2023年12月17日、茨城県の百里基地航空祭に行ってきましたので、その模様を。
本編は歴史的なところを触れる「その1」となります。
航空祭そのものは「その2」で。
目次
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百里原海軍航空隊
百里原海軍航空隊(ひゃくりはら)は、昭和13年に筑波海軍航空隊の補助飛行場が建設されたことに始まる。
昭和14年(1939)12月1日に筑波海軍航空隊百里原分遣隊から独立して開隊。初歩飛行訓練に従事。
昭和17年には予科練の受け入れを開始。
昭和19年(1944年)10月1日、「桜花訓練隊」として「第七二一海軍航空隊」が百里飛行場に開隊。
昭和19年11月7日、七二一空は「神ノ池飛行場」に転出。
昭和20年「第六〇一海軍航空隊」が百里原飛行場に進出。
同年4月には「神風特別攻撃隊・正気隊」が編成され出撃が行われている。
終戦後、飛行場は引揚者の開拓地に転用され破却されるも、首都圏唯一の戦闘機基地として昭和41年に百里基地が開隊している。
百里基地(雄飛園)
百里基地内にある用廃機(用途廃棄機)を保存展示しているエリア。
保存機の記録は多いようだけど、慰霊碑や記念碑の記録がすくないようなので、百里基地航空祭で開放をされていたエリアを散策記録しました。
百里原海軍航空隊記念碑
ここに百里旗海軍航空隊ありき
記念に桜を植え その栄光を伝う
昭和51年3月
百里原海軍航空隊有志
百里原海軍航空隊と特攻について
百里原海軍航空隊は昭和13年、練習機の教育航空隊として発足した。
昭和16年大東亜戦争勃発、昭和18年練習機境域は他基地に移され、実用機の操縦員、偵察員の教育が開始されて昭和20年8月の終戦まで続けられた。
昭和20年3月沖縄戦が始まると、百里空も作戦に参加、教育に使用中の飛行機35機が九州から出撃、85名の隊員が沖縄の海域に散華した。
この記念碑の下に戦死者の名簿が埋めてある。
平成20年3月
百里原海軍航空隊有志
雄魂碑(殉職者慰霊碑)
基地殉職者を祀っている。
昭和49年4月吉日の建立。
犬魂碑
基地内警備犬慰霊碑
F-4EJ飛行隊発祥の地記念碑
この記念碑は、第301飛行隊が昭和48年10月16日航空自衛隊初のF-4EJ飛行隊として誕生し昭和60年
3月九州に移動するまでの間、この百里基地において活躍したことを記念して建立したものである。
記念碑修復の記
昭和六十年、部隊移動に先立ち建立されし本記念碑なれど、爾来十数年の風雪に耐え難く、「銘板」等の損傷見るに忍びず、第三〇一飛行隊(百里)出身者より浄財を募り、ここに「銘板」の修復・土手基礎部の造成をみるに至る。
尚、「銘板」につきては、当初揮毫せりし土屋重正氏に依頼致したものなり。
平成十三年九月吉日 記念碑修復実行委員会
第206飛行隊記念碑
栄光と共に
昭和40年12月~昭和53年12月
第206飛行隊
アルゼンチンの碑
「アルゼンチンの碑」
大正十三年(一九二四)六月、アルゼンチン空軍のサンニ大佐とベルトラメ技師の二人が四五〇馬力の単発機を駆使し、アムステルダムから世界一周に飛び立ちました。
同年十月、約二万キロメートルにも及ぶ人類未踏の大飛行を達成し、土浦の霞ヶ浦に着陸しました。
その後、航空機の故障によりやむなく世界一周は断念することとなりましたが、二人の偉業を永久に顕彰するため、昭和五十六年十二月、アルゼンチン大統領の訪日に際し、最後の着陸地となった霞ヶ浦に近い百里基地に当記念碑が建立されました。
保存機
向こう側の保存機
こっち側の保存機
あまり興味がなかったようで、撮影ほぼシていませんでした。
百里基地
入り口。茨城空港とは反対側。航空祭の機会がなければ、まずこないですね。
航空祭の様子は、その2で。
2023年12月撮影