小石川後楽園周辺の戦跡散策

平成30年8月

小石川後楽園散策 (飯田橋駅~水道橋駅~後楽園駅周辺)

東京ドームと小石川後楽園。
戦前、この場所には陸軍兵器工場(東京砲兵工廠)があった。
今でも残るその名残を見に行ってみました。 (平成30年8月25日)

位置関係

往時の地図と航空写真を
「今昔マップ on the web」
http://ktgis.net/kjmapw/index.html
(東京西部及び首都1/25000 昭和4年二修及び昭和5年測図)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
(B29-C1-16/昭和11年6月11日陸軍撮影)

水道橋駅から東京ドーム方面に向けて歩く。東京ドームホテルと東京ドームプリズムホールの間の東西通路におもむろに「煉瓦の塊」が展示してある。

旧日本帝国陸軍東京砲兵工廠跡の基礎用レンガ

明治4年(1871年)に建設された旧日本帝国陸軍東京砲兵工廟跡の基礎用レンガ。
昭和12年(1937年)、旧後楽園球場建設の際は、基礎のあまりの強固さにグランド部分は取り除くのを見合わせていたが、平成12年(2000年)竣工の東京ドームホテル建設を進めるにあたり、地下5mの深さより出土、採取。
現在地は旧後楽園球場のセンター位置に当たる。

東京砲兵工廠は小石川水戸藩邸の地に1871年(明4)に操業し関東大震災の影響もあり1935年(昭10)に小倉工廠に移転。東京砲兵工廠傘下には板橋火薬製造所・岩鼻火薬製造所・十条兵器製造所など関東の陸軍兵器工場が所属。工廠跡地は後楽園球場などが展開。
地図は昭和22年及び昭和16年。球場がみえますね。

1936年(昭和11年)12月、後楽園スタヂアムが設立。
昭和12年、後楽園球場完成。大和軍(昭和12年から19年までの7年間活動したプロ野球球団、後楽園イーグルス)

東京砲兵工廠は東京大震災で被災し移転。その跡地は球場と遊園地へと。 そして、のちほど巡る小石川後楽園はそんな中でも変わらずに。

東京砲兵工廠から後楽園球場、そして現在の東京ドームの片隅にも戦争の歴史を刻む碑があります。散華されたプロ野球選手たちの鎮魂

鎮魂の碑

第二次世界大戦に出陣し、プロ野球の未来に永遠の夢を託しつつ、戦塵に散華した選手諸君の霊を慰めるためわれら有志あいはかりてこれを建つ
昭和56年4月

都立小石川後楽園(特別史跡・特別名勝)

寛永6年(1629)に設けられた水戸徳川家(徳川頼房)屋敷。庭園は二代目水戸光圀によって完成した回遊式筑山泉水庭園。
明治2年(1869)水戸家が新政府に土地を奉還し東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となる。大正12年、国の史跡および名勝に指定。

都立小石川後楽園
水戸徳川家の回遊式庭園の中に、解説する案内は特にないけども、ぽつりぽつりと異なるものが残っており。そんな東京砲兵工廠時代の遺物を入園料300円払って見に行ってみましょう。
因みに石垣は江戸城外堀石垣を再利用したものという。備中成羽藩山崎家刻印。

都立小石川後楽園
現在は閉鎖されている東門の近く。奥まった内庭池の辺りに記念碑が鎮座。

陸軍造兵廠東京工廠跡 記念碑

昭和十年三月建立 昭和10年に東京工廠の機能が小倉工廠へと移転した際に、記念として建立された碑。 碑文 此ノ地ハ陸軍造兵廠東京工廠ノ旧蹟ナリ 其ノ創立ノ起源ハ 云々…

「陸軍造兵廠東京工廠跡 記念碑」
昭和十年三月建立
(都立小石川後楽園)

記念碑は、陸軍造兵廠東京工廠(東京砲兵工廠)の敷地を型どっている。
昭和10年に建立された記念碑としては、意匠的にも斬新なデザイン。

園内の九八屋の隣に、格別な説明もなく、 陸軍造兵廠東京工廠で使用されいた小銃用弾丸製造機の部品とされるものが置かれている。

陸軍造兵廠東京工廠で使用されていた小銃用弾丸製造機の部品?
園内の「九八屋」の隣。建屋と比べると結構大きいのがわかる。

小石川後楽園的には主である九八屋(酒亭)の由来は「酒を飲むには昼は九分、夜は八分にすべし」との教訓によるものだとか。

小石川後楽園から移動して後楽園駅に。
駅の北側には「礫川公園」(れきせんこうえん)

礫川公園

このあたりは春日局馴染みの土地ですが、戦前は軍用地。
戦後に、都営住宅・中央大学・戦没者慰霊堂・公園用地などに分割され、昭和39年に礫川公園が造園。
順を追って礫川公園と東京都戦没者霊苑に参ります…

礫川公園の奥に東京都戦没者霊苑がある。

東京都戦没者霊苑

この霊苑は、さきの大戦において、尊い犠牲となられた東京都の戦没者をおなぐさめするとともに、平和を願う都民の強い決意を表わすため、建てられたものです。

「東京都戦没者霊苑」
 東京都戦没者霊苑は昭和六年の満州事変から日中戦争を経て、昭和二十年(一九四五年)八月の太平洋戦争終結までの東京都関係戦没者約十六万人の霊をまつる。
 敷地は、昭和十五年に忠霊塔建設予定地に選ばれた小石川陸軍工科学校跡地である。
 昭和三十五年、ここに東京都戦没者霊苑が建設されたが、それは歳月の中に老朽した。また、年々齢を加える遺族が、安全に慰霊祭に参加するための配慮も必要となった。
 そこで戦没者の慰霊と平和への願いを新たに、このたび全面改修を行い昭和六十三年(一九八八年)三月に完成した。
 設計は、建築家相田武文、碑文は、芸術院会員、文化勲章受章者山本健吉、碑名の揮毫は東京都知事鈴木俊一による。
 私たち都民はこの霊苑につどい、霊前にぬかずき、改めて戦争とは何であったかを深く考えたい。
 戦没者の御霊にお願い申し上げる。
 お声を風に託して、戦争の実態を私たちに語り聞かせていただきたい。 そして私たちが強い意志と英知をもって、平和を守るという至上の命題にとり組めるよう、お導きいただきたい。
 霊苑が戦没者の御霊と私たちの心の通い路になることを願って、ここに謹んでその由来を記す。
 角田房子
 ※ 角田房子氏は近現代史をテーマとした題材を多く発表されたノンフィクション作家

東京都戦没者霊苑
鎮魂

碑文
あの苦しい戦いのあと、四十有余年、私たちは身近かに一発の銃声を聞かず、過して来ました。あの日々のことはあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく谺して来ます。
だが、忘れることができましょうか。かつて東京都の同朋たちの十六萬にも及ぶ人々が、陸に海に空に散華されたことを。 あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今日の「生」もないことを。
そして後から生れて来る者たちの「いのち」のさきわいのために、私たちは何時までもあなた方の前に祈り続けることでしょう。 この奥津城どころは、私たちのこの祈りと誓いの場です。同時に、すべての都民の心の憩いの苑でもありましょう。
この慰霊、招魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、茲にこれが辞を作る。
山本健吉

靖国神社とも千鳥ヶ淵戦没者墓苑とも東京都慰霊堂とも違う慰霊の空間。
真摯に真心を込めて、鎮魂の祈りを捧げてきました。

東京都戦没者霊苑には遺品展示室なども併設されております。

http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/seikatsu/senso/reien.html

東京都戦没者霊苑はもともと陸軍砲兵工廠・諸工伝習所敷地の地でした。
正面、向かって左側の突き当りに記念碑があります。

陸軍砲兵工科学校・工科学校跡
諸工伝習所跡記念碑

碑文
ここは近代陸軍技術教育発祥の地である。
明治五年七月十五日 政府は佛国砲兵大尉ジョルジュ・ルボン氏を招聘し ここに諸工伝習所を創立してから第二次世界大戦終結まで その名は陸軍砲兵工科学校陸軍工科学校陸軍兵器学校とかかわったが 七十三年間たゆることなく陸軍技術の教育が続けられた。 本年は諸工伝習所創立百周年にあたるのでその教育を受けた有志がここに碑を建てて先達の歩みに思いをいたすものである。
昭和四十七年七月十五日
諸工伝習所跡記念碑建設委員会

礫川公園
脇に目をやると・・・煉瓦壁が。
問題はそこにどうやって赴くのか。 自力ではよくわからなかったので、検索してみたら、あぁっ、そこのあぜ道を歩くのね。 ちょっと行ってみましょう。

東京砲兵工廠射撃場跡 (礫川公園)

この東京砲兵工廠(陸軍造兵廠東京工廠)トンネル射撃場は明治16年~18年頃に完成と推定。主に軍用銃などの試射用の場所として使用されたらしく。 現在は人知れずひっそりと深き森の中に。訪れる人は好き者だけのようで。

以上、小石川後楽園周辺の戦跡散策でした〆

京都伏見の戦跡散策

平成30年8月

京都府伏見区深草の陸軍第16師団関連の戦跡(戦争史跡)散策

関西方面に行く用事がありまして。
隙間の時間で京都府伏見区深草エリアに残る陸軍第16師団名残の遺構を探しつつ散策してみましたので以下に展開してみます。

位置関係

国土地理院・地図・空中写真閲覧サービス

番号:USA-M205-A-8-30(1946年07月24日・米軍撮影)をベースに、GoogleMapで現在の位置関係を把握しつつ。
今回の散策は師団街道より東側を。 西側は時間的余裕がなくて断念しました。

まずは深草駅を目指します。
このエリアは一つ手前の駅(伏見稲荷駅)までしか利用したことなく、散策も伏見稲荷大社方面しかなく。
京都方面で戦跡を探すに当たり、単純に「京都 戦跡」のキーワードで検索すると「鳥羽伏見の戦い」だったりして、なかなかに京都は戦跡の歴史も奥深く…

京阪本線・深草駅
東に向かえば伏見稲荷大社・稲荷山南部。そして京都市深草墓園がある。深草墓園は、かつての「陸軍墓地」。しかし今回は時間がないので東ではなく西に。

交差点の先には「京都府警察学校」
かつては「陸軍兵器支廠(京都兵器支廠)」第16師団の武器庫。
もちろん入れないので遠望で。

次の交差点まで南下します。

南北の道が「師団街道」
東西の道が「第一軍道」
交差点名は「師団街道龍大前」

歴史を知らないと軍靴の音で発狂しそうな交差点。
ここから東にすすみ琵琶湖疏水を南下。

龍谷大もかつての「陸軍兵器支廠」跡地。

琵琶湖疏水

伏見深草のこのあたりには歴史的な趣ある石橋(大正12年9月造営)が多く残ってます。 これはゆっくり散策すると楽しそうです。 (この日は暑くて散策に不向きな陽気でしたが・・・

第二軍道・師団橋

東西に伸びる「第二軍道」
琵琶湖疏水にかかる橋が「師団橋」

橋はリニューアルされていても現在でも往時の名が継承されている。 そして橋桁には「陸軍のシンボル五芒星」が残っていた。

傍らに欠けた石碑が残っていた。
「○月竣工 第十六大隊架設」

この第二軍道の道脇には往時の支柱が点在しており、きょろきょろするとなかなか先に進めなくなってしまう。

陸軍第16師団司令部庁舎跡
(現・学校法人聖母女学院本館)

第二軍道を東に進むと「聖母女学院」に辿り着く。
藤森キャンパスは戦後に払い下げを受け、学院本館は司令部庁舎を継承している。

建物内部は非公開
「敷地外(門の外)からなら撮ってもいいよ」
守衛さんの許可を得て、建物を敷地外より撮影

陸軍第16師団司令部庁舎跡 (現・学校法人聖母女学院本館)
すぐわきに、ありました。

陸軍境界標石

陸軍第16師団

日露戦争に際して本土残留師団がいなくなってしまったために新設。明治38年(1905)7月18日に京都で編成。 昭和10年6月の鴨川水害では京都府の救援依頼を受け救助活動や復旧活動に従事。 太平洋戦争ではフィリピン攻略に参戦。昭和19年にはレイテ島守備に徹し、そして第16師団は壊滅。


そのまま南下して藤森駅近くに埋もれた「紀元・・・」なものをみたり、京都市立深草小学校の手前にも「紀元二千六百記念」をみたり。

深草小学校の東側には騎兵第20聯隊が展開されていました。 行ってみましょう。

騎兵第二十聯隊跡 

峰堂 謹書
為平和祈願
昭和50年4月27日

騎兵二十連合会建立 深草小学校の東側に位置する住宅街の片隅に。
敷地内には騎兵とともにある軍馬の「馬繋柱」も残されていました。

碑面裏

明治三十八年七月第十六師団ノ騎兵聯隊トシテ姫路ニ於テ編成 同年八月軍旗拜受
明治四十一年十一月此地ニ移設 昭和十六年捜索第十六聯隊ニ改編 同年三月軍旗奉還
昭和二十年比島ニ於テ歴史ヲ閉ヅ
尚 当聯隊ニ於テ編成サレタ部隊ハ左ノ通リ
昭和十三年 騎兵第百二十大隊(中支方面)
昭和十六年 捜索第五十三聯隊(ビルマ方面)

昭和五十年四月二十七日 騎兵二十連会建之

騎兵第二十聯隊跡地より商店街(本町通り商店街)に戻り、すこし歩くと、一瞬目を疑う看板が見えてくる。

軍人湯

あぁ、これは絶対に寄り道したくなるやつです。
当時は16師団の軍人たちの憩いの湯だったことでしょう。
(残念ながら、この日は時間がなくて汗を流しに立ち寄れませんでしたが)

https://www.sankei.com/west/news/140815/wst1408150013-n1.html

騎兵第20聯隊の南には陸軍病院(陸軍衛戍病院)があった。

陸軍病院(陸軍衛戍病院)

かつての「京都陸軍病院」 現在は、独立行政法人 国立病院機構 京都医療センター となっている地。 行ってみましょう。

京都医療センターの南側の奥に。
「京都陸軍病院跡碑」
「行啓記念碑」
「大日天白如来」
3つの歴史的な記念物が集められている一角がある。

しかし不穏な張り紙が。
「駐車場整備のために石碑を撤去?」
噂では撤去ではなく移設とも。ただ移設先に苦慮しているとも。 この先どうなるのでしょうか…

京都陸軍病院趾

京都陸軍病院記念碑

由来

 京都陸軍病院ハ明治四十年六月衛戍病院トシテ此ノ地ニ開設セラレ
 ソノ後継続シテ傷病将兵ノ収容治療並ニ衛生部員ノ教育養成ヲ担ッテイタカ昭和二十年十二月国立京都病院ニ継承サレタ
 京都陸軍病院ニ関連シタ者テ組織スル京病会ハ創立二十周年記念事業トシテ其ノ名ヲ後世ニ遺スヘク此所ニ記念碑ヲ建立スル

昭和五十九年八月
京病会記念碑設立委員会

京都陸軍病院趾
京都陸軍病院記念碑

記念碑の隣にある石灯籠は陸軍病院時代の遺構と思われる。
よくみると「昭和五 六年度」と記載があり。

行啓記念

京都師団長 森岡皐 謹書

陸軍病院時代を物語る遺構。
昭和16年5月18日、 皇后陛下が関西行啓時に京都陸軍病院をご慰問された事を記念。
京都陸軍病院院長・三浦大三郎医大佐建立。
揮毫は第16師団長森岡皐中将。のちフィリピン攻略作戦時の第14軍(軍司令官本間雅晴中将)麾下で活躍。

大日天白如来

京都陸軍病院時代、工事中に給食棟の地下から発掘された如来様。
鎌倉時代の大日天白如来地蔵仏であるという。


さて、 京都陸軍病院を物語る歴史的な石碑などの今後の成り行きを気にしつつ(撤去→移転であることを切に願います)、次の目的地に向けて移動を。

藤森神社の東側。
京都教育大学があるエリアに歩兵第38聯隊が展開されていた。
冒頭の航空写真ツイでも藤森神社の社叢と聯隊衛戍地がはっきりわかる。

藤森神社北東に鎮座

京都歩兵聯隊跡 

舞 傳男 書

舞 伝男 陸軍中将(陸士19・陸大31・第36師団長)
陸士19同期は今村均、本間雅晴、田中静壱など

京都歩兵聯隊跡記念碑

碑文
藤の森神社東側の台上は 五十年にわたり郷土歩兵聯隊が駐屯し 十万をこえる将兵が苦楽を共にし 生死を誓い 日夜修身練武に精進した深草兵営の跡である。
 歩兵第九聯隊は明治建軍に当たり 明治七年に創設せられて大津にあった。 これを母体として明治二十九年歩兵第三十八聯隊が編成され翌三十年七月この兵舎の竣工をまつてこの地に屯した。 大正十四年五月 軍制改革により歩兵第三十八聯隊は奈良に移駐 以来歩兵第九聯隊主力がここに駐屯することになった。

 歩兵第九 第三十八の両聯隊は 明治三十七・八年の日露戦争に出征 第四師団に属して南満州の金州・南山・遼陽・奉天の諸会戦に参加して赫赫たる武勲を建てた。 満州事変にさいしては京都第十六師団の隷下にあつて北満の警備に任じ ついで昭和十二年支那事変勃発するや北支 中支に転戦し 南京城を陥れ 徐州に戦い長駆大別山を突破して武漢攻略戦に不朽の戦績をのこした。 歩兵第九聯隊は 昭和十六年大東亜戦争劈頭比島に敵前上陸してバターン半島を席捲 マニラ攻略の後主力をもつてレイテ島を守備していたが 優勢なる米軍主力の反攻を受け死闘数十日 ついに聯隊長以下全員軍旗とともに玉砕し光輝ある聯隊の歴史を閉じた。  時 昭和十九年十二月八日
(略)

 顧みれば これら諸隊の将兵がこの兵営をあとを出陣するにさいし 戦勝と武運の長久とを祈願したのはこの藤の森神社(藤森神社)であった。 今や時は移り星は流れて幾春秋 かつての勇壮なる軍歌の響きも絶えて久しく 懐しき兵営の面影も過去の帳のうちに消え去らんとしている。
しかしながら 祖国を愛し、祖国を護り、進んで国難に殉じた郷土部隊の光栄ある歴史と名誉ある伝統とは永遠に後世に伝えられるべきである。

 時あたかも明治百年を迎えるに当たり、ここに京都歩兵聯隊関係者一同あい図り、由緒深きこの地を史跡とし先人戦友の遺勲を顕彰して長くその功を讃え陣歿した幾多の英霊を慰めるとともに、国連の隆盛と世界の平和とを祈念して思い出多き聖域にこの碑を建てるものである。

昭和43年4月18日
京都歩兵聯隊跡記念碑建設会

藤森神社

旧社格は府社。
本殿(中座)に主祭神である素盞嗚命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇を祀る。
東殿(東座)に天武天皇と崇道尽敬皇帝(舎人親王)
西殿(西座)に崇道天皇(早良親王)と伊予親王、井上内親王
創建由来は諸説あるが神功皇后三韓伝説に遡る古社。

御社殿(中殿)は国重要文化財指定
旧御所賢所
正徳2年(1712年)に中御門天皇より下賜された宮中内侍所であり、現存する賢所としては最も古いものという。

御旗塚
神功皇后摂政3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、藤森の地に軍旗を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったとされる、藤森神社発祥の地。

「いちいの木」(いちのきさん)は腰痛が治るとされ、近藤勇も通っていたという。
御神水も湧いておりました。

手水鉢台石
石川五右衛門伝説もありました・・・
(これだから京都の歴史密度はヤバイ)

実は初めて参拝でした。
歴史ある古社だけあって、その空間に魅了されつつ。

夕刻で社務所が閉まる17時直前でしたのでしょうしょうせわしなく参拝したのがもったいなく。

「藤森神社」

忠魂碑

明治39年(1906)6月建立。
陸軍中将 塚本勝嘉 書
日露戦争の忠魂碑

塚本勝嘉陸軍中将は日露戦争のさなか第4師団長に就任し奉天会戦で活躍。

白松(シロマツ・白皮松・白骨松)

昭和10年頃に京都陸軍第16師団長が就任記念として寄進したと伝承されている。
一部には石原莞爾とも言われているが石原の師団長就任は昭和14年。
昭和10年以降だと、
 渋谷伊之彦(昭和10年)
 児玉友雄(昭和10年)
 中島今朝吾(昭和12年)
 藤江恵輔(昭和13年)
 石原莞爾(昭和14年)

今回は御朱印帳は持参してませんでした。行程が不安定で神社に赴くかわからなかったので。結果ギリギリで藤森さんに寄ること事が出来て、社務所を伺ってみて。
はてさて。そういえば鶴丸国永で有名でしたね。
うーむ。
白色御朱印帳と通常御朱印、特別御朱印を頂戴してしまいました。

時間的に藤森神社さんでタイムアップ。

まだ時間があれば、ここより西側の京都教育大学付属高校に残る輜重兵第16大隊関連の正門や歩哨などにも足を運びたかったのですが残念。次回の課題に。

この日は深草駅スタートで藤森駅を経て墨染駅ゴールの散策。
所要2時間といったところでした。

参考:
京都市伏見区>深草に残る戦争遺跡

https://www.city.kyoto.lg.jp/fushimi/page/0000187027.html

靖國神社の御神酒

平成31年/令和元年(2019)ほか

「靖國神社の御神酒」は「澤ノ井」で有名な東京青梅の小澤酒造さんとなります。東京の地酒。

新バージョン

2019年からリニューアルされた御神酒。
靖國のお社を包み込む靖國桜と、浮き出た鳩 パッケージも多くの鳩が舞っておりました。

神酒(おみき)
神前には、お米・お酒をはじめとして、海の幸・山の幸をお供えします。
それをおさがりとしていただき
神人和合することを直会(なおらい)といいます。
この神酒は、ご家庭でお召し上がりいただく皆様におわかちいたします。
どうか、神霊(みたま)のご加護のもと健やかに心豊かにご家庭円満に、お過ごしくださいますようお祈り申し上げます。

旧デザインと新デザインと。
旧デザインの御神酒は貴重なものとなってしまいました。

現在は新デザインの御神酒のみ頒布。

創立百五十年記念限定御神酒

創立百五十年を記念して期間限定パッケージでの頒布。

旧バージョン

神酒「靖國」

桜色の可愛らしい瓶。
上から見ると靖國神社に相応しい「桜の花」となる、意匠優れた美しくステキな御神酒。

神酒

昇殿参拝などの際に、いただいた御神酒(小瓶)

こちらは「日本盛」(兵庫県西宮市)なのですね。

靖國神社の御神菓

三ツ木地区防空壕跡散策(多摩陸軍飛行場)

平成29年撮影

都立野山北・六道山公園

武蔵村山市総合運動場の北東の方向にある「谷戸」
この界隈ある「三本入谷戸」「赤坂谷戸」に防空壕跡が残っている。

三ツ木地区防空壕跡

「赤坂谷戸」の林道脇にポッカリと空いた穴
「三ツ木地区防空壕跡」

多摩陸軍飛行場(現在の横田基地)の飛行機や燃料などを空爆から退避させるための陸軍防空施設跡。
この界隈の谷戸斜面には「76基」横穴が確認されているという。

赤坂谷戸

「赤坂谷戸」の「三ツ木地区防空壕跡」

柵の外から見学ができるようになっています。
ちょっと頑張って覗いてみた。
うーむ、土砂の堆積がグロい・・・。

界隈、穴だらけです。

解りやすいことに東京都が「横穴」立ち入り制限をするために「柵」を設置していますので、逆にいうと柵のあるところに「横穴」があるわけです。

三本入谷戸

「赤坂谷戸」 隣の谷戸「三本入谷戸」の「防空壕跡」 林道を歩いているとこんな感じで「柵」があるので「なるほど」と。

入口をちょっと歩いただけで
 三本入谷戸→西(左)に4個、東(右)に2個
 赤坂谷戸→3個
見つけました。
じっくり歩けばもっと見つかるかと思います。

自然公園=谷戸を散策しているだけだと、この界隈に「戦時中の防空壕」が掘られまくっていたとは気がつかないノンビリとした空間。

北側の狭山丘陵には「高射砲陣地」も構築されていたとされ、この界隈は秘匿された一大軍事拠点だったのだ…。