旧横浜船渠ドックと帆船日本丸

令和元年11月撮影

パシフィコ横浜での展示会に出展参加するために、この界隈に足を運ばざるを得なかった、とある日に。せっかくなので周辺を散策。
ただし早朝なので、日本丸や横浜みなと博物館などを見学する余裕はありませんでした。


帆船日本丸

国重要文化財
初代日本丸は川崎造船所(神戸)にて進水し昭和5年(1930)竣工、昭和59年(1984)引退後に現在地にて保存。
航海練習船として活躍。「太平洋の白鳥」「海の貴婦人」と呼称。

太平洋戦争中の昭和18年(1943)には帆装が外されてディーゼル機関での輸送任務などに従事。戦後は復員船としても活躍。

日本丸について
 昭和2年練習帆船霧島丸999総トンが千葉県銚子沖で暴風のため沈没、乗務員及び学生全員が船と運命を共にしました。この惨事を切っ掛けに昭和3年の国の予算において、大型練習帆船2隻の建造費182万円、1隻あたり91万円が認められました。当時我が国の一般会計予算は、軍事費、国債費をのぞくと8億7千万円程度にすぎず、2隻の建造費のしめる割合は2/1000に及ぶ巨額でした。建造は神戸の川崎造船所が当たりました。
 昭和5年、田中隆三文部大臣は日本の海の王者にふさわしい船にしたいとの期待から1月27日に進水した第1号船を「日本丸」、2月14日に進水した第二船を「海王丸」と命名しました。 日本丸は昭和5年3月31日竣工し、同年横浜からカロリン諸島のポナペ島へ初遠洋航海に出帆しました。 昭和18年には第二次世界大戦激化のため残念ながら帆装を撤去し、戦争中の緊急物資輸送や戦後の引揚者25,423人の輸送などにも従事しました。 その後昭和27年に帆装を復旧し、現在の姿に戻ることができました。 建造以来昭和59年9月16日の退役までの半世紀余のあいだに地球45.5周に相当する約183万キロメートルを航海し、約11,500人の海の男を育てました。また、主機関ディーゼルエンジンの稼働年数54年半は舶用機関として現在最長記録です。 退役後の誘致運動は全国10都市に及び、その中で保存、公開、活用の計画に優れていた横浜市に払い下げが決まり、公開のための整備をした後、昭和60年4月28日より、ここで公開されています。

帆船日本丸のメインマスト

帆船日本丸のメインマスト用トップ・ゲルンマスト
日本丸の4本のマストの下から約5分の3は鋼製ですが、残りの上部約5分の2はトップ・ゲルンマストといい、檜材が使われています。
このトップ・ゲルンマストは、日本丸のメインマストで使用されていたものです。1952(昭和27)年の帆装復帰工事の時、三重県北牟婁郡長島町産の樹齢約200年と推定される檜の一本材を自然乾燥後、加工して取り付けられました。以来、約40年間使用されてきましたが、根元部分の腐食がはげしくなったため、1990(平成2年)11月から翌年3月にかけて行われた定期検査工事で、吉野産檜のマスト材に取り替えました。
 ※展示にあたり、腐食防止のためマスト表面はプラスチック加工しました。

帆船日本丸のスクリュー・プロペラ

帆船日本丸のスクリュー・プロペラ
帆船日本丸はディーゼル主機関を右舷と左舷に備えています。このプロペラは左舷機用の予備プロペラです。回転方向は右舷・左舷、互いに外回りで前進力を出します。


横浜船渠株式会社

イギリス人技師・パーマーのアドバイスを受けて、渋沢栄一と横浜財界人らによって「横浜船渠」が明治22年(1889)に設立され、3基のドック(うち2基は遺構保存)が建設された。

横浜船渠では日本郵船「氷川丸」や「秩父丸(のちの鎌倉丸)」を建造、また海軍艦艇の建造にも携わっている。
昭和10年(1935)に三菱重工業と合併し、「三菱重工業横浜船渠」と呼称。昭和18年(1943)には「三菱重工業横浜造船所」と名称変更し、横浜船渠の名称は消失。造船所は昭和58年(1983)に本牧・金沢地区に移転し閉鎖。再開発が行われた。

横浜船渠第5号船台では「空母・龍驤」「軽巡洋艦・那珂」「氷川丸・秩父丸」などを建造。「龍驤」は進水までは横浜船渠で行い、空母艤装工事は横須賀海軍工廠で実施。

横浜船渠で建造された主な艦船
日本郵船
 氷川丸・日枝丸
 秩父丸(鎌倉丸)
大日本帝国海軍
 軽巡洋艦 那珂
 練習巡洋艦 香取・鹿島・香椎
 航空母艦 龍驤(船体まで)・山汐丸
 駆逐艦 白雪(吹雪型)
など

平成30年11月撮影・横浜市 山汐丸(陸軍護衛空母) 【山汐丸の錨】(陸軍護衛空母) 横浜みなとみらい地区の片隅に赤さび...

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1944年10月14日-陸軍撮影
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横浜船渠会社と横浜市
 横浜は開港から明治期にかけて、生糸、茶、船来品などを取り扱う外国貿易により発展しました。明治5(1872)年には日本初の鉄道開業により内陸への貨客輸送が増大すると、これを契機に横浜における外国貿易はさらに活発となり、横浜港はますます重要な港となりました。出入りする船舶は界面を埋めるほどに増加し、船舶を修理するドックが必要とされるようになりました。そこで地元横浜正金銀行頭取の原六郎をはじめ、原善三郎、茂木惣兵衛、大谷嘉兵衛や浅野総一郎、東京の渋沢栄一、益田孝ら名士33名が協力して横浜船渠(せんきょ)会社(後の三菱重工業横浜造船所)を設立、本格的なドックを築造し、明治29(1896)年より船舶修理業が開始されました。明治後期には潮入りドック(明治41(1908)年完成)、第三号ドック(明治43(1910)年完成の増設により、横浜船渠会社は高い修理能力をもつ大工場へと発展しました。
 横浜船渠会社の設立が神奈川県から認可されたのは明治24(1891)年ですが、その2年前の明治22(1889)年、市制施行により横浜市が誕生しました。横浜船渠会社は横浜の発展を支えた地元実業家が設立に大きく関わったこともあり、横浜市と横浜船渠会社は発展を共にした兄弟のような関係とも言われています。それは横浜市の徽章「ハマーマーク」にドックの「D」を加えた、通称「ハマディー」と呼ばれる社章を横浜船渠会社が使用したことにも象徴されています。横浜船渠会社は横浜の金d内工業を支えるとともに、「ハマのドック」の愛称でその後長きにわたって横浜市民に親しまれる存在となっていきました。

旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)
「日本丸メモリアルパーク」

国指定重要文化財。
横浜船渠、のちの三菱重工業横浜造船所。
明治31年12月竣工、昭和58年(1983)までドックとして活用。
現在は「日本丸」係留保存ドックとして横浜市が保存管理を行っている。

国指定重要文化財
旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)

 第一号ドックは、隣接する第二号ドック(現在ドックヤードガーデン)と同様、安政6年(1859)の横浜開港以来進められていた港湾施設の拡充整備に伴い、横浜船渠株式会社が船の修繕用に建設したものです。
 横浜港修築第一期工事を構想した英国人技師H.S.パーマーが、明治22年(1889)に作成した計画案に基づき、海軍技師恒川柳作が設計し、明治31年12月に竣工しました、建設当初は総長約168mでしたが、横浜港に入港する船舶の大型化に伴い、大正6年(1917)5月から7年8月にかけてドックの渠頭部を内陸方向に延長し、総長204mとなりました。横浜船渠株式会社は、昭和10年(1935)三菱重工業株式会社と合併し、三菱重工業横浜船渠(後、同横浜造船所)となりました。昭和58年(1983)同横浜造船所移転に伴い、第一号ドック及びその周囲地は横浜市の所有となり、昭和60年からは日本丸メモリアルパーク内で帆船日本丸を係留するドックとして保存活用されています。
 この旧横浜船渠株式会社第一号ドックは、建設当時、最大規模を有した明治期の代表的乾船渠(ドライドック)の一つで、大正期に築造された躯体延長部分も土木技術の時代的特徴をよく示し、ドライドック築造技術を知るうえで価値が高く、また、官民の強調により実現した横浜港修築第一期工事の最後を飾る土木構造物で、近代横浜の都市形成史上も重要です。

ドッグゲート(扉船)

ドックゲート(扉船)について
このゲートは、ドック開設以来使われてきた先代に代わって、昭和32年に造られたものを日本丸保存のために昭和59年9月に改修したものです。
また、構造的には船と同じ形態をとっていて日本丸を出し入れするときは扉船内の水を排出して浮上させ移動できるようにつくられています。
さらに、修理の難しさや潮汐の影響を考えて鉄板を厚くしたり、左右対称にし両面を使えるように工夫しています。

旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)
「ドックヤードガーデン」

横浜ランドマークタワーに隣接する。
明治30年(1897)竣工。「日本に現存する最古の旧商用船用石造ドック」として国の重要文化財に指定される。

横浜船渠株式会社
ドック用排水ポンプ・カバー

横浜船渠株式会社
第一号・第二号ドック用排水ポンプ・カバー

1896年 アレン社製(イギリス)

横浜船渠株式会社が第一号と第二号の2基のドック内の水を排水するために、創業期(1899年開業)にイギリスから購入しました。修理を重ねながら約85年にわたってドックの排水機能を担ってきました。当初は蒸気機関で運転されました。そのためポンプと一緒にボイラー(蒸気を発生させる装置)も導入し、その購入金額は37,114円29銭でした。ポンプは第一号ドッグと第二号ドッグの間の海寄り(渠口部)に造られた地下ポンプ室に2基設置されていました。横浜船渠株式会社の修繕部門を象徴する設備です。第一号ドックの付属として、2000(平成12)年12月4日国の重要文化財に指定されました。
 三菱重工業株式会社横浜製作所 寄贈

横浜船渠株式会社
エアー・コンプレッサー

横浜船渠株式会社
エアー・コンプレッサー

1918年 ニューマチック・ツール社(アメリカ)製
このエアー・コンプレッサー(空気圧縮機)は、横浜船渠(後の三菱重工業(株)横浜造船所)が造船事業に進出する際にアメリカから購入したものです。造船所構内のほぼ中央にあった動力室に4基設置され、1983(昭和58)年に造船所がここから移転するまでの約65年間使われました。リベット・ハンマーをはじめ、所内各工場のさまざまな機械の動力となる圧縮空気をこのコンプレッサーから送りました。横浜船渠の造船部門を象徴する設備として保存・展示します。
 三菱重工業株式会社横浜製作所 寄贈


横浜みなと博物館

輪投げ
1953-60(昭和28-35)年
シアトル航路貨客船氷川丸で使われていた。戦前から客船で行われていたデッキ上の遊具のひとつ

原油タンカー麻里布丸の舵輪
1959(昭和34)年
麻里布丸は1959(昭和34)年建造の原油タンカー(載荷重量48,657トン)。1979(昭和54)年、船体は本牧ふ頭D突堤の護岸建設に使われた。この舵輪は護岸工事完成記念として、施工した三菱重工業横浜造船所から横浜市に寄贈された。

ドイツ・ハンブルク港

この錨は、姉妹港提携10周年を記念してドイツ・ハンブルク港から贈られました。およそ100年前まで実際に使われていました。
 2003年3月

カナダ・バンクーバー港

 このトーテムポールは、カナダ・バンクーバー港から横浜港との姉妹港10周年を記念し両港の友好の印として寄贈されたものです。
 製作者はバンクーバー島に住むコーストサリッシュ族の彫刻家フランシス・ホーン氏で、カナダインディアンの神話にもとづき、上からフクロウ、熊、カエルが彫り込まれています。
 平成3年4月22日

中国・大連港

天女散花
この石像は、横浜港と大連港の友好港提携5周年を記念して、大連港より寄贈されたものです。
 1995年9月

中国・上海港

上海港-横浜港
友好港5周年紀念
 1988年9月

上海・横浜友好港10周年記念
1983-1993
上海港務局贈

港一号橋梁

港一号橋梁は明治40年(1907)製という。

汽車道から先は、また今度。

この日は、これで時間切れ。
赤レンガ地区などはまた別に機会に。