秩父宮御殿場御別邸の防空壕跡(秩父宮記念公園)

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静岡県御殿場市。
秩父宮記念公園に、秩父宮家に関係する防空壕が残っているというので足を運んで見ました。


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秩父宮雍仁親王

秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)
1902年〈明治35年〉6月25日 – 1953年〈昭和28年〉1月4日

大正天皇と貞明皇后の第二皇子。
明治天皇の皇孫にあたる。
昭和天皇は兄、長弟に高松宮宣仁親王、次弟に三笠宮崇仁親王がいる。
御称号は淳宮(あつのみや)。
日本陸軍の軍人でもあり、階級は少将。
勲等功級は大勲位功三級。
大正9年(1920)に陸軍士官学校に入校。陸士34期。同期は、同期には西浦進、石井秋穂、堀場一雄、赤松貞雄、西田税、三好達治など。
大正11年(1922)に、20歳で成年式を行い、宮家「秩父宮」を創立。
昭和3年(1928)、陸軍大学校に入校。陸大43期。同期は、森巌、辻政信など。
昭和15年(1940)に肺結核と診断され、戦時中は御殿場別邸で療養生活を余儀なくされる。
昭和27年(1952)、御殿場別邸から鵠沼別邸に移るも、病状が悪化し昭和28年(1953)1月4日に50歳で薨去された。


秩父宮御殿場別邸

もともとは、血盟団事件で暗殺された大蔵大臣井上準之助の元別荘であった。昭和16年(1941年)に秩父宮家が購入して秩父宮御殿場御別邸とされ、戦中戦後の時期をここで過ごした。

秩父宮雍仁親王・勢津子妃が過ごした元別邸を整備、公開した公園が秩父宮記念公園。
静岡県御殿場市の箱根外輪山の麓にあり、勢津子の遺言により御殿場市に寄贈されたのち公園となった。
平成7年(1995年)に遺贈され、平成15年(2003年)春にオープン。敷地面積1万8千坪、標高500mに位置している。


秩父宮同妃両殿下防空壕

秩父宮同妃両殿下防空壕
 当園内には、秩父宮同妃両殿下防空壕、将校の防空壕、民間人用僕空劫(未公開)の3つの防空壕があります。
 平成27年に戦後七十年を迎え、秩父宮同妃両殿下防空壕を一般公開に向けて整備を進めてまいりました。
 当時、皇位継承順位第三位であった殿下の防空壕は特殊掩体壕というかまぼこ型で、遮断層として石を1.5メートルほど積み上げ、その後さらに土を持った構造で強度があるものでした。
 昭和19年11月1日 
  御殿場別邸上空を敵機が通過するようになる。
 昭和20年3月16日
  東海軍により殿下専用の防空壕構築計画をたてる。
 昭和20年4月8日
  構築開始。
 昭和20年5月11日
  掩体セメント作業のため将兵250名を増員。
  その他約140名にて照明燈下のもと作業。
  その間、市内小学生も石積み奉仕作業に加わる。
 昭和20年6月22日
  竣工。
 昭和20年7月30日
  御殿場駅付近に爆弾8個投下により
  殿下は初めて新築防空壕に退避されました。
 病気療養中であった殿下を別邸から担架に乗せたまま防空壕の奥まで入れるカタツムリのような構造となっています。
 入り口は近くに爆弾が落ちても中に弾や飛散物、爆風が直接はいらないように折れ曲がり、厚い板戸がついた設計になっております。
 奥には煙突のような脱出口もついています。
  参考文献「銀のボンボニエール」
      (著者 雍仁親王新王妃勢津子)より

防空壕
 園内には3つの防空壕がある。現在内部公開している「将校防空壕」「両殿下防空壕」、未公開の「民間人防空壕」
 両殿下防空壕は、昭和20年3月造成開始、6月完成。その後7月30日御殿場駅付近での空襲時に退避、8月15日終戦を迎えた。
 当時の図面は「特殊掩体設計図」となっている。「特殊掩体」=「掩体壕」とは、かまぼこ型で大きな強度のある建物。躯体完成後、周りに遮断層として石を1.5m程度積み、その後土を盛った構造。当時地元の生徒が参邸し石積の奉仕をした。
 掩体壕設計図は、入り口から右に曲がり前室、そのまま居室へとまっすぐに入るようになっていたが、実際は入口から右に曲がり前室に入り、前室左側から居室に入るようにジグザクになっている。入口付近に爆弾が落とされても爆風が直接両殿下のいる居室には届かないよう、建設段階で変更したと思われる。

防空壕内部見取り図

石が積まれている。

右に折れる。

前室

居室。
奥には通気口が上に伸びている。

前室から出入り口を見る。

防空壕上部の通気口。

将校防空壕のところに、勢津子妃殿下の手記が抜粋されているので、あわせて記載しておきます。

◎秩父宮勢津子妃殿下が書かれた手記の中には以下のような記述があります。
参考文献:銀のボンボニエール(主婦の友社)
      平成3年6月27日発行
「8月15日」・・・289ページ
 別邸の屋根には迷彩が施され、東海軍部隊の兵隊によって強靭な防空壕も造られました。地下を螺旋状に掘り固めて、ちょうどカタツムリの殻のように奥にはいれるようになっておりました。奥には煙突のような脱出口もついていました。いざというときは宮さまを担架にお乗せしたままずーっと奥まで入れるのです。このほかには宮内省が作った簡素なものもございました。

◎御殿場の空襲についても下記のように書かれています。
「8月15日」・・・289ページ
7月30日、空襲警報が鳴ったと思うと、御殿場駅の方角でドカーンという大きな音がつづけざまに聞こえてきました。私にもそれが爆弾の音だとすぐに分かりました。御殿場駅から東に3キロのこの地もいよいよ危ないと思い、手伝いの者と急ぎ走って帰り、宮さまを皆で囲むようにして初めて防空壕に退避いたしました。後で聞くところによりますと、艦載機数機が御殿場駅構内を機銃掃射し、駅付近に50キロ爆弾を8個投下したということです。

◎両殿下が入られた防空壕は整備し、公開されています。
この防空壕を出て、正面の竹林内にある赤い三角の通気口がある場所


将校防空壕

こちらは秩父宮様の警護にあたったであろう将校用の防空壕。

なお、3つ目の防空壕にあたる宮内省が作ったという民間用防空壕(宮内省職員向けか)は、未公開。

宮様の防空壕は、今ではわかりやすく整備されている。


秩父宮雍仁親王像

昭和天皇より贈られた登山服姿の秩父宮殿下銅像は富士山に向けて設置されている。
昭和3年(1928年)に 昭和天皇の下命により、秩父宮邸御殿(赤坂表町御殿)の造営を記念して、朝倉文夫が制作。
東京赤坂の御本邸より昭和19年(1944年)に、御殿場別邸に移設された。
なお、秩父宮邸・赤坂表町御殿は昭和20年5月25日の空襲(山の手空襲)で本館が全焼している。
この空襲では、皇居内の明治宮殿も焼失している。


秩父宮記念公園

公式サイト

秩父宮記念公園は、昭和16年9月から約10年間、秩父宮両殿下が実際にお住まいになられていたご別邸を、秩父宮妃勢津子殿下が平成7年8月にお亡くなりになられた際のご遺言により御殿場市に御遺贈いただき、園内を整備し平成15年4月に開園した公園です。敷地面積は約1万8千坪(東京ドームの約1.5倍)、標高約500メートルにある庭園は、両殿下が愛された山野草を始め四季折々の花々を楽しむことができます。

秩父宮記念公園公式サイト

記念館(御遺品展示室)

記念館(母屋)
もともとは、大蔵大臣井上準之助の別荘であった。
享保8年(1723年)に建築されたものを、昭和2年(1928年)に移築。

井上準之助は、第二次山本権兵衛内閣、浜口雄幸内閣、第二次若槻禮次郎内閣の大蔵大臣。昭和7年(1932年)2月9日に血盟団事件によって暗殺される。

書斎、応接間、食堂として使用された部屋

秩父宮農場「宮さまの農事試験場」

三峰窯
秩父宮は陶芸を好まれた

御殿場からみる富士山。

※撮影:2023年12月


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