影で使われたものであり、2015年に神栖市に寄贈された。

櫻花(桜花)

映画「サクラ花 桜花 最期の特攻」復元機体。


桜花・靖國神社遊就館

靖國神社遊就館の大展示場の片隅に。

復元された「桜花一一型」と「海軍神雷部隊桜花攻撃ジオラマ」が展示してある。

圧巻で胸が詰まる空間。 しばし見上げ見つめ、静かに哀悼と感謝を捧げる空間。

その足跡を。

「靖國神社遊就館」
平成29年3月現在、大ホール展示のみ撮影可

http://yusyukan.yasukuni.jp


【靖國櫻】(靖国桜)

今回は「神雷桜」を例としましたが、境内に無数にある靖國桜にはそれぞれ奉納された人々の物語があります。

これからの桜の季節。

せっかくですので花の都「靖國神社」で桜を愛でながら、ちょっとだけでも感慨にふけっていただければ幸いです…

散る桜 残る桜も 散る桜

想い積もりし靖國櫻

花の都の靖國神社、春の梢に…

献木奉納桜「南会桜」
第六三四海軍航空隊呉瑞雲隊有志一同

第六三四海軍航空隊は航空戦艦で運用する水上機(瑞雲)艦上機部隊(彗星)部隊として整備。しかし連携する機会なく水上機基地航空隊として終戦まで運用。 第九三四海軍航空隊も水上機部隊。消耗により昭和19年10月解隊 。


靖國神社招魂斎庭跡。

その片隅に咲く緋桜。靖國桜。

空挺櫻

「花の都の靖國神社 庭の梢で咲いて会おう」

平成元年4月8日 陸軍落下傘部隊戦友一同

空挺櫻 (靖國神社招魂斎庭跡)
 散る桜 残る桜も 散る桜

陸軍落下傘部隊の歌 「空の神兵」
 藍より蒼き 大空に大空に
 たちまち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く

見上げていたらグッとくるものが… ありがとうございます…

「新潟空襲で孤軍奮闘した船」軍用船宇品丸慰霊塔

平成30年12月撮影・新潟市

軍用船宇品丸慰霊塔(新潟市中央区)

初の日本陸軍保有軍用輸送船「宇品丸」
陸軍運輸部・船舶部隊の拠点が置かれた宇品の名を冠した船。
この船は、新潟空襲に際して、米軍機をひきつけ弾薬を浪費させたことにより、新潟を護った軍用船であった。

昭和20年8月10日「新潟空襲」
新潟港に襲来する米軍機に対し唯一応戦した宇品丸は米軍機1機を撃墜。
宇品丸の船員3人、兵員16人が戦死している。

軍用船宇品丸慰霊塔

宇品丸慰霊塔建立の趣意書
大東亜戦争の終戦間近い昭和20年8月10日米軍の戦斗機(グラマン)数機により新潟港湾附近の空襲を受けた際、偶々同港山田町側に停泊中の軍用船宇品丸の兵士は敢然としてこれを迎撃奮戦した為に米軍機も攻撃目標を宇品丸に集中して弾丸のほとんど全部を撃ち尽して逃走した。
その為港湾施設及び市街は最小限度の被害で済んだが宇品丸の乗員はほとんど玉砕した。 昭和29年地元山田町外有志相図り新潟市の救神となった宇品丸勇士の英霊を慰めようと慰霊塔建立の議あり。
茲に当時の市長村田三郎氏の筆を得てささやか乍ら建立を実現し以来毎年町内会にて慰霊祭を執り行ない英霊に感謝の意を表している次第である。

嗚呼悲壮
 宇品の勇士花と散り
その名も数も無きあとの  
 霊なぐさむと伏し拝む

歌碑  
 ああ悲壮 
世界平和を   
  夢に抱き  
 玉砕しけり 
宇品の勇士

歌碑裏

大東亜戦争の終戦間近い昭和20年8月10日新潟港湾付近の空襲を受けた際、山田町側に停泊中の軍用船宇品丸の勇士は国土防衛に敢然として迎撃奮戦し乗員はほとんど玉砕した
その慰霊50年忌に当たり、永遠の世界平和とミタマの安らかなるご冥福を祈念しここに之れを建立する
 平成6年8月吉日 (以下個人名は略)


宇品丸 (陸軍輸送船)

日本陸軍運輸部保有の輸送船。
米国にて1919年(大正8年)竣工、総トン数は2214トンの小型貨物船。

1929年、陸軍省は当時「宗安丸」として民間就航していた当船を購入し「宇品丸」と命名。 陸軍省運輸部の拠点にして陸軍船舶部門の中心が宇品であった。
宇品丸は陸軍所有の初の輸送船として、そして陸軍運輸部の顔として宇品を拠点に訓練に従事。
海軍とも協力し、模擬上陸船訓練なども実施され、また軍需輸送にも使用された。

1941年の大東亜戦争開戦後は主として瀬戸内海を拠点に輸送や訓練に活躍。

昭和20年、宇品丸は日本海での食糧輸送に就く。7月6日、新潟沖で米軍敷設の機雷に接触し浸水、沈没防止の為に信濃川河口で擱座。
8月10日、新潟市はF6F戦闘機16機の空襲を受ける。
宇品丸は高射砲・機銃あわせて6門で応戦し米軍機1機を撃墜するも被弾炎上。150人の乗員のうち船員3人兵員16人が戦死。

昭和21年5月、戦後も放置されていた宇品丸のサルベージが開始。浮揚に成功し舞鶴港に曳航され修理。

昭和25年のポツダム命令によって宇品丸は朝鮮郵船に払い下げられ、1958年には室町海運に譲渡、1966年までは持ち船として船名が確認できていた。


宇品丸慰霊塔 「宇品丸」が座礁していた場所に近い山田町町内会をはじめとする有志らが、8月10日の交戦により死亡した兵士・船員の霊を慰めるため、昭和29(1954)年、に「軍用船宇品丸慰霊塔」を建立。
慰霊祭は8月10日。
平成8(1996)年からは地元有志が興源寺で慰霊祭を続けている。

近くの「「入船みなとタワー」からみた信濃川河口と日本海。 宇品丸は信濃川河口に擱座していた。
ちょうど対岸には「あざれあ」(新日本海フェリー)も停泊。

先日、新潟にを訪れる機会がありましたので、ちょっとだけ足を伸ばして「宇品丸慰霊塔」に参拝した記録でした。


2023年10月追記

周辺が工事中でした。工事は2024年3月まで。

平和祈念碑

宇品丸の碑の近く、水戸教公園に、新潟市の平和祈念碑がある。

https://www.city.niigata.lg.jp/kurashi/danjo/jinken/heiwakatsudo/heiwa_kinenhi.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/nigata_nigata_001/index.html

新潟市においては、第二次世界大戦末期の昭和二十年新潟港を中心として、艦載機による銃爆撃や触雷により連絡船「鉄工丸」、軍用船「宇品丸」、佐渡連絡船「おけさ丸」などの多数の船舶や工場民家などに大きな被害を受け勤労動員の生徒をはじめ、工員・乗客・船員など多くの尊い生命や貴重な財産が失われました。
さらに、新潟市出身の軍人軍属並びに市民の多くがひたすら祖国の安泰と家族の幸せを念じつつ戦争の犠牲となり尊い命を亡くされました。
また当時、市内の捕虜収容所に収容されあるいは強制連行されて来ていた外国の人々の多くも異国である新潟の地で亡くなっております。
あれから五十年余りが経過し、新潟市は今市民のたゆみない熱意と粘り強さによって中核市として目覚ましい発展を続けております。
しかし、私たちは、今日の発展が多くの尊い犠牲の上に築かれていることを忘れず戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に語り継いでいかなければなりません。
市域で最も激しい戦禍にあった新潟港を望む水戸教公園の丘に、平和の祈念碑を建立し戦争の犠牲となられた方々のご冥福をお祈りするとともに世界の恒久平和を願うものであります。
 平成十年八月十日
  新潟市長 長谷川 義明

場所

https://maps.app.goo.gl/JCmY6BmzcqbTVznD6


関連記事

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shinetsu_01.html

https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_10.html

https://www.sankei.com/article/20150811-HSYDYZKHOBNG3AODPVQBKR3BW4/

陸軍護衛空母「山汐丸の錨」(横浜)

2018年11月及び2023年12月撮影・横浜市


山汐丸の錨

「山汐丸(陸軍護衛空母)」
横浜みなとみらい地区の片隅に赤さびた大きな錨が展示してある。

昭和19年に三菱重工業横浜船渠で2TL型タンカー5番船として起工された山汐丸は、昭和20年1月27日に竣工。
形式上は民間船であったが陸軍指揮下で船団護衛艦兼用輸送船として運用予定であった。

しかし既に南方航路も閉ざされており就役を待たずに石炭炊き貨物船(既にタンカー輸送船として運用出来ない為)に改造が決まる。

三菱重工横浜船渠において係留待機中、昭和20年2月の空襲で大破着底し終戦。
戦後の解体中に沈没。
そのまま擱座状態で埋められ「山汐岸壁」へと。

由来の看板がある。

造船所と横浜を記憶する「イカリ」
  このイカリは「みなとみらいセンタービル」工事中に発掘されたものでビル建設の一環として事業主様により設置・展示されました。
この敷地には、一八九一(明治二十四)年に創業した横浜船渠株式会社がありました。その後、三菱重工業株式会社横浜造船所となり、約一千隻の船を建造しましたが、一九八三(昭和五十八)年に移転し、この地は「みなとみらい」となりました。
 イカリの主は陸軍航空母艦「山汐丸」(一五、八六四総トン)です。「山汐丸」は一九四五(昭和二十)年に建造され、油の輸送と船団護衛のため、飛行機を搭載していました。
二〇一一(平成二十三)年 三月
 三菱重工業株式会社
 原動機事業本部横浜製作所
  第二十八代所長 加藤敏彦

イカリ

明治24年以来、山汐丸をはじめ約1000隻の船を建造してきた三菱重工業株式会社横浜造船所は、昭和58年に移転し再開発「みなとみらい」と生まれ変わる。
平成23年(2008)に、みなとみらいセンタービルの建設工事の際、「山汐丸の錨」が発見され同ビルの脇の広場に展示。

昭和12年(1937)に帝国海軍が採用したホールズ型イカリだという。

場所

https://maps.app.goo.gl/4bVnCrMxFyxxAGLK9


Wikipedia「山汐丸」より https://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b1%b1%e6%b1%90%e4%b8%b8 …

山汐丸

特2TL型戦時標準船(2TL型油槽船5番船)
船団護衛空母兼用タンカー輸送船
三菱重工業横浜船渠
竣工1945年1月27日
排水量15,864t
全長148.0m
全幅20.4m
最大速力15kt
昭和20年(1945)2月17日、飛行甲板大破し浸水着底

山汐丸は大洋に漕ぎ出すこともなく竣工から沈没までを三菱重工業横浜船渠(三菱重工業横浜造船所)の地で過ごした。

埋められた錨は、みなとみらい再開発でよみがえり、今は三菱重工業横浜造船所の跡地にそびえ立つ「三菱重工横浜ビル」の方向を見つつ静かに鎮座している…


関連

「三菱重工横浜ビル」

「横浜船渠」と「みなとみらい」

https://senseki-kikou.net/?p=6468