「鉄道紀行文学の御三家」内田百閒・阿川弘之・宮脇俊三の墓

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近代化とともに発展してきた鉄道。そんな鉄道を舞台とした旅物語を作家たちが綴り、そして鉄道紀行文学が確立された。

日本の近代を鉄道を介して旅してきた日本を代表する御三家の墓詣でを。

合掌。


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内田百閒(うちだ ひゃっけん)

本名は内田榮造。
1889年〈明治22年〉5月29日 – 1971年〈昭和46年〉4月20日。
別号は百鬼園(ひゃっきえん)。

夏目漱石門下生。 東京帝国大学独文科卒。
1916年(大正5年)、陸軍士官学校ドイツ語学教授に任官(陸軍教授高等官八等)
1918年(大正7年)、海軍機関学校英語学教官であった芥川龍之介の推薦により、海軍機関学校のドイツ語学兼務教官嘱託となる。
1920年(大正9年)、法政大学教授(予科独逸語部)に就任。
1923年(大正12年)、陸軍砲工学校附陸軍教授に任官。
しかし、同年に関東大震災に罹災。海軍機関学校も崩壊焼失したため、嘱託教官解任。1925年(大正14年)陸軍士官学校教授を辞任、陸軍砲工学校教授依願免官。
1929年(昭和4年)、法政大学航空研究会会長に就任、航空部長として、学生の操縦による青年日本号訪欧飛行を計画・実現。
1934年(昭和9年)、いわゆる「法政騒動」を機に法政大教授を辞職。
以後、本格的に文筆業に専念。

1922年(大正11年)、処女作品集『冥途』刊行。
1933年(昭和8年)、随筆集『百鬼園随筆』刊行。
1939年(昭和14年)、日本郵船嘱託。
1945年(昭和20年)、東京大空襲により自宅焼失。
1950年(昭和25年)、大阪へ一泊旅行。これをもとに随筆「特別阿房列車」を執筆、以後『阿房列車』としてシリーズ化し戦後の代表作となる。
1952年(昭和27年)、鉄道開業80周年を記念して,東京駅一日駅長に就任。
1957年(昭和32年)、愛猫「ノラ」が失踪。『ノラや』をはじめとする随筆を執筆。
1970年(昭和45年)、最後の百鬼園随筆である「猫が口を利いた」発表。これが絶筆となる。
1971年(昭和46年)4月20日、東京の自宅で老衰により死去、享年81歳。

代表作
『冥途』1922年2月
『百鬼園随筆』1933年10月
『旅順入城式』1934年2月
『贋作 吾輩は猫である』1950年4月
『阿房列車』1952年6月
『禁客寺』1954年10月
『東京焼盡』1955年4月
『ノラや』1957年12月
『クルやお前か』1963年7月
『日没閉門』1971年4月

映画
『まあだだよ』(1993年、大映、監督:黒澤明、主演:松村達雄)
百閒と法政大学教授当時の教え子の交流を描いた作品。
毎年百閒の誕生日である5月29日に「摩阿陀会(まあだかい)」という誕生パーティーが開かれていた。摩阿陀会の名は、「百閒先生の還暦はもう祝ってやった。それなのにまだ死なないのか」、即ち「まあだかい」に由来する。

阿房列車
『阿房列車』に代表されるように大の鉄道好きの知られ、酒宴では「鉄道唱歌」を熱唱することでも知られていた内田百閒。
全く無目的に、ただひたすら大好きな汽車に乗るためだけの旅を実行、それを『阿房列車』という鉄道紀行シリーズにまとめた。

「なんにも用事はないけれども、汽車に乗って大阪に行つて来ようと思ふ。用事がないのに出かけるのだから三等や二等には乗りたくない。汽車の中では一等が一番いい。これからは一等でなければ乗らないときめた。そうきめても、お金がなくて用事が出来れば止むを得ないから、三等に乗るかも知れない。しかしどっちつかずの曖昧な二等には乗りたくない。…今度は用事はないし、だから一等車で出かけようと思ふ。…行く時は用事はないけれども、向こうに著いたら、著きつ放しと云ふわけには行かないので、必ず帰って来なければならないから…さう云ふ用事のある旅行なら、…三等で帰ってこようと思ふ。」(内田百閒「特別阿房列車」)

大手饅頭
岡山出身の内田百閒は郷里の名物、大手饅頭伊部屋「大手まんぢゅう」をこよなく愛していた。
「私は今でも大手饅頭の夢を見る。つひこなひだの晩も同じ夢を見たばかりである。東京で年を取つた半生の内に何十遍大手饅頭の夢を見たか解らない。」(古里を思ふ)と随筆し、そして大手まんぢゅうになら「押しつぶされてもいい」とまで書いている。

大手饅頭伊部屋
https://www.ohtemanjyu.co.jp/

大手まんぢゅう、たまに食べたくなるです。。。


内田榮造之墓(内田百閒の墓)

内田百閒の墓は、東京都中野区の金剛寺と、岡山県の安住院にある。
今回は中野区金剛寺のお墓を参拝。

内田榮造之墓

本名が刻まれている。

側面には戒名。

覺絃院殿随翁榮道居士
昭和四十六年四月廿日没 行年八十三歳

背面には建立日、そして摩阿陀會。

昭和四十八年四月廿日之建 摩阿陀會

内田百閒の家紋は、「丸に剣片喰」

木蓮や塀の外吹く俄風 百間

内田百閒没2年後の1973年(昭和48年)には、摩阿陀会有志により墓の脇に句碑「木蓮や塀の外吹く俄風」が建立。
この句碑から、忌日の4月20日を木蓮忌とも言われている。

内田百閒の最初の妻は、中学時代の親友であった堀野寛の妹、堀野清子であった。内田百閒40歳の頃(昭和4年・1929年)に家族と別居し合羽坂に転居した際に、佐藤こひと同居。愛人でもあった。
昭和39年(1964)に、妻・清子が72歳で死去。翌年、75歳だった内田百閒は、佐藤こひと入籍している。そうして、内田こひは内田百閒の隣の墓で眠っている。

内田こひ、昭和62年8月5日没 行年80歳。

なお、内田百閒の最初の妻であった清子夫人は、内田百閒の岡山の墓で一緒に眠っている。

場所は金剛寺の奥にある金剛寺墓所。寺院とは離れた場所なので、ちょっとわかりにくい。駅からちょっと遠い。

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サイト内で内田百閒に関連する記事。

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夏目漱石の弟子であった内田百閒は、師を敬愛し「贋作」を書いた。
『贋作吾輩は猫である』
阿川弘之は、鉄道好き作家であった内田百閒に敬意を評して、阿房列車を再び走らせた。
『南蛮阿房列車』

阿川弘之

1920(大正9年)12月24日-2015(平成27年)8月3日
94歳没

東京帝国大学文学部国文学科を繰り上げ卒業し、1942年(昭和17年)9月に海軍予備学生として海軍入隊。
1943年(昭和18年)8月に海軍少尉任官、軍令部勤務。大学在学中に中国語の単位を取得していたことから対中国の防諜担当班に配属される。
1944年、海軍中尉に進級し、8月に支那方面艦隊司令部附となる。
1945年8月15日の終戦は中国大陸で迎える。終戦に伴う進級で阿川弘之は海軍大尉となる。いわゆる「ポツダム大尉」。
1946年(昭和21年)2月、復員。

戦後は、志賀直哉に師事して小説家となる。

代表作は、
予備学生の特攻を描いた「雲の墓標」
海軍提督三部作「山本五十六」「米内光政」「井上成美」
海軍のシンボルであった戦艦の姿を描いた「軍艦長門の生涯」
志賀直哉最後の弟子として師匠を伝記した「志賀直哉」
鉄道物として絵本「きかんしゃ やえもん」の原作
内田百閒に薫陶を受けた「南蛮阿房列車」など、
戦記文学・記録文学・紀行文学・随筆など多数の作品を残す。

広島県名誉県民・日本芸術院会員・日本李登輝友の会名誉会長・文化勲章受章。

南蛮阿房列車
鉄道好き作家としても知られる阿川弘之は、内田百閒を敬愛していた。

「お目にかかったことは無いが、内田百閒先生に私は敬愛の念を持っている。理由はいろいろあるけれども、その一つは百閒先生が非常な汽車好きだからで、小説家の中で汽車のことに異常な関心を持っているのは、百閒老先生を除いては、おそらく自分一人だろうという、いわばそういう親愛感である。」(お早く御乗車ねがいます・昭和33年)

「内田百閒先生が最初の阿房列車に筆を染められてから四半世紀の時が経ち、亡くなられてからでもすでに五年になるが、あの衣鉢を継ごうという人が誰もあらわれない。年来私はひそかに心を動かしていたが、我流汽車物語は贋作でないまでも、少しく不遜なような気がして、なかなか実行に移せなかった。
生前、お近づきは得なかったが泉下の百鬼園先生に、貴君、僕も『贋作吾輩は猫である』なる作物がある。二代目阿房列車が運転したければ、運転しても構わないよと言われているような気がしないでもない。」(南蛮阿房列車・昭和52年)


阿川弘之の墓(阿川家之墓)

北鎌倉の浄智寺に阿川弘之は眠る。

阿川家之墓

阿川弘之

場所

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阿川弘之さんのお別れ会(以下のサイトで様子が詳細に記載されている)

サイト内で阿川弘之に関連する記事。

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内田百閒と阿川弘之が確立した鉄道紀行を文学として高めたのが宮脇俊三であった。
編集者として阿川弘之と親交も深かった。

宮脇俊三

1926年12月9日 – 2003年2月26日。76歳没。
編集者、紀行作家。元中央公論社常務取締役。
阿川弘之の『お早くご乗車願います』担当編集なども務める。

父は宮脇長吉。
宮脇長吉は陸軍航空兵大佐を最後に衆議院議員となる。
1938年の帝国議会では、国家総動員法の委員会審議で横柄な演説をした説明員の佐藤賢了陸軍中佐に対して野次を飛ばし、佐藤に「黙れ!」と怒鳴られるという事件が起きた(黙れ事件)。佐藤賢了は陸軍時代の教え子であった。

宮脇俊三は、1945年(昭和20年)、東京帝国大学理学部地質学科に入学。父である宮脇長吉は軍需工場の経営なども行っており、ちょうど東京から山形に父親と共に鉄道で移動している最中、8月15日正午、米坂線今泉駅前で玉音放送を拝聴する。
戦後、東京大学文学部西洋史学科に入学し、1951年(昭和26年) 東京大学文学部西洋史学科卒業。中央公論社(現在の中央公論新社)に入社。
中央公論では「婦人公論」編集長、また「世界の歴史」シリーズ、「日本の歴史」シリーズ、「中公新書」などにも関わる。
1978年(昭和53年)6月30日 常務取締役編集局長を最後に中央公論社を退社。
1999年(平成11年)気力・体力に限界を感じ、休筆を宣言。
2003年(平成15年)2月26日、肺炎のため没する。享年76。戒名「鉄道院周遊俊妙居士」。宮脇俊三の命日は「周遊忌」と称されている。

代表作
時刻表2万キロ(1978年7月10日)
最長片道切符の旅(1979年10月)
時刻表昭和史(1980年7月)
終着駅は始発駅(1982年8月)
殺意の風景(1985年4月)

時刻表昭和史
「正午直前になると、「しばらく軍管区情報を中断します」との放送があり、つづいて時報が鳴った。私たちは姿勢を正し、頭を垂れた。固唾を呑んでいると、雑音の中から
「君が代」が流れてきた。
天皇の放送がはじまった。雑音がひどく聞き取りにくく、難解であった。けれども、「敵は残虐なる爆弾を使用し」とか「忍び難きを忍び」という生きた言葉は、なまなましく伝わってきた。放送が終っても、人びとは黙ったまま棒のように立っていた。ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。目まいがするような真夏の蝉しぐれの正午であった。
時は止まっていたが汽車は走っていた。 
まもなく女子の改札係が坂町行が来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行の米坂線の列車が入ってくるのを待った。こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。 
けれども、坂町行109列車は入ってきた。
いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。
機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受けとっていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか。あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだが、と私は思った。
昭和二〇年八月一五日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである。」 (時刻表昭和史)


宮脇俊三の墓(宮脇家の墓)

青山霊園に眠る。
父親である宮脇長吉も同じ墓。

宮脇家之墓

鉄道院周遊俊妙居士
平成15年2月26日去
宮脇俊三 76歳

宮脇俊三が愛していた「大井川鉄道の関の沢鉄橋」が刻まれた記念碑

終着駅は始発駅

 宮脇俊三
  鉄道院周遊俊妙居士

場所は、青山霊園1種ロ7号15側2番 


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