千葉県茂原市。掩体壕が残る街。それも10基もの掩体壕が今も残っている。これだけ残っているのは、全国屈指レベル。まさに掩体壕群と呼称するにふさわしい。
そんな掩体壕の街「茂原」を散策してみました。
目次
位置関係
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-8
1947年02月22日、米軍撮影の航空写真。
以下、抜粋の上、補足加工。
滑走路は西側の1本完成していたが、東側の二本目と南側の東西滑走路は未完成。
北側には誘導路があり、多くの掩体壕がある。
誘導路は現在の道路とは一部しか重なっていない。
番号は茂原市の管理番号に従います。
茂原海軍航空基地
1941年(昭和16年)07月に建設決定し、同年09月に着工。東郷地区の約150戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転。(旧東郷小学校跡記念碑がある)
1942年12月に「第五五二航空隊」が茂原に開隊。しかし翌年昭和18年にマーシャルに進出し、茂原に戻ることなくテニアンにて解隊。
1943年9月に佐伯空艦爆隊を主体とする「第五〇二航空隊」が茂原海軍航空基地の管理部隊となる(現駐は松島基地)。同隊は1944年2月に北海道に転進し、1944年10月に解隊。
1943年10月に夜戦部隊を主体とする「第三二一航空隊 (鵄)」が茂原に開隊。1944年2月にマーシャルに進出し、7月に解隊。
1943年11月に第三〇一航空隊 (艦戦)が、茂原基地を原駐として横須賀基地で開隊。1944年7月に硫黄島にて解隊。
1942年に館山で開隊した第二五二航空隊 (元山航空隊戦闘機部隊を主体) はマーシャルで壊滅状態となり、1944年2月に館山基地にて再建。本部は館山基地に置かれ、1944年(昭和19年)8月以降、茂原基地に転進している。
「二五二空」は本土防空の迎撃に従事。1945年(昭和20年)5月28日、米軍が茂原飛行場を強襲。「二五二空」は郡山飛行場に退避。そのまま終戦を迎えた。
戦後の1955年(昭和30年)3月18日、茂原海軍航空基地が自衛隊の基地になろうとしたとき、茂原市議会は満場一致で基地に反対する決議し、跡地の大部分は工業地帯と学校用地、農地、住宅地となった。
掩体壕(茂原市教育委員会)
第3掩体壕にある茂原市の解説板。
掩体壕
太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約150戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始まりました。
司令部跡は現萩原小学校、兵舎跡は現茂原中学校、滑走路跡は三井化学(株)東側の約1,000mの道路で、基地の東端は東郷保育所前を通る通称海軍道路と呼ばれている辺りです。基地の北側には誘導路が巡らされ、戦闘機を敵襲から守るための格納施設である掩体壕が造られました。
この壕は土砂を壕の形に盛って転圧して筵(むしろ)や板を並べ、その上に鉄網等を張ってセメントを流して造られており、総面積365平方メートル、壕の中の面積286平方メートル、高さは最大6m70cmあります。
築城は、主に横須賀鎮守府から派遣されてきた海軍設営隊が行っておりましたが、長生中学校や茂原農学校(現長生高校・茂原樟陽高校)の生徒、近隣住民等も動員されたことが確認されております。
戦争の記憶が薄れていく中、当時の様子を物語る貴重な戦争遺跡です。
令和2年12月25日
茂原市教育委員会
茂原市
まずは、掩体壕を中心に散策を。
第1掩体壕
個人宅敷地内で車庫兼物置小屋。
掩体壕の番号は茂原市での管理番号。散策順番とは異なります。
敷地外から遠望。
個人宅の掩体壕は、さくっとチラ見で。
場所
第10掩体壕
個人宅敷地内で車庫として利用。同じく敷地外から遠望。
裏にまわると、ソーラーパネル。
場所
第11掩体壕
ソーラーパネルに囲まれている、、、。
掩体壕とソーラーパネル。
ある意味で、新鮮な組み合わせ。
近寄ることはできない。
場所
第3掩体壕
茂原市が管理している掩体壕。
場所
第6掩体壕
田んぼの中に。
ムシロの様子もわかる。
場所
第8掩体壕
個人宅で物置として活用。敷地外から遠望。
場所
第9掩体壕
個人所有。作業場として活用。
住めそうな空間。
場所
旧東郷小学校跡記念碑
東郷小学校は飛行場設置に伴い、移転を強いられた。
場所
第7掩体壕
ちょっとした森の中に。
場所
第5掩体壕跡
宅地造成で消失。第6掩体壕の北西だった。
第4掩体壕
物置小屋。状態はよくない。
場所
第2掩体壕
物置小屋。よい状態。
場所
以上、茂原に残る掩体壕10基の散策でした。
「その2」では、掩体壕以外の茂原海軍航空基地関連の戦跡を巡ってみます。
※撮影:2022年8月