町田市相原にある法政大学の多摩キャンパス。
遺構が残っているというので足を運んでみた。
目次
多摩送信所
第二次世界大戦末期、軍部は本土空襲に備えて海外放送、電信通信・連絡を確保する必要から、2カ所の通信施設の設置場所を選定し、国際電気通信株式会社に敷設を要請。
1カ所は御殿場線の山北駅と駿河小山駅の中間にある廃トンネルで、1944(昭和19)年に耐弾式送信所として「足柄送信所」が設けられた。
もう1カ所で選ばれたのが、東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたる山林内で、三方を尾根に囲まれた一帯に、1945年4月、起伏と樹林を利用した隠蔽送信所として「多摩送信所」が開設。
1945(昭和20)年8月10日、日本政府はポツダム宣言を受諾。
日本政府は宣言受諾を連合国側には外交ルートを通じて伝えたが、ニュースとしても世界に発信された。その発信を担ったとされる多摩送信所であった。
10日午前7時、外務省は「国体護持」を前提に宣言を受諾する電報をスイス、スウェーデン公使を通じ連合国側に伝達。
さらに同日午後7時、戦時中の通信社・同盟通信の短波(モールス放送)にて受諾を、多摩送信所を始めとする国内に点在する対外放送施設を用いて、全世界に放送した。この放送によって世界のプレスなどは戦争終結を知った。
しかし10日の受諾宣言以降も、日本国内は激動の日々=「日本のいちばん長い日」が続き、御前会議で持って14日の御聖断をあおぎ、大多数の日本国民は、15日の玉音放送で終戦を知ることとなった。
多摩送信所跡
多摩送信所跡
二次世界第大戦末期に近い1944年(昭和19)、本土空襲の本格化に備え対外送信の確保が要請され、国際電気通信株式会社によって隠蔽送信所として多摩送信 所の建設が着手された。当時の東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたるこの地に、アンテナ敷地74000 坪(244,000平方メートル)を確保し、高さ60 メートルの木支柱を立て、空中線六基を樹林にめぐらした。技術者、職員計50 名が勤務する局舎を点在させ、翌年4 月竣工し、5 月5 日から操業を開始した。当時、我が国の対外送信は、政府関係以外に同盟通信社のモールス電と日本放送協会が諸外国語で流す「海外放送」および「東亜中継放送」があった。これらの対外送信は、1945 年8 月10 日から15 日の間、日本政府のポツダム宣言受諾表明に際して歴史的な役割を果たした。政府の外交ルートとは別に、ポツダム宣言受諾に関するニュースを送り出したのである。ここにあった「多摩送信所」も木造、手動による回転式アンテナから電波を送ることによって、ポツダム宣言受諾の際に重要な役割を担い、1946 年11 月10 日、開設以来一年半で活動の幕を閉じた。本学の多摩校地は多摩送信所の跡地に位置し、発掘調査により一部の遺構も確認された。ここにその事歴を誌し、永く後世に伝えるものである。
1988年3月30日 法政大学
アンテナ木柱台石
この山奥にアンテナ群が展開していた。
法政トンネル。
法政大学 多摩キャンパス
アクセスは、法政大学多摩キャンパス行きのバスで。
場所
※撮影 2023年9月