鈴木貫太郎。
日本の戦争を終わらせた総理大臣。
実は先日に、関西に出張がありました。
どこかに寄れないかな、と地図を見ていたら見つけたのが、「鈴木貫太郎生誕の地」。
これは、行ってみたい。
駅から離れているし、ちょっと不便な場所ではあるけども、そもそも「石碑」しかないのもわかっているけども。
それでも足を運んで見たいと思うのが、史跡オタクの性分。
そんなわけで足を運んでみました。
鈴木貫太郎は、千葉の関宿出身だと思っていました。
どうやら、関宿藩の飛び地が堺市内(大阪府堺市中区伏尾・和泉国伏尾)にあり、関宿藩家老であった父親が飛び地で代官をしていた時に、鈴木貫太郎が生まれたと。
本記事は「その1・誕生の地」です。
せっかく、誕生の地を訪れたのであれば、晩年の地もいかねばなるまい。
生誕の地を訪れた週末に、晩年の地へも足を運んできました。
「その2・晩年の地」では、関宿に触れます。
目次
鈴木貫太郎誕生之地
海軍大将 侍従長
鈴木貫太郎誕生之地
第四師団長林弥三吉書
昭和4年6月建之
昭和4年に、大坂の第4師団長・林弥三吉陸軍中将が建立。昭和4年の鈴木貫太郎は、 昭和天皇の強い願いもあり、海軍を予備役編入され、侍従長に就任した年。
鈴木貫太郎が侍従長に就任したことを記念しての建立にしても、それを海軍ではなく陸軍が建立するということに、すでに鈴木貫太郎の存在感の凄さを感じることができる。終戦内閣など、まだその余燼も感じさせない時代に。
鈴木貫太郎
1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日。
海軍大将。終戦時の内閣総理大臣。
海軍士官として、海軍次官・連合艦隊司令官・海軍軍令部長などを歴任。
予備役後に侍従長・枢密院顧官・枢密院議長などを歴任。
小磯国昭内閣のあと、内閣総理大臣に就任。日本を終戦へと導いた。
1868年1月18日(慶応3年12月24日)、和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾)に生まれる。伏尾は下総関宿藩の飛地であり、関宿藩久世家の家老であった父の鈴木由哲は、代官として和泉国大鳥郡伏尾に赴任しており、鈴木貫太郎は、その関宿藩飛地の堺伏尾で生まれている。3年後の1871年(明治4年)、鈴木貫太郎は本籍地の関宿に居住を移している。
その後の鈴木貫太郎は、「その2・晩年の地<関宿>」の記事で触れます。
久世関宿藩代官所跡
久世関宿藩代官所跡
この辺りは関宿藩の陣屋です。
鈴木貫太郎は慶応3年12月24日に関宿藩士で鈴木為輔(由哲)も長男として和泉国久世村で生まれました。
海軍兵学校を卒業し海軍大将、侍従長を経て第42代内閣総理大臣に任命され、徹底抗戦一色のなか鈴木内閣は戦争終結に導き昭和20年8月15日に太平洋戦争は終わりました。
戦後の復興を見守っていた貫太郎は、「為萬世開太平」を胸に永遠の平和を願って昭和23年4月17日、野田市関宿において80歳の生涯を閉じました。
平成28年3月
久世地区まちづくり協議会
伏尾自治会
鈴木貫太郎誕生之地碑の隣に、最近建立された「久世関宿藩代官所跡の石碑」ではあれど、内容がほぼ鈴木貫太郎に関するものであった。
少しだけでも久世関宿代官所時代の話なども知りたいものではあるが。
場所
このまま街道を南下すると地蔵尊が見えてきた。街道の辻に建立された地蔵尊は道祖神的な立ち位置でもあり。
上神谷街道
歴史の道 上神谷街道(にわだにかいどう)
伏尾、和田、宮山台など、この地域の歴史は古く、古墳時代の伏尾遺跡や小阪遺跡があり、一説によると奈良時代の高僧行基(668年~749年)が築造した「茨池」は原池とも考えられており、これによる感慨が地域の発展に寄与しました。
また宝永2年(1705)から明治2年(1869)までの間は、現在の千葉県野田市を拠点とした関宿藩の支配下にありました。関宿藩は、伏尾に陣屋を置き、泉州の多くの村々を統治していました。
そして、明治22年(1889)に市町村制が施行された際、関宿藩主であった「久世氏」に因み、この地域は「久世村」と呼ばれるようになりました。
(略)
令和3年3月 堺市中区役所
伏尾地蔵尊
伏尾の集落。
場所
伏尾の辻から更に南下をしていくと、「荒山公園」に到達する。
この荒山公園の中に、次の目的地である「多治速比売神社」が鎮座している。鈴木貫太郎が崇敬をしていた産土の神社、である。
多治速比売神社
大阪府堺市南区宮山台にある神社。
延喜式神名帳に記載されている和泉国大鳥郡の式内社。(和泉国大鳥郡の延喜式内社二十四座のひとつ)
旧社格は郷社。
荒山宮とも呼ばれ、境内の周りは荒山公園として整備されている。
宣化天皇の時代(530年頃)の創建。
主祭神 多治速比売命(たじはやひめのみこと)
合祀神 素盞嗚尊、菅原道真公
本殿は室町時代の建造物で国の重要文化財に指定。天文8年(1539年)から天文12年(1543年)の間の再建という。
延喜式内社としては、鴨田神社、阪上神社も合祀されている。
鈴木貫太郎と多治速比売神社
和泉国大鳥郡伏尾で生まれた鈴木貫太郎は、産土神として、多治速比売神社を崇敬していた。その崇敬心は篤く海軍中佐時代(日露戦争時)にも参拝をしている。
また、二・二六事件で重症を負った時、多治速比売命が枕元にお立ちになり命を救われたとして、翌年一月に、鈴木貫太郎は、たか夫人とともに本復祝の参拝をしている。
戦後、鈴木貫太郎の長男であった鈴木一を中心として「鈴木神社」創建の話が出た際は、(実現はしなかったが、)鈴木貫太郎の生まれ故郷で敬神の念が深かった多治速比売神社の境内が建立に適していると、当時の宮司との相談もあったという。
本殿は国指定重要文化財。
金高稲荷社(多治速比売神社境内摂社)
大正12年3月の境内摂社稲荷社の本殿改築及玉垣新築に際して、海軍中将鈴木貫太郎の名で奉納した玉垣石が残されている。
大正12年3月は、鈴木貫太郎は、呉鎮守府司令長官であった。
大正12年8月3日に、海軍大将に昇進している。
海軍中将
鈴木貫太郎
「鈴木貫太郎の関連史跡2・晩年の地(野田市関宿町)」に続く。
※撮影は2022年7月
行程
泉北高速鉄道「深井駅」
↓ 徒歩30分(約2.5キロ)
鈴木貫太郎誕生生誕之地之碑
↓ 徒歩7分(約500メートル)
伏尾地蔵尊
↓ 徒歩20分(約1.5キロ)
多治速比売神社
↓ 徒歩25分(約2.0キロ)
泉北高速鉄道「泉ヶ丘駅」