支那事変(日華事変)初期の日本海軍の対応などを論じた、某大学史学科での私の卒業論文。
拙いですが、往時のデータがサルベージ出来たので、せっかくなので掲載。
なお、卒論提出時は「日本海軍と対華政戦略」と題していた。(教官から支那表記を止めるように指導があったため)
そのため、論文中表記に関しても、「対支」ではなく「対華」、「支那」ではなく「中華」で記載していたが、Web公開時に、歴史的事実を尊重し、当時の表現に合わせて一部表記の置き換えを行った。しかし多数に表記ゆれが残っている。
なお、注釈は「補注篇」として別紙としていたが、Web公開するにあたり、各章直下に挿入とした。
参考文献は、補記として文末に掲載した。
目次と注釈には文中リンクを貼るのが本来であれば望ましいが、作業リソース不足のために割愛する。
目次
目次
序章 本論文の意義
第一章 これまでの研究について
第二章 海軍の対支認識
一、海軍の対支認識
二、満州事変(満洲事変)
三、一次上海事変
四、北海事変
第三章 支那事変(日華事変)初期における海軍の対応
一、北支派兵問題に対する政府対応
二、海軍戦略と中支派兵問題
三、中支派兵決定後の海軍及び近衛内閣
第四章 海軍の対支政戦略と近衛内閣
おわりに
補記1 参考及び引用文献一覧
補記2 主要官職
凡例
一、場合によっては一部不適切と思われる表現がみられるかもしれないが当時の資料の重要性を鑑み、また論文の性格上表現はおおむね資料の記述に基づくものであり他意はない。
二、一部漢字及び語句の相違点がみられるが、これらに対しては置き換え等をせず出典資料の記述に基づくものとする。
三、一部に表記ゆれが発生してる場合もある。(対支=対華、支那=中華民国・中国、満洲=満州など)
序章 本論文の意義
昭和期の日本海軍は日本陸軍に対して、良識を発言できる最大の勢力であった、とされている。しかし、歴史は海軍自らの手で戦争を推進していく形を形成していく。自ら「政治に関せず」と表していた海軍は、本当に政治に無関心であったのだろうか。また当時の日本を導いていた陸軍、海軍という二つの軍事集団は当然軍事以外の、政治、外交、内政、その他日本の国策のすべてに影響力を持っていた。その中で海軍としてどれだけの力を保持していたか、という点が重要になってくる。
なかでも当時、日本陸軍が勢力を広げていた満州地方及び華北地方の政戦略に対して日本海軍はどのような意識を持っていたか、また海軍の勢力下にあった華中・華南地方に対してとられた海軍中央部の政戦略はどのようなものであったのか、と言う点を戦争拡大への過程のキーポイントの一つとして考えていきたい。さらに当時の対支政策を考える上で、陸軍・海軍・外務三者による国策決定が多く、軍に次ぐ政策決定集団としての外務省にも目を向け海軍との関わりを探っていきたい。
「大東亜戦争」という表現は中国大陸の戦闘から始まっている。その発端として陸軍の対支政戦略に対して、海軍は対支政戦略にどのように取り組んでいただろうか、また外務省と海軍の対支政策の共通・相違の関係、と言う点を研究すれば、それが「大東亜戦争」拡大につながる経緯及び原因を知る手がかりになるのではないかと私は考えている。
そこで最初に昭和海軍の対支認識を概観した上で「支那事変(日華事変)」初期及び「第二次上海事変」の派兵問題を中心に考察していくことで戦争拡大の経緯及び原因を研究していくことが目標となる。
(*)
政戦略…陸海軍の国家戦略的概念を当時は政戦略と表現した。
第一章 これまでの研究について
この時代を研究する上で注意を要する点に、歴史の証言者がいる、ということがあげられる。その結果、資料の量が膨大になり、旧軍人関係者・外交・政界関係者、民間人を問わず、多くの当事者の手によって書物が書かれており、主にそれらが研究の対象となってくる。
中でも近代軍事史研究の牽引をなしているものが「防衛庁防衛研究所戦史室」(1)関連であり、それ以外にも論文の数は豊富にある。しかし多くの論文は陸軍が中心であるといわざるをえない。それは当時の軍隊の中心は陸軍であったという事実からすれば当然ではある。さらに海軍の研究では主として対欧米問題が中心であり、中華問題の研究が軽く扱われている。中華問題の研究では海軍よりも陸軍が研究の中心にあり海軍の研究が軽く扱われるという状態であるのが現状であり、総括的なものが全体からすると少ないと言う点があげられる。
全体からすると少ないとしても私としてはそれでも膨大な研究資料を整理することは為しがたいことであり、すべてに着目することは私の実力からしても到底不可能なことである。そこで海軍と対支認識を研究する上で、まず注目しなければならない「米内光政」(2)について従来の研究を整理したいと思う。
米内光政についてはこれまでも幾多の研究がされており、その生涯について書かれたものも多い。古くは慶應義塾塾長であった小泉信三氏の「米内光政のこと」に始まり、朝日新聞社副社長や副総理であった緒方竹虎氏による『一軍人の生涯・提督米内光政』。また、海軍関係者では米内海相の秘書官であった海軍大佐実松譲氏の『米内光政』や米内海相・井上次官のもとで終戦のために尽力した海軍少将高木惣吉氏の「回想の米内光政」 (『山本五十六と米内光政』)。予備学生出身の海軍大尉であった阿川弘之氏の『米内光政』や兵学校卒の海軍大尉であった豊田穣氏の『激流の弧舟・提督米内光政の生涯』」。それ以外にも高宮太平氏の『米内光政』や米内光政銅像建設会による「米内光政追想録」・高田万亀子氏による『静かなる楯・米内光政』など米内光政に関しては読むべきものが多い。
しかしこれらは米内光政の生涯について書かれたものであり、私の課題である初期支那事変における対支認識については断片の記述にとどまっている。
そこで論文として注目すべきものとして、高田万亀子氏の「日華事変初期における米内光政と海軍」(3)相澤淳氏の「日中戦争の全面化と米内光政」(4)という二論文を海軍の対支政戦略を考える上で着目したいと思う。
また、初期支那事変を扱ったものとして「支那事変勃発当初における陸海軍の対支戦略」森松俊夫(5)「支那事変初期における政戦両略」今岡豊(6)などがある。またそれ以外の論文等は随時註釈で触れていきたいと思う。
○第一章注釈
補注 (各章ごとに注釈を追記)
なお、資料添附するにあたっては旧漢字は現代漢字に直すことを前提とはしているが完全な統一はされていない。
参考文献一覧は文末に掲載した。
(1)
公刊戦史として防衛庁防衛研究所戦史室編『戦史叢書』全102巻がある。
(2)
米内光政 海兵29期 海軍大将 日華事変当時の第一次近衛内閣海軍大臣。林・一次近衛・平沼内閣の海相を歴任、昭和15年には予備役入りし総理大臣となる。日華事変の対応や三国同盟問題、戦争回避に尽力する。昭和19年には現役復帰し小磯・鈴木内閣の海相として終戦の為に奔走。戦後も東久邇宮・幣原内閣の海相として海軍の最後を看取る。
(3)
「日華事変初期における米内光政と海軍 上海出兵要請と青島作戦中止をめぐって」
高田万亀子 『政治経済史学』251号 1987.3
本論文では日華事変初期における青島作戦放棄・現地保護放棄という後に何等重大な問題も起こさず平穏に歴史の彼方へ消えた「出来事」を今次大戦を通じてみても希有の存在である、として研究を展開している。この青島作戦は陸海軍の協議がなり、すでに陸軍からは先発部隊が発して海軍部隊の到着を待ち、海軍も軍令部では手続きを終え海軍省の了解さえあれば上陸を開始するという状態での中止であり、普通の作戦中止とは同一視できないものである。
高田氏は今次大戦中容易にみられなかった大局観に基づく政戦両略の一致があり、海軍ではなお統帥権が独立せず、統制が保たれていた事実があり、そこには米内光政海軍大臣の存在こそ大きく、また天皇意志も働いていた、と分析している。本論文ではこうした青島問題を中心に、上海出兵の経緯も関連させながら当時の海軍と米内海相の措置について考察されている。高田氏は青島と上海の状況を分析し青島作戦の中止は引き揚げ、現地保護の放棄を断行出来たからであり、まだ戦闘は始まっておらず市長もこれまで一応の友好関係にあった人物ということもあり、面子を捨てて、責任をとる覚悟があればまだ引き揚げが出来る余地が残っていた。一方、上海においては中国側からの先制攻撃を受け全面戦争の状態に陥っており米内としては不拡大の不可能を見通していた。最後に高田氏は青島作戦の中止は米内であったから出来たことであった、とするも上海戦と上海派兵要請は米内にとっても最早他に選択肢はなかったとし米内の責任を問うとすれば、それは派兵要請や強硬発言よりも、早期収拾を図れなかった近衛内閣の一員であったことにあるのではないか、と結んでいる。
(4)
「日中戦争の全面化と米内光政」相澤淳 『軍事史学』33 1997.12
本論文では大山事件発生後の海軍の強硬論への転換は陸軍の拡大派ですら北支限定の強硬論であったことを考えると日中戦争全面化へのターニングポイントであったとし、米内の態度の急転を分析している。
まず廬溝橋事件以前の海軍の中国への関わりを概観した上で、海軍の対応を米内の中国間を交えて検討している。
相澤氏は本論文で八月十四日中国空軍の第三艦隊旗艦出雲爆撃(日本の在中国艦隊のシンボルである旗艦出雲への攻撃は日本海軍の威厳とプライドを傷つける十分な攻撃であり、それは路上での突発的な武力衝突とは異なって、中国の中央政権の意図をはっきりと感じさせる攻撃であり、中国からの重大な挑戦である。)に非常な怒りを示していたという状況と米内の「日本を強者とし中国を弱者とする」中国認識のもと蒋介石に反省を促すという膺懲論の選択のもと南京占領発言につながったものであり、米内の中国認識は基本的に国民党蒋介石政権の民族自決・国家統一という動きには肯定的であったが、その動きが日本海軍の利害と真正面から衝突した時には不信感に転ずるものであった、としている。
(5)
『政治経済史学』168号(80.5)
(6)
『軍事史学』10(74.6)
第二章 海軍の対華認識
本論にはいる前に簡単に当時の情勢について概観していきたい。しかし、昭和史の概観について書かれたものには優れたものも多く、私としては陸軍を中心とした中国大陸一連の対支政戦略等はそれら優れた書物(1)に譲るとしたい。
ここでは前提として海軍の対支認識を分析し支那事変に至るまでの大陸情勢を海軍中心の視点から概観することになる。
一.海軍の対支認識
海軍にはいかなる対華認識があったのだろうか、ということが以下で論ずるにあたって重要な位置付けをもってくる。
日露戦争後の海軍は想定敵国をアメリカに絞った関係から、戦後経営の方向をもっぱら海軍の物的・技術的近代化に求めていた。そのために、海軍指導者らの眼は欧米の先進諸国だけに向けられ、複雑なアジア大陸、とくに中国の内情等については認識が浅く陸軍に情報を仰ぐだけというのが実情であった。(2)
さらに海軍は第一次大戦の戦争様相の変化に伴う総力戦認識、また大戦後の対米関係の悪化が海軍の大陸資源への関心を高めそれが中国問題に一歩踏み込む契機を与えつつあった。しかしアメリカを第一の仮想敵国とする海軍にとって、中国問題に深入りすることは、なけなしの艦艇を分散する不利があり、また明治以来の大陸非干渉主義が底流に存在していた。(3)
昭和海軍の指導者の底流にあったとされる明治以来の対華認識としてここで明治41年に海軍大学校教官の職にあった佐藤鉄太郎大佐(4)の『帝国国防史論』(5)を取り上げたい。これには、これからの海軍のとるべき方針が書かれており、とくに海洋国家日本が大陸に進出することの危険性を主張し、海主陸従論が展開されている。
日本の満蒙経営を批判し海上に利を求めたこの『帝国国防史論』は当然陸軍の反発をかうことになる。ここには当時の陸海軍人の「国防」問題や「作戦」方針についての考え方にかなり基本的な相違があり、ほとんど「水と油」の感じさえ抱かせるもの(6)であり、陸海軍の意見の相違というものが今後も影響を及ぼすことになる。
また、この当時はこのような海洋立国論が多くみられ、これらが「南進論」へと発展していくことになる。(7)
日本海軍では中国に長く勤務した者や中国情報担当者は「シナ屋」と呼ばれていた。主流の欧米派に比べてシナ屋の人数は圧倒的に少なく、彼等は一段下にみられ、いわゆる出世街道から外れた傍系であった。将官に進級した者もごく限られており、(8)津田静枝中小は、日本の海軍がとかく英米を重視するの余り、支那を軽視するのをしばし慨嘆し「支那と親交を結ばずして対米作戦など出来る筈がない」とよく述べていたという。結局海軍では「支那関係の勤務など、海軍では島流しにされたかのように」考えられていたというのが実情であった。(9)
二.満州事変(満洲事変)
昭和海軍や米内の対華認識は後ほど検討することにしてここでは昭和期の中国の現状を海軍の対応を中心に概略していきたいと思う。
昭和二年(1927)には「第一次山東出兵」昭和三年には「第二次・三次山東出兵」(10)「張作霖爆死事件」(11)という動きがあり、昭和五年には海軍として「ロンドン軍縮会議」(12)があり、ついには昭和六年九月十八日に「満州事変」(13)を迎える事となる。
満州事変前、六月か七月頃に軍令部一課長近藤信竹大佐(14)が軍令部長谷口尚真大将(15)に
「「陸軍は何かやり出すに違いないから、早く手を打たねばならぬ」と申しあげしところ、部長は「承りおく程度にしよう」と答えられた。…間もなく満州事変が勃発した。」と回想している。その近藤第一課長は「海軍は満州で事を起こすのは不可と考え、つむじを曲げていた。」とも回想している。
一方で澤本頼雄軍務一課長に(16)いたっては「事変勃発まで知らなかった。」と証言している。(17)
満州事変当時の海軍次官小林躋造中将(18)は
「我海軍は、多年に亘る満州不穏の情勢よりして警戒はして居たけれども、海軍の伝統として政治に触れない立場から、一に平和的施策に信頼し、特に政府に対し意見を具申した事もない。また海軍としては倫敦軍縮会議の直後であるし、之が善後策に腐心していたので、この時機に、悪くすると大戦に導入する虜のある満州事変の勃発は、好ましからぬ事であった。衝突の起こった地点が、国内遙かな処でもあるし、陸軍に協力する必要も無いので事変勃発に対処する特別の処置は、満州に関する限り採られて居らない。」(19)
と極めて消極的意見が回想されている。
この考えは『帝国国防史論』以来の伝統的な海軍の大陸政策といえそうである。海軍にとっては「国内遙かな処」であり「支那プロパー(20)にあらずして外地的存在」でしか認識がない満州での事変勃発は迷惑でしかなく、その消極的態度は、陸軍中堅幕僚層の不評をかっていた。(21)
満州事変当時の参謀本部第二課機密作戦日誌には
「海軍側は本事変に対し熱意なきが如し、特に海相及び海軍次官に於いて然り。」九月二九日
「海相は単に中南支那の事のみに意を注ぎ満蒙問題に関しては何等定見なく且極めて消極的態度を持しあり。」十月九日
「政府の大方針に極めて忠実なることが海軍の鉄則なるが如し」十月十五日(22)
などが記してあり、陸軍としては政府同様に不拡大方針を採る海軍に対して不満が述べられている。
結局海軍は満州事変に対しては
「海軍は満州事変の際は、海軍の出る幕ではないと冷淡であった。」(23)という立場を貫き通すことになる。
三.第一次上海事変
しかし昭和七年一月二十八日に上海事変(24)が発生すると状況は大きく変わる。
そのころの上海の様子を当時南京領事館勤務の上村伸一(25)は
「満州事変勃発以来上海在留の日本人は恐ろしく強気になった。長い間排日に悩まされ、辛抱に辛抱を重ねてきたので、満州の爆発とともに堪忍袋の緒が切れたのであろう。」(26)とし、また中華公使である重光葵(27)は
「上海の日本人たちは満州で日本の軍隊がとった強硬な態度によって満州における排日運動を解消し、日本の権益を護ることができたと思っており、同様な強硬手段が上海でも成功すると考えていた。」(28)というように上海をみていた。
このような状況である上海にやはり事変が起こることになる。戦備が充分でない陸戦隊は苦戦を強いられることになる。(29)
重光中華公使は
「問題の焦点は要するに陸戦隊及び海軍の力だけでこの混乱している上海の戦争を片づけて、居留民の生命財産の安康を期し得るかどうかにあった。責任をもつ海軍側は軍隊の意地とでもいうか、最後まで自分の手で解決するという無謀な意気込みである。しかし外務省側の館員の意見を総合してみると、それは不可能ということで、この際は陸軍の出兵を見なければ問題を片づけることができぬ。しかし海軍を説得することが困難だという意見であった。(後略)」(30) としている。
外務・陸・海軍省それぞれに送られた電報により閣議が開かれることになる。 原田熊雄(31)によると
「二月一日大角海軍大臣(32)に呼ばれていったところ、…「上海の陸軍出兵問題は明日二日の閣議に提出し、その時期は陸海軍大臣に一任する筈である。…」というような話があった」(33)としている。
二月三日には貴族院副議長近衛文麿(34)が大角海相を訪問し、そこで陸軍出兵の再考に対して意見を求めたところ、大角海相は興奮し
「今となりては絶対に陸軍出兵の中止は困難にして、ぐづぐづして居ては尼港事件の二の舞を演ずるの虞あり…」(35)と陸軍の増援を希望している。
豊田貞次郎軍務局長(36)は
「陸軍の派遣は大角大臣の発案で、われわれは海軍だけでやりたいと申し上げたところ、大臣は、海軍には本来の重要任務がある。手遅れになってから陸軍の増援を求めるのは、事がうるさくなるからと答えられた。」(37)
としている。
派兵に反対の人物も多く、高橋大蔵大臣(38)は
「財政の点からいっても、また我が国の国際的立場からいっても、この際居留民の引き上げを断行した方がいい。そのためには、よしんば一億万円かかるとしても、兵隊を出すとなれば、到底そんなことでは済まないのだから…」(39) という見解であった。
結局は
「上海や揚子江の問題となると海軍の縄張りで、依然積極的になる。」(40) ということになる。
この出兵後日華両軍で死闘が行われたが、諸外国の調停もあり三月三日には停戦声明がだされ、五月五日には停戦協定(41)が成立することになる。
満州事変以来、陸海軍は膨張し続けた。
「太平洋中の一小島国である日本が世界最大の陸軍国及び海軍国を目標として、勢力を争はんとするのであるから、憐れむべき日本国は、陸海軍勢力のために、南北に引き裂かれんとするわけである。」とは重光葵の意見(42)である。
四.北海事件
昭和七年以降も北支・中支ともに紛争が続くことになるが、両国共に外交的に接近をしようともしていた。
昭和十年九月には中国側が「三原則」を日本側に提出。一方日本の広田弘毅(43)外相はこれを検討し、回答。いわゆる「広田三原則」を中国側にしめすことになるが、結果的にはこの「三原則」は崩壊することになる。(44)
昭和十一年頃の陸軍の「北支自治工作」以降対日警戒心を強めることになり、中国人の抗日救国の気勢を、著しく高めることになった。(45)
海軍は従来、華北の事態に対しては比較的冷静な傍観者であり、華北における陸軍の行動に対しては概して批判的であり、外務省と協力して、その行き過ぎを的行動を監視する立場にあった。
これ以降抗日事件が立て続けに起きるが昭和十一年八月二十三日の成都事件や九月三日の北海事件、十七日の汕頭(さんとう)事件、十九日の漢口事件、二十三日の上海事件がそれぞれ発生した。従来陸軍の対中国政策に冷静であった海軍ではあったが北海事件以降異常な興奮状態に陥ったのは、これらの地域が海軍の警備担当区域であり、陸軍の華北と対抗する意味でその勢力範囲とされていたからである。
北海事件(46)では調査を行おうとして拒絶された海軍が、強攻策に転じ、海軍は軍艦を派遣。陸軍に出兵を希望する申し出をすることになる。対ソを重視し対華作戦が困難なことを知る陸軍石原部長を中心に出兵反対論が強かったが、これまで穏健な海軍が急に豹変したことが政府・外務省・陸軍を当惑させることとなる。(47)最終的には自然消滅していくが、このとき戦線が開かれてもおかしくない状況ではあった。
○第二章注釈
第一節
(1)
陸軍を中心とした中国大陸の動きを把握するための概略書として『日中戦争史』秦郁彦著 昭和47年 河出書房新社、『満州事変』『日中戦争』臼井勝美著 昭和61年 中公新書、『戦史叢書86支那事変陸軍作戦1』防衛研究所 昭和50年 朝雲新聞社など。
外交史の概略書として『日本外交史』上村伸一著 昭和46年。
海軍としては『戦史叢書72中国方面海軍作戦』昭和49年、を代表して列記しておく。
(2)
『海軍と日本』 池田清著 昭和56年 中公新書 88頁
(3)
『日本海軍史第三巻』 25頁
(4)
佐藤鉄太郎 海兵14期 海軍中将 「海主陸従論」を唱えた「帝国国防史論」を著す。軍縮問題で加藤友三郎海相と衝突し大正12年に予備役に編入。
(5)
『帝国国防史論』上下巻 佐藤鉄太郎著 昭和54年(原本M43)原書房
以下順に上巻89貢 下巻119貢 126頁~127頁
「我が帝国の維持すべき方針は近き将来に於いては一に唯征服を大陸に試むるの壮図を避け、天与の好地勢を利用し、海上勢力を拡張し、且之を永遠に維持し得べき所以の道を図り自強の策を講じ、国利の増進を海上権力の暢達に求めて疑ざるにあり。」
「日本が其の軍隊(陸軍)を将来益々増大ならしむるは大征略的戦闘の準備をなすの他に何等の意義を有せざるなり。斯の如き目的を有するにあらずんば軍隊を増大ならしむるは愚の至るなるべし。」
「近き将来の世界的舞台における我が帝国の役割は誠に重大なり。殊に東洋方面においては事の軽重大小に論なく避けんと欲するも能はざるの関係を有せり。…要するに近き将来における、東洋の紛争は支那問題より生せん。…主として此の問題に容喙すへき英米仏独四国は、地理的関係上共に大いなる陸軍を派遣して事に当たるに由なし乃ち此の場合に所する我帝国の態度は極めて簡単なり。我が武力を海上に発揮し、比較的小規模なる陸上武力を大陸に用いるは可なり。」
(6)
『戦史叢書91 大本営海軍部連合艦隊一 開戦まで』 昭和50年 朝雲新聞社108頁
(7)
『海軍と日本』115頁
(8)
『海軍と日本』90頁
(9)
「日中戦争の全面化と米内光政」126頁
第二節
(10)
田中義一内閣が、中国統一を目指す国民政府軍の北上を阻止する為に、居留民保護を名目に山東省に出兵した事件。昭和2年5月・昭和3年4月・5月の3回行われ、その結果、中国民衆の排日運動が激化した。
(11)
奉天軍閥の張作霖が途中奉天郊外で関東軍による列車爆破により死亡した事件
(12)
1930年、ロンドンで開かれた海軍補助艦の保有量に関する軍縮会議。参加国は英・米・日・仏・伊であったが仏・伊は協定拒否。英・米・日で協定成立。日本は総トン数で対英米約7割の補助艦を確保したが、この問題をめぐって海軍内は艦隊派と条約派に分裂。
(13)
昭和6年9月18日の柳条溝事件を契機とする関東軍の一連の軍事行動。関東軍参謀石原莞爾中佐の奇跡的な作戦によって開始。当時の若槻内閣は不拡大方針であったが軍は政府方針を無視して拡大。翌年3月に満州国が建国された。満州事変時の海軍の動きについては『國學院大學日本文化研究所紀要』第80輯(H9.9)「満州事変と日本海軍」樋口秀美 に詳しい。
(14)
近藤信竹 海兵35期 海軍大将 満州事変時は軍令部第一課長。日華事変は軍令部第一部長。太平洋戦争開戦時は第二艦隊司令長官から南方部隊総指揮官。
(15)
谷口尚真 海兵19期 海軍大将 昭和3年12月連合艦隊司令長官。昭和5年6月から軍令部長。
(16)
澤本頼雄 海兵36期 海軍大将 満州事変時の軍務一課長。
(17)
『海軍戦争検討会議記録』 新名丈著 昭和51年 毎日新聞社 118頁
(18)
小林躋造 海兵26期 海軍大将 野村吉三郎の同期。満州事変時の海軍次官。条約派とみなされ昭和11年予備役編入、台湾総督に就任。
(19)
『小林躋造手記』「政治経済史学138号」所収 野村実
(20)
プロパー…本来あるさま
(21)
『海軍と日本』91頁
(22)
『太平洋戦争への道 別巻資料編』 稲葉正夫他編 昭和63年新装版 朝日新聞社
「満州事変機密作戦日誌」 113頁~
(23)
『破滅への道 私の昭和史』 上村伸一著 昭和41年 鹿島研究所出版会 45頁
第三節
(24)
上海公使館付陸軍武官補佐官田中隆吉少佐が企てた陰謀によって勃発した事件。上海事変については『政治経済史学』333号(94.3)「第一次上海事変の勃発と第一遣外艦隊司令官塩沢幸一少将の判断」影山好一郎 『軍事史学』28号(92.9)「第一次上海事変における第三艦隊の編成と陸軍出兵の決定」影山好一郎 『政治経済史学』318号(92.12)満州・上海事変の対処に関する陸海軍の折衝』影山好一郎 などに詳しい。
(25)
上村伸一 上海領事・南京領事を努めて昭和9年から外務省東亜局第一部長となる。
(26)
『破滅への道』43頁
(27)
重光葵 上海事変当時の駐華臨時代理公使。天長節遙拝式場にて爆弾により右足を失う。のち外務次官として対華問題に取り組み、張鼓峰事件時の駐ソ、二次世界大戦開戦時の駐英大使。東条・小磯・東久邇宮内閣時の外相。降伏時の日本首席全権。戦後は改進党総裁。鳩山内閣副総理・外相として日ソ共同宣言・国連加盟を果たすなど第一級の外交官。
(28)
『外交回想録』 重光葵著 昭和28年 毎日新聞社 130頁
この機会に上海でも満州と同様に強硬な態度をもって排日運動に一撃を加えて、従来の悪い空気を一掃せしめるべきだ、と考えられていた。
(29)
この間の過程は「戦史叢書 大東亜戦争開戦経緯1」や「日本海軍史第3巻」に詳しい。
(30)
『外交回想録』137頁
「海軍武官の北岡大佐も「自分の口から海軍で処理することは出来ないとは言いにくいが、今日の事態では陸軍の出兵を要求するほかないと思う。」という結論だった。」とし最終的に重光公使は「熟慮の結果、今目前に起ころうとしている悲惨事を救うことがすべての前提であり…日本政府に出兵を求めることは両国の関係を救うことになると結論し…十分な兵力を上海に送ってもらいたいと政府にその日(二月一日)のうちに電報で要請した。」
(31)
原田熊雄 男爵 貴族院議員 元老西園寺公望の私設秘書
(32)
大角岑生 海兵24期 海軍大将 犬養・斎藤・岡田内閣海相。ロンドン軍縮条約をめぐり艦隊派と条約派の対立を招き、条約派を一掃する「大角人事」を断行する。昭和11年軍事参事官。16年に飛行機事故で殉職。
(33)
『西園寺公と政局』第2巻 原田熊雄述 昭和25年 岩波書店 200頁
以下『原田日記』とする。
(34)
近衛文麿 公爵 五摂家筆頭 3度の首相を務める。戦後戦犯容疑がかかり自殺。
(35)
『木戸幸一日記』上 木戸幸一著 木戸日記研究会 昭和41年 東京大学出版会 135頁
(36)
豊田貞次郎 海兵33期 海軍大三国同盟締結に積極的に動いた海軍次官。16年予備役。二次近衛内閣の商工相、三次近衛内閣の外相・拓相。その後日本製鉄社長、内閣顧問。鈴木内閣の軍需相。戦後は貴族院議員。その半生は「出世の為に海軍を踏み台にした」といわれる。
(37)
『海軍戦争検討会議』122頁
(38)
高橋是清 政治家・財政家。文部省、農商務省、日本銀行に勤め、明治44年日銀総裁。また蔵相、政友会総裁、首相など要職を歴任。昭和11年の2・26事件で暗殺された。
(39)
『原田日記』第二巻 201頁
(40)
『破滅への道』45頁
(41)
「上海停戦協定」は日華事変時の「大山事件」(第二次上海事変)勃発時に中国側が違反したとされるものであるので、ここに掲載する。
なお協定は英米仏伊四国公使斡旋である。
「上海停戦協定」
第一条
日本国及中国の当局は既に戦闘中止を命令したるに依り昭和七年五月五日より停戦が確立せらるること合意せらる双方の軍は其の統制の及ぶ限り一切の且有らゆる形式の敵対行為を上海周囲に於て停止すべし停戦に関し疑を生ずるときは右に関する事態は参加友好国の代表者に依り確かめられべし
第二条
中国軍隊は本協定に依り取扱はるる地域に於ける正常状態の回復後に於て追て取極ある迄其の現駐地点に止まるべし(略)
第三章 支那事変初期における海軍の対応
一.北支派兵問題に対する政府対応
廬溝橋事件(1)当初、陸軍は基本的に不拡大方針であった。一時は現地で協定が結ばれることになるが、その陸軍の統制はとれておらず、参謀本部や関東軍中堅層の勢いを止めることが出来ず、事変は徐々に拡大の方向に向かうことになる。以下その動きを海軍を中心に日を追ってみていきたい。
まずは事件勃発翌八日時点での中央部(2)の動きを把握していきたい。
七月七日に発生した廬溝橋事件を陸軍中央部が知ったのは八日早朝の電報であった。
陸軍省軍務局の柴山兼四郎課長は「やっかいなことが起こったな」と眉をひそめ、参謀本部の武藤章第三課長は「愉快なことが起こったね」(3)と全く逆の反応を示している。しかし陸軍はこの時点では参謀本部石原莞爾第一部長(3)を中心に非拡大・現地解決方針であった。参謀本部は八日午後に臨命をもって支那駐屯軍司令官に指示をしている。
「事件ノ拡大ヲ防止スル為更ニ進ンテ兵力ヲ行使スルコトヲ避クベシ」(4)
一方、海軍では中国側の不穏の情勢に対する陸軍の態度から事変の拡大の可能性も考慮し、台湾方面で演習中の第三艦隊に演習中止や警備の強化などを決定し警戒をしている。(5)また、山本五十六海軍次官(6)は「陸軍のやつらは、なにをしでかすか、わかったものではない、油断がならんよ」と陸軍を疑い、米内光政海軍大臣もそれに同感の意を示している。(7)
外務省では広田弘毅外務大臣・堀内謙介次官・石射猪太郎東亜局長(8)らが「柳条溝の手並みを知っているわれわれにはまたやりやがったであった。」と陸軍の謀略説の可能性を疑っている。
午前中には中国問題に対する慣例から陸軍の後宮淳軍務局長(9)と海軍の豊田副武軍務局長(10)と石射東亜局長の三者が会同して三省事務当局会議が開かれ事件不拡大方針を申し合わせている。(11)
近衛文麿総理大臣は風見章書記官長(12)から報告をうけ、杉山元陸相(13)の「わがほうにとってはまったくの偶発事件である」という話を聞くと「まさか、日本陸軍の計画的行動ではなかろうな」と疑いの目を向けている。(14)
以上のように陸海外三省と総理の勃発時点での反応を記してみたがおおかた事変拡大の可能性を考慮し、また陸軍の行動を疑っていることがわかる。しかし、これら初期の陸軍不信という認識が、後の事変処理を誤ることになっていく。
九日には政府において臨時閣議が開かれている。米内手記によると閣議の模様はこうなっている。(15)(以下「米内手記」を参考)
「昭和十二年七月七日 廬溝橋事件勃発する。
九日 閣議において陸軍大臣(杉山元)より種々意見を開陳して出兵を提議した。海軍大臣(米内光政)はこれに対し、なるべく事件を拡大せず、すみやかに局地的にこれが解決をはかるべきを主張した。」(16)
閣議では全閣僚が米内意見に同意したため陸相の意見は見送られることになる。その間現地では善後交渉が開始されることになり日本政府は、外務・陸軍・海軍ともに「不拡大・局地解決」の方針をもって望むことになる。(17)しかし陸軍では出先の朝鮮軍、関東軍や中央の中堅将校などの多くは強硬論であり、一部の慎重派を除き、陸軍全体はなんとなく殺気立っていた。
当初から不拡大を唱えていた海軍も、陸軍の態度と中国の情勢を考え、万が一に備えて和戦両様の構えをとり、万全の体制を整えるようになる。外務省も同様に派兵は絶対反対の立場にあった。
そして自体は急転した七月十一日日曜日の緊急閣議を迎えることになる。この日の早朝から石原莞爾参謀本部第一部長が突然近衛総理の私邸を訪ね、そこで「本日の閣議で陸軍側の動員案を否決してくれ」と頼み込み近衛を驚かすことになる。(18)同じ頃石射猪太郎東亜局長もまた陸軍省軍務局からの連絡員が「動員案を外務大臣の手で葬ってもらいたい」と外務省にやって来た話を聞き「明らかに陸軍部内の意見不統一の暴露だ。現地でせっかく、解決交渉中というのに、何を血迷っての動員案か、頼まれずとも外務省は大反対に決まっている。」とこの陸軍省や参謀本部の分裂ぶり、無統制にあきれはてている。石射は広田外相に軍務局の連絡員の話をし「動員案を食い止めていただきたい。このさい中国側を刺激することは絶対禁物です」と進言し、広田外相は了承している。(19)
派兵の為の予算問題を伴うため賀屋興宣大蔵大臣を交えた総理・陸海外の五相は閣議前に会談を開き、そこで米内海相は「今回の事件をもって、第二の満州事変たらしむようなことは、絶対にやらない」と発言。意見の申し合わせを行った。(20)
この閣議の模様を米内の認識を知るためにも米内手記で過程をみていきたい。(21)
「十一日 五相会議において陸軍大臣は具体案による出兵を協議した。五相会議においては、諸般の情勢を考量し、出兵に同意しなかったが、陸軍大臣は五千五百名の天津軍と平津(北平・天津)地方におけるわが居留民を皆殺しにするに忍びずとして、たって懇請したるにより、渋々ながらこれに同意せり。しかして陸軍大臣は、出兵の声明だけでも、(イ)中国軍の謝罪(ロ)将来の保障 を確保できると思考したようである。
思うに、…和平の交渉と兵力の行使を同時にするようなことは、この際とるべき方途ではなかるべく、要は和平交渉を促進することを第一義とせねばならない。陸軍大臣は出兵の声明だけをもって問題はただちに解決するものだと考えているようだが、海軍大臣は諸般の情勢を観察するとき、陸軍の出兵は全面的な対中国作戦の動機となろうであろうことを懸念し、再三にわたって和平解決の促進を要望した。
華中における対日動乱は、華北における禍根の波動にほかならない。…もし今回の廬溝橋事件にたいし誤った認識をもってその解決にあたったならば、事件が拡大することは火をみるより明らかである。そしてその余波は一ないし二ヶ月にして華中に及ぶであろう。海軍大臣のもっとも懸念したのは、実はこの点にあったのである。
…前述したようなことを考慮し、あくまで事件不拡大・現地解決を強調する。
なお、動員後も派兵する必要がなくなったならば、ただちにこれを中止させることを希望した。」
以上のように米内海相は派兵は好ましくない旨を強調し、「陸軍の出兵は全面的な対中国作戦の動機となるであろうことを懸念」していたが、用兵が華北陸上における陸軍用兵に限定されるとあれば、海軍としてはこれ以上反対の理由なしとして渋々ながら派兵に同意している。この対応には海軍の消極性の一面が表れているが、米内海相は杉山陸相から「動員後も派兵の必要がなくなった時は派兵を中止させる」という条件をとりつけることになる。そして居留民保護と自衛に限り派兵するという条件付きのもと動員準備案が可決された。(22)
広田外相は「条件付きの、万一の為の準備動員案だったから、主義上意義なく可決された」と石射東亜局長に語っているが、石射は「手もなく軍部に一点入れられた感じ」といたく広田に失望している。(23)
近衛総理も後に回想しているが「蘆溝橋の事件が突発した時はどうであったかといふと、軍部から、北支に反乱が起きた。居留民保護のため派兵する。この程度の報告で、出兵費用の要求をうけたのである。何といふても居留民の生命財産の保護といふ名目であるから、之に対しては一応反対はできない。」というように消極的であり、米内の奮闘(24)が目立つ結果となっている。(25)また、本事件は今後事変とみなすこと、出兵とせず派兵とすることとされた。同日十七時三十分に風見章書記官長が「今次ノ北支事件ハ其性質ヲ鑑ミ事変ト称ス」と発表し、続いて十八時二十四分に近衛総理が「北支派兵ニ関スル政府声明」(26)を発表している。(27)
しかし同日午後十時頃に陸軍大臣が五相会議において現地停戦協定の成立という報告を行い、そこで海軍大臣は「本日の閣議で決定された出兵はどのように取り扱われるか」を質問したところ、陸相は「中国側が文書によって承諾すれば全員を復員させてよろしい」と答えている。(28)
以上のように閣議では派兵は決定されたが現地協定成立という報告により、約束通り派兵は取りやめということになった。このまま収まっていれば後の悲劇はなかっただろうが確実に戦争への歯車は回り始めていた。
近衛総理は先ほどの声明のあと、貴衆両院議員代表、財界有力者及び、新聞、通信関係者代表を首相官邸に集めて、国内世論統一のため、自ら政府の強硬な決意を披瀝し、一般の了解と支援を求めた。その結果翌日の新聞などは「暴支膺徴」論を書き立てて気勢をあげることになるが、近衛総理の側近ではこれまで事件があるごとにいつも後手に廻り、軍部に引きずられることが多かったので、今度こそは先手を打って軍部をたじろかせるほうが事件解決上効果があろうという考えでこのような気勢を示したものであった。(29)
近衛首相は原田日記の記述では「総理は国論を統一するために、また支那に対してまづ威嚇的に日本の挙国一致を見せるために、各方面から有力者を総理官邸にたびたび呼んで、陸軍の決意あるところ、即ち政府の決意あるところを示して協力を求めたりしてをつた。」という状態であり、一方「殊に海軍の態度は立派で終始総理を授けて、今後事態の大きくならないやうに大いに努力してをり、有田(30)も杉山陸相に会って、心から国家のために忠告をしているやうな状態である。なんにしてもあらゆる意味で日本の非常な危機を、いかにして内部的に纏めて免れるかといふことについて、みんな非常に心配しているのである。」(31)と海軍などの努力を記している。
この内地師団動員を進んで支持し戦争熱をあおるような近衛総理の行動は風見書記官長の献策からでたものであった。外務省の上村東亜課長は「軍は戦車のようなもので、しかも強力な組織力を持っている。非力な首相が小手先の芸当で強力無比な軍部を操り得るなどと考えること自体がドン・キホーテの亜流である。首相が一歩先んじれば、軍は二歩も三歩も先行する。そして首相にはこれを抑える力はないので、ずるずると引きずられるのが落ちである。」(32) と、見解の甘さを批判し、また官邸の様子を見た石射東亜局長は、近衛首相周辺の動きは政府自ら気勢をあげて、事件拡大の方向に滑り出さんとする気配であり、「冗談ではない、野獣に生肉を投じたのだ」と嘆いている。(33)
さらに協定成立後も近衛総理の派兵声明はこのままとなり、この事変勃発当初からの誤った認識が中国側を刺激し対日不信をかきたてることになった。
各新聞は現地停戦協定成立を号外として発行しようとしたが陸軍省新聞班が「その報道は疑いがあるから発行を見合わせるよう」に各社に申し入れ、東京のラジオ局に「現地では、停戦協定が成立したということだが、冀察の従来の態度からみて協定の実行に誠意ありやなしやは疑わしい。おそらく協定は反古同然になるだろう」と放送させた。現地の松井機関長は直ちに参謀本部に抗議の電報を発したところ、軍中央では「ラジオ放送は誤りである。引き続き努力ありたい」と回電があった。これは陸軍省新聞班の強硬派がかってに原稿を書いて放送させたものであったとのちに判明している。(34)
翌十二日の新聞は声明の撤回もなく、さらに陸軍省新聞班の指導によって、各紙とも第一面に大きく派兵に関する政府声明を掲げ、同じ日に調印された現地停戦協定成立の記事は、ほとんどの新聞が極めて目立たない形で取り上げられ「現地からの通信によると、支那側がわが駐屯軍の要求を全部容認したとの噂があるが…一片の口約束で支那側を承認したならばまたまた煮え湯をのまされるに決まっている。厳重に監視するのみ。」という内容の陸軍当局談話まで掲載されているものもあった。(35)
国民の「暴支膺徴微熱」も政府の鼓吹によって高まり、国防献金の殺到、国民大会の開催が相次ぎ、産業界の一部も戦争気分を歓迎している。(36)
また同盟通信社上海支局長の松本重治は十二日の新聞で十一日の閣議決定、内地師団の派兵中止、停戦協定成立などのあわただしい、混沌たる動きを知り、また近衛総理の日本各界への「挙国一致」の訴え、それに応じた各界の安易な姿勢に対して、中国の「反省を促すために派兵し、平和交渉を進める方針」という近衛総理の頭が狂っていないとすれば、私の頭では解らぬことばかりであった、と感想している。松本は自分の頭が狂っているのか、いないのかを冷静に見極める為に中国側の反応を知りたい、ということで蒋介石の側近の一人である斐復恒と会談している。そこで斐は「日本内地からの出兵が中止されたのはいいが、華北の現地は局地解決協定が出来ても、なかなか事態が円く収まるものとは思えない。…内地師団の華北への出兵問題についての東京からのニュースで、華北のみならず全中国の若いものは、今までにないほど激昂しているんだ。近衛首相をはじめ、日本の政治家達や責任の地位にある軍人たちは、この明白かつ重大な事実をしらないのかね。知っていて何もできないのかね。あんまり、日本が中国を甘くみては、お互いの為にはならんことになる。…蒋さんには政戦両略の聡明さがあるが、東京にもそれがあれば、越したことはないのだが、十一日の閣議や出兵中止など、東京には中国の現状の認識も、今後の見通しも、ないとしか思えない。」と松本支局長に語っている。(37)
このように七月十一日の閣議を中心に状況を確認してきたが、この七月十一日の政府時局認識が内外に与えた政治的影響は大きく、この時点で中国との全面戦争に乗り出したかの感がある。陸軍も基本的には全面的な対支作戦は反対であり、強硬論者も北支を一撃すれば支那は弱いからどうにでもなるという考えであり、海軍は米内海相をはじめ事件不拡大・現地解決の方針、外務省も石射東亜局長を中心に海軍と同様の方針であった。近衛総理、風見書記官長を中心に政府が率先して戦争熱をあおり、これが以後の戦争拡大への道しるべをなしているかの雰囲気がみられる。
中央では七月十一日の派兵声明から二十七日最終的に内地師団の動員が決まるまで停戦協定の細部交渉や派兵などをめぐって陸軍部内にはいわゆる拡大派と不拡大派の対立が激化し、この二週間の間に三回にわたって動員の決定と中止が繰り返されている。(38)
十三日には参謀本部において交渉事項を破棄して新たに行動をはじめようとするとの聞き込みあり、そこで米内海軍大臣は広田外務大臣にたいして、「陸軍大臣を督励してこのような誤りがないようにしてほしい」と要請し外相が陸相に交渉すると陸相も了解している。(39)
その日の閣議では陸相は「中国側はわが要求を容れて調印をおわったので事件は表面上には一段落したかのようである。だが全線では時々支那側から発砲があり、南京政府はいよいよ北進開始を決定したという情報もある。我が軍は関東軍を派遣し朝鮮軍に動員を下令したが、内地師団にはまだ動員を下令していない。内地部隊を動員することは、内外の各方面に対して衝撃を与えるだけでなく、中国をしてやむをえず対抗させるようになるだろう、と観測できないこともないので動員はもっと慎重に考慮しなければならない。」
と発言。米内海相や広田外相もこの方針を歓迎している。(40)石原部長を中心とした不拡大派の努力がこの時点では拡大派をかろうじて抑えており、それがこの杉山陸相の発言となったであろうことは推測できる。しかし陸軍大臣の威令が適格であれば、陸軍部外からよけいな注文をだす必要もなかったであろう。米内海相は職責観念が強く、自分から他分野に口を出すことはせず今回は広田外相を挟んで要請しているが、この陸軍の現状には歯がゆいものを感じ、よほど苦心したであろうと思われる。
同十三日に満州にいた沢田廉三満州国大使館参事官が東京で原田熊雄と会談したところ、「よほどこちらと事情が違って、かへって今まで聞いていたのと逆な方向にあるようにも思へる。…非常に慌て過ぎたといふ風に内地を見てをり、現地では現地だけで局部的に必ず解決できるものと思っている。東京で我々が聞いているのだと、出先が非常に強くて抑へきれないといふけれど、寧ろ参謀本部あたり、或いは陸軍省あたりの若い士官達が喧しいのである。」と原田は感じている。(41)現地では落ち着いているのに、東京が騒がしいという状態であり、これが事変拡大の一因でもあった。
十五・六日は米内手記のクライマックスとなっており、米内の苦心ぶりが手記にあらわれているため、以下抜粋したい。
「七月十五日 夕刻 外務省は直接南京政府との交渉をもあわせ行うことが適当であるとなし、次のような案を立てて海軍省の意見をもとめてきた。
一、七月十一日、わが軍と中国二十九軍との間で成立した解決条件を、わが政府は承認する。
二、国民政府にたいして、軍事行動の即時停止を要求する。(略)
三、国民政府において右二の要求を受諾する場合には、この上の派兵を中止するとともに増派部隊は前記一の条件の履行をまってすみやかに帰還させる。
四、右の次第を中外に声明する。
七月十六日 閣議において未だ正式討議の運びにいたらない。」
この外務省案は石射東亜局長を中心に作成されたもので、後宮・豊田陸海両軍務局長の同意を得て、翌十六日の閣議で承認を受けた後、国民政府と交渉に入る予定であった。米内手記では、この間の過程を詳しく記している。
「同日正午前後、陸軍省軍務局長(後宮淳)は外務省東亜局にて…(現地の)会見の模様について意見をかわした。(先方冀察政権側の希望略42)
右について意見をかわした結果、大局上から、このさい先方の提案を承認することが適当であるとの意見に一致した。ところが、後宮軍務局長はいったん陸軍省にかえり、しばらくして彼は外務省に電話をかけ、
「陸軍省においては、すでに方針が決定していた。そこで、さきほどの話合いは、すべて水に流されたし」
と申し入れた。なお、中央軍の即時復帰を期限付き(七月十九日)にて要求してもらいたいといった。」
実松秘書官はこのころ「陸軍はほんとにこまったものだ」と米内さんの口から何度も耳にしたと回想している。「人にあまりぶつぶつ言ったことのない米内さんが、このころ、五相会議から帰ってくると、「五相会議なんか、駄目だ。五相会議で、折角きめても、外務省と陸軍省の間にやっと話合いがついても、あとから電話がかかってきて、「省に帰ってみたら、参謀本部の連中がみんな憤慨しており、陸軍の方針はすでに決定しているということなので、さきほどの話合いは全部水に流していただきたい」というようじゃあ、どうにもならない」と山本(五十六)次官や近藤(泰一郎)先任副官を捕まえて、珍しくぶつぶつと愚痴を言った。」と実松秘書官は回想している。また米内海相は近藤副官に
「君、揚子江の水は一本の棒ぐいではくいとめられはせんよ」ともいっていた。(43)
結局、外務省から掲示された対南京交渉案は遂に正式に閣議で話し合われることはなかった。後宮軍務局長が無力であるというよりも、そこには軍務局長の参加なしに決定された方針という陸軍の下克上が表れており米内もその陸軍の無統制ぶりに失望している。いくら米内ががんばっても、陸軍がこのありさまでは「一本の棒」では激流はとめられないよ、と米内も呟かざるをえないだろう。
十六日の閣議後、内務・海・陸・外務の四大臣が会談しているときに米内海軍大臣は「これは一時も早く解決しなければ駄目だ。期限でもつけて催促したらどうだ。現地の問題は現地で解決するとしても結局根本的に考慮を要すべき時だ」
としきりに発言。米内はこの発言をこの後の近衛首相との会談と翌日の閣議と記録上三度繰り返すことになる。期限付きとはいっても「最後通牒的な内容では困る」ともしきりに言っており、米内はこの後の首相との会談では「時局が速やかに解決しなければ、内地から出す準備の出来る前に局地的に解決しなければ、もし準備が出来てしまえば、陸軍はなかなか局地的にだけでは済まない。口では現地解決と言っているけれども、なかなか済まないで、のっぴきならない状態になりやせんかということを心配している。」と発言し、一時的に派兵は中止されているが、これが派兵されてしまってはどうしようもなくなる、準備が出来たら全面戦争になってしまうという陸軍への不信感・危機感を感じ、派兵準備が出来る前に解決しなければという米内の切実な焦りが感じられる。(44)
さらにこのときの近衛首相は胃腸障害でいささか不快ということで、十三日以降十八日までの閣議や会議を欠席しており、この重要期に首相抜きで話を進めていかなければならない状態であった。そのためか、首相はこの日、各大臣を個別に私邸に招いている。
米内手記は、十六日午後九時に近衛総理の私邸を訪問し会談した場面が最後となっている。そこには局地解決をあせり、陸軍をたしなめてほしいと願う米内の姿が垣間見れる。
「首相はいう。
「将来の問題ではあるが、たとえ今回の問題が解決するにしても、あいついで同様の問題がおこらぬともかぎらない。そこで、今回の問題を解決すると同時に、根本的に対中国問題を解決するような談判をはじめてどうかと思う。…そこで広田外相らをわずらわして、じかに蒋と談判してはどうだろうか。いったい、外務省は問題を事務的にのみ見て、政治的に考えていないように思われる。…あなたは、どう思うか」
海相は、こう答えた。
「御意見は、ごもっともである。まず首相から、直接外相に話されたい。海相としては、裏面から外相を説得することがよろしいと思う。いずれにしても、事件はさしあたり局地解決を急がねばならない。そうでなければ、好むと好まざるとにかかわらず、事件は拡大する可能性がある。いったい、首相は陸軍のやり方を、どう考えておられるか。自分(米内)は、すこぶる憂鬱にたえないものがある。きょう陸軍軍務局長の外務省東亜局における行動のごときは、その例証とみるべきである。首相より陸軍大臣にたいし、なんとか注意を喚起するよう、考慮されることを切望してやまない」
首相は問う。
「陸軍省軍務局長の行動とは、どういうことか」
海相は、これについて説明する。
首相はいう。
「どうも陸軍のやり方は、こまったものですな」
海相はいう。
「外相をわずらわすにしても、先決問題は陸軍の態度をはっきりと一本立てにすることです。そうでなければ、いかに外相らを派遣しても効果は望まれない。この点、首相のじゅうぶんな考慮をわずらしたいと思います」
午後十時すぎ会談をおわる。
以上をもって事変拡大の序幕とする。」(45)
これだけでも米内海相の焦りが手にとるようにわかるだろう。以下高田氏や秦氏も著作において触れている事(46)ではあるが、これまで米内はしきりに事変の早期収拾を訴え、できなければ事変が拡大する可能性は大きいとしていた。また近衛首相に陸軍に注意を喚起して欲しいと訴えているが、それに対し近衛首相は他人事のように「陸軍のやり方は、こまったものですな」と、とても一国の首相のせりふとは思えないことを発している。米内自ら陸軍をたしなめ、蒋介石と談合するよう外相に勧めるという積極的行動をおこせばよい、というのは職責観念に厳しい米内としては越権行為であり、この点米内は消極的といわれるかもしれないが、この時点では危機意識はあっても終戦時の非常な緊迫時とは違い、これが米内としては限界であると思われる。米内は海相としてできるだけのことはしているが、しかし問題なのは近衛総理にあるといえる。海相が外相に外交問題の方針を示唆するのは越権であり、陸相に部内の統制をしっかりしろ、と海相がいえば陸海軍の無用な喧嘩を招くだけである。しかし、首相が内閣の首班として外相に示唆し「こまった」陸軍に注意を喚起することは越権ではなく、むしろ首相の職責である。米内海相としては国務大臣の職責として近衛首相に「先決問題として陸軍の態度をはっきりと一本立てすることに首相のじゅうぶんな考慮をわずらしたい」と進言するのが職責の限界であろうと思われる。米内もこの会見をもって「事変拡大の序幕」として筆を置いている。米内は近衛の首相としての自覚のなさを痛感して手記を記したと思われる。米内から事変拡大を注意されてもそれを理解しなかった近衛首相は事変拡大の大きな責任があるといわざるを得ない。
翌十七日の会議も近衛首相は欠席し外・陸・海・蔵・内相の五相会談が行われている。杉山陸相は七月十九日を限度(47)とした期限付き交渉案を提案。しかしこの陸軍案には「支那側右期限内ニ我カ要求事項ヲ履行セサルトキハ我カ軍ハ現地交渉ヲ打切リ第二十九軍ヲ膺懲ス」(48)という最後通告的内容が含まれていたため、米内海相は「一つ期限をつけて早く解決してもらいたい。ただその期限付解決の内容が最後通牒のようなものでは困る。」とふたたびしきりに発言。(49)討議の結果陸相の案は了承され、要求を実行しない可能性を考慮し次の内地部隊動員を十九日ごろとすることも了承された。ただ、交渉の要件は中央から指示せず、現地軍の裁量に一任されることとなった。また南京の日高信六郎参事官(50)に南京政府に北上中の中央軍を復帰せしめること、現地解決を妨害しないこと、を要求するように指示している。
山本次官はこれらに対し「纏まらないような、即ち向こうが受け入れることのできないような条件は出さない方がいい。」「責任転嫁されて海軍に対する悪声を放たれては困る…陸軍は実際はこう思うが自分達だけで駄目なら助けることも辞せぬが、腹を割って話せ。海軍は外務省のと少しも変わらず。」と原田熊雄に語っている。(51)
現地ではすでに指示をうける前から交渉が進んでおり、十七日夜に冀察政権側の宋哲元から支那駐屯軍の提案を承認する回答があり、十九日には調印された。しかしこの調印よりさきに南京の日高参事官に提出された南京政府側の蒋介石公文は、日本側の要求を拒絶したものであった。(52)外務省では、首脳者会議を開いた結果、国民政府の回答内容は日本政府の承服しがたいことであり、国民政府の誠意のくむべきものはないとし「日本側の要望に対する中国側の全面的拒否とみなす」との声明を発表し日支交渉は一応打ち切らねばならぬこととなった。(53)この回答は二日前に廬山談話会で蒋介石が行った「もし不幸にして最後の関頭に立ち至らば、徹底的犠牲、徹底的抗戦に依り、全民族の生命を賭して国家の存続を求むべきなり」という「最後の関頭」演説の趣旨に添うものであり(公表は十九日)重大な決意を示していた。(54)
このころ馬場内務大臣は「閣内にいかにも政治家が少く、たとへば広田外務大臣の如きはあまりに消極的で、かういふ大事な時に進んでちっとも発言しない。自分のような素人が見てをっても甚だはがゆいそうな感じをもつ。やむを得ず自分が先に立って、何かいわなくちやあならないやうなことになるので、実は困っている。」と発言し、一方近衛首相は、「北支出兵の問題を議するについて推進力になる人物がいない。それでやみを得ず陸海軍、外務三省会議もおのおのが困ってしまっているから事柄を進めるために…馬場内務大臣を一枚加えると、他の大臣から「何のために内務大臣を入れたんだ」というような苦情もでる。殊に外陸両大臣はお互いに遠慮し合って実に困る。」とまことに頼りない様子が原田によって語られている。(55)
近衛はのちに「陸軍部内の意見といふものは一體何處から生まれて來るものであるかは余も判らず、正體無き統帥の影に内閣もまた操られたのである。」「余が大命を拝した頃は既に満州事変以来陸軍がやった諸々の策動が次第に実を結び、大陸では既に一触即発の状態にあつたらしく、余も支那の問題が武力を用ひる程に深刻化してゐたことも無論判らず組閣後僅か一月を出でずして廬溝橋事件が勃発し支那事変へと発展したのである。當時かゝる事件が勃発することは政府の人は勿論一向に知らず、陸軍の本省も知らず専ら出先の策謀によつたものである。」(56)と語っているが、結局は川辺課長のいう「政治家に本当に戦争を引き受ける気持ちがなければ駄目だと思います。政治家 近衛首相、広田外相等当時は軍に「オベッカ」を使っていた政府であります。何事でも「軍はどうゆう風に思っているか」というて心配する非常に勇気のない政府でありまして、軍に問うては事を決するというやり方で、政治的に全責任を負い戦いも戦わざるも国家大局の着眼からやっていこうというものはなかった事をつくづく思います。広田さんは相当な見識を持った人でありましたけれども、何しろ軍の意向を聞かなければ外務大臣としての仕事が出来ないという状況で、「外相として苦しい立場にあろうけれども、何もかも軍の言うことを聞かんでも正しいと思うことは貴方が強調し実行せられたら如何です」と私は申し上げたことがあります。近衛公爵は、当時は大いに軍の鼻息を窺っているかの如く真に戦争指導の根元を把握してやる大政治家としてのやり方はなかったと思います。」(57)という意見に当時の政府の状況をみることができるだろう。
七月二十日には、これらの動きを鑑み、再び派兵問題が討議されることになった。
午前の閣議で杉山陸相は「南京政府の回答不誠意なるに鑑み支那側の協定に対する誠意ある実行の監視並びに中央軍に対する準備として速やかに内地より三個師団を出兵したい」と提議した。それに対して米内海相は「南京政府は、中央軍の北上は自衛上やむを得ないと主張している。この際出兵することは南京政府に対して挑戦することにならないか」と発言。閣僚からも現地で細目協定が調印されているのに何故出兵するのか、出兵名文が立ちがたい等の意見が出され、広田外相や近衛首相も動員に反対している。結局は同時に進行している南京での交渉結果の判明をまって態度をきめることとなった。
午後の閣議前にこの間に起きた中国側の不法射撃や南京の会談の結果が伝わり、その日の夜の閣議において杉山陸相は「中国側には協定を実行する誠意が認められない。居留民の保護、軍自衛のため、動員派兵が必要である。情勢は切迫している」と発言。結果として「動員発令後も事態が好転すればただちに復員するという条件付きで、内地三個師団を北支に派兵する」ことが決定した。(58)
またこの日の閣議で、海相は陸相に対し「中支にも陸兵を出せるか」とただし陸相は渋ったが出すと返答。これに対し海相は「それならよい」と答え、そこで石射局長は「海相が派兵を支持したそうである。これは約束が違うではないか」と海軍に詰問に来たが豊田軍務局長は「それは考え方がたりぬ。海相のは、全面的作戦になることを警告した言い回しに他ならぬ」と返答したという。(59)米内海相としては陸軍が派兵するなら、中支まで拡大し全面戦争になるぞ、という気持がそこにはあり、常に海軍としては中支への飛火を心配していたことがわかる。
また外務省の石射局長は上村課長と連名で広田外相に善処を進言したが、派兵決定に失望し「事務当局の進言も嘆願もご採用なく、動員に賛成せられたのは、事務当局不信任に他ならないと思います」と前置きし辞職を願い出てたが、広田外相は「黙れ、閣議の事情も知らぬくせに余計なことをいうな」と一喝したという。(60) 当然、広田外相やまた米内海相にも事情はあっただろうが、こうあっさりと派兵が決まってしまうという結果に、早期収拾を必死に願っていた海軍や外務の努力は陸軍という存在に対して無力でしかないのか、という思いを抱かずにはいられない。
しかし、翌二十一日朝、現地視察に赴いていた中島参謀本部総務部長と柴山軍務課長が帰国。現地で橋本支那駐屯軍参謀長に「不拡大と称し中央は続々と兵力を北支に注いでいるではないか。このような矛盾をやり、なにが不拡大か。これでは不拡大では収まらぬ。」(61)と一喝されてきた両名は「支那駐屯軍は統制が見事に保たれ、むしろ静穏すぎるくらいである。内地師団を必要とする情勢ではない」と報告。その橋本参謀長からも天津の宋哲元が日本の追加条件を呑んで交渉が妥協したと報告。これらを鑑み二十二日の閣議で、再び派兵は保留と正式に決定された。(62)
現地視察から帰国した柴山大佐は外務省東亜局で上村課長に「どうも驚いたね。現地は全く静かなのに、帰りに朝鮮を通ると、あわただしい空気で、おかしいなと思った。東京に着くと、まるで戦争気分じゃないか。これはまたどうしたことなんだ」と語っている。「この重大事になぜ汽車なんかで帰ってきたのか」上村が反問すると、「飛行機の座席が取れなかった」と柴山大佐は答えている。上村は、軍務課長ともあろう人物が飛行機の座席がとれないはずはない。帰京が遅れたについては言うに言われぬ事情があるのだろう。軍の内部は奇々怪々なことがあるようだ(63)と触れているが、不拡大派の柴山大佐の帰国を遅らすために何者かが手を回した可能性が大きそうである。
以前原田熊雄も見解していたように、現地はいたって静穏であり、どうも戦争気分で騒がしいのは東京の一部のようである。このような状態で国策が決定されていくわけだから、その判断が狂ってしまうのもやむを得ないといえる。しかし、このような統制がとれていない状態であるがゆえに拡大派が勢力を広げ、まったく無意味な、中国側を挑発するだけの派兵声明をたびたび行ってしまう羽目となってしまていった。
外務石射局長は二十三日の日記に「世の中はだいぶ静かになった」(64)と記し、二十五日に南京では国民政府も現地協定を黙認する意向であることが明らかになり、「もうしめた、次のステップは中日国交の大乗的調整に乗り出すばかりだ。私の胸は爽快になった。」と回想している。
しかし、二十五日に「郎坊事件」(65)二十六日に「広安門事件」(66)そして二十七日には冀東政府の通州で叛乱が起き、状況は大きく一転することとなる。
現地では、この時点に至りもはや不拡大主義は不可能であり、拡大主義に踏み切ることとなる。東京でも、二十七日の閣議において内地三箇師団の動員が上程され、たいした議論もなく閣議決定となり、同夕動員案が発令された。
二十八日に海軍は北支派兵に関する「大海令第一号」(67)を伏見宮軍令部総長から「奉勅」として永野連合艦隊司令長官あてに発出している。また二十九日には一度鎮圧した通州で「通州事件」(68)がおき、石射局長は「悪魔は一人ではなく三人連れであった」と嘆くことになる。(69)
二十七日に支那駐屯軍は一斉攻撃を開始。内地師団が到着するよりもはやく、三十日には永定河以北が平定されている。
「この戦争開始とともに参謀本部の連中は、よく東亜局に現れて、日本の軍事力から見ても無理な話であとは外務省よろしく頼むといったものである。統帥部としてはそれが本音であろう。統帥部には軍事的に収拾する自信が初めからなかったのである。さりとて戦争を始めて直ぐ政治的収拾ができるぐらいなら、戦争にはならなかったはずで、問題はすべて軍内部の統制いかんにかかっていた。外交は魔術ではないから、ごまかしだけで瞞着することはできないのである」と外務省の上村課長は当時の陸軍を記している。(70)
しかし三十日、 陛下の思し召しによって伺候した近衛首相に対し、「(永定河以北を平定すれば)もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか」とお言葉があり、首相は「速やかに時局収拾を図る」旨を奉答している。(71)
この話が、陸軍にも伝えられ、翌日、陸軍柴山課長から石射局長に正式に外交交渉の申し込みがなされている。(72)
これより前、事変解決案は幾多かあったが、これまでの陸軍主導の処理案に対して、海軍および外務は対抗意識を燃やしていた。米内海相も斡旋には積極的であり、海軍は全面的に外務省石射局長案に協力することになった。このとき陸軍省柴山課長や参謀本部石原部長と海軍・外務が詳細の検討をはじめ、八月二日に首・陸・海・外相が外交交渉の瀬踏みを了承した。(73)この外交工作を引き受けたのが中国側に知友が多い元外交官の船津辰一郎であり、いわゆる「船津工作」が開始されることとなった。以下「船津工作」については石射の「外交官の一生」や上村の「日本外交史」などに詳しいので、ここでは詳細をさけたい。
結果としては、この船津工作は出先の川越大使に横取りされる形となっていしまい、海軍からは「陸軍の病気が外務省にもうつったな」と皮肉られる状態であり、このころには上海の方が怪しくなってきた。(74)この交渉中に「北支における日支の衝突は直ちに中支に反映する。」(75)といわれる上海の情勢が爆発寸前であり、ついに八月九日には「大山事件」(76)が勃発し上海出兵・全面戦争へと発展していくことになるが、中支派兵問題と海軍戦略については、次節で分析していきたい。
二.海軍戦略と中支派兵問題
前節において北支派兵が決定されるまでの政府の過程を分析したが、本節では八月にはいって中支に事変が拡大し全面戦争化していく過程をみていきたい。そこでまず中支派兵問題に関連する事変勃発時からの海軍の対支戦略を簡単に分析したい。
海軍があくまで不拡大であったことは前節で触れており、七月十二日軍令部策定の「対支作戦用兵に関する内示事項(統帥部腹案)」(77)でも原則的に不拡大・居留民保護を本旨としていたが、十六日の現地第三艦隊司令長官長谷川清中将からの意見具申は積極意見であった。(78)出先の長谷川長官は、すでにこの時点で上海の危機を感じており「支那膺懲ヲ作戦ノ単一目的トシ」「支那ノ使命ヲ制スル為ニハ上海及南京ヲ制スルヲ以テ最要トス」と積極的であり「中支作戦の為には陸軍五箇師団と航空部隊の先制攻撃が必要」と早くも派兵の必要性を意見具申している。この時点の中央は絶対不拡大であったが、以後軍令部では不拡大の看板を掲げるが、拡大の可能性も考慮し作戦優先の方針に傾いていくことになる。(79)
(以下、海軍の中南支における行動は出典なき場合「中支出兵の決定」に基づく(80))
情勢の悪化していた二十四日には上海において特別陸戦隊の宮崎一等水兵が行方不明になるといういわゆる「宮崎水兵事件」がおきる。拉致との情報もあり海軍は警戒態勢をとるが、のちに逃亡の疑いもあるとし二十五日に陸戦隊・中国側双方とも警戒解除した。二十七日に宮崎水兵は投水自殺せんとするところを救助され、翌日南京総領事館に送致され事件は事なきを得た。海軍中央部はこの事件に対し「政府の方針並びに陸軍の内情等を鑑み大袈裟に取り扱わざる如く言論機関を指導」し「外務官警を通し南京政府及び上海市政府工部局に対し排抗日運動を厳重取締まることを要求」というように極めて冷静に対処っしており、事件を騒ぎ立てるようなまねは決してしなかった。この事件が陸軍管轄で起きていたならば事件が拡大する可能性は大いに推測でき、この点海軍の統制はしっかりと取れていたといえる。軍令部作成の「中支出兵の決定」ではこの事件を「当時悪化しつつありし中支の情勢に一時相当の緊張を与へたる本事件は斯くして事なく決着せるが帝国海軍としては体内対外共に面目を失せる観無きに非ざりき」と宮崎水兵事件に関して筆を結んでいる。
事態の悪化に伴い、最も機微とする問題は、揚子江沿岸各地にある居留民の引き上げであった。過早な引揚げは、現地にある邦人の権益・財産の無駄な放棄を強請するばかりではなく、中国側からは、日本敗退の兆しありととられ、あるいは逆に開戦の意図とも解され、いずれにしても、事態をいよいよ危険にするおそれがあった。現地では早期引揚げを要請していたが、政府及び海軍は、北支での総攻撃の始まった七月二十八日に漢口より上流の居留民の引き上げを実行することになる。(81)
八月二日には在東京中国海軍武官が「中南支方面に事を及ぼすときは海軍の全面的攻撃予報せらる 切に同方面の日本居留民を保護し彼等を引揚げしむること勿れ」と訴えている。しかし居留民の生命に危機がせまれば、保護のため派兵が必要になる。その兼ね合いが難しい所であった。
漢口総領事代理松平忠久は「日本海軍の存在自体が、事態の危機感を与えるのであって、さもなければ漢口は平安であり…」と発言している。(82)この発言には、いままで中南支における居留民を保護してきた海軍の存在自体が否定されているが、これに関してはのちほど触れたい。
第三艦隊司令長官長谷川中将は八月三.四日と続けて作戦に関する意見具申をし、現地の情勢の悪化を訴えている。(83)
そのころ中央では海軍省と軍令部に作戦指導に対する意見の相違がみられ、軍令部作成の「中支出兵の決定」では
「当時青島、漢口、上海方面情勢は危機一発の情勢に在り。彼より積極的攻勢に出づることなからんも突発事件発生起せば之を契機に戦闘生起は必然なりしなり。
海軍としては揚子江流域邦人引揚完了後にあらざれば徹底的作戦は実施せざる立前にて従って局部的事端の発生は局地的以外には及ばざるべからず…」
「軍令部としては右事態の急迫に鑑み全面的戦争避くべからずとなし此の際作戦実施上最も影響ある漢口下流在留邦人引揚を即時実施方主張せるも海軍省外務省に抵抗あり遂に未だ発令せらるるに至らず引揚完了前戦闘開始されんか作戦上極めて不利あり」
「要するに現状は軍令部としては海軍用兵の見地より一歩を進むる要あるに立ち至りしが外務側居留民引揚に対する態度煮え切らざるのみならず海軍省首脳部も亦八月初旬在南京日高代理大使が実行中の外交交渉に望を嘱し、逼迫する実情の存せしにも関らず居留民の漢口引揚にすら同意せざる情態なりき。」
といったように、軍令部は作戦上の強烈な批判を外務省及び海軍省にむけることとなる。
八月四日には陸軍寺田参謀本部部員が「嘗ての話合ひにては八月四五日頃には居留民引揚げを終り作戦を積極化し得る筈なるに…未だ其の運に至り居らざる様子なり 海軍関係の諸準備の現状承り度し」と尋ね、それに対し軍令部福留繁第一課長は「海軍としては極めて不愉快なる作戦振りなれど政府の不拡大方針に抑制せられ尚手出しを慎み支那の出方を見つつあり…全面作戦開始となれば直に動き得る兵力を動かして大いにやる積もりなり…」とその不満を述べている。
一方で八月六日頃には現地の松本重治同盟通信上海支局長が散歩中に中国保安隊や正規軍が徐々に上海を包囲していることを感じ取り、中国側の対戦準備の一環ではないかと悟って東京に打電したところ、翌日嶋田軍令部次長から訓電があり「(昨日の電報は)上海内外の情勢を誇大に描いたアラーミングな電報である。海軍は不拡大に徹しているので、松本支局長が、ああいう調子で打電し続けるのは軍の方針に背馳することになる。」という意味が返ってきたという。(84)これらのことから軍令部の嶋田次長はいまだ不拡大方針であったが軍令部全体としては全面戦争にむけて動きだしていたことがわかる。
しかしその後も情勢悪化が伝えられ、その六日午前には海軍省軍令部間で協議が行われ、第三艦隊に向けて次官次長連名で電報が送られた。
一 爰一両日ハ最モ重要ナル外交上ノ転換時機ニアルニ付此ノ際特ニ麾下竝ニ居留民ヲ引緊メ隠忍自重セシメ事ヲ起ササル様セラレ度
二 漢口居留民ノ引揚ニ関シテハ現地外務官憲トモ充分協議ノ上現地ノ状況ニ応ズル如ク適当に処理セラレ度シ
この電報により漢口居留民がようやく引き揚げることとなるが、米内海相をはじめ海軍省としては「最も重要なる外交」すなわち船津工作に対する期待が大きく「隠忍自重」を訴えているのがわかる。
同じ日の午後には「大海令八号」が第三艦隊に発令された。そこでは「居留民の引き揚げ待って艦隊並びに陸戦隊を上海方面に集結」させ作戦準備をとるように命令がだされた。(85)
船津の上海入りは八月八日であり、懸念されていた揚子江沿岸の引き揚げが完了したのが、九日であった。しかし同日夕方「大山事件」が勃発し、上海をとりまく情勢が大きく変化することになる。
軍令部では解決策を要求し(86)「大山事件」を単なる勃発事件ではなく、昂揚した排日抗日の気勢と日本の武力に対する軽蔑が上海停戦協定の精神を蹂躙したものであり、支那側の不穏な情勢のなせる必然の結果であるとしている。
また解決策は「現に進行中なる外交交渉を阻礙するやの懸念あるべきも」としているが「断乎として実力行使も敢えて辞せざるの決意を示す事に依り側面的に本外交交渉を支援するの結果ともなるべきものと観察す」(87)と理由付けし強行的になってきた。
軍令部は「大山事件」勃発前の六日に派兵準備を海軍省に申し入れており、海軍省としても居留民保護のための派兵は否定する理由もなく米内海相は翌七日に杉山陸軍大臣に派兵準備を申し入れている。
その後に「大山事件」が勃発し、軍令部は積極的増兵を直に行い、事態急進するなら陸軍兵力によって処断するしかないと検討していたが、事件翌十日に山本海軍次官及び嶋田軍令部次長は長谷川第三艦隊司令長官に時局指導の次の如く申進している。(88)
「目下外交交渉進行中にして最も慎重を要する時機にてもあり旁旁事態の解決は窮極は武力に依るの外無きに 至るとするも陸軍の派兵には相当の時日を要するのみならず我方より攻撃を開始せざる限り支那側より攻撃せざる中央政府の意向なる旨の特情もある次第なるを考慮し大山中尉射殺事件に対する当面の処置は先づ真相を糾明する等必要なる外交的措置を執ることとし可及的事態を急速破局に導かしめざる様致し度」
これは大山事件後も「最も慎重を要する時機」であるからと外交交渉に望みをつないでいるのは米内海相以下海軍省側と思われ、一方で「事態の解決は窮極は武力に依る」として一刻も早く派兵したい軍令部との方針が違う妥協の電報であることが推測ができる。
その十日に軍令部は陸軍兵力派遣の件を海軍より提議して閣議に諮することを要求している。近藤軍令部第一部長より動員実施の必要を訴えられたのに対し米内海軍大臣は「動員部隊を内地に止め置くこと可能なりや」と質問。これに対して近藤部長は参謀本部との研究により「前例もあり差支なし」と返答。しかし米内海相は目下進行中の機微なる外交措置に望を嘱し「今明日中に何とか其の成果を期待し得べきを以て閣議に於て今後の情勢に応じ直に要求貫徹を容易ならしむる如く措置し置くべきも今日直に陸軍派兵の件を決定するのは暫く待たれ度し」と派兵実施の返答を保留。軍令部としては今後の事態に応じ「何時にても要求する」こととなり、省部の溝が深まりつつあった。(89)
同じ十日に横井軍令部第一部甲部員が動員遅延に対して意見書を提出している。一部抜粋すると、「(略)帝国として今日執るべき対策は東洋平和の大局的見地よりする公平至純なる外交交渉を促進すると共に支那側に於て遂に反省する処無ければその飽くなき非違不法を糾弾是正する為直ちに断固たる一撃を加へ得るの準備を完成し両々相俟つて速に時局の解決を図るをなし、最近の外交交渉に対しては深くその内容を審にせざるも関係者の善処に信頼する事とし一方戦略的準備完からざる方面を速に充足する事肝要なり(略)支那側の巧妙なる引延し外交手段に翻弄せられ所謂「明日の吉報」のみ鵜首して現地逼迫の情勢に強いて目を蔽はんとするに於ては対策機宜を失し遂に我国が東亜の安定勢力たるの地位は有名無実となり帝国の国威空しく泥土に委し去らんのみ。」(90)と海軍省に対して痛烈な批判が行われている。
翌十一日に軍令部にて嶋田次長以下軍令部幹部が大山事件に対する相会をしている。ここでは「外交交渉とは別に局地的解決を期する」「停戦協定の誠実なる実行」「期限付要求」などと付帯して「陸軍派兵準備を促進する」ことが話し合われたが、海軍省側と協議の結果「現在国的方針は事件不拡大にして上海方面に事を起こすの決意なくして同意出来ざる軍令部案には直に同意し能はず」ということで物別れに終わった。軍令部福留作戦課長は当時の状況を「大山事件に関連し陸軍派兵動員に関する閣議の提議は今日にても開かるる様促進せしが事は高等政策に移り大臣総長にて話進行中なり(中略)我が要求を容れざるべきを以て其の時は陸軍を以て積極的に追払ふ斯くせば名分も立つべしこの為には尚一両日を要すべし」としており、軍令部としては「これに関し現在にては海軍省側に尚はっきりせぬ者あり」と海軍省に痛烈な批判をしている。海軍省の米内海相・山本次官・豊田軍務局長・保科一課長などがおもな派兵反対者であり、彼等は軍令部の派兵要請に応じなかった。
ここにいたり軍令部は陸軍出兵促進の必要のため、ついに伏見宮軍令部総長が米内海相を「招致」するという非常手段をとることになる。役職としては海相の方が高いが、皇族という絶大な権力をもって大臣を「招致」している。
要点を抜粋していくと伏見宮総長は「…支那側の態度不遜なり今や陸兵を上海に派遣して治安維持を図るを要する時機に達せり而して陸兵派遣は同時に外交交渉を促進せしむるものと認む 海軍大臣の所信如何」との質問に対して米内海相は「上海方面に於いて支那側の停戦協定蹂躙の確証なし 大山事件は一の事故なり何れも交渉の余地残れり而も目下の処上海方面に大なる変化なし 今打つべき手あるに拘らず直に攻撃するは大義名分立たず今暫く模様を見度し 公言は出来ざれ共停戦区域には正規兵は居らず「トーチカ」塹壕等は防禦の為の準備なり 我が居留民に危害を及ぼすが如き事態に至らば直に出兵すべし但し陸軍の事情は対蘇作戦を考ふる時は青島上海方面に使用し得る兵力は各一箇師団に過ぎず斯くの如きことにては如何ともすべからず…上海方面への陸兵派遣はこの辺のことも充分に考へたる上決行せねばならぬものと思考す」(91)と返答している。高田氏はこの米内発言を上海方面変化なしといいきるのはいささか鈍感すぎるが、状況を冷静に分析しており、攻撃は名分がないと考えていることは、中国側の非がひとり彼のみにあるのではないとみているに違いないとしている。(92)
その米内もさすがに居留民に危害が及ぶときは出兵やむなしと答えているが、軍令部の計画する兵力展開は認めるが、陸軍の派兵には慎重であるという海相の判断には海軍は部隊の配備が容易でありいつでも派兵撤回ができるが、陸軍は中途変更が容易でないというようなことを踏まえた上で(93)派兵はせずに不拡大堅持という政戦略が米内に働き、その相手がたとえ宮様でも良識な判断と自信のもとに行動していたということがわかる。
十二日になっても海軍省の決意は堅く、この日も「然るに海軍省事務当局は最後迄不拡大方針を堅持し結局海軍省事務局長軍令部第一部長の協議は依然として何等の進展を見ずして夕刻に至れり」と軍令部を嘆かせることになる。また陸軍は動員開始から上海方面に展開を開始するまで二十日を要する、ということを参謀本部から連絡された軍令部は「動員下令と日支衝突同時に始まれば陸戦隊は単独にて約二十日間戦闘を継続するを要する次第なり…ここに於て上海がこの期間孤立するの恐れあり…」と焦りも出始めている。
さらに十二日の午後五時五十分に現地から、中国軍が続々と進出しており万一に備えるため警戒兵を配備し「速ニ陸軍派兵ノ促進緊要ナリト認メラル」という電報(94)が届き状況が緊迫してくることになる。この緊要なる要請を受けて嶋田軍令部次長と米内海相の協議がおこなわれることになる。嶋田次長が米内海相に対して「逼迫せる状況に鑑み最早最後の手段を採らざるべからざること」を申し入れ海相も事態の急変からこれに同意することになる。そこでは「陸軍出兵に関する政府の方針決定の為即夜臨時閣議を要請する」ということなどが話し合われた。
そして十二日夜に近衛首相・米内海相・杉山陸相・広田外相の四相会議が開催され米内海相より陸軍派兵の方針決定を要求した。「各大臣共事態斯くなる以上何れも異存なく、翌十三日午前九時正式閣議を開き之を決定することとなれり。」となったが、解散後に杉山陸相より米内海相に対して秘書官より「参謀本部は支那側の戦備意外に進捗し当初の計画時とは上海方面著しく状況の変化を来たしたる為出兵に就きては最も慎重に考慮を要する旨通告ありたり」と陸軍としては中南支派兵をしたくない旨を伝えてきている。さらにその日の夜に軍令部員が参謀本部にて打ち合わせをしていると参謀本部石原第一部長が上海に対する陸軍即派に関し否定的陳述をおこない、武藤第三課長も作戦の困難を訴えている。(95)
現地では十三日午後に戦闘状態となり、上海海軍特別陸戦隊司令官大川内傳七少将は
「全軍戦闘配置に就き警戒を厳にせよ」と下令。「中支出兵の決定」は「茲に中支に於ける日支戦端は開始せらるるに至れり」と筆を置いている。
石原莞爾は日華事変中昭和十四年に回想している(96)がそこで「上海に飛火する可能性は海軍が揚子江に艦隊を持って居る為であります。何となれば此の艦隊は昔支那が弱い時のもので現今の如く軍事的に発展した時には居留民の保護は到底出来ず、一旦緩急あれば揚子江に浮かんでは居れないのであります。(略)だいたい漢口の居留民引揚は有史以来無いことであり若し揚子江沿岸が無事に終わったならば海軍の面子がないことになります。(略)今次の上海出兵は海軍が陸軍を引摺って行ったものと云っても差し支えないと思ふのでありまして、そこに機微なるものがあると私は思ふのであります。」といった発言をしている。これは松平総領事代理の意見に通じるものがあるが、艦隊は任務として居留民の生命財産を保護しているのであって、事実を否定することは海軍の用兵を知らない人間の発言である。また協定がなければ生命の危機が迫っている現状を見捨てるのか、と疑問を感じてしまう。すでに海軍として出来うる限りのことを行ってきており、引くに引けない状態であったことももこれまでみてきた通りである。
上海に事変が飛び火したころ、米内は「上海から陸軍の派遣を要求して来ているのだが、こういう時に備えて駐屯させている陸戦隊だから、陸軍の派兵は好ましくないと思っている」と半ば独語しながら憂慮に堪えぬようであった(97)と緒方竹虎が回想しているが、十三日に閣議で結局上海への派兵を決定することになる。
十四日の閣議は深夜に及び上海に続き青島方面の増兵も決定する。このときの閣議の様子は「上海派兵をしても不拡大方針を貫けるか」「もはや北支事変は不拡大の時期ではない。全面戦争準備に移るべきだ」「北支事変を日支事変と改称すべき」(98)というような意見が飛び交うことになる。陸軍としては華中方面には出兵したくないため、なお不拡大方針を唱え、広田外相も賀屋蔵相も不拡大を訴える。一方で米内海相は上海の事情を説明したが状況は以下の通りであった。「斯クナル上ハ事態不拡大ハ消滅シ、北支事変ハ日支事変トナリタリトシ三省当局ニテ立案シアリシ政府声明ニ手ヲ入レ可決、外相ハ依然不拡大ノ考ヲ述ヘ声明モ必要ナシト述ヘ、海相之ヲ論駁シ、外相ヨリ国防方針ヲ承リ度ト云ヒ、海相ハ国防方針ハ当面ノ敵ヲ速ニ撃滅スルニ在リト 蔵相ハ経費ノ点ヨリ渋リアリタリ 海相ヨリ陸相ヘ、日支全面作戦トナリシ上ハ南京ヲ打ツガ当然ナリ、兵力行使上ノ事ハアランモ主義トシテ斯クアラズヤト云ヒ、陸相ハ参謀本部ト良ク話スベキモ対蘇ノ考慮モアリ多数兵力ハ用ヒ得ズ」(99)またその時の臨時閣議では近衛首相が原田熊雄に「海軍大臣が非常に興奮して賀屋大蔵大臣を怒鳴りつけ、財政上の説明なんかはほとんどきかなかった。」(100)と語っているほど米内の態度は豹変している。
政治家としては派兵したくない米内も海軍大臣としては統帥上戦略上派兵しなくては収めることができず、その他の閣僚はその点に理解の差があることがわかる。米内海相としてはすでに戦いは中支に移っているのであって不拡大は事実上消滅しているのであって、こうなった以上速やかに当面の敵を撃滅することが国策であり、戦略的要求が優先されるべきだ、という判断のもとからの主張(101)ではあるが、一方の陸軍から見れば、海軍の豹変は「陸軍が強盗なら海軍は巾着切りだ」「上海出兵は陸軍を引きずってやった」という石原の発言による海軍批判へとつながることになる。(102)また閣議の席上中島鉄相から「いっそのこと、中国軍を徹底的にたたきつけてしまうという方針をとるのがいいのではないか」という意見の陳情もあり、永井逓相は同意したが閣議散会後杉山陸相はそれらの意見に対し「あんな考えを持っているばかもあるから驚く、困ったものだ」と風間書記官長にささやいたという。(103)あくまで陸軍は中支には手出しを出したくなかったということがわかるが、かといって責任を海軍に押しつけるのではなく、そもそもは陸軍から始まった事変対応に問題があり、中支は北支の問題ありきで勃発したものであると私は考えざるを得ない。
三、中支派兵決定後の海軍及び近衛内閣
前節では中支派兵決定の過程を分析してきた。本節では、八月十三日の実質的戦闘開始以後の海軍と米内光政について分析していきたい。
まずこの間の一連の海軍の動きをいくつかの日記で追ってみる。軍令部勤務の
高松宮殿下の日記を以下抜粋すると、(104)
九日「も早や不拡大方針を捨てねばならぬ事態であらう。まことに残念な事なり。もとより、直ちに作戦行動を上海に開始するのは兵力上不利であらうが、この事件は放置しても又より大きな支那側の不法行為となるであらう。(略)閣議にて、海相より、上海派遣師団の準備を提案するとしても、併し中々やつかひなり。その使ひ方が動きのとれぬものであらう。」
十一日「上海に特陸(呉、佐)第八艦隊、第一水雷艦隊が、十一日入港するのであるが、之が第三艦隊の麾下とされて第三艦隊長官の命令のみで、上海によばれたことは、今回の如き程度の事件には面白くない。しかも、この部隊の上陸、入港による結果が相当大きく支那側に影響し、その上、それによる交戦乃至対抗の結果が、全面戦争を誘致する予想のもとにおいて、特に不適当だと思ふ。 不拡大方針が変化を余儀なくせしめられる様なことを、出先の指揮官に一任しておくのは甚だ無責任なり。海軍内だけの問題としてゞなく、少くとも統帥部としての決定のもとに、いな、政府の決心のもとに行はるべきである。いな、陛下の御前にて決すべき事なり。」
十二日「新聞あたりも今度は「オツパジマラウ」と云う風だし、世間もそうした気持あり。大局の利もさることながら「海軍何してるか、引き上げばかりして、コワガッテゐる、何んのための警備か」と「不人気」になり「頼りないもの」に考へられることはあるだろう。そこが海軍のつらい処であるだろう。」
一六日「海軍も適当なる手段をとるの止む得ざるに至れりと云ってスッカリ気勢をあげて、現配備全力的作戦になったが、その結末は依然明確にならぬ。益々外交々渉の頓坐を来しただけである。尊き犠牲、而も海軍のは復旧し得ざる犠牲多きに関らず、そうしたまことに止むを得ざる次第なりてコマッたことなり」
と海軍の置かれた立場の心境が記されており、米内海相に通じる考えを持っていたことがわかる。
宇垣一成陸軍大将は日記(105)に「小児の火いぢりが遂に大火事になり相である。海軍も愈々上海で始めた様であるが、今日迄の行動は克く落付いて飽迄不拡大主義を循守し来りし様である。」(十五日)「陸軍が枝葉末節に拘はれて中央は出先に引摺られ、出先は先方から致されて不拡大を内外に高唱しながらも拡大の事実を展開するが如き不始末を演じ居るの際、海軍は自重して不拡大の主義に如何にも忠実循守の態度を堅持し来りしは機宜に適して居る。而して支那が我軍艦や陸戦本部や総領事館に爆撃を加へて交戦意志を明白になしたるや、毅然と立ちて杭州、広徳に一撃加へたり…応戦と決せば疾風迅雷的に的の心臓を衝くの作戦は全く吾人の念願する所なり。海軍当局の勇気と苦心に対しては重ねて国民の一員として敬意と謝意を表する。陸軍海軍の御手並は内外に明白となれり。次の働は霞ヶ関(外務省)の順番なり。好漢健在なりや、為二君国一切に健闘を祈る」(十六日)と陸軍の支那通は海軍を褒め称えているが、これは民間的な意見でもある。
のちに広田の次の外相として宇垣の下でも働くことになる外務省の「好漢」石射東亜局長の日記では、以下抜粋すると、(106)
「十日 火 昨夜上海で陸戦隊の大山(勇夫)中尉、斉藤水兵がモニュメント路で支那公安隊から殺される。又にぎやかになった。一波未平一波又起。モニュメント路なんて余慶(計)な処へ行ったものだ。
十一日 水 陸戦隊危く居留民危ない。海軍あせる。
十三日 金 上海では今朝九時からとうとう打出した。平和工作も一噸座(頓挫)である。折角居留民や邦商が芽が出そうになると砲煙弾雨にあらされる。長江筋の日本人も禍なる哉。 夕方昨日の通り会合。処理要綱なるものを議す。海軍もだんだん狼になりつつある。
十四日 土 陸戦隊は日本人保護なんかの使命はどこかに吹きとばして今や本腰に喧嘩だ。もう我慢ならぬと海軍の声明。
十九日 木 本日石原完爾の河相情報部長に内話する処によれば、支那軍に徹底的打撃を与える事は到底不可能と私の予見も其通り。日本はソビエットの思う壺に落ち込みつつある。新追加予算、陸海軍合わせて三十億と云ふ。愚かなる日本国民はどんな顔をするだろう。アザ笑うはロシアばかりでは無い、拙者もだ。
二十五日 水 上海派遣軍が防共の聖戦とか国共抗日の南京政府を掃蕩とか馬鹿げた声明をすると云ふのを差しとめて貰ふ。彼等は気が違って居るのだ。無知と功名心は往々同一カテゴリー下に来る。」
と海軍の豹変の具合と政府の対支政策にあきれはてているのが感じられる。以上、日記をもとに当時の雰囲気を簡単に推し量ってみた。
十四日深夜まで続いた閣議の延長である十五日午前一時に「廬溝橋事件に関する政府声明」がだされることになる。
「帝國としては最早隠忍其の限度に達し、支那側の暴戻を膺徴し以て南京政府の反省を促す為、今や断固たる措置をとるのやむなきに至れり。」(107)と七月の時点の声明文よりも強い決意が述べられている。
同じ頃中国でも十五日に総動員令が発令され、八月十五日をもって事実上の戦争状態に至ることになる。
米内海相は十五日に時局を奏上した際に
天皇から
「従来の海軍の態度、やり方に対しては充分信頼しておった。なおこの上とも感情に走らず、よく大局に着眼して誤りのないようにしてもらいたい。」と御言葉を戴いている。これは信頼できうる軍部大臣を得た思いで発せられた
天皇の言葉であったろうと思われ、米内はこの御言葉に恥じた様子がある。海軍省で米内は「十四日夜の海軍大臣の激した言葉を近衛総理大臣から上聞に達したように思われ、非常に恐懼した」様子であったという。(108)
天皇に「感情に走らず」と御言葉を戴いた米内は十四日は明らかに興奮していたということがわかる。そしてこの時以降「信頼」に答えなければならないと決意したであろうことも推測できる。
以後戦局は支那全土に拡大し、政府も従来の不拡大方針を放棄し、時局は今や戦時情勢にはいった。九月にはいると第七十二回帝国議会(臨時)が招集され、開院式に先立つ九月二日の臨時閣議で施政方針演説を決定した際「北支事変」を「支那事変」に改称することが決定され同日発表された。(109)
八月十五日以来拡大していた事変は、ここにおいて不拡大・局地解決が破棄され名実共に全面戦争となることになった。(110)
○第三章注釈
第一節
(1)
昭和12年7月7日22時40分ごろ永定河東岸一帯で夜間演習に従事していた支那駐屯軍の一部に対し、鉄橋を越えた所に位置する竜王廟付近から突然射撃がなされた。この事件の原因となった射撃については真相は明らかになっておらず、偶発説・中国共産党陰謀説・西北軍閥説・馬賊私怨説などがある。
廬溝橋事件については秦郁彦氏が『日中戦争史』や「廬溝橋事件の再検討」『政治経済史学』333・4号(94.3)等で詳細な研究をされている。
(2)
「河辺虎四郎回想応答録」414頁 『現代史資料12 日中戦争4』所収
小林龍夫他編 昭和40年 みすず書房
(3)
石原莞爾 陸士21期 陸軍中将 日華事変不拡大派であったため、左遷される。東条陸相とは不和であり、16年予備役入り。東亜連盟を主宰し、一種宗教者の側面も合わせもった怪人物
(4)
『戦史叢書支那事変陸軍作戦1』155頁 以下『支那事変陸軍作戦』とする
(5)
『戦史叢書中国方面海軍作戦1』240貢 『日中戦争史』193頁
また第三艦隊は第一次上海事変時に新設された支那派遣艦隊。旗艦出雲は明治33年製で日露戦争時の第二艦隊旗艦をつとめた骨董船であり艦艇は貧弱なものが多かった。他に第一遣外艦隊、第一航空艦隊、上海特別陸戦隊等を指揮下におく。
(6)
山本五十六 海兵32期 元帥海軍大将 日華事変当時の海軍次官。のち連合艦隊司令長官として日米開戦を迎え、南方戦線にて戦死。
(7)
『近衛内閣』 風見章著 昭和57年(原本26年) 中公文庫 30頁
(8)
石射猪太郎 外交官 満州事変時は吉林総領事。支那事変時の東亜局長。駐泰公使・駐蘭、駐伯大使を務め、ビルマ大使時に終戦を迎える。外務省きっての軍部嫌いとして知られる。
(9)
後宮淳 陸軍大将 支那事変時の軍務局長。のち師団長、軍司令官、方面軍司令官を歴任。支那派遣軍総参謀長時に終戦を迎える。
(10)
豊田副武 海兵33期 海軍大将 日頃から「陸軍にけだものみたいな者がいる」と公言し、陸軍に嫌われる。のちに連合艦隊長官や軍令部総長などの要職を歴任する。
(11)
『外交官の一生』 石射猪太郎著 昭和61年(原本21年) 中公文庫 295頁
(12)
風見章 政治家 新聞記者辞職後衆議院議員となる。第一次近衛内閣時の内閣書記官長。第二次近衛内閣司法大臣。その後野に下るが、戦後は衆議院議員として日中友好に務める。
(13)
杉山元 陸士12期 元帥陸軍大将 「グズ元」「ボケ元」と呼ばれ、操り人形と化していた将軍。戦後いちはやく自害を遂げる。
(14)
『近衛内閣』30頁
(15)
「米内手記(覚書)」は八月中・下旬頃まとめられたものであろうと高田万亀子氏は推測している。理由として、一、事変は初め北支事変と呼ばれ、九月二日以降は支那事変と正式呼称された。しかし上海戦が始まった八月中・下旬に限っては手記にある日支事変の語を使うのが一般だった。二、上海に事変が拡大し、北支事変が日支事変と呼ばれるようになった時、米内が痛恨の気持で事変拡大に至る経緯を手記にしたとみるのが時期的にもふさわしい。(『静かなる楯・米内光政』)
(16)
『海軍大将米内光政覚書』高木惣吉写稿 実松譲編 昭和63年 光人社
「日支事変拡大の序幕」13頁 以下『米内覚書』とする
また米内は昭和八年の第三艦隊長官時代に「対支政策について」とする手記を書いておりそこで「支那全土をたたきつけるということは…おそらく不可能のことなるべし」「優者をもって自認する日本が劣弱な支那に対して握手の手をさしのべたところで、それはなにも日本のディグニティ(威厳)を損しプライド(自尊心)をきずつけるものだろうか。いつまでもこわい顔をして支那をにらみつけ、そして支那のほうから接近してくるのを待つということは、いかにも大人気のない仕業であり、むしろ識者の笑いをかうにすぎないものといわねばならない。日本はよろしく、つまらない静観主義をさらりと捨て、大国としての襟度をもって積極的に支那をリードしてやることに務めるべきである。」「陸軍あたりに引きずられて、海軍もそれでよいと思って居るのか。」等の意見が見られる。日華事変時の米内の取り組みを考えるうえで、本来なら論文中に記すべきものだが、見落としていたためあえてこの場に記した。
(17)
『日中戦争史』195頁
(18)
『広田弘毅』広田弘毅伝記刊行会 平成4年復刻版(昭和41年初版) 葦書房 259頁
(19)
『外交官の一生』296頁
(20)
『近衛内閣』35頁
(21)
『米内覚書』14~15頁
(22)
「廬溝橋事件処理に関する閣議決定」昭和十二年七月十一日
今次事件ハ全ク支那側ノ計画的武力抗日ナルコト最早疑ノ余地ナシ 思フニ北支治安ノ快復ハ最モ迅速ヲ要スルモノアルノミナラス支那側カ不法行為ハ勿論排日侮日行為ニ対スル謝罪ヲナシ及今後斯ル行為ナカラシムル為ノ適当ナル保障ヲ得ルノ必要アリ 即チ軍ハ今ヤ予メ関東軍及朝鮮軍ニ於テ準備シアル部隊ヲ以テ急遽支那駐屯軍ヲ増援スルト共ニ内地ヨリモ所要ノ部隊ヲ動員シテ北支ニ急派スルノ要アリ 而シテ東亜ノ和平維持ハ帝国ノ常ニ念願スルトコロナルヲ以テ今後共共面不拡大現地解決ノ方針ヲ堅持シテ平和的折衝ノ望ヲ捨テス 又前記支那側ノ謝罪及保障ヲナサシムル目的ヲ達シタルトキハ速ニ派兵ヲ中止セシムルコト勿論ナリ
以下表記なきは『日本外交年表並主要文書』下巻 外務省編 昭和四十年 原書房
(23)
『外交官の一生』296頁
(24)
広田外相も『広田弘毅』260貢によるとこの閣議では米内と同様の発言を行っている。米内や海軍側は資料が豊富にあり、一方広田は戦後何も語らずに戦犯容疑で刑死しているため資料が少ないという不利があるために広田の動きは分からない点が多い。
(25)
『平和への努力』近衛文麿著 昭和21年 日本電気通信社 8頁
(26)
「北支出兵に関する声明」昭和十二年七月十一日夕刻発表 一部略
相踵ク支那側ノ侮日行為ニ対シ支那駐屯軍ハ隠忍静観中ノ処、従来我ト提携シテ北支ノ治安ニ任シアリシ第二十九軍ノ、七月七日夜半廬溝橋付近ニ於ケル不法射撃ニ端ヲ発シ、該軍ト衝突ノ已ムナキニ至レリ。(中略)我方ハ和平解決ノ望ヲ捨テス事件不拡大ノ方針ニ基キ局地的解決ニ努力シ、一旦第二十九軍側ニ於テ和平的解決ヲ承認シタルニ不拘、突如七月十日夜ニ至リ、彼ハ不法ニモ更ニ我ヲ攻撃シ再ヒ我軍ニ相当ノ死傷ヲ生スルニ至ラシメ、(中略)平和的交渉ニ応スルノ誠意ナク遂ニ北平ニ於ケル交渉ヲ全面的ニ拒否スルニ至レリ。
以上ノ事実ニ鑑ミ今次事件ハ全ク支那側ノ計画的武力抗日ナルコト最早疑ノ余地ナシ。
(中略)支那側カ不法行為ハ勿論排日侮日行為ニ対スル謝罪ヲ為シ及今後斯カル行為ナカラシムル為ノ適当ナル保障ヲナスコトハ東亜ノ平和維持上極メテ緊要ナリ。仍テ政府ハ本日ノ閣議ニ於テ重大決意ヲ為シ、北支派兵ニ関シ政府トシテ執ルヘキ所要ノ措置ヲナス事ニ決セリ。
然レトモ東亜平和ノ維持ハ帝国ノ常ニ顧念スル所ナルヲ以テ、政府ハ今後共局面不拡大ノ為平和的折衝ノ望ヲ捨テス、支那側ノ速カナル反省ニヨリテ事態ノ円満ナル解決ヲ希望ス。又列強権益ノ保全ニ就テハ十分之ヲ考慮セントスルモノナリ。
「支那側の計画的武力抗日」であることは明確であり、「よって政府は本日の閣議において重大決意をなし、北支出兵に関して執るべき所要の措置をなす」ということで「北支事変」と閣議決定された。
(27)
『支那事変陸軍作戦1』165頁
(28)
『米内覚書』17頁
(29)
『広田弘毅』260頁
(30)
有田八郎 外交官 政友会領袖山本悌二郎の弟。 広田・第一次近衛・平沼・米内内閣外相。のちの「三国軍事同盟」締結問題では米内海相、石渡蔵相と共に強硬に反対をする。
(31)
『原田日記』第六巻 33~34頁
(32)
『日本外交史』75頁
(33)
『外交官の生涯』296頁
(34)
『日本外交史』69頁
(35)
『日中戦争史』234頁
(36)
『太平洋戦争への道 開戦外交史』第4巻 日中戦争下
日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編 昭和63年新装版 朝日新聞社 11頁
(37)
『上海時代』下巻 松本重治著 昭和50年 岩波新書 137~141頁
(38)
『太平洋戦争への道』4巻 11頁
(39)
『米内覚書』17頁
(40)
『米内覚書』18頁
(41)
『原田日記』第六巻 32頁
(42)
冀察政権側希望
宋哲元の代わりに副軍長を、馮治安の処罰の代わりに現地大隊長を、永定河左岸の三十七師を保安隊と交代させる代わりに二十八師と交代させることなど。
(43)
『米内光政』 実松譲著 昭和41年 光人社 50頁
(44)
『原田日記』第六巻 40頁
(45)
『米内覚書』 22頁
(46)
秦郁彦著『日中戦争史』高田万亀子著『静かなる楯』第四章注(1)(5)参考
(47)
支那駐屯軍の戦略展開完了予定日を期限としていた為。
(48)
『支那事変陸軍作戦』198頁
(49)
『原田日記』第六巻 40頁
(50)
川越大使が南京不在のため日高参事官が代理を勤めていた。
(51)
『原田日記』別巻 274頁
(52)
南京政府回答
中国政府ハ事件不拡大主義ノ下ニ和平解決ニ努力シツツアリ 中国側ノ軍事行動ハ日本軍ノ平津一帯増兵ニ対スル当然ノ自衛的準備ニ過キス 中国政府ハ事件ノ不拡大ヲ希望スル … 尚地方的性質ヲ有スル故ヲ以テ地方的ニ之ヲ解決ヲ図ラントスルモ如何ナル現地協定モ中央政府ノ承認ヲ得ル事ヲ要ス …
(53)
『支那事変陸軍作戦』204頁
(54)
『支那事変陸軍作戦』205頁
(55)
『原田日記』第六巻 46頁
(56)
『失はれし政治』近衛文麿公の手記 昭和21年 朝日新聞社 9頁
(57)
「川辺虎四郎少将回想応答録」『現代史資料12 日中戦争4』416頁所収
(58)
『支那事変陸軍作戦』207頁
(59)
『高松宮日記』第二巻 高松宮宣仁親王殿下 平成7年 中央公論社 495頁
(60)
『外交官の一生』301頁
(61)
「盧溝橋事件の勃発」『現代史資料月報 日中戦争4付録』
(62)
『支那事変陸軍作戦』209頁
(63)
『破滅への道』75頁
(64)
『石射猪太郎日記』171頁
(65)
郎坊駅の日本の軍用電信線が故障し、日本側が修理中に中国兵から射撃され、日本軍が撃退した事件
(66)
広安門から北京に入城しようとした部隊が城壁上の中国軍から射撃された事件
(67)
北支派兵の決定(奉勅)
「大海令第一号」
一 帝國ハ北支那ニ派兵シ平津地方ニ於ケル支那軍ヲ膺懲シ同地方主要各地ノ安定ヲ確保スルニ決ス
二 連合艦隊司令長官ハ第二艦隊ヲシテ派遣陸軍ト協力シ北支那方面ニ於ケル帝國臣民ノ保護並ニ権益ノ擁護ニ任ゼシムルト共ニ 第三艦隊ニ協力スベシ
三 連合艦隊司令長官は第二艦隊ヲシテ派遣陸軍ノ輸送ヲ護衛セシムベシ
四 (略)
なお、これは支那事変に関して発出された大海令三百余の最初のものである。
(68)
冀東政府の保安隊1500名が叛乱し、通州の守備隊・領事警察・居留民約250名を虐殺した事件
(69)
『外交官の一生』303頁
(70)
『破滅への道』74頁
(71)
『支那事変陸軍作戦』245頁
(72)
『外交官の一生』304頁
(73)
『支那事変陸軍作戦』245頁
(74)
『破滅への道』77頁
(75)
『昭和の動乱』173頁
(76)
大山事件は巡察中の大山勇夫中尉と斎藤興蔵一等水兵が中国側の保安隊兵士に射殺された偶発事件である。大山事件に関しては影山好一郎氏論文「大山事件の一考察第二次上海事変の導火線の真相と軍令部に与えた影響」『軍事史学』32(3) 1996.12)に詳細な研究がされている。
第二節
(77)
『現代史資料9巻』8頁
(78)
『現代史資料9巻』186頁
(79)
『静かなる楯』162頁
(80)
『現代史資料12』「中止出兵の決定」軍令部策定 364頁~
(81)
『海軍開戦経緯1』207頁
『現代史資料9』「漢口上流居留民引揚ノ指示」187頁
(82)
『海軍開戦経緯1』207頁
(83)
「中支出兵の決定」371~374頁
(84)
『上海時代』(下) 101頁
(85)
「中支出兵の決定」375頁~377頁
(86)
「中支出兵の決定」367頁
軍令部策定対処方針
要旨
大山事件の解決は将来此種事件の根絶を期するを方針とし左記要求事項の充足を目途として交渉するを要す
而して支那側当事者に於て之が解決実行に対し誠意を示さざるに於ては実力を以て之を強制するも敢て辞せざるの決意あるを要す
要求事項
一 事件責任者の陳謝及処刑
二 将来に対する保障
(一)停戦協定地区間に於ける保安隊員数、装備、駐屯地の制限
(二)右地区に於ける陣地の防御施設の撤去
(三)右の実行を監視すべき日支兵団委員会の設置
(四)排抗日の取締励行
理由
一 大山事件は単なる偶発事件に非ず、昂揚せられたる排日抗日の気勢と日本の武力に対する軽侮とに因由して上海停戦協定の精神を蹂躙し停戦区域内に有力なる装備の多数保安隊を駐屯せしめ且各所に陣地を構築し防御施設を施す事に基ける不穏なる情勢の齎せる必然の結果なり
二 (略)
三 右解決方は現に進行中なる外交交渉を阻礙するやの懸念あるべきも右交渉は北支事変解決として日支国交の根本的改善を基調とするものなるを以て短時日の間に之が妥協を期待し得べからざるのみならず右交渉に於て上海方面に於ける将来の保証迄広範囲に亘り我が方の我方の要求を満足すべき妥結を得る事困難なりと認めらる即ち大山事件に対し我方が求めて消極的態度を執る事は却て彼を増長せしめ本交渉を不利ならしむるの虞あり寧ろ大国策として和平の間に解決を望むも其の間に於ける彼の不法不正に対しては断乎として実力行使も敢て辞せざるの決意を示す事に依り側面的に本外交々渉を支援するの結果ともなるべきものと観察す
(略)支那側が誠意を示さざるに対する已むを得ざる手段と為すに於て名分自ら公正且明確なり
(87)
「中支出兵の決定」368頁
(88)
「中支出兵の決定」380頁
(89)
「中支出兵の決定」385頁
(90)
「中支出兵の決定」386頁
(91)
「中支出兵の決定」387頁
(92)
『静かなる楯』170頁
(93)
『海軍開戦経緯1』212頁
(94)
十二日午後五時五十分 第三艦隊参謀長ヨリ軍令部次長及海軍次官宛
機密第五四八番電
一 上海特陸ノ報告ニ依レバ昨夜来北停車場付近ニ汽車及「トラツク」ニテ八十八師続々到達既ニ一部ハ鉄路ヲ超ヘ「ハスケル」路ニ進出ス
二 (略)
三 此ノ状況ニ対シ万一ニ備フル為本夕到迄ニ虹口地区越界路上ニ警戒兵ヲ配セントス。
四 (略)
五 一方大使館附武官及総領事ハ即刻停戦協定委員又ハ同関係国領事ト連絡シ当地支那官憲ニ正規兵ノ撤退ヲ要求シ同時ニ南京ニ於テハ国民政府ニ要求セシム
六 此ノ際速ニ陸軍派兵ノ促進緊要ナリト認メラル
(95)
武藤章は「作戦に関しては尚現地にて十分検討打合され度し」と発言。
石原完爾は「今次事変が斯くなりたる上は已むを得ざる次第なり。又呉淞方面の上陸に対する懸念の如きも事前海軍が爆撃砲撃等に依り決して陸軍単独の無謀なる上陸となるが如きこと無き様海軍に於て充分援助すべし」と近藤信竹少将に要望している。
(96)
「石原完爾中将回想応答録」307頁『現代史資料9』所収
(97)
『一軍人の生涯』34頁
(98)
「日華事変拡大か不拡大か」
(99)
『海軍部戦争経緯1』214頁「嶋田繁太郎大将備忘録」
(100)
『原田日記』第六巻 68頁 『原田日記』では13日に記述ではあるが状況を考えると14日の可能性の方が無難である。
(101)
『海軍開戦経緯1』215頁
(102)
『静かなる楯』174頁
(103)
『近衛内閣』46頁
第三節
(104)
『高松宮日記』530頁~541頁
(105)
『宇垣一成日記』1167~1168頁
(106)
『石射猪太郎日記』178頁~
(107)
『日本外交年表並主要文書 下』369頁
「蘆溝橋事件に關する政府聲明」八月十五日午前一時十分発表
帝国夙ニ東亜永遠ノ平和ヲ冀念シ、日支両国ノ親善提携ニ力ヲ致セルコト久シキニ及ヘリ。然ルニ南京政府ハ排日抗日ヲ以テ国論昂場ト政権強化ノ具ニ共シ、自国国力ノ過信ト帝国ノ実力軽視ノ風潮ト相俟テ、更ニ赤化勢力ト苟合シテ反日侮日愈々甚シク以テ帝国ニ敵対セントスルノ気運ヲ醸成セリ。近年幾度カ惹起セル不祥事件何レモ之ニ因セサルナシ。今次事変ノ発端モ亦此ノ如キ気勢カ其ノ爆発点ヲ偶々永定河畔ニ選ヒタルニ過キス、通州ニ於ケル神人共ニ許ササル残虐事件ノ因由亦茲ニ発ス。更ニ中南支ニ於テハ支那側ノ挑戦的行動ニ起因シ帝国臣民ノ生命財産既ニ危殆ニ瀕シ、我居留民ハ多年営々トシテ建設セル安住ノ地ヲ涙ヲ呑ンテ遂ニ一時撤退スルノ已ムナキニ至レリ。
顧ミレハ事変発生以来累々声明シタル如ク、帝国ハ隠忍ニ隠忍ヲ重ネ事件不拡大ヲ方針トシ、努メテ平和的且局地的ニ処理センコトヲ企図シ、平津地方ニ於ケル支那軍累次ノ挑戦及不法行為ニ対シテモ、我カ支那駐屯軍ハ交通線ノ確保及我カ居留民保護ノ為真ニ已ムヲ得サル自衛行動ニ出タルニ過キス。而モ帝国政府ハ夙ニ南京政府ニ対シテ挑戦的言動ノ即時停止ト現地解決ヲ妨害セサル様注意ヲ喚起シタルニモ拘ラス、南京政府ハ我カ勧告ヲ聴カサルノミナラス、却テ益々我方ニ対シ戦備ヲ整ヘ、厳存ノ軍事協定ヲ破リテ顧ミルコトナク、軍ヲ北上セシメテ我カ支那駐屯軍ヲ脅威シ又漢口上海其他ニ於テハ兵ヲ集メテ愈々挑戦的態度ヲ露骨ニシ、上海ニ於テハ遂ニ我ニ向ツテ砲火ヲ開キ帝国軍艦ニ対シテ爆撃ヲ加フルニ至レリ。
此ノ如ク支那側カ帝国ヲ軽侮シ不法暴虐至ラサルナク全支ニ亙ル我カ居留民ノ生命財産危殆ニ陥ルニ及ンテハ、帝国トシテハ最早隠忍其ノ限度ニ達シ、支那側ノ暴戻ヲ膺懲シ以テ南京政府ノ反省ヲ促ス為今ヤ断乎タル措置ヲトルノ已ムナキニ至レリ。
此ノ如キハ東洋平和ヲ念願シ日支ノ共存共栄ヲ翹望スル帝国トシテ衷心ヨリ遺憾トスル所ナリ。然レトモ帝国ノ庶幾スル所ハ日支ノ提携ニ在リ。之カ為支那ニ於ケル拝外抗日運動ヲ根絶シ今次事変発生ノ根因ヲ芟除スルト共ニ日満支三国間ノ融和提携ノ実ヲ挙ケントスルノ外他意ナシ、固ヨリ毫末モ領土的意図ヲ有スルモノニアラス。又支那国民ヲシテ抗日ニ踊ラシメツツアル南京政府及国民党ノ覚醒ヲ促サントスルモ、無辜ノ一般大衆ニ対シテハ何等敵意ヲ有スルモノニアラス且列国権益ノ尊重ニハ最善ノ努力ヲ惜シマサルヘキハ言ヲ俟タサル所ナリ。
(108)
『日中戦争史』232頁
同じ頃中国でも十五日の総動員令が発令され、八月十五日をもって宣戦布告なしの事実上の戦争状態に至ることになる。
(109)
『静かなる楯』181頁所収「島田文書」
(110)
『支那事変陸軍作戦1』305頁
第四章 海軍の対支政戦略と近衛内閣
以上海軍の支那事変・日華事変初期における対応等を分析してきた。
ここまで分析した上で、海軍にはどのような責任があるのか、という疑問ここで抱かざるをえなくなる。以下私の責任において諸説まとめていくと、秦郁彦氏は「海軍特有の便乗主義がこの局面でかなり露骨に打ち出された」「陸軍は戦面の拡大を嫌って-上海の場合は拡大派をも含め-海軍の出兵要望に容易に応じようとはしなかったが、居留民の全面引揚げと陸戦隊の撤退が実現不可能であるかぎり、けっきょくは海軍の要請に応じるほかなかった。海軍は部内一致して不拡大方針を守ったとはいえ、七月十一日の派兵決定に当って、迫力ある反対をしなかったため、上海へ戦火が拡大するのを防ぎ得なかったのである」(1)と述べ、臼井勝美氏は「軍部の中国認識の誤謬、軍内部の不統一が日中戦争をいたずらに拡大させ収拾を困難にさせたことは事実であるが、戦争遂行の第一義的な責任はあくまでも近衛内閣(軍を含めて)自体にあるといわなければならない」(2)と述べている。また豊田穣氏は「陸軍が華北に派兵したがるのは、支那駐屯軍が可愛いからであり、これに対してほとんど無関係な海軍は不拡大を唱え通してきた。しかし虎の子の上海陸戦隊と第三艦隊が危なくなって来ると、陸軍の派兵を頼むということになる。このあたり、陸海それぞれのに己の田に水を引こうとしていた形跡が明白である。戦史を論ずる人は米内のおおらかな人柄と、その和平尊重を賞揚するが、彼も軍人であり上級幹部である以上、このような望まざる戦闘を推進したことはあったのである。(略)ハト派の海軍といえども上海危しとなれば、文人の本性を現すもので、米内も多分に第一線である第三艦隊に引きずられたものと思われる。」(3)といずれも厳しく批評している。
一方で高田万亀子氏は「米内のかねてからの憂慮が現実となっているのが十四日夜である。今まで派兵を抑えに抑えてきた米内が、海軍の責任者として容易ならぬ焦慮を感じていたとしても無理はない」とし「上海戦と上海派兵要請は米内にとっても最早他に選択肢はなかった。米内の責任を問うとすれば、それは派兵要請や強硬発言よりも、早期収拾を図れなかった近衛内閣の一員であったことにあるのではないか」(4)と米内を弁護している。相澤淳氏は「八月十四日中国空軍の第三艦隊旗艦出雲等、またその他居留地に対する先制攻撃という、交渉相手が実力をもって立ち向かってくる状態では敗退か、実力行使による対決しかありえないという状況と「日本を強者とし中国を弱者とする」中国認識のもと蒋介石に反省を促すという膺懲論の選択がなされ、その象徴として首都南京占領という発言につながった」(5)と米内の変化をみている。
最後にここまで述べたことを総括すると、海軍は勢力拡張の為に事変を拡大したわけでもなく、縄張りの中南支の権益拡大をもくろんでいたわけでもないことが理解できる。ここで通説的な「陸軍は悪玉で、海軍は善玉」なる旧態依然とした認識をもちだすわけではないが、あくまでこの件に限っては海軍は善と到底いうことはできないがやむおえなかったと思われる。八月に至り「大山事件」勃発以降の海軍には政戦略としての不拡大の政策はもはや選択肢とはなりえず、泥沼に戦端を開くしか道はなかったと思われる。あの八月の時点でたとえば石原完爾のいう「上海が危険なら居留民を全部引揚げたらよい。損害は一億でも二億でも補償しろ。戦争するより安くつく」(6)といった発言は到底実行に移すことが出来るものではなく、「陸軍は中支不拡大に徹しているのに上海出兵後は全面戦争と化した」等の意見(7)は終戦後の後知恵としかいいようがない。八月の時点では居留民の生命はすでに危機化しており、引き揚げたとしても戦争が避けられた可能性をみいだすことはできない。むしろ、あの時点で海軍が立ち上がらなかった場合の方が最悪の事態を迎えていたであろうと考慮できる。
また、海軍の上海確保から南京占領後の軍事基地化、海南島占領、北部仏印という一連の海軍南進戦略が米国の石油禁輸となり、致命傷を負った海軍が太平洋戦争へと陸軍を引きずっていった等の意見(8)も基本的には戦後のこじつけ的な解釈であろうと考えられる。もっとも「南進論」については軍令部を中心にその動きがみられるが、少なくとも時の海軍省米内海相以下には海軍・陸軍の縄張りに関係なく、日本国家の為に不拡大方針をとなえ、そして不拡大保持が不可能となった以後は早急に居留民の生命保護の手を打つという、国家を見据えた大局的な政戦略に立っていたと思われる。
以上、問題は八月の上海にあるのではなく、それ以前の北支における派兵決定の対応にあると考えられる。この七月の時点で現地解決が行われ、事件が収まったならのちの八月以降の事件は違うものとなっていただろう。現に、七月の現地交渉で事件は収まっていたはずである。それを大きく広げたのが近衛内閣及び、陸軍ではなかったか。海軍及び米内海相としてこの「支那事変・日華事変」の責任をあえて問うとするなら、それは選択の道がなかった八月の上海ではなく、選択によっては不拡大・非戦で収まった七月十一日閣議での派兵決定をした近衛内閣の海軍大臣としての責任しかとりようがないのではないか、と考えられる。私としては「海軍はよくがんばったが、陸軍に押し切られた。」という思いが強く感じられる。
海軍大臣就任は昭和十二年二月。就任当時は「米内光政」という名はほとんど知られておらず飾り物の「金魚大臣」と渾名されるほどの認識でしかなかった。そして近衛内閣成立後わずか三十三日後に勃発した「廬溝橋事件」までは海相就任五ヶ月間しかなく、また海軍内部では「ロンドン軍縮会議」以降のいわゆる「艦隊派」が牛耳ってきた陸軍以上の無茶苦茶な状況是正。さらに前年におきた「北海事件」等での対応のまずさと反省のための意識の建て直し。海相として米内がすべきことはたくさんあったなかでの事件勃発。
「海軍では、その職にない場合に政治に関与してはならないというのが昔からの伝統だった。(略)とにかく軍の政治関与は絶対にいかん、それをやると政治は麻痺してしまい、悪くすれば内乱となり、ひいては亡国の因となるというのが海軍の指導者の伝統的信念であった。(事変時の)海軍のとった態度は、何とかして陸軍を脱線させないようにとだましながらレールの上を乗せていく、というのが精々のところだった。(略)もし正面から立ち向かえば、結局は正面衝突、喧嘩になってしまう」(9)という当時の豊田副武軍務局長のいう政治に携わる職である海軍大臣として陸軍をだましつつレールに乗せていたのが米内海相であった。絶対不拡大の信念を閣僚の誰もが持ちながらも、閣議の流れは事変拡大へと導かれていく。そこには米内を含め、時流に対抗する強い力を持ち合わせていなかったからだろうか。
海軍少将高木惣吉氏の意見をあげておきたい。高木氏は著作でH(元海軍士官)Y(政界人)I(高木氏自身)三者による会談という設定で戦後回想している。H「華北事変を全面的な衝突に広げてしまつたのはどうしたんです。米内海軍大臣の責任重大という気がするんですがネ…」I氏は近衛との七月十六日会談など一連の米内手記の内容などを説明する。(第三章第一節部分参考)Y「いや、あの近衛という責任観念のコレッポチもない男を首班に担いで、それで事変不拡大を考えるなんか虫がよすぎだ!」H「近衛公の責任もそうでしょうが、いまの話を聞いても、米内大将の手際の不味さかげんが想像できますよ。近衛公や広田外相なんて木偶坊を相手にして、ああだ、こうだといつてみたところで、何のタシにもならんのは判りきったことでしょう。」I「米内さんはあの雄弁も、迫力も、政治的炯眼も持ち合わせていなかった。(山本権兵衛に比べて)人を説破したり、会議の空気を逆転させたりする技巧と表現を備えていなかった。だがその代わり、いつでも自分の精魂を傾けて信ずる結論だけを最後まで繰り返したものだ」(10)と回想している。終戦を米内海相とともに導いた高木氏ゆえの意見であり、結局は外務省の石射猪太郎がいう「広田外相は時局に対する定見も政策もなく、全く其日暮し、イクラ策を説いても、それが自分の責任になりそうだとなるとニゲを張る。頭がよくてズルク立ちまわると云うこと以外にメリットを見い出し得ない。それが国士型に見られて居るのは不思議だ。彼(近衛首相)はだんだん箔が剥げて来つつある。門地以外に取柄の無い男である。日本は今度こそ真に非常になってきたのに、コンな男を首相に仰ぐなんて、よくよく廻り合わせが悪いと云ふべきだ。之に従ふ閣僚なるものは何れも弱卒、禍なる哉、日本。」「近衛首相の議会演説原稿を見る。軍部に強いられた案であるに相違無い。支那を膺懲とある。排日抗日をやめさせるには最後迄ブったたかねばならぬとある。彼は日本をどこへ持つて行くと云ふのか。アキレ果てた非常時首相だ彼はダメダ。…彼は中身の無いテンプラであるのだ」(11)というような政治家や陸軍の操り人形である「ボケ元」杉山陸相というような無定見なよりあわせのような内閣が戦争を引き受けたというのが不幸であったといわざるを得ないのだろうか。
この「日華事変」拡大の責任を米内は重く感じ、それゆえに反省・贖罪の意も働き「日独伊三国同盟」における時流に対する強い意志による頑強な抵抗を米内は行い、最後は「支那事変・日華事変」拡大の責任を背負い、すべてを終わらせるための「終戦」にむけて「最後の海軍大臣」として生命をすり減らして尽力したのではないか。米内は「海軍」という枠ではなく「国家」としての枠で「支那事変・日華事変」拡大の責任を背負い、その「近衛内閣時の事変拡大責任」を背負い続けていたのではないか、と私は最後にそう思わざるをえない。
○第四章注釈
(1)
『日中戦争史』252頁 『太平洋戦争への道4』22頁
(2)
「日中戦争と軍部」86頁
(3)
『激流の弧舟』65頁
(4)
「日華事変初期における米内光政と海軍」44頁及び『静かなる楯』174頁
(5)
「日中戦争全面化と米内光政」137頁
(6)
『大東亜戦争回顧録』73頁
(7)
『大東亜戦争回顧録』73頁
(8)
「帝国海軍の責任」13頁
(9)
『最後の帝国海軍』27~29頁
(10)
『山本五十六と米内光政』187頁~
(11)
『石射猪太郎日記』182・183・188・191頁
おわりに
以上でもってすべてを完結させた訳ではあるが、私の実力不足を痛感せざるをえないものとなってしまった。比較的資料収集はうまくいったが、それでも探しきれない資料が山のようにあった。さらに収拾した資料のうち論文に使用できたものは一握りであり、私の資料整理能力不足から、生かしきれていない資料が山のように残ってしまったことが悔やまれる。最後の方は100枚という制限の調整を気にしてしまい、竜頭蛇尾のようなしまりのないものとなってしまったことも悔やまれる。
本来、「米内光政」は私のテーマの一部であったが、全体をしめるものではなかった。しかし執筆を重ねるにつれ、当時の海軍は米内光政海軍大臣を中心に記すべきであり、同様に外務省は石射猪太郎東亜局長、陸軍は石原完爾参謀本部第一部長を中心に記さなければまとまりがつかないということがわかり、いつのまにか「米内光政と支那事変(日華事変)」というような内容に変貌してしまった気がする。
私は「海軍びいき」な人間であり、また「米内光政びいき」でもある。そのような気持が本来中立でなければならない論文にも表れてしまっていることは否定できない。しかし、その心があったからこそこの論文をまがりなりにも仕上げることができたと思っている。
この場を借りて、毎週のように資料請求をする私に対して、支那事変(日華事変)に関わる様々な分野の本の収拾を担わせてしまった図書館の方々に陳謝するとともに、的確な論文指導を行って下さった〇〇先生に感謝いたします。
最後に乱筆乱文を御詫びし筆を置きたいと思います。
支那事変より六四年目の極月吉日
初稿 2001年
補記1 参考及び引用文献一覧
一、公刊戦史 防衛庁防衛研究所戦史室編 朝雲新聞社
『戦史叢書100 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯1』 S54
『戦史叢書91 大本営海軍部 連合艦隊1 開戦まで』 S50
『戦史叢書72 中国方面海軍作戦 昭和十三年三月まで』S49
『戦史叢書86 支那事変陸軍作戦 昭和十三年一月まで』S42
二、通史・研究書・研究論文関係
海軍
『日本海軍史 第三巻 通史 第四編』財団法人海軍歴史保存会編集発行 H7
『日本海軍史 第四巻 通史 第五・六編』
『海軍と日本』 池田清著 S56 中公新書
『五人の海軍大臣』 吉田俊彦著 S58 文芸春秋社
「北海事件と蘆溝橋事件 海軍の反応」 角田順
『現代史資料12』所収 S41 みすず書房
外交
『日本外交史』19・20巻 日華事変上下 上村伸一著 S46 鹿島平和研究所
陸軍
『日本の参謀本部』大江志乃夫著 S60 中公新書
中国大陸
『日中戦争史』 秦郁彦著 S47増補改訂版 河出書房新社
「日中戦争と軍部」 臼井勝美
『大陸侵攻と政治体制 昭和史の軍部と政治2』所収 S59 筑摩書房
『日中戦争』 臼井勝美著 S43 中公新書
『満州事変』 臼井勝美著 S49 中公新書
「満州事変の展開」 島田俊彦
『太平洋戦争への道 開戦外交史 第二巻 満州事変』
日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編 朝日新聞社 S63新装版 所収
「日中戦争の軍事的展開」 秦郁彦
『太平洋戦争への道 開戦外交史 第四巻 日中戦争 下』所収
研究論文
樋口秀実論文
「日本海軍の大陸政策の一側面 一九〇六~二一年」
『国史学』147 1992所収
「第一次上海事変の勃発と第一遣外艦隊司令官塩沢幸一海軍少将の判断」
『政治経済史学』333号 1994.3所収
「日本海軍の対中国政策と民間航空事業」
『国史学』155 1995.5所収
「満州事変と海軍」
『國學院大學日本文化研究所紀要』第80巻 1997.9所収
「日中関係と日本海軍 昭和十年の中山事件を事例として」
『軍事史学』33 1997.12所収
「日中関係と日本海軍1933年~1937年」
『史学雑誌』108巻4号 1999.4所収
影山好一郎論文
「第一次上海事変における第三艦隊の編成と陸軍出兵の決定」
『軍事史学』28 1992.9所収
「満州・上海事変の対応に対する陸海軍の折衝 海軍の対応を中心として」
『政治経済史学』318号 1992.12所収
「大山事件の一考察 第二次上海事変の導火線の真相と軍令部に与えた影響」
『軍事史学』32(3) 1996.12所収
「昭和十一年前後の日本海軍の対中強硬姿勢」
『軍事史学』33 1997.12所収
「広田三原則の策定をめぐる外務、陸、海軍の確執 海軍の対応を中心として」
『日本歴史』595号 1997年12月号所収
その他
「支那事変初期における政戦両略について」今岡豊
『軍事史学』10 1974.6所収
「支那事変勃発当初における陸海軍の対支戦略」森松俊夫
『政治経済史学』168号 1980.5所収
「日華事変初期における米内光政と海軍 上海出兵要請と青島作戦中止をめぐって」 高田万亀子
『政治経済史学』251号 1987.3所収
「昭和期海軍と政局(1)/(2)-「高木惣吉資料」の紹介と分析を中心として-」 纐纈厚
『政治経済史学』344/345 95.2/3所収
「日中戦争の全面化と米内光政」相澤淳
『軍事史学』33 1997.12所収
三、日記
『石射猪太郎日記』 石射猪太郎著 伊藤隆他編 H5 中央公論社
『西園寺公と政局』2・6巻 別巻 原田熊雄述 S25 岩波書店
『木戸幸一日記』上巻 木戸幸一著 木戸日記研究会 S41 東京大学出版会
『宇垣一成日記』第2巻 宇垣一成著 角田順校訂S25 みすず書房
『高松宮日記』第2巻 高松宮宣仁親王著 H7 中央公論社
四、回顧録・手記・記録・覚書など
海軍関係資料
「大東亜戦争海軍戦史本紀巻一(中支出兵の決定)」
『現代史資料12 日中戦争4』所収 S40 みすず書房
『海軍大将米内光政覚書』 高木惣吉写 実松譲著 S63 光人社
『海軍戦争検討会議記録』 新名丈著S51 毎日新聞社
『最後の帝國海軍』豊田副武 柳澤健著 S25 世界の日本社
「第二次大戦についての小林躋造・嶋田繁太郎手記 参戦をめぐる海軍側の二史料」
「嶋田大将の「大東亜戦争に至る回顧」を読みて 小林躋造手記」
『政治経済史学138』所収 野村実著 S52.11
『明治百年史叢書280・281 帝國國防史論』上・下巻 佐藤鉄太郎著 S54(原本M43) 原書房
「反古に帰した「帝国国防方針」」『別冊知性』1956年12月号 福留繁著
『山本五十六と米内光政』 高木惣吉著 S41新訂 文藝春秋社
外交官・外務省関係史料
『外交官の一生』石射猪太郎著 S61(原本S25) 中央公論社
『外交回顧録』重光葵著 S28 毎日新聞社
『昭和の動乱』上巻 重光葵著 S27 中央公論社
『陰謀・暗殺・軍刀』 森島守人著 S25 岩波書店
『破滅への道 私の昭和史』 上村伸一著 S41 鹿島研究所出版会
『東郷茂徳外交手記 時代の一面』 東郷茂徳著 S42 原書房
『馬鹿八と人は言う 外交官の回想』 有田八郎著 S34 光和堂
『昭和の動乱と森島伍郎の生涯』 森島伍郎著 S60 葦書房
陸軍関係資料
「満州事変機密作戦日誌」『太平洋戦争への道 開戦外交史 資料編』収録
「石原莞爾中将回想応答録」『現代史資料9 日中戦争2』所収 S39 みすず書房
「川辺虎四郎少将回想応答録」『現代史資料12 日中戦争4』所収 S40みすず書房
『大東亜戦争回顧録』 佐藤賢了著 S41 徳間書店
「惑星のころ 松籟莊随想」 宇垣一成著 『改造』1949.6月号
『軍務局長武藤章回想録』 武藤章著 上法快男編 S56 芙蓉書房
『日本軍閥暗闘史』 田中隆吉著 S63(原本S22) 中央公論社
「上海事変はこうして起こされた 第一次上海事変の陰謀」 田中隆吉著
『別冊知性1956.12号』
「日華事変拡大か不拡大か 真の拡大主義者はどこにいたか」 田中新一著
『別冊知性1956.12号』
『支那事変戦争指導史』 堀場一雄著 S37 時事通信社
政界関係資料
『平和への努力』 近衛文麿著 S21 日本電報通信社
『失はれし政治 近衛文麿公の手記』 近衛文麿著 S21 朝日新聞社
『近衛内閣』 風間章著 S57(原本S26) 中央公論社
民間関係資料
『昭和史への一証言』 松本重治著 S61 毎日新聞社
『上海時代』 松本重治著 S50 中央公論社
『海軍の昭和史 提督と新聞記者』 杉本健著 S60 文芸春秋社
『重臣達の昭和史』下巻 勝田龍夫著 S56 文藝春秋社
その他資料
『現代史資料7・8・9・12(満州事変・日中戦争1・2・4)』S39~ みすず書房
『太平洋戦争への道 開戦外交史 別巻資料編』稲葉正夫他編 S63新装版 朝日新聞社
『日本海軍史 第八巻 年表 主要文書』海軍歴史保存会 H7
『明治百年史叢書・1 日本外交年表竝主要文書』下巻 外務省編 S40 原書房
五、伝記
『一軍人の生涯 提督・米内光政』 緒方竹虎著 S58(原本S30) 光和堂
『米内光政』 実松譲著 S41 光人社
『激流の弧舟 提督米内光政の生涯』 豊田穣著 S53 講談社
『米内光政』 高宮太平著 S61 時事通信社
『静かなる楯・米内光政』 高田万亀子著 H2 原書房
『米内光政』上巻 阿川弘之著 S53 新潮社
『重光葵』 渡邊行男著 H8 中央公論社
『近衛文麿』上巻 矢部貞治編 S26 近衛文麿伝記編纂刊行会 非売品
『近衛文麿』 岡義武著 S47 岩波書店
『広田弘毅』 広田弘毅伝記刊行会 H4復刻版(S41初版) 葦書房
補記2 主要官職
満州事変当時(昭和 六年九月) ~
第一次上海事変当時(昭和七年一月)
満州事変当時(昭和 六年九月) | 第一次上海事変当時(昭和七年一月) | |
総理大臣 | 若槻礼次郎 | 犬養毅 |
外務大臣 | 犬養毅 | 芳沢謙吉 |
大蔵大臣 | 高橋是清 | |
海軍大臣 | 大角岑生 | |
次官 | 小林躋造 | 左近司政三 |
軍務局長 | 豊田貞次郎 | |
軍務第一課長 | 澤本頼雄 | |
軍令部長 | 谷口尚真 | |
次長 | 永野修身 | 百武源吾 |
一課長 | 近藤信竹 | 小林躋造 |
連合艦隊司令長官 | 山本英輔 | |
陸軍大臣 | 南次郎 | 荒木貞夫 |
次官 | 杉山元 | |
軍務局長 | 小磯国昭 | |
軍事課長 | 永田鉄山 | |
参謀総長 | 金谷範三 | 閑院宮載仁親王 |
次長 | 宮治重 | 真崎甚三郎 |
関東軍司令官 | 本庄繁 |
北海事件当時(昭和十一年九月)
総理大臣 | 広田弘毅 |
外務大臣 | 有田八郎 |
海軍大臣 | 永野修身 |
次官 | 長谷川清 |
軍務局長 | 豊田副武 |
軍務第一課長 | 保科善四郎 |
軍令部総長 | 伏見宮博恭王 |
次長 | 嶋田繁太郎 |
第一部長 | 近藤信竹 |
第一課長 | 福留繁 |
連合艦隊司令長官 | 高橋三吉 |
陸軍大臣 | 寺内寿一 |
次官 | 梅津美治郎 |
参謀総長 | 閑院宮載仁親王 |
次長 | 今井清 |
軍令部の顔ぶれは日華事変時と代わらず。
北海事件時の強硬意見が中支派兵問題時に尾を引きずっていた可能性も考慮できる。
海軍省は長谷川清次官が支那駐屯第三艦隊長官となり次官には山本五十六(11年12月)が就任。
永野修身海相は連合艦隊長官となり、米内光政連合艦隊長官が入れ替わる形で海相に就任(12年2月)することにより新体制となる。
支那事変・日華事変勃発当時(昭和十二年七月~八月)
第一次近衛内閣
総理大臣 | 近衛文麿 |
内閣書記官長 | 風見章 |
内務大臣 | 馬場鍈一 |
大蔵大臣 | 賀屋興宜 |
外務大臣 | 広田弘毅 |
外務次官 | 堀内謙介 |
東亜局長 | 石射猪太郎 |
東亜局第一課長 | 上村伸一 |
欧亜局長 | 東郷茂徳 |
情報局長 | 河相達夫 |
海軍大臣 | 米内光政 |
海軍次官 | 山本五十六 |
軍務局長 | 豊田副武 |
軍務第一課長 | 保科善四郎 |
軍令部総長 | 伏見宮博恭王 |
軍令部次長 | 嶋田繁太郎 |
第一部長 | 近藤信竹 |
第一部第一課長 | 福留繁 |
連合艦隊司令長官 | 永野修身 |
第三艦隊長官 | 長谷川清 |
陸軍大臣 | 杉山元 |
陸軍次官 | 梅津美治郎 |
軍務局長 | 後宮淳 |
軍務課長 | 柴山兼四郎 |
軍事課長 | 田中新一 |
参謀総長 | 閑院宮載仁親王 |
参謀次長 | 今井清 → 多田駿 |
第一部長 | 石原完爾 |
第一部第二課長 | 河辺虎四郎 |
第一部第三課長 | 武藤章 |
第二部長 | 本間雅晴 |
教育総監 | 寺内寿一 → 畑俊六 |
関東軍司令官 | 植田謙吉 |
参謀長 | 東条英機 |
朝鮮軍司令官 | 小磯国昭 |
支那駐屯軍司令官 | 田代完一 → 香月清司 |
参謀長 | 橋本群 |
参謀次長今井清は病気療養中の為に実権は序列上石原完爾少将が権限を持つことになる。
また支那駐屯軍司令官田代完一は事件後まもなく病死。
現地交渉は橋本群参謀長を中心に行われることになる。
支那事変に対する陸軍部内拡大派・不拡大派一覧
拡大派
※中佐以下の大部分は拡大派
参謀本部第一部第三課 | 課長・武藤章大佐 |
参謀本部第二部支那課 | 課長・永津佐美重大佐 |
陸軍省軍事課 | 課長・田中新一大佐 |
支那駐屯軍 | 軍司令官・香月清司中将 |
関東軍 | 軍司令官・植田謙吉大将 参謀長・東条英機中将 |
朝鮮軍 | 軍司令官・小磯国昭大将 |
準拡大派
参謀本部第二部 | 部長・本間雅晴少将 |
陸軍省軍務局 | 局長・後宮淳少将 |
不拡大派
参謀本部第一部 | 部長・石原完爾少将 |
参謀本部第一部第二課 | 課長・河辺虎四郎大佐 |
陸軍省軍務課 | 課長・柴山兼四郎大佐 |
支那駐屯軍 | 参謀長・橋本群少将 |
準不拡大派
陸軍省 | 次官・梅津美治郎中将 |
中立(見解もたず)
陸軍省 | 陸軍大臣・杉山元大将 |
参謀本部 | 参謀総長・元帥閑院宮載仁親王 |
本一覧は秦郁彦氏・上村伸一氏の見解を中心にまとめたものである。
以上〆