空母「飛龍」と共に散った名将・山口多聞

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ミッドウェー海戦で、孤軍奮闘し散った名将、山口多聞海軍中将の墓は、青山霊園にある。


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山口多聞(やまぐち たもん)

1892年(明治25年)8月17日 – 1942年(昭和17年)6月5日)
海兵40期次席・海大24期次席
ミッドウェー海戦において空母飛龍沈没時に戦死。49歳であった。
最終階級は海軍中将。

TamonYamaguchi.jpg

引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TamonYamaguchi.jpg



海軍兵学校40期の同期には、福留繁、宇垣纏、大西瀧治郎、醍醐忠重、左近允尚正、寺岡謹平などがいる。海兵40期の主席は、岡新。山口多聞は次席卒業。海軍大学校甲種学生24期も次席卒業。

第二航空戦隊司令官
昭和15年(1940)11月1日、第二航空戦隊司令官に着任。
昭和16年4月10日に第二航空戦隊は第一航空艦隊に編入。通称「南雲機動部隊」。

昭和16年12月8日、開戦。真珠湾攻撃に参戦。大戦果を収める。

第一航空艦隊
第一航空戦隊( 一航戦 )赤城、加賀
司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将、参謀源田実中佐等

第二航空戦隊( 二航戦 )蒼龍、飛龍
司令官山口多聞少将

昭和15年6月5日 ミッドウェー
6月上旬、ミッドウェー作戦に二航戦司令官(旗艦「飛龍」)として参加。
ミッドウェー島基地攻撃中に、敵空母発見の知らせを聞いた山口多聞は、一刻を争うものとして、基地攻撃用で装備を進めていた陸用爆弾のままで、今すぐに攻撃隊を発進させるように南雲司令部に進言した。
「直チニ攻撃隊ヲ発進ノ要アリト認ム」
しかし、第二次攻撃隊発艦準備中、南雲機動部隊はSBDドーントレス急降下爆撃機の奇襲により、空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)が大破、炎上。
山口多聞は、次席指揮官の第八戦隊旗艦「利根」(司令官阿部弘毅少将)の命令を待たず、航空戦を敢行を決意。
第八戦隊と機動部隊全艦に対し、山口多聞は発光信号を発する。
「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」
「飛龍」艦内に山口多聞が通報する。
「飛龍を除く三艦は被害を受け、とくに蒼龍は激しく炎上中である。帝国の栄光のため戦いを続けるのは、一に飛龍にかかっている」
「赤城・加賀・蒼龍は被爆した。本艦は今より全力を挙げ敵空母攻撃に向かう」

友永丈市大尉指揮のもと米空母ヨークタウンを攻撃し航行不能まで追い詰めるなど、飛龍は、ただ一隻で奮戦するも、米軍機の急降下爆撃を受け炎上。
飛龍は懸命の消火活動を行うも、機関部などを損傷し、放棄を決定。

山口多聞司令は総員を飛行甲板に集合され訓示する。
皆が一生懸命努力したけれども、この通り本艦もやられてしまった。力尽きて陛下の艦をここに沈めなければならなくなったことはきわめて残念である。どうかみんなで仇を討ってくれ。ここでお別れする」

一同水盃をかわし皇居を遥拝し聖寿の万歳を唱え軍艦旗と将旗を降納。

「提督の最後」 北蓮蔵画
東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国より無期限貸与)
1943年(昭和18年)山口の最期を描いた戦争画。
画面中央での罐の蓋で水を受けるのが山口多聞、その向かって右奥は飛龍艦長・加来止男で、右手前から参謀が降ろされた軍艦旗を掲げ持って歩み寄る。
引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Renzo_Kita,_Last_Moment_of_Admiral_Yamaguchi.jpg

午後11時50分、軍艦旗降下。
6月6日午前0時15分、総員退去命令。
午前2時10分、巻雲の発射した魚雷2本のうち1本が命中し、沈没。

山口多聞少将と加来止男飛龍艦長は、飛龍と運命を供にした。

山口多聞は昭和17年6月5日付で海軍中将に進級。
10月10日、昭和天皇は侍従の徳川義寛を勅使として差遣し、祭祀料を下賜。
翌日の10月11日、山口の葬儀が青山斎場で執り行われた。


「余の級中最も優秀の人傑を失ふものなり」
宇垣纏「戦藻録」

このとき、連合艦隊の参謀長であり、海軍兵学校の同期でもあった宇垣纏は、日記「戦藻録」に、山口多聞の死について、以下のような記述を残し、最大限の賛美を送っている。

六月六日
 山口少将は剛毅果断にして識見高く、潜水艦勤務を専務としたるが、後、聯合艦隊専任参謀、大学校教官、米国駐在、第二聯合航空隊司令官等を歴任し、現職に在る事二年有半なり。余の級中最も優秀の人傑を失ふものなり。
 けだし蒼龍先に沈み、航空艦隊唯一の空母として奮戦、逆に敵空母二を仕留めるも、飛龍自らもまた刀折れ矢尽きて遂に沈没するに至る。司令官の責任を重んじ、ここに従容として艦と運命を共にせり。その職責に殉ずる崇高の精神、正に至高にしてたとゆる物なし。

宇垣纏「戦藻録」

戦時録音資料

昭和18年4月24日に行われたラジオ資料が残されている。
大本営海軍報道部の海軍大佐・平出英夫報道課長がラジオでおこなったもので、前年の昭和17年6月のミッドウェー海戦で、沈没する空母「飛龍」とともに死を共にした、第二航空戦隊司令官 山口多聞中将と「飛龍」艦長 加来止夫大佐(死後少将)の二人の奮闘ぶりを伝えた記録。

山口と加来の戦死は、この昭和18年4月24日夜に放送された『提督の最期』と題するラジオ番組で日本国民に対して公表された。少々長いが、当時の克明な記録でもあるので、以下に引用する。

精神教育資料 提督の最期(一)
近代戦は科学戦と言われます。従いまして、各種艦船、兵器、機関、装備などが戦闘の勝敗を決する重大な要素であることは申すまでもありません。しかし古来の戦争を見ましても、軍隊、なかんずくこれが上に立つ指揮官の素質と、至誠奉公の精神如何等の要素が、かかる物質的威力を凌駕するものであることは、万古不変の鉄則であります。今や我が将兵は、大御稜威をいただき、卓越せる指揮官の下、全軍一体となって物的優勢を頼みとする敵戦力を、徹底的に撃砕致しております。物的要素は、もとよりいささかも軽く見てはなりませんが、精神的無形の要素が無限の戦力を形成するものであることを、特に明記すべきであります。私はこのたび、北支勇将の御名に浴しました山口多聞中将、加来止男少将の東太平洋における壮烈なる奮戦と、陛下の御船と運命をともにした、鬼神も哭くその最期を申し述べ、我が前線指揮官が敵撃滅の中心となって、いかに戦っているかをしのびたいと存じます。本日は畏くも天皇陛下、靖国神社へ御親拝あそばされたのでありますが、その夜、両提督の最期をお話し申し上げることは、ひとしお感慨深いものがあります。

山口中将は、支那事変にありましては、あるいは艦船部隊、あるいは航空部隊の指揮官として各地に転戦し、その功、抜群だったのでありますが、特に航空部隊指揮官としては重慶空軍の撃滅、並びに敵軍事施設の攻撃に偉功を奏し、軍令部総長の宮殿下よりその功績を嘉尚せられ、御言葉を伝達せらるるの光栄に浴したほか、支那方面艦隊長官より、感状を授与せられております。大東亜戦争におきましては、中将は開戦劈頭のハワイ海戦に参加され、かの赫々たる大戦果の一半は、実に中将の卓越せる兵術、烈々たる実行力の功に帰するというも過言ではありません。

その後、中将は各作戦に参加され、数々の偉勲を立てられたのでありますが、東太平洋方面の作戦におきましては、敢然として敵方に進出、反復猛烈なる攻撃を加え、部下航空部隊の最後の1機に至るまで奮戦し、敵航空母艦、大型巡洋艦、各々1隻を屠り、他の航空母艦1隻に大損害を与え、敵基地に甚大な打撃を与えるという大戦果を挙げられたのであります。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400264_00000

精神教育資料 提督の最期(二)
また、加来少将は、多年航空関係の要職を歴任され、支那事変におきましても、航空隊指令として各地に転戦、赫々たる武勲を立てられ、大東亜戦争勃発いたしまするや、 山口中将の麾下として、ハワイ海戦に参加以来、各作戦に参加され、東太平洋方面の作戦には、敵の反撃を一手に引き受け、奮戦力闘、遂に矢折れ、弾尽きるや、救援のため来着いたしました駆逐艦に、部下総員を無事移乗せしめました後、山口中将とともに艦上に踏みとどまり、従容として船と運命をともにいたされたのであります。

次に、当時の状況をそば近くともに戦い、その実情を目の当たりにした将士の記憶によって申し述べたいと思います。

昭和17年6月のことであります。東太平洋方面に作戦が実施されまするや、山口中将指揮の我が航空部隊は、整斉と予定の行動に移り、洋上の基地奥深く潜む敵、本艦艦隊のおびき出しを計りながら、次々と艦載機を飛ばしました。この日、層雲は2000メートルの上空を込め、東南東の風強く、同方面特有のうねりは大きく、艦載機の飛び立つのにも困難を感ずるほどでありました。索敵機が進発してから約2時間、航空母艦○(まる)隻を根幹とする敵艦隊の北上を発見す。その快報がもたらされました。時に日本時間の早朝、洋上の時差がありますので、太陽は既に中天に近いころであります。我が軍艦○○(まるまる)は、山口司令官これを直率、加来艦長指揮の下に、既に戦闘配備にあり、将士の意気、また既に敵を呑むの概があります。戦機まさに熟す。我が戦隊は敢然挺身、有力なる基地航空兵力の援護下にある敵航空母艦群、及び飛行機集団と火蓋を切ります。かくて激戦力闘数時間に及び、我が方はついに敵航空母艦高級巡洋艦各1隻を撃沈。他の航空母艦1隻を大破せしめました。そればかりではなく、この日、明け方から粉砕、撃墜し続けてきた敵飛行機は、既に百数十を数えましたが、戦意旺盛な海の勇士たちは、なおも残る敵航空母艦に対して猛襲を続けたのであります。しかし我が方は、夜来敵基地の奥深くに迫って、奮戦十数時間に及び、既に砲身は焼け、飛行機も傷つき、すべての力を出し尽くしたかの感がありました。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料  https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400265_00000

精神教育資料 提督の最期(三)
あくまで敵を撃滅せずんば止まぬ勇士たちは、一面整備、一面激戦。さらに猛攻撃に当たらんとする、ちょうどその時であります。刻々数を増してきた敵急降下爆撃機群は、我が艦上を覆い、めくらめっぽうに投下する魚雷、爆弾のしぶきに艦影は覆い隠されるほどでありました。実にこの日、敵の猛襲は熾烈を極め、払暁以来、我が軍艦○○(まるまる)めがけて突撃を試みた敵機115機。回避した魚雷だけでも26本。爆弾約70発であります。敵の来襲は、早朝より午後にかけて4回に及び、最後の来襲により、敵の数発の爆弾は遂に我が艦橋前方の飛行甲板に命中いたしました。

山口司令官、加来艦長、以下幕僚はその時艦橋にありましたが、ものすごい爆風が四方のガラス窓を打っただけで、概ね無事でありました。だが前部飛行甲板には大小丘のような鉄板の波。大きな爆弾の穴が開けられ、格納庫はすさまじい火炎を噴き出し、別の至近弾による火災もたちまち艦橋をめぐる防弾幕に燃え移って、みるみるその火勢を広げていきます。応急処置の命令は次々に下されました。艦内各要所への注水はもとよりのこと、勇士たちは持ち場、持ち場を守って消火に全力を挙げたのであります。船破るるも軍規乱れず、沈着に機敏に処置が講ぜられました。だが、一波静まれば、一炎またみなぎるありさまです。巨体は勇士たち必死の努力にもかかわらず、漸次全面的に灼熱化し、延々と燃え広がる火勢は夕闇の空を焦がし、海水もために滾るかと思われました。勇士たちはなおも絶望を絶望とせず、豪炎烈火の中になお氷のごとき沈着さをもって鎮火に努めましたが、火勢はいよいよ激しく、たちまち機械室、釜室の上部前面は火の海と化し、舵取り機械の操作も遂に不能に陥りました。

この時、なお艦艇深い部署にあって、阿修羅のごとき操作を続けておりました機械釜部員は、上層鉄板の熱気、四方を巡らす鉄壁の焦熱のうちに最後万歳を唱え、あるいは死すとも敵を撃たでは止まじと絶叫し、相次いで斃るとの知らせが頻々として伝声管をもって艦橋に伝えられるのであります。それよりも早く、救出決死隊の手は猛火と猛煙をおかして機械室と釜室との連絡を図っていたのであります。万策功なく、また救い出しの手も多くに及ばず、船は次第、次第に轟々たる鳴動のうちに左に傾斜して、約19度に瀕していたのであります。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料  https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400266_00000

精神教育資料 提督の最期(四)
誘爆はなおも続き、あまつさえ全艦の火は潮風を合わせて、波頭をなめんばかりであります。この中にあって、船の左舷側には、大胆にも駆逐艦○○(まるまる)がその舷側をぴったりと横付けにしていました。ともに消火に当たり、死傷の戦友を抱えうつなど必死となって協力いたしたのであります。それはちょうど猛火の中に親子相擁し相呼ぶがごときありさまであります。船の将士をして熱涙を震わせたのでありました。この間にあって、なお騒がず、乱れず、数名の将士の歩み謹厳にして、一挙一動、礼儀正しくは何事かと見えました。それは防御甲板下部の奉安室に、鉄壁鉄心を持って奉安し参らせてある御真影を奉遷し奉る姿だったのであります。一員がうやうやしく奉遷箱に移し奉ります。身を以てしかと背に負い、ひとまず前甲板に奉安申し上げ、さらに命によって駆逐艦に移しまいらせたのであります。陛下の見つめたり御船、今ここに御真影の御移乗を了したてまつる。死んだ全員の努力もなお忠誠に足らざるなきかと、忠勇の士、みな恐れ思うて悲憤の涙は抑えんとして抑えがたく、加来艦長は、今や総員退去のやむなしと判断いたしました。その決意を山口司令官に報告いたしました。司令官も、これに同意され、この旨を艦隊司令部に報告せよと命ぜられました。この報告は、いったん付近にあった駆逐艦に、懐中電灯のかすかな光りによって伝えられ、さらに艦隊司令部に伝えられました。時に東太平洋の夜は既に深かったのであります。この時、なおも機械室、釜室にある戦友に対する決死の救出作業は依然として続けられておりましたが、厚い煙に阻まれまして、今は万策、全く尽き果ててしまいました。戦友たちがこもごも、声を限りに熱涙を込めて呼びますが、轟々と渦巻き上る噴煙がその面を打ってくるのみでありました。

「総員、飛行甲板に集まれ」「飛行甲板に集合」。ついに最後の命令は発せられました。叫ぶような号笛の伝令。喉も破れて出ぬ声を振り絞りながら、その命令はたちまち全部署に伝えられました。総員の集まりました飛行甲板は、あたかも坂のように傾き、亀裂、凹凸、弾痕で惨憺、目も当てられぬ有様であります。また集合した総員の顔という顔は、終日の奮戦を物語る油と汗で黒くまみれておりましたが、どの目もらんらんと不屈の戦意に燃え輝いて、一人として失望落胆の気配すら伺われません。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400267_00000

精神教育資料 提督の最期(五)
全員の瞳は、期せずして艦橋に注がれました。艦橋の一方に屹立するは山口司令官、及びその幕僚。左のほうに加来艦長、副長、その他の影濃く、燃えさかる炎と月の光りに、その1つ1つの横顔が染め分けられていました。ああ、我が司令官、我が艦長もまた健在なりしかと、全員の瞳に一瞬、歓喜の色輝くのを見まするのは、なおこの期においても、自己なく生死なく、身命ただ1艦とともに在りの姿でなくてなんでありましょう。各分隊長は直ちに人員点呼を行いまして、上官に伝え、上官は艦長に報告いたします。この報告が終わりますと、加来艦長は山口司令官に敬礼し、ともに艦橋から飛行甲板に降り立ちました。降り立ったその足下に、数個のビスケット箱があります。それは消火に協力した駆逐艦から応急糧食として運び上げてくれたものでありますが、全員、誰一人としてそのビスケッ
トの一片だにも口にしたものはありません。のみならず、その日の暁から、この時まで、司令官以下、総員戦闘配食のにぎりめし1個を形につかんだことがあるだけで、1杯の水すら飲む者はなかったのであります。加来艦長は、そのビスケット箱の上に立ちました。そして粛然、次の如く訓辞されました。

「諸氏、諸氏は乗艦以来、ハワイ空襲その他においても、もちろん今日の攻撃に当たっても、最後まで実によくその職を尽くしてくれた。皇国海軍軍人たるの本分をいかんなからしめてくれた。艦長として、最大の満足を感ずるとともに、実に感謝に堪えない。あらためて礼を言う。ただ、ともに今日の戦いに臨みながら、ともにただ今ここであい見ることのできない幾多戦友の英霊には、多感言い表せないものを覚える。同時に、その尊い赤子を多く失ったこと、陛下を始めたてまつり、一般国民に対し、深くお詫び申し上げる。今時、出撃の際にも各員に申し述べたとおり、戦いはまさにこれからだ。諸氏の同僚はこの海底に神鎮まるも、ここの海上は敵アメリカへの撃滅路として、無数の英魂が万世(よろずよ)かけて我が太平洋を守るであろう。諸氏もどうか一層奮励して、さらにさらに我が海軍に光輝を加えてくれ。敵を撃滅し尽くさずんば止まじの魂を、いよいよ鍛え合ってくれ。切に諸氏の奮闘を祈る。では、ただ今より総員の退去を命ずる。」

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400268_00000

精神教育資料 提督の最期(六)
力強い語尾でありました。艦長に代わって、すぐに山口司令官が台上に立たれました。

「ただ今の艦長の訓辞にすべて尽くされたと思う。私からはもう何も述べることはない。お互いに皇国に生まれてこの会心の一戦にあり、いささか本分を尽くし得た喜びがあるのみだ。皆とともに宮城を遙拝して、天皇陛下万歳を唱え奉りたい。」

司令官の声にも、態度にも、平生と少しも異なるところは見られませんでした。ただ無言不動のうちにも、全将兵の列を貫く強い感激のうねりは、目にも見えるほどでありました。誘爆のものすごい音響の中に、縦横にひらめく猛煙の中に、その轟音も熱風も裂けよとばかり、万歳を奉唱し終わりまするや、加来艦長はさらに大声で令しました。「今から軍艦旗を下ろす。」全員、不動の姿勢に、燃える感情も、峻厳秋霜たる軍旗の前に、烈火も熱風もありません。やがて君が代のラッパ吹奏時に、我が軍艦旗もまた、なお戦場の空にとどまらんと願うか、霊あるもののごとく、赤き月の夜空を寥々の音にひかれて下りてまいりました。将旗もともに降ろされます。仰ぎ見る全員の面は、涙に濡れざるはありません。この時既に総員は、山口司令官、加来艦長の決意が奈辺にあるかを推察していましたので、副長は各科長を集めて、ともに船にとどまりたいと申し出たのであります。

艦長は言下に「いけない。それはいかん。自分は船の責任者として船と運命をともにするの名誉を担うものであるが、ほかの者は許さん。重ねて言う。戦争はまさにこれからだ。諸氏の忠誠に待つ百難の戦場は、果てしなくあろう。諸氏は今日の戦訓をよく将来に生かし、一層強い海軍をつくってくれ。敵米英を完膚なきまでにたたきつぶせ。いよいよ奮戦努力してもらいたい」と、この申し入れを厳然と退け、さらに司令官を省みて申されました。

「司令官、ご退艦ください。これにとどまるは1人、不肖艦長の任にあります」これに対しまして山口司令官は、いやとも言わず、しかりとも答えず、ただにっこり頷いたのみでありましたが、眉の色、態度、既に固く自ら信ずるところを持して他より動かすに由なきを無言に示しておられたのであります。この日、終日艦橋にあって、悠々常に迫るなく、一笑すれば春風を生じ、一礼すれば秋霜の厳たるを思わすの慨は、実に山口司令官の英姿そのものでありました。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400269_00000

精神教育資料 提督の最期(七)
外は穏和快活でありながら、内は剛毅不屈。武人の死は、なお呱々の声を挙げて世に生まるる日に等しとは、常に語っておられたところでありました。司令官の日常をよく知っておりました加来艦長は、司令官の微笑を仰ぎましては、あえて一度は退艦を勧めましたが、二度と勧める気にはなれなかったのであります。ただ黙然とその傍らに持して立つのみであります。なおまた専任参謀以下幕僚も、皆ともにその周囲にありまして、一歩も動かないでいるのを見ますと、山口司令官は一同に、厳かに「退去を命ずる」と命令されました。この時、船の傾斜はいよいよ加わりまして、もう手を何かに支えなければ、立っていることさえ難しくなっておりました。依然、誘爆は止まず、死期は既に秒間にあるを思わせたのであります。「早く行け、退去しないか」司令官の温容は凜として一喝しました。しかし自身は悠々自若。ただ全員の上に深い瞳を注いでおられます。今はやむなく、総員一斉に挙手の敬礼をいたしました。万感の別辞に代え、駆逐艦2隻に移乗を開始いたしました。第1に負傷せる船員。第2に同乗せる他の船の乗員。以下、順次に秩序整然として、光輝ある海の砦に決別を告げていった。総員が退官し終わるわずかの間を、なお残った幕僚や船の幹部は、短艇用の小さな水樽を囲み、その栓を抜いていました。この水樽も、先にビスケット箱とともに僚艦から消火作業中に贈られたものでありましたが、その水栓は、今初めて抜かれるのであります。あり合わせの石油空き缶の蓋を杯に代え、まず司令官、艦長の前に捧げました。それから次々に飲み交わしては、相別るる人の影を心の内に伏し拝んだのであります。しかし山口司令官と加来艦長とは、一掬の水に終日の渇を潤しますと、もう辺りの嗚咽も涙声も素知らぬように、淡々と語り合っておられました。

「いい月だな、艦長」
「月齢は21ですかな」
「2人で月を愛でながら語るか」
「そのつもりで先ほど、主計長が金庫の措置を聞きに来ましたから、そのままにしておけと命じました」
「そうそう。あの世でも渡し銭がいるからな」。

よそながらこの対話を聞く者は、熱鉄を飲む思いが致したのであります。司令官はつと目を向け直しますと、専任参謀と副長を特に招き寄せて申されました。

「こういう作戦の中だから、君たちの身も明日は計り知れない。ゆえに、特に依頼しておくわけだが、艦隊長官へ伝言を頼む。」

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400270_00000

精神教育資料 提督の最期(八)
それは、急にその姿勢を正し、言葉も厳かに「陛下の御船を損じましたことは、誠に申し訳ありません。しかし、やるだけのことはやりました。ただ敵の残る1艦に最後のとどめを刺す前に、かくなったことは残念に存じます。どうかこの仇をうち晴らしてください。長官の御武運長久をお祈りいたします。以上だ、頼むよ」と言い終わるや、山口司令官は静かに艦橋にその歩みを移されました。加来艦長も、またやや足早に艦橋に上っていきます。「司令官、なんぞお形見をください」。専任参謀は追いすがるように両手を挙げて艦橋を振り仰ぎました。その手の上へ、山口司令官の戦闘帽がふわりと軽く投げられました。副長は、軍艦旗を肌身につけ、専任参謀は将旗と形見の戦闘帽を抱きまして、最後に2人とも遂に船を去ったのであります。軍艦の舷側を離れました後も、2隻の駆逐艦は近くを去らず、逡巡、幾度かめぐり、幾度か短艇を下ろし、あるいは艦上の諸声を合わせて呼び合い、手を挙げ、帽を打ち振るなど、ほとんど子が親を呼ぶにも勝る哀惜の絶叫と衷情を表し続けたのであります。だが司令官と艦長の牢固たる決意の姿にはいささかの揺るぎも見えず、ただ彼方の艦橋に立てる2つの影も、我に答えて手を振っておるのが見えるだけありました。刻々、その2つの影は、神かのごとき崇高さを顕現しておりました。一瞬、艦橋もろとも黒煙に覆われ去ったかと思えば、また次の一瞬、炎々たる炎は神の像のごとく、その影を栄え照らしました。なお振り続けている手の線まで赤々と見えます。やがて驚くべき海面の変化が予想されます。広く大きい海の洞穴が突如として生じるかのごとき、大渦のもたらし来たった潮鳴りであります。それが先か、後か、轟然、一大音響とともに、彼方の軍艦は裂けておりました。たちまち見るその左舷は、急傾斜して洋中に没し、刹那に深く沈みゆく艦橋には、人なく焔なく煙もなく、まさに中天一痕の月落ちて遙深へ神鎮まったかのようにしか思われません。その渦潮を急に避けながらも、2隻の駆逐艦上から、その有様を目撃しておりました全将兵の目には、既に常時の人間、山口司令官、加来艦長の影はなく、2人にして全く1つなる、我が海軍魂。その一閃の神の光りを明らかに、目で見た心地だったのであります。

戦争証言アーカイブ 戦時録音資料 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400271_00000


山口多聞墓

青山霊園1種ロ8-1
このエリア、青山霊園1種ロ8号(警視庁墓地のとなり)界隈は有名人、著名人のお墓が集中している。ゆくゆくはまとめてみたいとは思ってます。。。

山口多聞の墓に参拝。
日本海軍が誇る名将に合掌。

海軍中将
正四位勲一等功一級
山口多聞墓

裏面
昭和十七年六月五日戦死
 元帥海軍大将永野修身書

山本五十六の詠んだ石碑が建立されている。


佐世保海軍墓地には飛龍の慰霊碑がある。あわせて掲載。

航空母艦 飛龍 戦没者慰霊碑

昭和49年6月5日建立
源田実書

昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦。
南雲機動部隊(第一航空艦隊)直下の第二航空艦隊にて山口多聞少将の旗艦として出撃。最後の一艦として奮戦するも飛龍は6月6日午前0時15分総員退去、沈没。山口司令官、加来艦長以下800余名を祀る。

慰霊碑建立の記
航空母艦飛龍(17,300噸)は昭和14年7月横須賀海軍工廠にて竣工、支那事変の際は支那沿岸各地に於いて戦功を樹て昭和16年12月大東亜戦争勃発するや開戦劈頭僚艦と共に真珠湾奇襲に成功し更に「ウエーキ」島、豪州、比島、蘭印、インド洋作戦に武勲を樹て昭和17年6月5日「ミッドウエー」島攻略戦に於いては敵陸上基地を猛攻し赤城加賀蒼龍の三航空母艦被弾後は飛龍只一隻孤軍奮戦敵空母「ヨークタウン」を撃破し、更に攻撃準備中武運拙なく被弾大破し火焔に包まれ必死の消火作業も其の効なく遂に総員退去の止むなきに至り第二航空戦隊司令官山口多聞中将、艦長加来止男少将は従容として艦に止どまり多数の戦没者と運命を共にさる
茲に三十三回忌を期し慰霊碑を建立して航空母艦飛龍の功績を顕彰し併せて英霊の冥福を祈念す
 昭和49年6月5日
 航空母艦飛龍遺族生存者有志一同

在天の 山口司令官
加来艦長はじめ たくさんの戦友たちよ
あの日のことども ともに語りたい
その後のことも 聞いてほしい
だが今日は それもかなわず
とこしえに この聖地に
み霊安らかに 眠れかしと
ただ祈るのみ

平成28年(2016)7月撮影 佐世保市の「東公園」(「東山公園」)「佐世保東山海軍墓地」「佐世保旧海軍墓地」「東山旧海軍墓地」平成...

山口多聞の墓の隣は、高須四郎の墓もある。
広大な青山霊園の中でも、海軍軍人同士が並んでいるのは珍しいので、山口多聞とは直接的には関係しないが、あわせて掲載。

高須四郎

1884年10月27日 – 1944年9月2日
海兵35期。海軍大将。
昭和16年の開戦時は、第一艦隊司令長官。昭和17年に南西方面艦隊司令長官。兼第二南遣艦隊司令長官。昭和18年、兼第十三航空艦隊司令長官。昭和19年3月1日、海軍大将に昇進。
昭和19年4月2日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将が行方不明になる事件(海軍乙事件)が起こり、次席指揮官である南西方面艦隊司令長官の高須が一時的に連合艦隊の指揮をとっている。
昭和19年6月18日に軍事参議官に就任し、9月2日に病没。

高須家之墓

(裏面)
昭和19年5月
高須四郎建之

海軍大将 高須四郎
海軍主計少佐 高須一郎(長男・昭和18年7月に南方海域で戦死)
日本大学名誉教授 高須敏行(次男・平成22年1月没)

山口多聞の墓と、高須四郎の墓はご近所さん。


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