御殿場を散策した帰り道。御殿場線経由で、東京に戻る途中に夕刻に、時間が調整できたので、「谷峨駅」で下車。かねてより気になっていた廃トンネルに赴いてみました。
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御殿場線
明治22年(1889年)に東京‐大阪を結ぶ鉄道(のちの東海道本線)として、国府津‐沼津間が開業。
昭和9年(1934年)に丹那トンネルが開通すると東海道本線は、熱海経由に変更され、国府津‐沼津間は、東海道本線の支線「御殿場線」となった。
第2次世界大戦中の昭和19年(1944年)に不要不急路線に指定され、単線化され、レールなどの資材は回収転用され、廃トンネルや橋脚などが残存している。
国際電気通信株式会社
昭和13年(1938年)に日本無線電信株式会社・国際電話株式会社を合併させて創立したのが「国際電気通信株式会社」(KDTK)であった。
国際電気通信株式会社は、対外無線電信電話の設備の建設、保守業務を行い、その設備を政府に供することによる使用料をその収入源とし、電信電話の運用業務は、政府が行っていた「半官半民の企業」であった。
昭和19年、軍、情報局、通信省が必要最小限の送信機を確保するため防空送信所を計画。
耐弾式送信所として足柄送信所、隠蔽式送信所として多摩送信所が建設されることになった。
国際電気通信・多摩送信所(隠蔽送信所)
国際電気通信は、本土空襲に備え戦争末期に2つ送信所を敷設した。
「多摩送信所」「足柄送信所」
東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたる山林内で、三方を尾根に囲まれた一帯に、1945年4月、起伏と樹林を利用した隠蔽送信所として「多摩送信所」が開設された。
多摩送信所ではポツダム宣言を受諾を発信している。
国際電気通信・足柄送信所(耐弾式送信所)
御殿場線・箱根第五隧道(廃トンネル)
国際電気通信の「足柄送信所」は、軍部の要請に基づいて設置された極秘の防空送信所であり耐弾式送信所でもあった。御殿場線の廃トンネルを再活用し、昭和19年11月に竣工という。
20Kw電話送信機を1台、20Kw電信送信機を2台設置。
昭和20年8月15日の正午からの「玉音放送」を発信した極秘の防空送信所が「足柄送信所」であった。
足柄送信所から世界に向けて短波にのせられた玉音放送は、中国大陸や南方諸地域の軍人や在留邦人、南米などの日本人移民に終戦を伝える役割を果たした。
アクセスは、「清水橋」(駿河小山駅方向)から。谷峨駅側からはアクセスできません。。。
清水橋の旧道から右手に折れると、トンネルがあります。
箱根第五隧道(旧上り線)
全長は、275.53m。幅は、3.5メートル、高さは4.5メートル。岩盤が30メートル以上あり、空爆にも充分耐えられる耐弾式送信所であった。
通信機器を置いていた痕跡。
トンネルの中心部分は、床がコンクリート張りとなっている。
保全作業員用の退避所
排水口
両脇は排水溝として機能。
外光が見えてきた。
谷峨駅がわのトンネル開口部。
爆弾防止壁
通信設備を保護するために設けられたL字型の爆弾防止壁。これはなかなかの厚み。
戦後に、でっかい穴が開けられた、、、
御殿場線の本線が見えます。
並行する道路から。
この右側には、冷却池も現存している。(確認漏れ、、、)
新東名の建設工事中。山北ー駿河小山(新秦野IC – 新御殿場IC)は、2027年度の開通予定という。
場所(清水橋)
谷峨駅。
1907年(明治40年)開設の信号場を前身とし、1947年(昭和22年)7月に駅として開業した。
現在の駅舎は2000年に改築したもの。
鉄道唱歌第1集13番
いでてはくぐるトン子ルの
前後は山北・小山驛
今も忘れぬ鐵橋の
下ゆく水のおもしろさ
山北駅と駿河小山駅の間に、谷峨駅がある。
※撮影:2023年12月